>>434
日本書紀の持統天皇のところに「使者を遣わして竜田風神、信州須波・水内等神を祭らしむ」とあるから、この頃には朝廷が認めるほどの形態はあった
天武天皇が信濃の地を調べさせたり、信濃に行宮を作らせたりしたから、そのときに朝廷は知ったのだろうという説がある
諏訪大明神絵詞は日本書紀の持統天皇の記述を引いて「是即当社祭礼始なるをや」と言っている

また「神氏系図称一族系図」と「異本阿蘇氏系図」では、用明天皇の二年に湖南山麓に社壇を構えた、とある
これらは昭和になっての発見で、特に後者は偽書説がある。
長野県史や諏訪市史では「異本」も正しいと扱い、諏訪市史では2つの系図を混ぜて掲載したらしいけど、
両史の編纂に関わった人が後に「阿蘇氏文書を全て調べたが異本の記述は見つからなかった、後の研究結果に期待」的なことを書いている
偽書だから書いてあることは間違いとは言えないし、偽書説のない「神氏系図」は正しいとは言えないんだけど