アイヌの一系統サルンクルに就て
http://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/47/4/47_4_137/_pdf

奥茶Aイヌとサルンクルとの關係

サルンクルには所々に祖先が本州の南部領から來たといふ傳説を傳へて居る。
私は勇拂郡累標のアイヌ部落を調査した時(1931年7月)同地のアイヌの古老から、先祖は南部から來たといふ傳説があるといふことを聞いた。
叉長年日高に居た太田岩太郎氏が拙宅を訪れられた時(1931年3月)昼(ハクチ)のアイヌには、
青森縣打越(ウテツ)から來たといふ傳説が殘つて居る旨御ヘ示を得た。
吉田巖氏が亡父河野常吉に宛てた手紙(大正7年)にも、幌去アイヌ「テマンナ」と云ふ者の祖先がシヤモ地から來たといふ言ひ傳へがある旨書いてある。
同様の記事は古文書にも散見する。例へば東蝦夷日誌第三篇七月三日の項に、
「ホロサルに宿、此村昔十勝より來りし者と津輕の宇鐡より來りし者の子孫なりと、今に乙名また外の家等にも持來りしと云ふ種々の寳物有と」
山崎某の東蝦夷地紀行(文化3年)には、「宇鐡の夷は此サルより來れりとなり、
夷人に之を尋ぬるに津輕の夷は元此サル川目の惣乙名なりしが、故有て爭論起り雌雄を爭ひしが、
终に軍に負けて一門徒類を引連てエソが嶋に住居叶はず遠々日本國津輕宇鐡と云處へ迯渡りたるよし老夷申傳へたりとなり、
共夷のウタレ(家來ないふ)の子孫今酋長となりて甚だ富貴に暮し居るといへり」とある等である。
後者は前者と反對に、宇鐡のアイヌがサルから渡つて行つた様に書いてあるが、南部アイヌと血族であるといふ點では變りない。
前出累標(ルペシベ)・幌去(ホロサル)・沙流・昼等は何れもサルンクルの分布區域であり、
この様な傳説はサルンクルのみに限られて傳つて居るのであつて、他のアイヌは全く知らない様である。
事實の有無は輕々しくは判斷出來ないが、少くとも昔時奥茶Aイヌとサルンクルの間に密接な關係があつたことは想像出來る。