古事記、日本書紀について深く深く語るスレッド [無断転載禁止]©2ch.net
大和朝廷が善でこれに抗する勢力が悪というのは誤った考え方である。
権力は悪でありいずれも悪であることには変わりがない。
勝利した側が歴史を編纂(改竄)する際に、相手を悪者にしたり、あるいは歴史上から完全に消し去ったのだ。
古事記、日本書紀で描かれる対立はおそらく「出雲」「熊野」でのものだけではない。
8世紀に入ると同時に激しい東国侵攻が始まっておりこの神話が暗示するのは東三河(穂の国)への侵攻、撃滅であろう。
そこから諏訪に逃げていったのである。
そして本宮山が実は真の「出雲大社」なのである。
その事実は不都合な真実として抹消された。 >>3
高天ヶ原(新ヤマト。高原地帯=高天原)と出雲(旧ヤマト)は何となくお隣同士のイメージ 縄文時代の東vs西は、弥生時代以降には日本海vs瀬戸内海だから。
縄文時代末期の地球規模の寒冷化で縄文人の人口が激減したらしいけど、
東日本の縄文人は比較的温暖な西日本に逃げ出したんだろう。
でもそれは西日本の縄文グループから見れば侵略者に他ならなかったと。
(ちなみに弥生時代に弥生人いないからw) >>8
寒冷化の要因には、大きくは天の川銀河を廻る太陽系の位置関係が大局的に地球環境に影響することが分かっています。
銀河の中心(バルジ)からのびる銀河渦が問題の主格。
太陽系は一万七千年の周期でその宇宙域に突入して数千年かけて離脱を繰り返して来ました。
地球規模の大異変(寒冷化、全玉凍結‼、隕石の落下。大絶滅。生命の爆発的繁殖、、、、)も正にこの周期に合致して起こったことも分かっています。 寒冷化するメカニズムは、高エネルギーを伴った宇宙線(放射線)が太陽系のバリアである太陽風(これも宇宙線)のバリアを突き破り、さらに地球のバリア(バーンアレン帯域)をも突破して
地球に飛来すると、上層大気に影響を及ぼして上空に雲を発生させます。
この状態が継続的に作用すると発生した雲が太陽光を遮り地上に届く日射量が減少するため地球環境は寒冷化に向かう。
氷河期に向かうのは困りますが、もっと大変な地球全てがアイスボールと化す全球凍結と言う状態(生命はほとんどが絶滅)が地球の歴史上数度有った事がわかっています。
直近は約五億年前(それまで一億年間がアイスボール)に収束した事が判明しています。
これにより生命の大爆発、カンブリア期から現在に至る地球の生命が育まれています。 翻って、我々現世人類はすべてホモサピエンスの単種。
元種からの分化発生は約二十万年前の東アフリカ。
この分科発生当初より姿形は現代人とほとんど同じだったことも発掘調査研究からわかっています。
環境や食糧事情等からご先祖さま方は東アフリカを離れる事なく約二万人規模の人口で推移。
これが約15万年程続きました。
五万年前に急激な環境の寒冷化で多くの動植物が死滅するなか、ご先祖さま方も例外ではなく、
餓死などで大きく人口を減らしていき、あわや絶滅寸前まで追い込まれて、もはや座して死を待つよりは生き残るため故郷東アフリカを捨て、新天地を求めて旅立たれました
その一団の数、数十人だった?とも。
因みにアダムとイブに類似した伝説が世界中の民族にありますが、
近年、国連主導で全世界的に同時に行われた女性だけに受け継がれる特定の遺伝子解析の結果もほぼそれを裏付ける結果となっていて、
約五万年の9人の母親(女性)に集約されるデータが得られたと言われています。
現世人類70億人は五万年の僅か9人の母親から生まれた事になります。 イザナギとイザナミが天浮き橋に乗って何処からともなくやって来て国生みする話。
天照大神×高木の神らが無理やり出雲を攻略する話。
神武天皇(祖サノの尊)が九州から出師して中(長)津国(畿内)を攻略から平定する話。
神功皇后(天皇)らが河内王朝を開く迄の話
、
、、、
基本的な粗筋はほとんど同じジャマイカ? >>1
>8世紀に入ると同時に激しい東国侵攻が始まって・・・・・・・・・・・・・・
ん?高校日本史Bに登場するAD478年の倭王武の下示上表文すら御存知ない
無学中退の徒か?
5世紀在位倭王武が、祖禰が東征し五十五國を征服したと表明しておるから、
ヤマト王権の東国侵攻が始まったのは、8世紀なんぞでなく遥か5世紀
以前だぞ。高校日本史から学び直したまえ。
「自昔祖禰 躬環甲冑 跋渉山川 不遑寧処
東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國・・・・・・・・・・・・」 >>14
世界史を取ってた身としては初耳
高校は世界史日本史選択制だったから
世界史取ると日本史取れなかったけど、
今は両方取れるのかい? >>11
それは明らかな嘘だ。
子供は2人の両親から生まれる。
両親は夫々の両親から生まれる。
従って、1人の子には2人の両親、4人の祖父母がいる。
今、5万年前ならば、ざっと2000世代と見積もって、
2の2000乗の祖先がいることになる。
つまりは10の600乗の祖先が今現在の人間1人にいるのだ。
昔はこれだけの数の人間がいたのだ。 伊弉諾と伊奘冉尊の国産み神話の原型は、中国の江南地方から弥生時代に日本に入った、天孫降臨神話の原型が、朝鮮半島から日本に入ったのは古墳時代に入ってから
と言われているようですが、そんな感じですかね。
記紀は上記の後半段階で、編入して作られたようですね。
日本神話研究で提供のある書籍を教えてください。 天孫降臨たってモデリッシュの方が時代だよなあ。懐かしい。 >>3
日本列島中に並立していた出雲国家が集合したものが大和 天武天皇
第40代とされる天皇。在位673〜686年。
生年不明。686年没。
本名は大海人皇子。
舒明天皇と皇極天皇の間に生まれる。
天智天皇は同母兄。
天智天皇の死後、その息子・大友皇子と対立し、672年に壬申の乱を起こす。
大友皇子を倒して、673年、天皇に即位。
天皇中心の国家体制を築いた。
日本の国号及び天皇の称号は、天武天皇の治世に成立したと考えられている。 皇室の祖先が、天照大神(あまてらすおおみかみ)ということになっていますが、
古事記を読むと、その前に幾多の神々が出現しては消え、出現しては消え、とあります。
その後、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を親として、天照大神が生まれます。
古事記の記述を見ると、明らかに血縁関係があると思われます。
なぜ、皇室は伊弉諾尊を祖先としなかったのでしょうか?
伊弉諾尊は、古事記の通り、現在も多賀大社(滋賀県)に祀られています。
う〜ん、一応、伊弉諾尊は男として記述されているから、
逆に都合がいいように思うのですが・・・・
梅原猛さんによると、
実は天武天皇の元で編纂された古事記では別の記述があったのではないか?
その後、太安万侶により元明天皇の意向に沿って改編されたのではないか?
(でも、もし本当に改編されたのなら、その真犯人は多分、藤原不比等!だろう)
すると、古事記は2つあったのでしょうか。
ちなみに、天武天皇の元で編纂された、最初の古事記の作者ですが、
梅原さんはこう推理しています。
「最初の古事記を作り上げたのは、多分、柿本人麻呂だろう」 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、
中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。
当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に
書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
「三国志」とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇した、
三国時代の歴史を述べた歴史書である。
撰者は西晋の陳寿(233年 - 297年)。
後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として
唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、
その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、
日本だけでなく、世界中に広まった。
中国の後漢末期から三国時代にかけて
群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。
『魏書』(ぎしょ)は、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。
『北魏書』、『後魏書』とも。
二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。
本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。 古事記と日本書紀の編纂を命じた天武天皇は、
前の代から続くいくつかの争い事を経て即位した天皇でした。
まず、天武天皇の兄・天智天皇は、即位前に大化の改新を主導しました。
そのきっかけとなった乙巳の変では、それまで朝廷の実権を握っていた蘇我氏の屋敷が焼け、
そこに保管されていた史料も散逸してしまいました。
天智天皇の死後、天武天皇は天智天皇の息子で自分の甥にあたる大友皇子を倒して
即位します。
争いを経て即位した自分の立場の正統性を主張する意図もあったといわれます。
天武天皇と妻・持統天皇の時代は、天皇家に権力を集中させることが課題でした。
古事記・日本書紀の編纂の他に、律令制、戸籍制度、本格的な都の整備などの
大事業が進んでいたのです。
こういった国家事業を周囲に納得させるためのストーリーの1つが、
古事記だったというわけです。 弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年)- 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、
第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。
諱は大友(おおとも)または 伊賀(いが)。
明治3年(1870年)に諡号を贈られ天皇として認められたが即位したかどうか定かではなく
大友皇子と表記されることも多い。
天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。
天智後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、
首を吊って自害する。 皇室の祖先が、天照大神(あまてらすおおみかみ)ということになっていますが
古事記を読むと、その前に幾多の神々が出現しては消え、出現しては消え、とあります。
その後、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を親として、天照大神が生まれます。
(伊弉諾尊だけで生まれます。) この記述では、明らかに伊弉諾尊の子と思われます。
にも拘らずなぜ、皇室は伊弉諾尊を祖先としなかったのでしょうか?
伊弉諾尊は、古事記の通り、現在も多賀大社(滋賀県)に祀られていますが。 倭人
古くは戦国から秦漢期にかけて成立した『山海経』に、
東方の海中に「黒歯国」とその北に扶桑国があると記され、
倭人を指すとする説もある。
また後漢代の1世紀ころに書かれた『論衡』に
「倭」「倭人」についての記述がみられる。
しかし、これらがの記載と日本列島住民との関わりは不明である。
また『論語』にも「九夷」があり、これを倭人の住む国とする説もある。 『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、
『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)
と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。
神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊(おおひるめ)、
大日女(おおひめ)とされている。
『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、
『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。
伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、
あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、
神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神
(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。 ◎父はイザナギ(伊弉諾、伊邪那岐、伊耶那岐)。
◎母は日本書紀では
イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)。
古事記ではイザナギのみ誕生に関与。(禊によりイザナギの左眼から)。
イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたアマテラスを含む
三姉弟の神を三貴子と言う。
◎弟 ツクヨミ(月夜見尊、月読命、記紀に性別の記述がなく実際は性別不明)
◎弟 スサノオ(建素戔嗚尊速、素戔男尊、素戔嗚尊、須佐之男命)
◎夫 いない。ただしスサノオとの誓約が両神の結婚を表しているという解釈もある
◎子
五男三女神(アマテラスとスサノオの誓約の際に生じた神)
男神がスサノオが口から生んだ子、
女神がアマテラスが口から生んだ子とされる
男神 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
男神 天之菩卑能命
男神 天津日子根命
男神 活津日子根命
男神 熊野久須毘命
女神 多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)
女神 市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)
女神 多岐都比売命 ◎正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命について(アメノオシホミミ)
『古事記』では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、
『日本書紀』では正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、
『先代旧事本紀』では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。
『古事記』では、アマテラスとスサノオの誓約の際、
スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男で、
(『日本書紀』の一書では次男)、勾玉の持ち主であるアマテラスの子としている。
高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に
アメノホアカリとニニギをもうけた。
葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、
下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。
タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、
再びオシホミミに降臨の命が下るが、
オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、
ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。 ◎天之菩卑能命 について アメノホヒは、日本神話に登場する男神。
天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書かれる。
天照大神とスサノオが誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱。
天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った。
物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主である天照大神の第二子とされ、
アメノオシホミミの弟神にあたる。
葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得する
うちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。
その後出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、
子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。
任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、
『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。
これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、
地上の様子を天照大神にきちんと報告し、
子のアメノヒナドリおよび剣の神フツヌシとともに地上を平定した、としている。
すなわち、こちらでは地上を平定した偉大な神とされているが、
『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、
そこは割り引かなければならないかもしれない。
名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として稲穂の神とする説と、
「火日」の意味として太陽神とする説がある。
農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとして信仰されており、
能義神社(島根県安来市。出雲四大神である野城大神と呼ばれる)などの
旧出雲国内だけでなく、天穂日命神社(鳥取県鳥取市福井)、
鷲宮神社(埼玉県久喜市鷲宮)、桐生天満宮(群馬県桐生市)、
芦屋神社(兵庫県芦屋市)、馬見岡綿向神社(滋賀県蒲生郡日野町)など
全国で祀られている。
六甲山山頂、六甲山カンツリーハウス敷地内にアメノホヒ=天穂日命の磐座がある。
※天穂日命が神魂神社を建てたという説は神魂神社の社伝によるもの。
『古事記』『日本書紀』『延喜式神名帳』『出雲国風土記』には神魂神社は出て
いない。文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、
実際の創建は平安時代中期以降とみられている。 天津日子根命 について
アマツヒコネは、記紀等に伝わる日本神話の神。
『古事記』では「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」、
『日本書紀』では「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」、
他文献では「天都比古禰命」とも表記される。
アマテラスとスサノオの誓約の際にアマテラス(天照大神)の玉から生まれた
男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。
『古事記』や、『日本書紀』神代上 第六段本文および一書第一・第二・第三、
第七段一書第三によれば、アマテラス(天照御神)とその弟のスサノオ
(素戔嗚尊/速須佐之男命)が誓約を行なった際に、アマテラスの玉から生まれた
神々の1柱という。
所伝により誕生の順番が異なるが、『古事記』・『日本書紀』本文では3番目。
『日本書紀』では、これらの神々はアマテラスの玉から生まれたので、
アマテラスの子になるとする。
アマツヒコネ自体はその後の神話には登場しない。
近江国蒲生郡日子山に天孫降臨、その後、桐原郷(現・滋賀県近江八幡市)に鎮座する。 凡河内氏(おうしこうちうじ)は、主に畿内を中心として勢力があった古代豪族。
凡河内忌寸、凡川内国造、河内国造とも書かれる。
隅田八幡宮人物画像鏡に見られる「開中費直」の文言を「河内直(かわちのあたい)」
と解釈する説がある。
天津彦根命の後裔(息子の天戸間見命、五世孫乎田部連、
国造本紀による彦己曾保理命等)と天穂日命の後裔(十三世孫可美乾飯根命)、
あるいは渡来系(後漢孝献帝の息子白龍王等)の3系統がある。 活津日子根命について
イクツヒコネは、日本神話の神である。
古事記には活津日子命。日本書紀には活津彦根命と記される。
スサノウとアマテラスの誓約によって生まれた五男三女の男神で、
天照大神が左手に巻いていた玉から生まれたとされる。
この神の後裔氏族は見当たらないが、
『新撰姓氏録』に高魂命の子の伊久魂命の後裔として恩智神社の神主が載っている。
出口延経の死後、外宮神官の桑原弘雄、弘世父子によって整理、1733年に完成し、
『延喜式神名帳』記載神社の考証を行った『神名帳考証』によると、
忍坂と住吉にある生根神社の祭神(現在は少彦名命等)とされる。
生國魂神社の祭神とも同神とされる。他に天田郡生野神社、
養父郡伊久刀神社等の祭神。
滋賀県にある彦根の地名はこの神の名に起こるという説もある。
イクツヒコネを祀る主な神社[編集]
彦根神社(滋賀県彦根市)
活津彦根神社(滋賀県近江八幡市安土町)
出典[編集]
^ “彦根市について” (日本語). 彦根市. 2012年8月25日閲覧。 熊野久須毘命について
誓約の段において、素戔嗚尊が天照大神の持ち物である八尺勾玉を譲り受けて
化生させた五柱(『日本書紀』第三の一書では六柱)の神の一柱。
天照大神の物実から生まれたので天照大神の子であると宣言された。
『古事記』では熊野久須毘命、
『日本書紀』本文では熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)、
第一の一書では熊野忍蹈命(クマノオシホミ)、
第二の一書では熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)、
第三の一書では熊野忍蹈命(クマノオシホミ)
またの名を熊野忍隅命(クマノオシクマ)、
別段(岩戸隠れ)第三の一書では熊野大角命(クマノオオクマ)と表記されている。
いずれも最後(5番目または6番目)に化生した神とされている。
◎熊野との関連
神名の「クスビ(クスヒ)」は「奇し霊」(神秘的な神霊)
もしくは「奇し火」の意と考えられる。
「クマノ」は熊野のことであり、出雲の熊野大社(島根県松江市)のこととも、
紀伊の熊野三山のことともされる。
熊野大社の現在の祭神は「熊野大神櫛御気野命」であるが、
元々の祭神はクマノクスビであったとする説がある。
◎熊野三山の一つの熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
の祭神・熊野夫須美大神は伊弉冉尊のこととされるが、
これもクマノクスビのことであるとする説がある。
『『日本の神様読み解き事典』』
川口謙二編著、柏書房、1999年10月。ISBN 978-4-7601-1824-3。 タキリビメについて
天照大神と素戔嗚尊の誓約により誕生した「宗像三女神」の一柱で
『古事記』では多紀理毘売命、
『日本書紀』では田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記される。
別名奥津島比売命(おきつしまひめ)だが、
『日本書紀』第三の一書は市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている。
神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、
「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈される。
日本書紀の「タゴリ」は「タギリ」が転じたものである。
◎ この女神を単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として
各地の宗像神社・厳島神社などで、
また、天照大神(あまてらす)と素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)の誓約で生まれた
五男三女神とともに各地の八王子神社などで祀られている。
◎ 『古事記』の大国主命の系譜では、
大国主命との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と
下照姫(したてるひめ)を生んだと記されている。
アマテラスとスサノオの誓約の段で、天照大御神が須佐之男命の持つ剣を譲り受けて
宗像三女神を生み、須佐之男命の物実から生まれたのでその子であると宣言された。
この三女神は宗像の民が信仰している神であると記されている。
化生した順番や、宗像大社の三宮のうち、どの宮に祀られるかは、『記紀』で異同がある。
◎ 「沖津宮」とする記述
『古事記』では、1番目に化生し、名は「多紀理毘売命」で、沖津宮に祀られる。
別名「奥津島比売命」
『日本書紀』本文では、1番目に化生し、名は「田心姫」で、沖津宮に祀られる。
(現在の宗像大社と同じ)
◎ 「異同」の記述
『日本書紀』第一の一書では、3番目に化生し、名は「田心姫」で、辺津宮に祀られる。
『日本書紀』第二の一書では、2番目に化生し、名は「田心姫」で、中津宮に祀られる。
『日本書紀』第三の一書では、3番目に化生し、名は「田霧姫」で、辺津宮に祀られる。 市寸島比売命(イチキシマヒメ)について
イチキシマヒメ(イツキシマヒメとも)は、日本神話に登場する宗像三女神の一柱。
水の神。
『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命と表記する。
別名、狭依毘売命(さよりひめのみこと)。
アマテラスとスサノオが、天眞名井で行った誓約
(アマテラスとスサノオの誓約)の際に、アマテラスがスサノオの剣を噛んで吹き
出した霧から生まれた三女神の三女。なお、この剣(十拳剣)からは五男三女神が
生まれており、うち、三女神を特に宗像三女神という。
『古事記』では2番目に生まれた神で、宗像大社では総社の(福岡県宗像市)の
辺津宮(へつみや)に祀られている。
『日本書紀』本文では3番目に、第二の一書では最初に生まれたとしており、
第三の一書では、最初に生まれた瀛津嶋姫(おきつしまびめ)の別名が
市杵嶋姫であるとしている。
イチキシマヒメを祭神として祀る市杵島神社では、「市杵島姫命は天照大神の子で、
皇孫邇邇芸命が降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させた
ことから、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されている」という説明板が
ある。
後の時代の神仏習合においては本地垂迹では弁才天に比定され、同神とされた。
広島の厳島神社や神奈川県の江島神社、滋賀県の竹生島神社など。
大分県の宇佐神宮や京都府の石清水八幡宮では、
比売神として多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)
とともに二之御殿(3つ並んだ御殿の真ん中)で祀られている。
また、松尾大社では主祭神二柱の一柱として祀られている。
元伊勢として知られる籠神社では彦火明命と夫婦として絵馬になっている。
「イチキ(斎き)」は神霊を斎き祭るという意味があるという。 多岐都比売命
タギツヒメ(タキツヒメとも)は日本神話に登場する神で、宗像三女神の一柱である。
『古事記』では多岐都比売命、『日本書紀』では湍津姫と表記される。
アマテラスとスサノヲの誓約
古事記にあるアマテラスとスサノオの誓約の段で、
アマテラスがスサノオの持つ剣を譲り受けて宗像三女神を生み、
スサノオの物実から生まれたのでスサノオの子であると宣言された。
この三女神は宗像の民が信仰している神であると記されている。
化生した順番や、どの宮に祀られるかは、『記紀』で異同がある。
『古事記』・『日本書紀』第二の一書では、3番目に化生し、辺津宮に祀られる。
『日本書紀』本文・第一の一書・第三の一書では2番目に化生し、中津宮に祀られる。
宗像大社では、「湍津姫神」として大島の中津宮に祀られている。
『先代旧事本紀』には、後に大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだと
記されている。
神名の「タギツ」は「滾(たぎ)つ」(水が激しく流れる)の意で、
天の安河の早瀬のことと解釈される。
タギツヒメを単独で祀る神社は少なく、
宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで、
また、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた五男三女神とともに
各地の八王子神社などで祀られている。 1880年(明治13年)〜1881年(明治14年)、
東京の日比谷に設けた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が
起こった。(『古神道の本 甦る太古神と秘教霊学の全貌』学研)
神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神
(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大御神の四柱を祀ることとしたが
これに対して「出雲派」は、「幽顕一如」(あの世とこの世との一体性)を掲げ、
祭神を「幽界」(あの世)を支配する大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張した
(『古神道の本 甦る太古神と秘教霊学の全貌』学研)。
しかし、神道事務局の中心を担っていた「伊勢派」は、天照大御神は顕幽両界を支配
する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、
両派は真っ向から対立した(『古神道の本 甦る太古神と秘教霊学の全貌』学研)。
果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」
「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、
様々な風説が飛び交った。やがてこの論争は明治天皇の勅裁により収拾
(出雲派が敗北)し、天照大御神の神格は最高位に位置づけられることになった。
なお、政府は神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な
教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと言われている
(『日本史大事典』 平凡社 1993年)。 ◎ 芥川龍之介は自身の小説にて天照御大神を登場させる際、
「天照大御神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になる
ため、太陽神それも自然神という性格付けで別名の「大日孁貴」(おおひるめむち)
を用いた。実際、芥川の小説には検閲によって訂正・加筆・削除を強いられた箇所が
多数存在する(芥川龍之介 『澄江堂雑記』)。
◎ 日本全国の神社本庁傘下の神社で皇大神宮(天照皇大神宮)の神札(神宮大麻)を
頒布している。
(1871年12月22日、政府は伊勢神宮の神宮大麻を地方官を通して全国700万戸に
1体2銭で強制配布することに決め、翌年から実施した。
1878年(明治11年)以後は受不受は自由となったが、依然として地方官が関与して
トラブルを生ずることがあった
(安丸良夫・宮地正人『宗教と国家−日本近代思想大系第5巻』岩波書店、
1998年、p443,535,562)。)。 天孫降臨で日向に降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、
天照大神の子である天忍穂耳尊と、
高皇産霊尊(タカミムスビ)の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子。
兄は天火明命(あめのほあかり)。
『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。
したがって、アマテラスの二代後の子孫(孫)にあたる。 >>40
中国からの渡来人某氏=ホアカリ/ニギハヤヒ(天御中主、イザナギ、天照皇太神、スサノオ)。
ニギハヤヒ(不都合な真実)を隠すために考案されたのがニニギ。 日本書紀より、魏志倭人伝のほうが事象の歴史的事実に対する整合性は高い
というか、日本書紀に限らず、日本史が実質的な大和朝となる飛鳥宮を作る飛鳥朝から主観的な日本史や人物像がはっきりする
たいしてそれ以前はすり合わせが強い
いいとこわのごおうあたりからであり、それ以前は人物を改ざんして、事象を誇張、脚色してる
ここで重要な事実を知る手がかりは
・日本、中国などの史書がいつかかれ、どれが偽書でどれが信憑性があるか
これも当時に関して後世かかれた偽書が日本でも中国でも蔓延してるから、すべてを選ぶことはできない
限られた、真実に近い立ち位置でかかれた情報が必要で、それは唯一三国志となる
・当時の史跡などの客観的な物証
・当時の紛争や「支配地域の変動」などの大きな歴史の流れ
などから押し引いて図るしかない。そして日本書紀は「4世紀末の応仁の代まで故意的改ざんをしてる(なぜか神功→応仁の代の合計が250年もある矛盾)」 そして客観的な事象としては
@がくろう公孫政権が存在し、そこと交流があり、政治交渉、朝貢があった可能性が大きいこそ
A公孫政権に朝貢し、魏帝の存在を認知してたからこそ、公孫氏を破った魏帝のちからをしって隷従朝貢の意を示した
B後がくろう提督の取扱う領分、領域となり代理朝貢し、後の技術習得はがくろう、たいとう提督を経由した「関節朝貢、関節外交」のていをとった
C東漢氏の莫大な渡来人は存在しており、彼らこそ真の渡来人で、渡来人の9割は彼らである。
かられの来訪は312年の普漢滅亡、312年の別の高句麗しんこうによるがくろう陥落で
安住の地を求めて日本に亡命したからである。
ここに「いつ莫大な数がいないと辻褄が合わない中国系渡来人が日本に来たか」を証明するものとなり
「4世紀以降の倭国の大規模発展を可能とする技術者の由来、身元」を立証するものである
D東漢氏以降莫大な国家インフラ建造事業が行われ、4世紀は鉄器と軍の増産→高句麗との紛争と高句麗を撃退させ領土を確定させる→その前後中国としばしば海路沿いの交流を行い、朝貢をして「がくろう群侵略者である高句麗撃退をした功績」で東征将軍の地位を貰う
E所詮倭のごおうであり、倭のごおうは正確な出生年代わはっきりしないが、客観的な立証性は存在する
F倭は高句麗撃退以後高句麗が百済、大和と事実上の和睦協商的な関係になったこと、東征将軍となり、南朝と友好的、準同盟的な地位になり、倭の対外政治は安定した
とくに第二南朝の宋との関係は良かったらしく、しばしば朝貢して、特別外交政治的貢献がないにもかかわらず異例の叙勲を受けている
G南朝宋政権崩壊後、二回以上の朝貢が見られるものの、南朝政権じたいが親属内乱状態となり、政権運用能力が崩壊したため、外交儀礼的な建前交流しか起きなくなった。
そして短期でまた政権が入れ替わり、朝貢使が止まった。
Hこの南朝交流が宋政権崩壊で形骸化して、南朝が盟主たる能力を期待できなくなったのと前後して
天皇は飛鳥朝を開いた。そして以後日本史は明確化してきて、中国史書との矛盾が起きず、人物、事実がはっきりしていく
これつまり日本書紀は全般的に「卑弥呼の蔑称と朝貢」「東漢氏という超大規模渡来人」「南朝との朝貢関係」を忘却してる。 この忘却した理由は日本書紀を編纂した6-8世紀、及び出版時の11世紀において天皇の地位を安堵し「無敵の帝王」に演出するために
中国との朝貢性を故意的に消した。その裏返しが「異例の長命で神話的聖帝として描かれた神功、応神天皇の矛盾した姿」だった
これ朝貢隷属の裏返しの雄大性だ
また東漢氏の大きすぎた功績が小さく描かれるのは、東漢氏は実質4-6世紀間の大和王国建国の最大貢献者であり、日本書紀の編纂中も下手したら貴族最大の勢力だ
・この東漢氏を強調すると東漢氏が集団化する懸念があり、権力のパワーバランスを考えないといけない
・東漢氏にクローズアップを当てると、東漢氏から朝貢の実像がバレる。
このため東漢氏の功績を強調しない矛盾措置が取られてる
・7-9世紀に天皇政権は政変で、在来大和系部族、東漢氏の主導権を排除して優先権、王権イニシアチブを確立しようとした
味方だったのは、天皇+藤原+百済氏族だ。このため、歴史的な事実は
「中国からの東漢氏の技術舶来と殖産功績」という事実が「味方の百済部族もおすため百済の殖産功績とミスリードできるように」改竄されてる。
客観的な歴史は中国朝貢→東漢氏の知識伝来と殖産を→英雄神功応仁天皇の雄略と百済殖産に書き換えられてる
これが今日までの古代理解を矛盾させ、某半島民が発狂し「矛盾半島先進国突飛論、百済宗主国狂言説、半島文明盲導論」の根拠となった厄介な歴史改ざんであった。 百済においては
考古学上
・半島の殖産、歴史発展はがくろうぐん、大和百済州の前になし
・紀元前はほぼ全く殖産がない
・3世紀に大和とがくろうぐんがであった
・4世紀に宗主天皇が高句麗を撃退した属国百済
・東漢氏に日本は製鉄と識字を教わって、それが百済に伝わった。そして日本の後に小規模的に「鉄器開発、識字文化化が起きてることが考古学的な史跡比較上はっきりする」
・そもそもワニ博士にしても、これが日本に漢字を伝えた初代説は突飛すぎて矛盾する
なぜならそれよりも100-150年前に日本に莫大な1000人以上の中国人かつ貴族、技術者がトライした瞬間、漢字、中国語が伝わらない矛盾はおかしい
また日本は中国と積極的に朝貢疎通しており、漢字と中国語がわからない蛮人が度々中華帝と目通りして朝貢を許される無礼と矛盾がおかしい。
中国人が朝貢を許すのは漢字と中国語という国際語を知ってる最低限の知識人相手だからである
であるから各種の状況証拠上、ワニ王以前に日本が漢字を知ってて当たり前だ
・そもそも日本書紀と古事記には、伏龍孔明の如き賢人として描かれて登場し、知恵者として渡来する
そうどこにも「日本に漢字を伝えた」など書いてなく、そのように解釈できる要素はない。
そしてワニの記録は「ワニ伝来以前に日本は漢字を識別できてるように記録されてる」ないようなのであり
ワニが漢字を伝えたなるは、某半島国民による文明人願望から来た「謎理論」の虚言である
とあって百済文明説は侮日盲導史観から生まれた病的なパラノイアである 神話のようにネットで金が入ってくるらしい方法
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
SXT3A 話としてまとめると、誰でも飲み込めそうな話なんだよね。
あの世で起きた神の相談。
エバは、イナンナだった女性でモーゼに旧約聖書の作者になってもらうことをお願いして
自分はイシュタルとして身を潜める。
イシュタルは、マリアとイエスが親子だという話を広める為に
イエスにメシアの役を務めるようお願いする。
イシュタルは、マリアや中国の妲己や天照大御神とグループを形成し、
お稲荷さんを始める。※お稲荷さんには重要な仕事があり、悟りを開く前の人間に対し、
誘惑を仕掛ける。また、人間の秘儀参入時の霊界の審査もお稲荷さん中心で開催される。
それが、稲穂を実らせる前の荷物という意味。
此処重要。重要なのに日本人は誰も字の意味を解いてない。
お稲荷さんとは悟りそうな人をそのまま進ませるかどうかを
判定してくれる存在。
現在の課題。
イエスが中心の世界だけれども、イエスはお稲荷さんに呼ばれてメシアになった人で
メシアはお稲荷さんが引き連れている地縛霊に憑依を依頼し、輪廻を終えるカルマが
無くならないように働きかけ、霊界からの支配が継続するように見張っている。← この点を言及してほしい。
王路(引き寄せの法則) おまえらの力が必要だ!
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/atopi/1512118999/ 卑弥呼が天照で天野岩戸が日食なら邪馬台国は朝鮮南部か石川か福島になるぞ >>54
岩手や宮城でもみえた。近畿や九州じゃみえなかったけどw >>46
秦の始皇帝 を二度も騙して巨万の財宝や富と数千人を引率して渡来した徐福さま。
キキ神話ではイザナギ。高木。スサノオ、、ニニギ等、様々に改ざんされた。
一度目、二度目共に配下等を数千人(史記には二度目は三千人)を率いて渡来したと言われています。
一度目は石見の五十猛海岸から上陸して当時、列島のほとんどを支配下に置いていた古代出雲王国の王家、王族(神(カモ)族と言った)にオモネリ、簒奪(乗っ取り)の野望をやがて露にして
正副二人の王を殺害(実行犯はホヒとその配下)。
事が巧く運ぶかに見えたのも束の間、出雲王国側が体制を急速に建て直し回復(次代の正副の王が立った。)したことにより、
徐福ら一味は出雲王国から捕縛、殺害の対象と成って身辺が危うく成ったことから
一旦本国に逃げかえって、、、
(ポーカーフェイスで何事もなかったかの様に取り繕い)始皇帝に復命。更に騙して二度目の渡来を果たす。
一度目、徐福はホアカリと偽名を号していて、出雲側に大悪党の首領として全国手配に成って居るため、それは使えないと判断。
二度目はまたしても偽名のニギハヤヒと号して有明海に入り佐賀に上陸。
出雲王国の分家、創設間もない宗像王家に取り入り、跡取りの末娘、サヨリ/市杵島媛と結婚してホホデミ(物部王家=天皇家の祖)とホヤ媛を生む。
(市杵島媛が天照大神荒御魂。弁財天。セオリつ媛) >>58
山幸彦、、、徐福がホアカリと号して出雲の王女と婚姻して御子の五十猛/カグヤマが生まれて丹波国を賜り(イザナギの丹波降臨)
出雲大逆事件?の失敗で妻子を置き去りして母国に逃げかえって、(イザナギの国生みの失敗)
体勢を整え直して(始皇帝と秦帝国を騙して)
再度の渡来して、
名をニギハヤヒ(偽名)と改めて、九州を支配していた宗像王家の王女(跡取り)のサヨリ/市杵島媛と婚姻して
御子のホホデミと媛御子のホヤ媛を生み、
ホヤ媛が丹波の異母兄の五十猛/カグヤマと結婚して天村雲を生み、
天村雲が奈良に進出して初代大倭国の大王に即位。(系譜上の神武天皇)
この方の王朝を、、、海幸彦。(海部王朝)
と比喩した 古事記を読むと、当時の我が国の支配勢力は唐王朝の残党勢力だったということがわります
そして、彼らは再び大陸を制圧して唐王朝を再興しようと企んでもいました 神武天皇が初代ではなく73代天皇だというのは本当ですか? >>63
むしろ欠史だからこそ実在するような気がするけどねえ
創作なら逸話だって創作しそうなものでしょう
逸話を載せると都合が悪いから削ったのなら実在するんだろうと思いますねえ 系図はありますからね
しかし、大君ではなかったのでは >>6
転載
35天之御名無主2015/06/18(木) 18:21:12.28
>>1
>古事記などの時代には東日本は一切登場しない・・・・・・・・・・・・・・
ん?『古事記』の国生み神話には佐渡島が登場するし、『常陸國風土記』には
茨城県地域の先住民が登場しておるがね。
貴方の言われる「東日本」とは、何県以東を指しておるのかね?
東日本に於ける古代信仰
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/min/1409540521/1-35 >>65
系譜上の神武さんなリアルなお方は、天村雲命。
即位なさったという2600有余年前は、日本列島で最初の国、出雲が王政を開始した年代を横領したもの。
神武さんの詳細な事績は、リアルにはいわゆる垂仁さん(=リアル神武)の事績。
、、、リアル崇神さんはヤマト攻めの準備中に九州(都万国=宮崎、西都原)で 命が尽きた >>69
因みに、天村雲命(ホアカリ=ニギハヤヒの孫)〜の葛城/磯城王朝の系譜が概ね欠史8代。
九州から攻め上り天村雲命流の王朝を駆逐して新たな大王となったのがイクメ(幼名イサチ)。いわゆる垂仁天皇。 >>70
いわゆる垂仁天皇も渡来人某がホアカリ=ニギハヤヒ(どちらも偽名)の子孫末裔。 神武天皇以前は約240代にわたり天皇ではなく上方様という偉い人が日本の王でした。 いろいろと役に立つパソコン一台でお金持ちになれるやり方
役に立つかもしれません
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
5WF 古代出雲人の人骨をDNA解析し、そのルーツを探るプロジェクトが進行中です。
現在クラウドファンディングにて支援金を募っています。
興味のある方は是非ご支援頂きたく存じます。
日本人はどこからきたのか?
出雲の猪目洞窟遺跡の人骨から、その謎に迫る。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990 海流の関係で東シナ海で遭難すると出雲に流れ着く可能性がわりと高いからなあ ウガヤフキアエズなのか?
ウガヤフキアワセズなのか? >>78
出雲神話の首長大穴持の祖先スサノヲは、古代新羅の
曾尸茂梨(ソシモリ)という地から移住してきたと『日本書紀』が
記すのだから、有象無象の漂着者を除けば古代出雲地方への
集団渡航者の支配層は、現慶尚南・北道の地出身だったのではないか? >>80
スサノオは高天原(御所高原)から追放されて新羅に行って汚すぎたから島根に行ったんやで >>83
西暦57年の新羅王は、丹波国出身の倭人だよ。
この倭人の王が新羅の祖と言われている。
朝鮮の正史ではね。 昔の丹波と言えば、今の丹後も入る。
今の丹後の与謝地方のことだろうな。
ここに伝わる有名な民話が浦島太郎の話だが、以下に述べられた人のことだろうか。
新羅の「昔氏」の祖先というのも、いかにも浦島に相応しい。
脱解尼師今:
新羅第4代国王
在位期間
57年 - 80年
姓・諱
昔脱解
生年
紀元前19年?
没年
80年
脱解尼師今(だっかい にしきん)は、新羅の第4代の王(在位:57年 - 80年)で、姓は昔(ソク)、名は脱解(タルヘ)。第2代の南解次次雄の娘の阿孝(アヒョ)夫人の婿。新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。 浦島太郎は山幸彦で竜宮城は沖縄のことだよ
ニニギ〜山幸彦〜ウガヤフキアエズ〜神武天皇は南九州(日向)にいたよ
ウミガメのメスは南九州で産卵した後に沖縄近海に向かうよ >>88
浦島太郎は南九州から亀に乗って沖縄へ向かったんだ
海中での呼吸はどうしたんだろうね
往復いろいろと大変だったろうね 竜宮が海の底というのは後の時代の創作
古い文献ではどこかの島に行ってるだけだから潜ってはいない 竜宮の場所は海の底や、遠方の島に加えて、海上の洞窟というのもありではないか? 亀形の船の船員を助けて、その礼にかの国に連れていかれ
ナイトクラブみたいな美女ぞろいのソープで骨抜きにされて
帰されたら精力減退の爺様になってました。単純な話だな。 普通に考えて沖縄でしょ
沖縄から縄文時代の本土製の土器が見つかってるし
沖縄人のY染色体は本土から分岐したD系が主だし
神武天皇が弥生時代初期だから山幸彦神話は縄文時代の話だし
遺伝子的にも考古学的にも海洋生物学的にも童謡的にも神話的にも整合している 日本書紀、古事記は朝廷の秘蔵書物だった
その中の逸話が左遷貴族などによって漏れ出て伝承され童謡化された
山幸彦→浦島太郎
彦五十狭芹彦→桃太郎 古事記と日本書紀じゃ血統が違うよね。羅列しない方がいいんじゃないか? その通り
日本書紀と古事記を比較研究すれば分かるが
古事記は日本書紀の一書曰くを都合よく繋げた文章であり
皇統に連なる氏族関係については、奈良時代以後に強大化した氏族が追加されているふしがあり
そもそも古事記の初出は平安時代に太安万侶の子孫が出してきたもので、その時に太安万侶が書いたと主張しているもので
確かに太安万侶の墓は見つかったが、太安万侶が古事記を編纂したことは証明されていないし
文章的にも平安時代に書かれた偽書であるというのが、本居宣長以前の定説であったが
本居宣長がごり押しして、今現在も権威ある書物ということになっているが、総合的に考えると、平安時代の偽書が正しいと思われる
日本書紀と古事記で血統が違うという指摘は、そういった、皇別氏族の追加とそれらの祖とする皇子らの追加や、第2〜4代天皇の皇后の出自が相違している点について、ということか
現在、考古学の発展によって第16代天皇までは存在したであろうとされ、歴史教育の現場でも、仁徳天皇陵と、倭王武=雄略天皇ということが教えられているが、それ以前については未だ隠されている
それらは考古学による証明によって遡っており、最近では、倭迹迹日百襲姫命や彦五十狭芹彦命の存在が証明されようとして、それは同時に第7代孝霊天皇が存在したということに繋がるので
第10代崇神天皇が実質的に初代であるという俗説と、欠史八代は架空であるという妄言を打ち破ることになる
このように、考古学的成果によって第7代孝霊天皇までの存在が確定しようとしているが、問題は上記の通り、日本書紀と古事記では第2〜4代天皇の皇后の出自が相違している点である
また、この第7代孝霊天皇から、一夫多妻制が始まっている点も注目に値する 日本書紀と古事記における第2〜4代天皇の皇后の出自の違いについて
日本書紀
第2代の皇后=事代主の娘
第3代の皇后=鴨王(事代主神の孫)の娘
第4代の皇后=息石耳命の娘(懿徳天皇の姪)
古事記
第2代の皇后=師木県主の祖の河俣毘売
第3代の皇后=師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売
第4代の皇后=師木県主の祖の賦登麻和訶比売命(亦名を飯日比売命)
第5代以降の皇后は日本書紀も古事記も同じになっている
第5代天皇から考〇天皇というのも考えさせられる
恐らくこのままいけば、第7代までの存在はすぐに立証されるだろうが
そこからさらに遡る時、この相違点が問題になってくる
しかしながら、科学によって解明され、古事記の権威は失墜し、日本書紀だけが残ることになるだろう