永久ゲロ凍土
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今回はスマホから立てなかった
引き続き退屈な読書スレだぜ 人の悩みの大半は解決不可能である、ということを悟らなければならない 不可能なことを延々と繰り返すわけだから生きることは苦痛に他ならない
苦痛に耐えるか、誤魔化しつつ生きるかしか方法がない 三角関数と指数関数の繋がりを虚数単位を用いて一行であらわしたのが
世界一美しいといわれている(一部の学者の間で)オイラーの公式 lm(imaginary number)は虚数軸、Re(real number)は実数軸
これは虚数軸を持つ単位円ということかな
いまひとつ把握しきれてない・・・ 地球は太陽に振り回されているだけに過ぎない
太陽も銀河系に振り回されているだけに過ぎない
また銀河や銀河団は宇宙には無数に存在しており
融合を繰り返すという 惑星の動きは螺旋運動で
生物もその影響を受けてしか進化してこなかったという 自然のカオスやその反対側にある秩序、美にはある種のシュールさ、恐ろしさがある
人間はそこから逃げ出したのか 数学の抽象思考は自然の無秩序を否定するところから始まる・・・ 人間社会ではよく不自然な秩序化への運動がおこっている
これは人間の精神が最初から分裂しているためである
分裂状態を自然にまかせたまま放置することができないからだ
つなぎとめるための方法である 1の次は2、1の倍は2、という風にしておかなければ繋ぎ止めることができないのか つなぎとめるための方法なのだから
調和も無理に演出するほかない 世界と自己との繋がりで過度に悩むのは人間だけかもな https://www.youtube.com/watch?v=aXx4bsci-HU
ABC予想の望月理論を分かりやすく表現した動画らしいが
俺には何ひとつ理解できなんだ ABC予想が解けることで何が変わるのかというと
今までスーパーコンピュータを使って脳筋みたいな計算をさせていたのが
関数としてスマートに表現できるらしいのだ しかしこの望月という研究者の論文は独特な難解さを持っているらしく
殆どの数学者の理解が及ばないのだという おそらく自分の中で消化済みとなっている定理だの定義だのを
最初から複雑に組み合わせて練り上げたものだろうな アーベル群の基本定理を見ただけでモヤモヤっとしてくる この望月という人の専門分野に遠アーベル幾何学ってのがあるが
これの概要も意味不明であった
おそらくアーベル群からほど遠い場所にある代数構造を
他の構造に写像するための理論なんだと思うけど
見てもちんぷんかんぷんだ 作業だけ見ているとなんとなくアウトライン分かるが
仕組みがさっぱりわからない 微分を使った位相解析くらいはできるようになっておくか 下痢なのによく食べるんだが
体重測ったら減ってるどころか増えてた
やはり固体の便が出ないと厄介だな >>33
個体の便が出ない・・・
なんてこったい(酷 望月理論の説明のための動機付け?の文章を読んでいるのだけど
これの意味もまったくわからない
終始頭が????になる 飛び級で海外の一流大学に入った人間が20年かけて編み出したものだしな
俺のFラン以下の頭で理解できるほうがおかしいのだが 少しでも取っ掛かりを得るために今日も数学の論文を読む ガウス積分を宇宙に分けるという意味がわからんな
ガウス積分から勉強するか 以前読んでいたシンクロニシティという本で
物質世界に背後にある対称性がどうのこうのと書いてあったが
あれに近いところまで立ち入らないと分からないようだ 論文を読むための前提となっている論文を説明している論文の説明も
まったく意味がわからねえ 遠アーベルの円分物を利用することで対象を転送してるんだと 転送するにはスキーム論の元で円分物の同一視を自然に行う必要があるんだと スキームってのは可換環に対して双対的に構成される局所環付き空間なんだと
覚えておくか 図形の左右対称とかじゃなくて
超対称?の概念がよくわからない
プラトンが想定したイデアみたいな世界のことか? 図形や時間・空間として把握できない概念が出てくるとお手挙げだな そもそもこの望月という人は数や物質を超えた背後にある世界の探求がしたいのだろう
どことなく普通の数学者とはオーラが異なっている 普通に考えると物質を突き詰めれば
機械的世界観(自然の可視的・外的形質の部分)と粒子/波動の世界観の
対によって成り立っているよな
これが通じないってのはさすがに頭が追いつかない 人間の感覚は可視的にはならないからそういった考え方をひっくるめて
外的形質に置き換えるのが普通かもしれん それはヘーゲル概念論の客観の章でいえば機械的関係、化学的関係あたりの話になるのか 数学はほんとに、壊滅的に向いてないな
脳筋だしな俺
数字を数えろ、といわれると3以上はまともに認識できないような頭だしな 1タス1はニィィィ!!
1タス1タス1はサァァァァン!!
以上、数学おわり!!!! 意味はさっぱり分からんがここまで読めた
論文を読むための論文の説明の論文を読んでいたら
位相群を可換できる図がたくさん出てきた
しかしそれが何の位相群なのか理解ができなんだ 物理では対称性の連続を扱うことが多いらしく
この位相群という考え方が出てくるのだが(本にたくさん出てきた)
何の対称性が連続しているのかまでは理解ができなんだ ここでいう宇宙というのはおそらく何某かの集合概念のことだろうな 脳筋計算で組み合わせやると実際に宇宙消滅しても計算が終わらない テンソル積キターー!!!!!!!!!!1111111 0階テンソルがスカラーで1階テンソルがベクトル
ベクトルからテンソル積を考えるとベクトルをテンソルを作れる
ここまで理解できた 日本語がおかしくなった
テンソル積が分かればベクトルからテンソルを作れるということ
これを高階化してゆかなければスタート地点にさえ立てないというわな このタイミングで生理がきた
ググったらPMSで下痢の症状があるようだ
前にもゲロとか眩暈とかがずっと続いて生理きたら止まった
今回もそうであればいいのだが 3階以上になるとテンソルは行列で表現できないから
独自の理論が必要になる 多重線型写像として直積に作用するのがテンソル
この覚え方でいいか クマーじゃなくてクンマーだった
基礎体の元の n-乗根の共役って何なのじゃ? 最初から複雑な高次元拡大理論が組み合わさっているんだよな
一つ一つを分解して低次元に引き戻さないと何をいってるのかさっぱりだ >>80
偏差値32だったらBFですね
東大を目指すならここから血反吐を吐くような努力が必要だろうけど
青山なら何とかなるだろう・・・ 俺は死ぬ気で努力したら70くらいまではいくだろうけど
東大は最低が80だからな
おわっとる 暗記科目は得意だったがテスト終わると全部忘れ去るからな >>84
だれだこれは
昔は平気で家の中に入ってくるガキとか普通におったがな 関西でもかなり荒れた場所だったからな
自転車とられるのなんか日常茶飯事の場所 >>89
この人は知らないな
おそらく過去に見たこともない 昔は電磁力の性質を調べるのに幾何学が必須だったからな
伝統的な幾何学を捨てられない人が西洋に多いのは仕方ない
デカルトも幾何学の全てを捨て去ることはできなかった 電場の強度を調節することでエネルギーを線形に扱う技術を生み出した人類 アインシュタインの理論も一応目を通しておくか
アインシュタインって別にそこまでの天才ではなくて
過去の偉人が残した理論の応用なんだろ 哲学者のヘーゲルも天才ではなかった
過去の偉人の再構成だった
アインシュタインもポアンカレやローレンツの再構成理論だった
切り口が斬新だったのだろうな >>95
<w,.w> v"):::::\
,,.::i::'⌒i:⌒i〜.,,∠二二ニ>
/::::i:: i.△ :.i△`:.(. ゜ω゚) /~ ~~ ~
(::::!:: :::i :.△ ) ::)| ̄lつつ/ /l//l/l
|::::::i::. 丶へヘiヘ..∠ノーn\\__〆〆..´`\
`::;;:':::::::!:......-ー"ノ匚|JJヽ>ー|--|---‐メ、゚_゚) I_(゚Д゚.)
__/、|..,ゝー::!:.....-'/、|,ゝ匚ニニニニニコ. 〈コ l_l|
 ̄\|‐*‐)─*-)|‐*‐)*-)〉.// /`ー、ヽ. .l゚⁾゚|
ヽ、|_ン. .ヽ、|_ン..ヽ、|_ン..、.|_ン〈/〈/ヽ〉 ヽ〉ヽ〉 >後半生の30年近くを重力と電磁気力を統合する統一場理論を構築しようと
心血を注いだが、死により未完に終わっている >>103
xdvxnvlzgf
>>104
そんし!! 量子力学の研究者もリーマン予想を解こうとしているんだな 素数の並びに意味を見つけようとするなんて
恐ろしいことを考えおる 10進数だと不揃いに見えるだけだろうがな
新しい進数を生み出す機会を伺っているのか 進法を変えても性質が変わらないとしたら超対称性の世界だな 数学できたのって昔は特権階級と一部の変人だけだったんだな 暮らしの知恵として測量や単純な計算くらいなら奴隷でもできたんだろうが ピタゴラスもほとんど宗教みたいな形態で活動していたしな 今は工業系なら高校生でも三角関数の単位円を使った測量くらい簡単にこなすからな 組み合わせ爆発はアルゴリズム使っても制御に限界がある
人工知能でなんとかするほかない 光子で1回路ループ処理すれば飛躍的に効率あがるだろ
人間のすべての思考がスローモーションに見えて大変だろうな、人工知能は エネルギーを線形制御する必要がなくなれば
量子中二病が出てくるだろう 波動の重ね合わせ能力により時間に依存しない連続的異能を引き出す シュレーディンガー表示しかできない哀れな古典力学中二病よ 私はクーロンポテンシャルで相手の潜在能力を測れるからな 中二病は言葉のかっこうよさに拘る
中身などなくても雰囲気だけよければそれでいいのだ >>128
「電気毛布はあったかい」
「いや、なかったよ」
「隣の店にうってたよ」
「あっ高い!」
「電気毛布はあったかい」
「なかったよ」(意味不明)
>>129
ダリア!! Xならブルーブラッドに収録されているローズオブペインが好き
英国ハードロック、パワーメタル、クラシックの華麗なる融合 ゼロは架空の数だからな
ゼロは数字ではないという人が多い 人間は神から離れても習慣にすぐに埋没して自由を失う
得たのは束の間の精神的自由だけだ これもたかだか数百年で終わるだろう
明るい未来は文明の延長には無い 美大に入って西洋の伝統絵画の研究をする予定が
気がつくと漫画を描いていたからな俺
アホではないかと 油絵の具で亜麻のキャンバスに絵を描いたことは殆どないな 本格派の油絵を描こうと思ったらセット揃えるのに5万くらいかかるからな
安いセットで2万円くらいな
初心者用だと5000円くらいで売ってる ホルベインの少し良いのだと絵の具揃えるだけで5万いくかな 美大受かるまで浪人したかったが
一浪さえも許してもらえんかった おかげでカッスカスの低レベル専門学校で興味のないデザインを学ぶはめに クラスメイトが2人も東大現役で入っていて
すげえ劣等感があった
でもあの人らはオーラが違っていたからな 今頃になって学問コンプが噴出したのは円城の小説を読んだからである 円城の小説の特異な構造が俺の何かを刺激した
物語としてみたらかなりつまらんのだが
構造としてみたときに綺麗なんだな ある種、ボルヘスよりも凄いんだな
俺はボルヘスの伝奇集を愛読書にしていた ボルヘスは幻想性が強い
ファンタジーではないけど想像力が無限への幻想を煽るような話ばかり 円城の場合は無限を茫洋としたものではなく
制御可能なイメージの内に表現している 構造がさっぱり分からなくなるのがカフカの小説だ
「城」はお手上げだった
一番難解なのは「ある戦いの記録」 何が難解なのか今でも分かっていない
もう100回以上読んでいるのに 最近は物語を楽しむ精神力もないからな
ひたすら退屈な学問の本だけである カフカが全身全霊の力を駆使して分からないように書いたのだろう
しかし文章が破綻しているわけでもない
普通に読めるのに意味がわからないのだ どこで場面転換したのかも章の構成も自分か他人だかも分からなくなる 最初の方は筋が通っているんだがな
どこから分からなくなるのかというと 肥大漢のあたりではもう誰が何いってるのか理解ができん >>174
部活のしごきのパワーアップバージョンだな >>179
jbgsdznfl
>>180
mklt カフカの親友のブロート(?)によると肥大漢の出てくるパートは
カフカが当時持っていた「東海道五十三次」の絵はがきに
インスパイアされて書いたという話があるな カフカの研究はずっと盛んで、カフカの世界観の深淵に挑もうとしてきた学者が多いらしいが
カフカ当人はすごくネガティブで繊細で心が弱くちょっとしたことにいつも絶望を感じるような
人間であったらしい
繊細で優しく心配性で卑屈でネガティブであったと 胃が悪くなるのを不安に感じてあまり食べない影響で胃が弱くなっていたらしい
本末転倒すぎる 「ある戦いの描写」というのはカフカが21歳のときの作品で
まだ実験的模索段階といった感じなんだろうか
内面の葛藤をコンセプトにしているのかとにかく登場人物が
何をやっているのかさっぱり分からんのである 安倍公房もかなり現実的な不安感を煽るが
カフカを読んだ後だと大したことはない 『壁』はものすごい恐怖感と苦痛があって以前は中々読み進めることができなかった
焦燥感と不安で満ち溢れている サルトル、カミュ、安倍公房は間違いなくカフカの影響下にある作家
サルトルが一番退屈だが一番達者だな
カミュは蠍座独特の変な感じがある サルトルは野暮ったく小説としてぎこちないが一番哲学的な内容 男女間の野暮ったい面倒くさいやり取りを平然と描くのがサルトル 演技じみたしょーもないやりとりと細部のリアルさが結びついて
得たいのしれない雰囲気をかもしだす カフカの意向ガン無視しおる
>1924年にカフカが若くして亡くなり、ブロートはカフカの遺稿の管理人となった。
カフカは遺言ですべての遺稿を焼却するようにとブロートに頼んでいたが、
ブロートは自身の信念に従い、生前未発表であった長編
『審判』、『城』、『アメリカ(失踪者)』を始めとする
カフカの遺稿を次々と公刊していった カフカの住んでいたプラハでは三つの民族が混在していて
カフカ自身はユダヤ系だがユダヤ文化にもドイツ文化にもうまく
馴染むことができず民族的な不安感にいつも悩まされていたという カフカの父親は自分の繊細な感性を理解してくれず相性がかなり悪かったらしいな 久しぶりにドキュメンタリー映画でも見るか
つくりものの物語は退屈だからな ドキュメンタリーも退屈だけど無駄なドラマがないからな 何十万年も前の固有種がそのまんま生きつづけているのだからな シーラカンスとか6000万年以上同じ姿したままだった
化石で出てくるのと同じ形の魚が泳いでいる不気味さ
でも変わらないことは良いことなのかもしれん 存在しないはずの虚数がなぜ数学や物理学で活躍しているのかというと
物質の世界には波による周期性が存在することを示している でも純粋数学の世界では物質の性質など関係ないからな 人間にとって一番大切なのは習慣だろうな
長い目で見ると
習慣には理由などないからただ続ける以外にない 意味や意義など無理に見出さなくても続けることが大体の意味となって動いている
習慣やめれば人間に意味などなくなる 習慣やめるというのはまず文明生活を捨てて食事も睡眠もやめるということだ 楽しいというのはただの錯覚で
現実というのは存在や生の苦しみに耐え続けている状態のことだ 習慣がその間をとっている
苦あれば楽あり、というふうに
習慣というのは錯覚でもなければ現実味もない
続けることが意味になっている
それだけのものだ 続けなければ意味などない
やめた時点で終わりなのである
意味とは続けることである
よくこのようなナンセンスな答えが導き出せたな俺 忍耐の持続こそが生の意味である
目的は後付けの屁理屈 どんなに嫌気が差しても生きている限りそれは持続する 習慣、言葉、性欲、食事、睡眠の呪縛から解き放たれることができれば
生の意味で悩むこともなくなるが 読書が退屈すぎてしょーもない結論しか導き出せん
俺は読書から何一つ学び取れない人間
読書は思考停止するのにちょうどいいな
俺の思考とはなんら関係のない文字が並んでいるだけで退屈だ 唯一楽しめるとしたら内容ではなく文法のリズムくらいだな
リズムに慣れてくると少しだけ楽しい錯覚をあじわえる
音楽のリズムに乗る感覚ではないがリズムに乗るのは楽しい 楽しいのが錯覚なのだから「楽しい錯覚」というのはおかしかった
おそらくこれは「楽しい錯覚」という錯覚をあじわっているだけだな
実際は「楽しい錯覚をあじわっているという錯覚」という錯覚なのだろうがな
これもまた「楽しい錯覚をあじわっているという錯覚という錯覚」という錯覚であり
錯覚を正しく認知しようとするほど「という錯覚」が増えていくだけのような気がする
これも錯覚だろうがな 要約すると、読書が退屈すぎてしょーもない結論しか導き出せない
しかし退屈ではあるけれど文法のかもす錯覚のリズムに乗るのは楽しい
ということだろう 変わらないことは良いことなのかもしれん
シーラカンスとか6000万年以上同じ姿したままだった
シーラカンスも考えることをやめて習慣を続けてきたのか
シーラカンスは自然から選ばれたのだろうか
古代の生態系がずっと生きつづけている環境のことを
俗に「ダーウィンの箱庭」というらしい
人間は自然の選択から逃げ出したかわりに
自分で選択しているという能動的楽しみを覚えた
これももちろん錯覚なのである 人間は自然から選ばれなかったので自然の外的形質に能動的に働きかけて
(つまり自然を加工して)文明を作り上げてきた 自然を加工したり改造したりする頭がなければ
人間は早々に滅び去っていただろうな
幼形成熟を繰り返してきたあげく生まれたての赤子は
自然状態では自立することなくすぐに死んでしまう 自然状態を忘れてしまったのが人間であるからして
自然状態で赤ん坊を放置するという発想そのものが不自然なんだが
この場合不自然こそが人間の本来の姿だということで自然なのだろうな 大切な未来、略して タライ
ゼロから何かを生み出せる人間はいない
イチだ!
ゼロは架空の数だからな
ゼロは数字ではないという人が多い
一神教は悪いと感じたことがない
しかし宗教戦争には醜悪な面が多々ある
神だけを信じて粛々と生きるのが一番良いのでは
人間は神から離れても習慣にすぐに埋没して自由を失う
得たのは束の間の精神的自由だけだ
この自由も習慣の中でしか生きないし
自由で有り続けなければ意味などない
そもそも意味や意義など無理に見出さなくても
続けることが大体の意味となって動いている
習慣やめれば人間に意味などなくなる
ハハハ シーラカンス なんと 6000万年以上 同じ姿
シーラカンス 超長い
これが 習慣のパワーである ハハハ 続けることが意味なのだから「意味のないことを続ける」という意味がわからないがな
これは理屈ではないな >>235
誰だっけこの人
名前は見たことあるな
曲は一度も聴いたことがない あまり有名じゃないがAlfred Kubinという画家の絵が昔から気になる グロテスクで怖い絵が多いのだけど、どこか抽象的で寂しげなんだな 題材は気持ち悪いけど画風が結構気にいっている
リトグラフで繊細だな アレゴリー作家という人が多いんだろうが
俺はカフカからあまり寓意性は読み取れない 繊細でネガティブ、具体化願望が強い、というだけの素朴なイメージ 『変身』の毒虫の大きさを考察する論文とか普通にあるな カフカの父親はかなり貧しい家の出身だな
タフな商人根性を身に付けたのもその影響からか
当のカフカは自分の父親のタフで実利的で無神経なところが嫌でたまらなかったという カフカの父方の祖父も貧しい家の出身で
屠殺業をしていたらしい
この人物もかなりタフだったという話だ ユダヤ語、ドイツ語、チェコ語が乱れ飛ぶ環境だとそりゃ頭が混乱するだろうな カフカの職場はハプスブルグ家の官僚体制を踏襲したいて
午後二時以降は自由だったんだな
この時間に小説を書いていたのか 学校の成績は優秀ではなかったらしいが
友人ブロートの父親(有力者)の助けでうまく推薦してもらったらしい
でもカフカは書類作成能力が高かったらしく
そのおかげで書記でも高いポストに配属されて兵役も免除されたのだとか 『城』のシュールで地味なお役所仕事感もこのときの経験からきているのだろうな カフカは中学か高校くらいの時分にダーウィンを読んでいたらしいが
この頃はまだ自然選択説というのは最新の理論だったのかもしれん 当時は哲学に興味を持っていたらしいが父親に冷笑されて
結局父親の思惑どおり法学の道を歩んでいる ニーチェがまだ生きていた晩年の時代にカフカは生まれている カフカは1906年に法学の博士号とってるな
この「労働者災害保険局」という職場は何だったんだろ
近代化真っ最中のころだろうから、工場主や工場労働者を相手に
安全管理や保険関連の業務をこなしていたんだろうけど 仕事柄、機械技術の理解を深めなければならずよく勉強していたらしいが
近代文明の発展そのものにはかなりネガティブだったのだろうな http://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49867_41929.html
機械の描写が出てくるカフカの短編
この機械というのは読み方を変えれば理不尽な体制システムのことなんだろうが
あくまでも機械は機械として冷静に説明している カフカにはネガティブで弱く繊細な側面とかなりタフで実務的な側面とがあるな
父親の影響は嫌でも受けていたか 関ジャニ→デスメタル→Toolが定番の流れ
意味などなくただの習慣である カフカ読むのは疲れる
刺激が強すぎる
やはり退屈な学問に戻るか カフカは表向き物静かで礼儀正しく他人への気遣いも出来て
敵など誰一人作らなかったらしいが
中身に抱えている不安や薄暗さ、弱さはかなりのものだな 自分の弱さや暗さを表に出すのも不安だったんだろうな
胃を壊すのが嫌で菜食ばかり続けていたらしい
それでも母親に心配をかけまいと肉もたまに食べていたらしい
普通に考えると他人に心配をかけまいとする努力は尊いのだろうが
カフカの場合は極度に心配性で気持ちの弱いところから来ているのか いまひとつカフカの人間性が感じ取れない
アウトラインらしきものがうっすらと浮かび上がるだけ リトグラフはやったこと一度だけあったな
銅版画よりも工程が面倒だが繊細で重厚な表現ができる 芸術について考えていると心が落ち着くけど
実際にやるのは大変だ
やはり退屈な読書に戻るか 現代アートは半分学問だからな
知識がなければ頭がおいつかないような世界 感性の閃きだけでつくってこれは現代アートだ!とかいっても
英米ではまずパターン分類される
向こうは知識の蓄積が半端ねえからな
現代アートも漏れなく英米に引っ張られていく これは現代アートだ!
現代アートは半分文脈依存の学問
半分は文脈解体の芸術 文脈に依存している限り見る側より何某かの志向性を与えられる
アートである以上与えられた価値から自らを開放してゆく必要性が出てくる 皆レオナルド・ダ・ヴィンチくらいの観察眼を持っていれば
別にアートなんかいらん
客観的な観察ができるというのはダヴィンチのレベルからだ
あとは幼稚な主観芸術の世界 幼稚なラクガキしかできん俺はアートに憧れがある
客観が理解できん
しかし感受性のレベルでは大勢が大差のないものを見ているのに
なぜ再現力にここまで差が出るのだろうか 悟性による省略や願望による改竄があるからだろうな
ありのまま感じ取ったことを人は中々再現できない
まず脳みそが嘘をつき
気に入らんものはすぐに加工処理される
オタクの描く美少女は大抵鼻が小さい 調和への志向性を伴ったものに人は美を感じるらしい
しかし文明社会は調和の意識をも「平均化」により改竄していった
平均化された美をもてはやす反動で
平均を演じる人が増える
そうすると逆に意識に偏りが生じ不調をきたしたりする
そしてまた平均化の反作用として「変なもの」が流行ったりする
同じことを繰り返しているな人間は 鼻が大きいと自己意識の肥大を感じさせるからな
あれもオタクなりの工夫か
自己意識とは反対の表現をしてバランスとっているのか >>283
. _____
. `ヽ ,」_ァ'"´
. f'て}. ̄( ゚д゚ )、 __
. | r个 √`>‐.k } f゙)ヾ>
}l r ''"`ァ'゙ ,ノ、ム'^'ァ'゙
人.ヒ,ィ゙ ァ弌__,,>'´゙ヽ
い, `'<, ,r'^ ,ノ
. }⌒'‐\ ,、 ゙'くョr.''"´
い弌-、 \ }. ゝ-、
. `'ー' ゙'ー‐--‐'⌒''''''゙ 芸術や文系の学問は嵌ると面白いからだめだな
面白いことを続けていると退屈で辛いことの重要性を忘れがちになる >>284
逃げダルシム待ちガイル(人間だれしも間違える)
・・・というスト2のネタを思い出した
自分は波動拳が好きでリュウばかり使っていたな
チュンリーのスピニングバードキックを
ギリギリまでひきつけて波動拳や昇竜拳で撃ち落とすのが楽しかった >ダーウィンの『種の起源』以降、ヨーロッパは古代以来の聖書的世界から
輝かしい科学と進歩の時代へと向かった カフカにスポットが当てられたのもカフカが死んでからのことである 『審判』が書かれたのと第一次世界大戦の始まった時期が被っている 実存主義の意味は俺は未だによくわかっていない
サルトルに興味をもってから初めて考えた 物事の本質や目的や理念などよりも先に人間が生きるのに
シュールで無骨な実存の世界が広がっている
シュールで無骨な実存にさらされた人間個人のありようを描いたのが
実存主義、という捉え方をしている 人間は悟性的にならなければ習慣を営めないからな
悟性の錯覚や妄執も含めた事実の総体が「現実的」だから 総合的に物事を判断しようとしたときに言語が邪魔に感じることがよくある 円城の小説に出てくる「神経言語」のような多重に分節した
大量の概念を用いても総体は表現できない アインシュタインは5歳のころまで言葉をあまりしゃべらなかったそうだ
これは一説によると世界の総体を把握したい衝動が強いため
言葉の存在を邪魔に感じていたゆえではないか、という カフカは言葉を文法や単語含め明晰に丁寧に扱っているのに
印象としては不気味でどこか茫洋としている 子供が小さいうちから言葉を教え込むのが良いのか悪いのかよくわからない
親心としては、他者とコミュニケーション取れるように、という思惑があるのだろうが 俺は未だに言葉で人間がコミュニケーションをまともに取れているとは思っていない
言葉がないと何も成立しないから嫌々使っているだけという印象
文字列を見ているだけでよく気持ち悪くなる 村上龍の勢いのある文体は見るだけで疲れるな
でもこの感じ、少し実存主義を感じる 村上龍はある種現実主義か
ロックな衝動があるだけで 俺にはロックの衝動がない
ロックは基本的にうるさいだけだ ヘヴィーメタルもロックから派生して出てきたものだが
ヘヴィーメタルにはどこか懐かしい感じがある
文明社会以前からの伝統の精神を感じる
ロックの衝動は古き伝統を壊していきたいから発生している
ヘヴィーメタルよりもロックのほうが前向きである
前のめりといったほうがいいか
ヘヴィーメタルは保守的でナンボの音楽 デスメタルに一番保守性を感じる
デスメタルには速い曲が多く歌い方も無茶苦茶である場合が多い
しかし前のめりではない
同じことを延々と繰り返すだけなのだ デスメタルは前に進むことを拒む音楽だ
その場に留まり死の不安を叫び続ける
たまに進歩的なプログレを目指すデスメタルもいるけど ロックな衝動が失せたからな
安心、予定調和の関ジャニと保守的で暴虐的なデスメタルを大人しく聴いている ロックというと俺の中ではToolのラタララスで完成してしまった
進歩主義と密教の瞑想音楽が合体しちまったからな 俺には芸術や物語作りの才能が何ひとつない
音楽にも感動しなくなってきた レオナルド・ダ・ヴィンチの絵を見て
客観的観察能力が並外れて高いということは分かる
なぜ分かるのに再現できないのかが不思議でならない
俺は絵を描くとどんなに工夫しても自分の幼稚さが滲み出る レオナルド・ダ・ヴィンチの絵からは異様な感覚が沸きたつ
主観をただ描き殴っているというのではなくて
主観の背後から何かが浮かび上がってくるような異様な存在感があるのだ ゴッホの絵は己の主観を突き詰めたもので迫力は凄まじいが
観察眼が抜け落ちているように感じる
どこか空虚なのだ ゴッホが画家を目指したのが30代のちょっと前のことで
モノを観察する目が確立されていない ダヴィンチの絵をずっと見ていると、他の画家の絵がどんどんヘタクソに見えてくる ダヴィンチはよくスフマートやキアロスクーロといった
輪郭線をあまり感じさせない手法を用いてるが
これでリアルさを出すには基本の形を徹底して観察できていなけれなならない アニメーターの絵は上手いけど
あれは綺麗な輪郭線で比率をきっちり守っているがゆえの上手さだ
面になると効率化するためにわりと大雑把になっている ・自己表現の手段として絵を描く・・・三流
・客観表現に近づくために主観を模索しながら絵を描く・・・二流
・客観世界の入り口に到達している・・・一流 あくまでこれは文明社会が
西洋の人間中心主義を通過したと仮定した場合の話である ダヴィンチと他の画家を比べる癖が抜けない
ダヴィンチだけが唯一一流のオーラをまとっているからな 安倍公房の『壁』は怖い小説で今でも中々通して読めない
もう65年以上前に発表された小説なんだよな・・・ 発表された当時のことは知らないけど
おそらく斬新すぎて奇怪に感じる人が多かっただろうな ホラー小説じゃないんだけど不気味な多面性を持っている 数学的であり物理学的でありアングラ演劇超であり哲学的でもあり
前衛絵画の思想も取り入れている カフカから人間臭さを無理矢理排除したようなシュールさがあって怖い
読んでいると気持ち悪くなる 安部公房は理系のエリートだったが徴兵の招集を受けてるな
しかしすぐに敗戦して戦争には出なかったという
敗戦の年に父親を病気で亡くしている
『壁』が発表されたのはその5年後のこと 発疹チフスという病気だがこの病気は1955年以降日本では報告例がないらしい
飢餓や戦争とセットになって流行るのか 貞子のリングウイルスの設定はぶっ飛んでいたな
『ループ』を読んだ時はあまりの内容の飛び方に笑った
ギャグにしか思えなかった 1900年代に入ってからミクロのテクノロジー分野がかなり発達しているよな この動画は1982年のものだが、この時点ですでに
認知科学寄りの世界観に学問が向かってゆくことを危惧している 渡辺氏の方は旧来の文系理系の枠組みをできるだけ取っ払って
普遍的な生命学問のような分野を構築したかったのだろうが
実際はそうならなかったね
英米学問に引っ張られるしかない状況が整ってしまった 安部公房が熱く語っているのは
文学が遺伝子の世界を超えるかもしれない
というわずかながらの希望 安部が育った当時の満州は都市文明の真っ盛りだったという 満州国の時代には、子供に教育として
5民族仲良くしましょうという理想を教えていた
実際は差別を平気で行っていたという 戦時中は日本よりも満州都市部の方が安心して暮らせたのだろうな 俺は『壁』が多面的すぎて怖いと思うが
当の安部氏の理想はというと、自分の小説に無限の情報を詰め込むことだという
モチーフはただの投影体であり投影体を基本にして無限の情報を詰め込む いつどこの誰にどのような読まれ方をしてもいいようにという考え方が
根底にあるためいろんな言語に翻訳しても受け入れられていった
理想としては星新一と少し通じる部分があるな 壁ときいて俺は最初、よくある壁のことかと思ったが
ぜんぜん違っていた 壁について難しいことを並べ立ててもマニア好みの変な小説に落ち着くだけだしな 人間の視野や感覚を阻害するという意味だけでいうならば
砂漠も人間自身の悟性も壁なのだ
境界意識を生み出すもの全般を壁に例えることも可能 少なくとも安部にとっては壁とは作品に情報を与えるための
ただの投影体に過ぎなかった 人は外的なものに自己投影しなければ何事もなしえない
自己投影は意味など考える間もなく産まれてくる
悟性は自分自身をもよく簡単にモノに例える 文字になりたい、とずっと連呼している人がいたな
昔2ちゃんねるで見かけた 故人の映像をずっと見ているのは辛いものがあるな
まだ生きているような気がしてくる 円城はまだデビュー作が一切咀嚼できてないからな
相当な曲者の作家だ
俺の理解の範疇を遥かに超えている 円城ストレスを克服するのに退屈な学問の本読んでるが本当に退屈だ アア
床にナメクジがいると思ったら
ゴボウだった
やべえな錯覚・・・ 日本では1800年代後半からすごい勢いで西洋文明入ってきてるが
大衆に定着はしなかったからな
そもそも「大衆」という意識が定着しとらんかった 明治維新から大衆意識が定着するまでの間に
日本の人口は3倍近くに膨れ上がった
これはもちろん文明の流入により人々の価値観やライフスタイルが
変化した影響からである 円城がいずれノーベル文学賞とる可能性も考慮しておくか ル・クレジオでも取れるのだから円城でもいけるだろ
ル・クレジオの『物質的恍惚』を以前愛読していた
一見哲学っぽい雰囲気だが非常に衝動的でポエミーな内容だった >>377
/⌒ヽ
( ^ω^)
(∩∩)
┗衝撃┓
┏┗ 三 サルトルは1964年にノミネートされたが辞退しているな
最近ではイシグロカズオか
『日の名残り』だけ読んだ事ある
非常に真面目な内容で頭に入らなかった >>378
__
((((((((()
/////
( ^ω^)
(∩∩) 安部公房はなんだかんだで誰にもまねできない迫力がある 分かりきったことでも視点を変えると迷路に迷い込む、か
人間はよく他者の視点をでっちあげて迷路に迷い込む
一番面倒な迷路が神の視点だ 他者との断絶を癒すためにわざとこの迷路を作り上げる人が多い
出口なんてどこにもないのだからずっと迷路で迷っているほうがいいじゃない
というわけである 進歩主義だったら目的地までハイウェイで一直線よ
エネルギーの効率化優先 アンディーメンテの新作が出ていたから試していた
うーん、いつもどおりの出来だな 「その炭鉱の名は」をプレイしている
これはいいゲームだ 一応ネトゲなんだけどほぼ非同期
でもやり取りはできる
擬似連携システムのようなものがある 宇トーリーも設定もわからず
名前と職業だけ最初に決めてあとは真っ暗な炭鉱をひたすら進み続けるだけ ネット機能をブロックして一人でプレイすることも可能 第四間氷期
>安部公房は、『第四間氷期』連載の半年前に作品の構想について
以下のように語っている。
技術が自然よりも人間の方に向って進む場合、たとえば、この次に
ぼくはそういうことを書こうと思っているのですが、一番大きな変り方は
――もちろん妄想ですが――水中生活に人間がもどる場合です。
それは胎児のときに人間は鰓があるでしょう。
人工で海中生活ができるようになる。温度は差がないでしょう。
資源は無限にある。海の方がずっと生活が合理的にできる。
地球はだんだん暖くなって、北極の氷がとけて、大きな山の頂上だけが
残るということにならないとも限らない。
人工衛星に乗ってどこかに行くこともできるけれども、
人間を加工して水の中に入れて水中生活をするということも考えられる。
そうすると人間の感情も変る。同じ人間といえるかどうかもわからないが 60年代にルイセンコ理論を用いた共産左翼的発想のひねくれた長編SFを書いていたんだな ロシアン共産主義の失敗は間違えた方向の努力を大勢に無理強いしたことだった はやい話が、どんなに欠損を持っていたとしても
頑張りさえすれば外的形質を「獲得」できるという発想である 精神論としてはありだがな
これで植物を育てても無駄に決まっている 一世代や二世代で生物が確かなものを「獲得」できないことは
ダーウィンが証明している 地位や名誉、お金や愛、機械技術などはその「獲得できないこと」の代替物だと
思っている
人間は何千年文明を続けても大したものを獲得することはできない 文明は獲得ではなく交換を容易にした
それは自分の力で掴み取ったものではなく
交換法則によく従ったからもらえただけのもの
他から何かをもらうことで人は生きてきた
自分の力で外的形質を獲得できるならば文明社会などとうに捨てて
宇宙へでも旅立っているわ 宇宙広いから
そこら辺にゲロや糞を撒き散らしても誰にも怒られない
それ以前に消化や排泄する意味もなくなるが 神と自分とだけで何かを等価交換できるならいいけどな もらったものから何かを再構築するのに非常に手間と苦労が伴う
それで錬金術は失敗した
交換のアイデアだけもらえたのかもしれない
それで化学が発展して「お薬」が量産できるようになったのだし 幻視の世界で神様や精神存在と対話していた錬金術師ならよくいたはず
それでアイデアだけをもらえた アイデアを閃くことはよくあるが
一瞬の感性の閃きにすぎず大半は具体的にならないまま消えていく
アイデアもらっても形にするのにまた労力が居る
人は大体、多くの定番のイメージに支配されている
デッサンといえば石膏像、みたいな(適当) 石膏デッサンが日本で始められたのは明治時代のことで
東京芸大が最初に取り入れたんだと
石膏像そのものは紀元前からずっとあるが 西洋でブロンズ像作りが盛んだった時代には石膏像というと
中間工程のひとつにすぎなかったそうな
それを安くで譲ってもらい、デッサンの練習をしていた人たちもいたのだろうか
石膏デッサンの歴史もかなり古そうだな
何より白いし光と影の関係性が把握しやすい とはいっても
銀河系の中心に行くのに石膏デッサンはあまり関係ないがな 体が弱ってきてからストレスでバカ食いすることもできなくなった
昔はよくお好み焼き15枚とかラーメン五食一気食いとかしていたな ゲロを吐きながらお好み焼き15枚食べて、そのあとにラーメン一気食いとかやっていた
まるであほである そしてとどめにウォッカ一気飲み
これで胃の中のもの全部吐きだす
あとは水を大量に飲んで胃洗浄
これでようやく落ち着く 要は自分の気持ち悪さに耐え切れないんだな
文明社会の気持ち悪さでもある
しかし最近はそういったナンセンスな行為をやる気力も体力もない 銀河系の中心に行くのに関係のないことばかり
もしもルイセンコが正しいならば俺は地球を捨てていく
今でもルイセンコ派の研究者とか普通にいそう
突然変異で外的形質をどんどん獲得していく生物がいても不思議ではない ハンター×ハンターにキメラアントという蟻と人間の合成種が出てきた
キメラアントの王などは特に、食べれば食べるほど強くなるというまんま強キャラ
ルイセンコ理論とは少し違うが、親の得た形質が子孫にすぐに反映される ルイセンコの場合は外的形質を生物のほうが獲得できるというよりも
環境がすべての遺伝を支配している、というほうが正しいのかもな 精神状態がよくなることはこの先もうないのかもしれない
ずっと不調だ 高校の同級生と会ってるけど超ウザい!
はよ帰れそして死ね! >>425
同級生なんか卒業したらすぐに縁を切るものだぞ
腐れ縁などこの世に不要 資本主義の自由は経済競争の自由だけで
あとはルールでガチガチなんだよ 長編小説を創作するにあたって
自己の観念世界を実在であると見なし
日常の自己を幽霊であると見なす
そういう戒律を作って守っていた作家 『死霊』はなんどか挑戦しようとしたが難しくて無理だった この人は元は共産主義活動家で、一度思想犯として刑務所に入っている
そのときに思想のプロトタイプを固めたらしい カントのいう「物自体」に到達するために「虚体」という概念を編み出している 自動律、実体を超えた世界への到達方法を思案する小説、『死霊』 文学も実体の世界だからな
実体を駆使して虚体を表現するという無謀な挑戦 自由とはすなわち夢想から始まる
夢想とは人間や他の生物のみならず
すべての物が持っている存在である
すべての夢を集めなければ虚体は完成しない・・・
そのようなことを言っている すべての観念は
物や生物が見ている(見てきた)実現されていない夢から来ているのではないか、と
そういうことかね ドストエフスキーの『地下室の手記』を今読んでいる
かなりくどい内容だ リズムに乗ってくるとそれほど読むのは苦痛にはならんが
どうも内容に賛同できない ロシア人の作家はどうも相性悪いな
ツルゲーネフもさっぱりだったし 解剖学は紀元前からあるが脳みそさまの機能については
分からないことばかりだった
アリストテレスも解剖学となると割とデタラメだからな 脳みそさまには5億年以上の歴史があるといわれているのに
脳みそさまが脳みそさま自身を認知し研究するようになったはつい先日のことなのだ 前頭葉機能についてようやく科学的にわかったのは1800年代の中盤だといわれている
これは鉄道技師の爆薬事故によるものだそうな
爆発の衝撃で鉄の棒が頭蓋骨を貫通して前頭葉に突き刺さってしまうという事故
一命はとりとめたがこれにより性格が変わってしまった このことから医師や科学者が様々な推論をし
前頭葉の機能について研究を進めていくうち、前頭葉が
人間の感情や行動の制御を司る部位であることが分かってくる その後、サルの脳みそに電気を流して調べたり
脳みそさまをバラバラにして細胞でいろいろ試したり
犬の脳みそを生きたままスプーンですくって削り取り行動の変化を調べたりといった
無茶な研究をやる学者も出てくる なぜ人は分裂しているのに自同律(自分が自分であるという認識)を
持ち続けなければならないのか
この意識の中身について意識していると異常に不快なのである
埴谷雄高もおそらくそのような見地からものを言っているのだと思う 人の性格にある程度の一貫性がなければ秩序が保てないがな
少なくとも悟性で処理できる程度の一貫性と分かりやすさを保っていなければ
習慣が営めなくなる
すなわち人間社会に意味がなくなる 自由を実現することの難しさだなこれは
埴谷雄高も資本主義からの自由をよく夢想していたんだろう 唯一許された自由が夢想ともいえる
たしかに経済競争の自由さが多くの妄想や夢想を許容する素地を作ってきた
自由な競争下で無限の欲望を追求できるという前提なのだからな
建前としてはそうなっている 安部公房の『壁』をまた読んでいる
やはりこれは恐ろしい小説だ 当時の批評家は解釈の仕方がよく分からなかったらしいな
あたり前だこんなもん
埴谷雄高が自分と同じ匂いをかぎつけていなければ埋もれていたに違いない 多面的で意味不明の空間に
分裂状態以前の未分化の主人公を放り出す
そしてシュールな現象が次から次へと襲ってくる
これが実存主義ですね 最初からホラーだと心の置き所があるんだよな
安部公房のはとってつけたような演劇っぽさやユーモアを交えてあるから恐ろしい 埴谷雄高いまなら読める気がする
しかしまあ刺激が強そうだな 『ドグラ・マグラ』や『虚無への供物』は今読むと割と単純なエンタメ小説に感じる 題材や描き方、構造が凝っており奇抜なだけであって
それほど深く思索的というわけでもない
読者のことを考えてしっかりと分かりやすく書いている ジャイナ教の究極スタイルは衣食住を捨てて呼吸までやめるところにあるのか
それで生きている人がいるのだからすごいな 生の苦痛に対抗するには効果的な方法ではあるな
誤魔化しがないから 人間が生きる意味?について考えていると大体そのあたりに落ち着く
ほとんどの「夢」はかなうことなく費える
虚体を実現するなんて、ばかげたことによく挑戦したな
ゲーテも「ファウスト」みたいなばかげた小説に60年の歳月を捧げている 生をまともに謳歌したいならば信仰をもたなければならないのだろうな 日本の学校は教育の水準が高いといわれているけれど
信仰については教えていない
本当は信仰の自由なんて曖昧なものは無い
信じるか信じないか、の二つしかないからだ 日本では高度な習慣社会が形成されているため
べつに宗教をもたなくても生きていける
ただ、盲目的に習慣を守らなければ生きていけないのだから
習慣を信仰しているともいえる 日本人は「差別」は好まないが「仲間はずれ」を好む
これは何かというと「日本人」が擬似的な仲間だからだ 安部公房や埴谷雄高は幼いころ海外で過しており
戦時中という厳しい状況があったにせよ
日本人による醜い差別行為をいろいろ見ているという
そのときの体験が小説の内容には反映されているのだろうな 俺は日本で生まれて一歩も海の外に出たことがないからな
完全なる辺境島国の田舎者だ
差別なんて知るわけもない 文字を使って何かを表現している以上は必ず時代性というのが反映される
安部公房は時代性さえも消し去ろうとしたのか 時代によって自分の作品が古臭くなるのを恐れていた星新一は
壁に常用漢字の一覧を貼り付けてそれ以外の漢字を使わなかったし
単語も少し時代遅れになると改訂のたびに変える努力をしていた 『声の網』に出てくる宇宙論は今でも新しいなと感じる 『声の網』は近未来のディストピアを題材にした中篇小説だ
情報網の発達に支配されていることに気付かない人間の姿を淡々と描いている 40年以上前の小説だから少々古臭さはあるものの
ネット社会の情報爆発とその後に起こる社会の変容について言及している(ように見える) いかにも星新一らしい話だな
表向き淡々とマンションの住人にまつわるエピソードが並んでいるだけだが
背後に人とも神とも呼べない不気味な存在が見え隠れする ネットをやっているとよく機械が自動的に行っているのか
人間が手動でやっているのか分からないような不気味な宣伝の繰り返しを見かける 大量の情報を目の前にすると人間の悟性は簡単に自主性など放棄する [情報の海]という表現は悟性による苦肉の策だ
海に例えることで広く泳げるような錯覚に浸る 情報は適宜制御・遮断しなければ扱うことができない
情報化社会ではこの制御と遮断だらけの世界に人が巻き込まれていく
コンピューターのプログラムをまともに扱えない人間は巻き込まれるしかない 『声の網』ではインターネットではなくお電話だが
お電話も情報の制御技術がなければ成立しないからな
お電話を使っている時点で既に巻き込まれているといえる 星新一というとどうしても昔のダイヤル式電話のイメージがあるからな
かしこまって「お電話」と言いたくなる
日本ではほとんど使っている人いないだろうな、黒電話 ふりーむのゲームにはかなり多い
ディストピア的な話が タイトル ワタ氏のパソコン
畳の上に寝転がっていたワタ氏は、ふと思いついて起き上がり
パソコンの電源を入れた。
コーヒーの入ったコップを片手にワタ氏は
インターネットの検索サイト「Google」を使って
文字を打ち込み始めた。
ワタ氏の検索した内容はこうだった。
「人生の履歴 消す方法」
おわり よし、こいつを日本文学大賞に送れば
ノーヴぇる賞がもらえるはずだ でも『声の網』の世界でもコンピューターは普及していて
ティーチング・マシンというしろものが登場してくる
「インターネット」という概念がないだけの話だった
お電話を使った情報収集が行われているだけという
今でも自動音声を使ったアンケートだの世論調査だの
お電話で普通にあるがな 科学の恐ろしさは、発達するほど学問知らない素人から思考力を奪い去っていくこと 戦後日本には観念や実存主義にしか生き場のなかった作家がけっこういるな パスカルはデカルトの思想を許容しなかったという
パスカルはモラリストとしても有名で人間観がとても優れていた
近代社会の基礎にはパスカルではなくデカルトの思想が根強く横たわっているからな 近代日本の仕組みをいくら空虚に感じていても今がスタート地点のようなものだから
これから犠牲をものともせず淘汰はどんどん進んでいくだろう 人工知能が人間の思考できる領域をすべて奪い去ればそれでいい 思考以外の領域から何かをひねりだすための準備をしなければならん せっかく手に入れた抽象化能力を人間はロクでもないことばかりに使っている 今、生まれて初めて谷崎潤一郎を読んでいる
よく近代日本文学の最高峰といわれてきた人だ
この人の文章力はガチですね
ガチでレベル高い 美しいというよりも淀みの無く力強いきっちりした文体 一文一文が長いので乗れない人は乗れないだろうなこれは ガチガチのガチだなこれは
今までなぜ読まなかったんだろ 夏目漱石のような堅苦しい文章のイメージを持っていたから避けていたのだ
夏目漱石はいつ読んでも真面目臭く退屈 夏目漱石は真面目で社会における人間性に対する目線ばかり追求している
そういうのは俺には退屈なのだ 退屈なほうが今は良いから夏目漱石を読むべきなのかもな なぜ退屈なことをやっているのかというと
円城の小説の刺激が強すぎたからだ
これにイライラきた反動で退屈なことをやっている 体調も精神状態も悪い影響もある
刺激の強いことやると心臓が苦しくなる 以前はグロ動画をたくさん見ていたが
今はウクライナ21を見ただけで胸が苦しくなる 人が死ぬ動画は刺激が強く胸糞悪くなるからだめだな
以前は甘えている自分にストレスかけるために見ていた 荒んでいるときはパソコンの履歴にエロサイトと2ch以外何もない
というような状態だったな スティルネル 『唯一者とその所有』
エゴは自分にしか支配できないということですね 谷崎潤一郎今まで知らなかったのはさすがにクサハエル 谷崎のあとに夏目漱石を読むとぎこちのない悪文に見えてくる 谷崎潤一郎に初めて触れたショックが大きくて
円城ストレスが少し緩和された
俺は影響を受けやすい妄信的な性格 今度は谷崎ストレスかもしれん
あまりに日本語が凄すぎて 言葉の限界を見極めて正確無比なリズムで
自分の書きたいことを滞りなく書いている
無駄な要素が見当たらない
それでいて緊張感もさほど感じさせない読みやすい文章
驚愕だな 文学だから堅苦しく形式ばった雰囲気はあるけどな
文学だから仕方ない 円城のショックを克服するために安部公房と谷崎を読むか 「卍」というレズビアンの倒錯愛?を描いた少しエロティックな映画があるが
これの原作が谷崎だったんだね
知らなかった 圧倒的に上手い日本語にもかかわらず内容がけっこう偏執的な
愛の世界だったりするからな
これが大人向け小説といわれる所以か >>536
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`´ `‐' ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`‐'  ̄ ` `´ `ー' `ー───-′ 国語の教師がみんな谷崎くらいのレベルだったらいいのにな 漢文や江戸文学の伝統も引き継ぎながら欧米の明晰な文法も巧みに取り入れてる
ともかく日本語のレベルが通常考えられる域を超えていた 言葉選びの繊細さや発想の大胆さだったら芥川龍之介に軍配が上がるがな
どうもこの谷崎という人は俺の知っている文学のイメージとは異なるタイプの作家だ
何でもこなせるらしい 『歯車』を書いているときの芥川は夢と現実が渾然一体になったような状態で
ある種文学を超えたような迫力あったが 谷崎は東大に入ったが学費未納で中退になってるな
何だそりゃ 和辻氏と組んで何かやっているな
和辻氏はもう日本の学問界では超一流の場所までいった人やねんな
知らない人はいないだろう 俺も本はあまり読んだことないけど名前はずっと知っていた 谷崎潤一郎に初めて触れたショックが大きくて
円城ストレスが少し緩和された
俺は影響を受けやすい妄信的な性格 かつて俺はブギーポップを読んでこれが近代文学の最高峰だ、と思っていた
よく考えたらラノベだった 上遠野浩平は明治文学好きだったなそういえば
おそらくゲーム世代に対して文学的エッセンスを交えながら
面白いものを提供しようとしていたんだろうなと思う
ラノベの一言で済ませるには惜しい
なにか一朝一夕ではできないような切実さもこもっている 今はもうブギーポップも空の境界も知らないような世代が
変なラノベもどきを量産してるからな
俺がついていけたのはSAOやりゼロまでだった オタクもやってるときはそれなりに楽しいけど冷めると割と悲惨 人工知能がつくった星新一もどきのショートショートを読んだが
思ったよりも星新一だった・・・ 谷崎は原稿を書くのに心が落ち着くという理由で毛筆を使っていたらしい
今は原稿というとワープロかパソコンが当たり前で
賞などは手書きを受け付けているところを探すほうがしんどいくらいだろう
技術の発達は良い習慣を壊してゆく fateの劇場版が映画で人気1位とか
すげえ時代になったなあ
fateなんか昔はマニアオタクの慰みに過ぎなかったのに 虚淵は割と好きでfate/zeroはついていけた
goだのアポクリなんだのはさっぱりわからん しばらく谷崎を読むか
この人はほんとうにレベルが高かった 三島由紀夫がよくもてはやされているけど
あれは何かというと無理矢理純化された美しさで
ちょっとイビツさを感じてしまう 芥川と文学の芸術性について討論していたらしいが
方向性がまるで異質だからな
谷崎はプロット派で構成が完璧
芥川は閃きの天才タイプだからそこまで構成には拘らない 谷崎の生前のインタビュー音声があったから聞いている 芥川は最初から筋書きが全部頭の中に浮かんで
どのシーンからでも描けるし途中でいくらでも改竄できたらしいな 谷崎の場合は筋が中々定まらず試行錯誤しながらじっくりと固めていく このインタビュー、もう晩年のものだな
70代中盤くらいか
大分開き直ってる感がある 谷崎の『鍵』を読んでるがこれはもう迫力が並ではない なにか得たいのしれない迫力があるな谷崎の日本語
新旧の文体が違和感なく融合している・・・ 日常の些細な偏執的なところでも圧倒的な筆力で書いてあるな
しかも嫌味にならないように分かりやすく 谷崎をずっと読んでいた
すげえな
超越してるよこの人 夏目漱石や芥川が日本のトップだと思っていたが上には上がいるものよ・・・ 内容的にはわりと変態なんだが日本語能力に限ると間違いなくこっちが上 川端康成のようなお手本のような美文というわけではない
一息つくのに長々としたリズムがあるのでなれるまでが少し読み難い 何十年必死に勉強しても俺には到底書けないな、こういう明晰で自然な流れをもった文章は 音のレベル、漢字のレベル、ひらがなのレベル、文法のレベル
どれをとっても違和感なく合致している おそらく太平記や江戸文学、漢文、古語のたぐいをしつこく読んで
音や見た目で覚えてから近代の文法を身に付けていったのだろうな 俺は文学あまり知らないからショックだっただけでまだ上がいるかもしれんな 青空文庫の明治・大正文学の作家は昔から割と読んでるけど
なぜか谷崎は避けていた
ビッグネームを避ける意味がよくわからんのだけど 鴎外や太宰もすごいと思ったけど性に合う文章ではなかった 俺は妄信的だからすごい作家を見ると変に勘ぐってしまうな 俺はどうも内容よりも迫力のある文章、自然な文章を読みたいという欲求のほうが強いな
内容と形式を分けている時点でアレなんだが 文章能力の低さに異様に劣等感あるからな俺
どうしてもすごい文章にあこがれてしまう ずっとなれない文章を読んだせいで精神状態が悪化している 一気に読むとだめだな
刺激が強すぎて脳に血がのぼって胸が苦しくなる 谷崎の晩年の作品は何か表現の自由だとか解釈の自由を許すだとか
そういう雰囲気ではないな
これぞ文学、という威圧感がある 自分の人生観を凝縮したものを書かなければいけない、という美学を持っているのかもな
インタビューでもいってたが、40歳未満で作家目指しても完成したものはできない
みたいなことをいっている
自分の人生に対する考え方が固まってからが勝負なんだろうな 谷崎の文章はただ圧倒されるだけだ
あまり長々と触れていてはいけないのかも 夏目漱石は堅苦しいが共感の余地がある
芥川もそうだな
繊細さと葛藤の形跡を残しているから共感の余地がある
谷崎にはそれがない
ひたすら圧倒 >>597
朝勃ちは高校生までしていた
それ以降は無い 文明社会はそれだけで不健全だからな
体制側は性欲のコントロールで経済効果出したいんだろうけど
近代社会は国家運営自体を経済に頼っているから 資本主義は無限の欲望追求に真髄があるため
性欲までコントロールかけなければならない 近代システムに生活をあわせようと思えば
歳くっても性欲を適度に維持していたほうがいいのかもしれん 谷崎のすごさは美文ではなく伝統的な文体と最新の散文スタイルを
違和感なく完全に融合したところだな 夏目漱石が小説を本格的に書き始めたのは50歳手前のことで
そこから10年程度書いただけである
完全に自分の人生に対する価値観が定まってから取り組んだのだろうな まちがえた
49歳に亡くなっているから39歳あたりか 生物学の論文がとにかく退屈で意味不明だな
生物学の論文を読んでいくぞ 観察と考察のみで感情の入っていない退屈な論文のほうがいい 他者の感情に飢えるというのはやはり成長願望のある内だけだな
止まってしまうとだめになる 他者にあまり頼ることなく成長したいと願うならば
厳しい自己鍛錬を続けるしかない これは多分その通り
>つまりマゾヒストは、実際に女の奴隷になるのでなく、
そう見えるのを喜ぶのである。見える以上に、
ほんとうに奴隷にされたらば、彼等は迷惑するのである 株やってる奴って決まって目が死んでるよな
あいつら金のことばっか考えてて人生損してると思う
極め付けにすげぇケチで付き合ってらんねーわ
死ねばいいのに >>622
1日平均600万稼げたらそうでもないがな 資本主義経済では金の動きが人の動きを支配統制している面があるからな
グローバル視点で金の動きに敏感な人は株やればええんでねえの、と思う 株で確実に利益出すには相当勉強して視野を広めにゃならんから
俺はやらんけど これからは人工知能で予測して株やるのが賢いのかもな トレードを人工知能でやると投資家が困るよな
でもそれがいずれ主流になるだろ オレの痴人は儲けてるのに
この世の終わりみたいな目をしてるぞ
親戚のクソジジイも同じ目つきだった >>629
たぶん金の価値が分かっていないからでは 俺の親父は昔金持ちだったが全部ギャンブルで使いきったからな
金を持つというのは相当なプレッシャーになるらしい
見ようによっては金は命よりも重たいからな 金のためにどれだけの命が無残に散っていったと思っているのだか 金の価値が分かっている人は儲けた分きっちりと未来に投資するからな 人間に許された唯一の自由は夢想だからな
ジャイナ教では戒律だけを守っていればあとはずっと夢想状態でいられる 衣食住を一定水準で保つだけでも文明としてみれば相当なコストがかかる しかし文明生活に慣らされてしまうと
住居を捨てることもままならん 非暴力不服従で有名なガンジーもジャイナ教だった気がする ガンジーが平和主義者というイメージあるが
あれは文明の重圧から自由になりたかっただけのような気がする 平和主義者の一般的なイメージはまず人を愛しているか否か
つまり人間中心主義の観点から見るからな
ガンジーは人のことを半分ケモノのような存在だと認識していた 普遍や真理といった観念を生み出したのはキリスト教世界だが
キリスト教そのものは人間の弱さを根底から見据えることはできず
残虐なことを繰り返してきている 日本でジャイナ教といってもピンとこないな
スーフィズムもそうだ
水のみ百姓くらいの生活が一番楽なのかもしれない 日本がアメリカに支配されたと感じている人が多いな
アメリカの自由主義を取り入れたのは日本の意志ではなく
押し付けられたからだという 日本人の外的自我と内的自我が分裂しはじめたのは
ペリーの黒船が来て以降だ、という人もいるな
これは岸田秀などの影響もあるか 昔の日本は中国の文化圏に属していた
しかし島国であったがゆえいわゆる「属国」にはならなかった
そのお陰でわりと自由でのほほんとしていられたのだと思う
日本が島国であることには感謝している 日本小さいなとよく観念的に感じるけど
日本地図を拡大して目で追っているとかなり広く思える 人は無限を夢見ることができるが死への不安、生に対する虚無も
同時に抱えている 有限の世界で己の死を見据えて生きるだけの強さが人間にはあるのか
というと無いとしかいえない 有るものにしか頼らないのが人間
無いものはどうするのかというと
無理を承知で生み出すほかない >>657
よく洗い流せばそんなに悪くないとも思える ∩__ _∩
| ノ ヽ'''';,,
,,.....-| ● ● | ) ,,''´^'^^3、
”” ; | ////( _●_)/,ミ ξ,'_,;'_'',、,3
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄) ,,..-'''⌒';, |____j
 ̄ ̄ ̄ ̄ / ,,..-.';;-' |
( ,,...-''";;., ";,..-'"
|"”” _,.-|; ;|
|_,,...--''" "'-'' https://www.freem.ne.jp/win/game/16032
これをプレイしていた
内容が荒唐無稽(前衛的ともいえる)すぎて何ひとつ理解できなんだ 昔の俺もこういった電波の入った性格で誰にも理解してもらえなかった記憶がある ずっと意味不明のギャグを連発していないと精神障害を発症してしまうような
ギリギリの性格だった 空気読めない人間はギャグでも連発していないと窒息するからな
日本語は構造上すぐに息詰まって窒息する コミュニケーションの不全感、空気の窒息感を避けるために
意味不明のギャグを連呼 擬似的にコードスイッチングをしなければ日本語は中々スムーズにいかない
コードスイッチングというのは一つの文法の中に複数の異種言語を織り交ぜる方法だが 谷崎潤一郎の小説の一説だけど
これは今でいうパニック障害のことだな
精神疾患の正体がよくわからなかったころは説明にさぞ苦労しただろうな 人間の論理的思考は5分も持続しないというのは本当だな 森鴎外、志賀直哉、を読んでいる
鴎外は国からお金をもらっていた高級官僚で文学は趣味らしかったから
文体は良いけど美談っぽく語るのが多い 志賀直哉は掌編「灰色の月」だけ読んだ
これは本物だな 太宰治は本音の嫌悪感が入った文壇批判の本を書いている
これで志賀も攻撃していた 谷崎のあとに志賀の文章を読むとすごい安心感がある
谷崎はひたすら言語的観念の迫力ごり押しだからな
志賀は素朴な描写対象そのもののリズムに拘る作家らしい 白樺派は単にキリスト教に憧れる人道主義の集りかと思っていたが
そうでもないな アララギ派もいくつか読んでおくか
同人にあまり興味ないんだが アララギ派はつまり生活密着型近代人深層心理分析文学ってことか 白樺派が普遍的自我を模索する素朴な人道派
対立する意味はよくわからないが相性は確かに悪そうだ まずアララギ派の支柱となっていた三人の小説を読んでみるか 大正デモクラシーあたりの文学だからあまり濃さは感じない 明治時代には封建制のモヤを打ち払うため
西洋文明を中心にすえた自我の確立を叫ぶ人が多かったというが
大正時代に入るまでこの精神は根付かなかった 二葉亭四迷の『浮雲』は読んでおいたほうがええかもしれんな・・・
時代と同時進行で近代的自我の目覚めと挫折を描いているというらしいから 中世の日本では日記文学が流行っているな
インターネットのブログ文化も日記文学の延長なのか(酷 ニュースだのブログだのはある種安心感を得るための情報である 自分について一番知りたいのだけどこれは意識するほど不快になる 自分についていくら考えてもただ単に気持ち悪いだけなのだ 夏目漱石は偉人でも何でもない
義務感、正義感は強かったのだろうけどな 夏目漱石は有力者の息子として生まれたが政治の混乱に巻き込まれて
養子に出されてそのあと苦労したというのは確かなんだろうな
苦労して身に付けた人生観を文学として十年間の間に吐き出した 鬱病にもなったし怒ると家族にも手を上げていたという 俺の親父も幼いころに養子に出されて親の愛を知らずに育ってるが
暴力的ではなくいたって善人な振る舞いをしてきたな
ギャンブル依存は死ぬまで治らんのだろうけど 親から捨てられたという意識にずっと苛まれているんだろうね
今でも 俺は自分のことについて考えると吐き気を催すほど気持ち悪くなる
親について考えると刺し殺したくなる
これはずっと変わらないだろうな 幼少期から人を刺し殺す妄想を頻繁にしてきたのが今になってマイナスの影響として
出ているのかもしれん
とにかく心臓の調子が悪い
実際には刺し殺すのは怖くてできないんだけども
妄想の中ならば躊躇なくグサグサやっている
いつも返り血で真っ赤だ
妄想の中の殺人鬼の自分は恐ろしく気持ち悪い顔してる 俺は愛憎感覚が捨てられないからただ人を憎むだけってことができない ジャイナ教に入りたいな、とよく思うが
文明社会に慣らされていて衣食住が捨てられない 捨てられないものを多く抱えているうちは禁欲主義なんてただの慰みにすぎないからな
三日も断食すると腹へって弱るし 妄想の中でよく禁欲生活をしている
文明に慣れている現実の自分と比べると滑稽すぎる >>708
昭和が一番長かったね
平成はなんか空虚なイメージしかない 大衆文化といえば昭和
昭和で成熟したものの上澄みが平成で持て囃されただけ 新しい年号はどうなるかわからんが
個人的には「調和」がいい
まずありえないだろうがな 調和元年とか胡散臭いな
動乱の歴史を無視している感があって
それをいえば「平成」もそうだったけど 日本の文学では「自然主義」がぜんぜん自然じゃないんだな
だから反自然主義ってのが出てきたのか 西洋の自然哲学〜科学世界の流れを日本に適用しても無駄なのは当たり前か 自然主義の持つグロテスクさを取っ払ったのが夏目漱石や鴎外だったのか 文章読むのだけはかなり速いな俺
東大法学部クラスの2倍くらいの速度でガシガシ読んでいく
そのかわり内容頭に入らんけど 露伴の『運命』のような文語体のかたっくるしいのはさすがに速読できん 文語体というのは公文書などで使われていた格式ばった文体のこと
明治時代には言文一致運動といって、口でしゃべる言葉(口語体)を
主軸に据えた文学が発展している wikiを見たら文語体も元は平安貴族の口語を基礎にして作られたものだったな 文学の知識が俺は皆無に等しいからいちいちwikiで調べている 国語の成績よかったけどそれはその時々に必要な事柄を
覚えれば済むからであった 国語だけは偏差値70以上平均であったな
理系が壊滅的だった 気に入ったのは谷崎潤一郎と志賀直哉
志賀直哉短編ちょっとしか読んでないが 暗夜行路の文庫本買ってみるかな・・・
あと四年ほどで著作権切れて青空文庫に載せてくれるだろうけどな 谷崎と志賀は割と対照的
志賀は素朴な感覚でリズム重師 芥川はリズムが不自然だけど言葉選びが達者で繊細
若いのに物知りで思慮深い 芥川は20代で常人の3倍くらい精神年齢高く感じる
60代の熟練した作家が書くような達者な文章を書く しかし全体と細部が不均衡な感じのリズムで
読むのが微妙にしんどい 酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮さん、非常に酔つてゐるでせう 平田学派では実証主義から逸脱して、神秘主義が入っていたらしいな
やはり死後の魂の行方について不安ということか 逸脱した国学の派閥が攘夷運動を積極的におこしていったということは
漠然と知っていたが詳しいことは知らない なんで文学を読んでいるんだろうな俺
あれ?理系学問じゃなかったっけ
うーん・・・
意味がわからん これは理系なのか?文系なのか?SF?それとも前衛芸術・・・?
といったような
円城のデビュー作に対する疑問から入っているからな それで、五年前の円城のインタビュー記事
「安部公房の路線でいきたい」というのを目にして
文学か!ということになった
しかし安部や埴谷は文学の不可能性に挑んでいたという・・・
これは文系だの理系だのでくくってはいけない話なのかもな 自分が自分であることというのは
人にとって一番大事であると同時に
突き詰めて考えれば一番不快なことでもある
自分が自分であること・・・ ∞ … = jibun = jibun = jibun = jibun = … ∞ 今時アリストテレスがどうとか言ってると英米についていけん 俺は哲学も疎い
大雑把な歴史や有名どころだけはおさえてるけど 総合学問の一分野として古典哲学が位置づけられるだけだろうな ,.r''" ̄``ヽ、
/::::;:ハ:::::::::::::::',
l:{レム! ';i'、!;:::::::::! どようび終わった
|::';‐- -‐-i:::::::|
|:::i,! |r‐、| l,!:::::::l ほんまに儚い24時間でした
!l::i;`r'テ'i"i|::::;、:| >>763
まだ土曜日の24時台やで
30時からが日曜日や >>764
∧∧ プシュッ
(,, ゚Д)o
( つ[]
〜(_つと)
[]c、 ゴキュッ
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/ ノ
(,ノ_,,つつ
∧∧ プハー
(,, ゚Д) =3
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〜(_つと) >>766
土曜日を48時間にしたら日曜日がいらなくなる へえ
志賀直哉って小説の神様って呼ばれていたのか
リズム感がすごいからな リズム感といっても小気味良く読めるという意味ではなくて
描写する対象に見合ったリズムの強弱を弁えている、という意味 なんかあれだな
2chの文学文章力ランキングみたいなのを見ていたら
常連に入ってる面子が定番通りだな 定番ちゅうか、「あの人は絶対上位だろうな」と思うのは入ってる ランキングとかあほくせえ、と思いつつ発見を求めて見てしまった なるほどな
新聞を通じてこういった新しい言葉遣いを覚える人が増えていったのか 新聞の元型は瓦版というもので、これは日本でも400年前くらいからあるんだね 紙の新聞の種類が増えたのは明治時代からだな
海外からの情報が一気に増えていった この円本というのは大正時代に入ってから出てきたものか 岡本直蔵を読んだが何時代なんだこれは
1800年代ってことは間違いないな 岡本直蔵って本の出版者の名前なのかもな
古い文献すぎて作者名がわからねえ 芥川などは古代中国の資料をよく参考にしていただろうな よく考えたら日本の年号って古代中国の歴史書からとっていたんだっけ 五経に載っている字句から選定しているらしい
日本に昔、五経博士ってのがいたな 日本にいたというか中国から渡ってきて日本で教えていたのだったか 文化大革命はひでえな
国語の便覧に何人か中国の作家の紹介が書いてあるのだが
死に方については不明で書かれていない
文化大革命の際「死体で発見された」としか書いていない 迫害の末自殺に至ったのか暴徒に殺されたのかも分からんという 俺は共産派だけど反資本主義運動の愚かさは知っている
集団でやるほどロクでもない悲惨な結果を生み出す プロレタリアが集団になると自我を持たない伏兵と化すからな 明治維新が正しかったのかどうかよくわからないけど
最近その辺りについて語る人が増えているのかもしれない 戦後の日本はともかくMIX文化が幅をきかせている
矛盾したことを言う人間で溢れ変えることになる オタクやっていた頃には気付かなかったがオタクってものすごい自己矛盾抱えてるからな アニメもバカにはできなくてたまにすごい感性のひらめきや迸りを感じることがあった
超現実的というかただの妄想で済ませられないものがあった しかしオタクアニメはしょせんオタクアニメなのだ
枠を超えることが決してできない オタクには反体制の衝動が根幹にあって
衝動の自己相対化運動の過程で優れたアイデアが沸いてくる
という仕組みになっている
これは今では薄らいだ感覚だが確かに伝統として残っている
萌えの感覚で誤魔化すのがその証拠だ
真面目に徹しきることがオタクアニメではできない かつての反体制運動の名残だからなオタクという感覚は オタクも産業と化しているからな
無理にでも面白さを押し出して大勢を巻き込まなければ成立しない オタクらしいオタクは第二世代までで
今の世代は実感ないだろうけど
第二世代オタクはまだ作り手にたくさんいるからな
アニメを見ている時点で巻き込まれているといっていい 京アニ作品を絶賛している人などは完全に巻き込まれている 京アニの観念操作は巧妙だからな
けいおん!から達者になってる
あれには第二世代オタクが多く関わっている 下らない運動に巻き込まれるのにうんざりして
俺はアニメ見るのをやめた
以前はあほみたいにアニメ見まくっていた ニトロプラスやタイプムーン辺りに嵌っているなら
まだマシである
あれはオタクの中ではかなりの優等生グループ しかしまどマギ以降は難しくなったね
虚淵の影響でニトロプラスも使い古しのゴミ扱いするオタクが増えていったから
どんどんミックスの仕方が高レベル化してゆくことになる 感受性のレベルではオタクってかなりすごいんだよな
仮に自分の意見を持っていなかったとしても見る目だけはあるからな
感受性のレベルではな
どんどん要求度が高くなっていく
それで出てきたのが最終兵器のけもフレである それでもけもフレは分からん人にはさっぱりの世界なんだろうな オタクの根幹が反体制であることを考えると納得の出来である
感受性のレベルでは文明社会に完全に飼い慣らされているので
ああいった野生だか文明の所産だか分からない表現にせざるをえない ポケモンgoの場合はもっと複雑だけどもけもフレは分かりやすい ツチノコが文明社会の所産である地下遺跡が落ち着くからといって
住み着いていた
ツチノコは遺跡で文明時代の通貨を見つけて大喜びする 文明が終わったあとの寂寞とした環境で野生動物が種族関係なしに
あっけらかんと遊んでいるわけである
俺からみるとほとんど虚無に近い世界なんだがな・・・
なぜか明るい萌えアニメに仕上がっていて子供にも受けている オタクは楽しいけど自分が思っている以上に矛盾が強固だから
ずっと盲目状態を演じ続けなければならない
神経をそこまで削りながらオタクアニメを見る意義が見出せなくなった オタクにはあまりロクな主張を持っていないことが多い
主張ないけど自己意識は強いので何某か自分のやっていることに
意味を見いだしたくなり観念的な論争を好むようになる これの根幹には盲愛が絡んでいる
オタクは盲愛を他者から押し付けられているという意識が強い
構造でいえば盲愛を払拭するために別のものを盲愛しているということである 自己愛とも他者愛とも違っていて
単に盲愛である
未分化の感覚をもてあましている
萌えはそこへつけこんでくる 未分化の感覚を巧妙に活かしたアニメ界のボスが宮崎駿である
あれは完全なる詐欺師だ 宮崎駿は技術の卓越した詐欺師
嘘だと分かっていても巧妙で騙される
子供騙しのプロ 共産に挫折したエネルギーをすべてアニメ作りに注ぎ込んできた
反体制タイプのジジイクリエイターである ポニョに高い芸術性や哲学を感じて何度も繰り返し見て泣いていたことがある
毎日何度も何度も繰り返し見て泣いていた
ポニョの続編を作るならまだ宮崎駿のことを好きでいられただろうな
宮崎駿自身もポニョの続編を創りたいらしいが周囲が許さなかった
ジジイの幼稚な妄想大概にしろ、と電通が圧力かけてくる 風立ちぬ、という中途半端な青春体験を綴ったオナニーアニメを作ったことで
宮崎駿にも見切りをつけた
ところどころの描写はさすがだな、と見惚れたけどトータルすると
風立ちぬは駄作だなと思った
多くの子供には極めて退屈だろうなと思う
デモクラシー時代の陰惨な描写など描く必要性を感じない 最後まで子供騙しのプロを貫けば俺は宮崎駿を嫌にはならなかったな アニメで現実の時代性を感じる表現をわざわざ用いる意味がわからない
それをいえばピングドラムもそうだがな
あれは美学を際立たせるための半分意図した露悪趣味だから良しとしている 宮崎駿は複雑な境界の問題を様々なイメージを駆使して感覚的に可視化するのがうまい
ポニョではそれが理屈関係なくエクストリームな形で出ていた
絵本のような雰囲気に拘ったというのが功を奏したのだと思う 境界をものともせずにキャラが動き回る物質的な境界、観念的な境界
時代区分にまつわる境界をどんどん飛び越えていく
ラストは生死の境界まで飛び越えることを意識させる
実際ラストの方は生きているのか死んでいるのか
考える暇も与えないくらいの勢いがあった アニメなんか、子供にでららめ教えるな!と親が苦情いうくらいでちょうどいい
風立ちぬは大人にも楽しんで欲しいという欲が少し出たのかもな 志賀直哉を読むかどうかずっと迷っている
小説の神様らしいからな
神様のつくったブツに触れるのには勇気がいる 大切な未来、略して タライ
未来に憧れて過去をタライ回し >>833
もう選挙いかない
最近までいってたけど 以前選挙のポスター貼りを昔よく手伝わされていたな
市のスポーツサークルに通っていて
そこのボスが市政関連の人と懇意にしていたからか
俺は政治興味なかったからその弱みによく付け込まれていた サークルの先輩に2ちゃんねらーがいて
よく2ちゃんねるの話をしていた
現実でも2ちゃんねるの話できるんだな、と不思議に思っていた
でも大体はAA板系のネタだった
しょーもないちんこ音頭とかモナーがどうたら
ゴルゴだのフラッシュ系のネタで終わる
俺はそのときからなんでもあり板にいたがその話題には触れなかった ニュースのコラネタとか録音したデータをもらったりしていた さっき「当たり前体操」のコラネタをニコニコで見ていた
微妙に笑える シュールなコラネタは昔から好きだったな
でもツイッターの不謹慎クソコラ大会は嫌いだった
微妙に笑えるくらいでちょうどいい
ネタは度を越して笑えなくなればおしまい たぶんこの短編、中学か高校の国語教科書によく載っているはずだな 政治だったら共産以外ありえねえからな
でも共産は今の時点で現実的ではない 現実的な問題に着手するのが政治であるから
自民党がやればいいわけだが
俺は共産以外に興味がないから票は入れない 学問を無償化&強化する方向に進むならば英米に追随する以外にないからな 俺は学問が大事だとあまり思っていない
出来なければ時代に置いていかれるだけの話だからな 医療は必要だろうけどな
産業発展のために勉強してもな サイバネやバイテクの領域も医療と結びついてるからな
仕方あるまい 知覚工学の論文をさっき読んでいたが
あほらしくて白目向いた 非言語の領域も人工知能が計算するようになると人間に出来ること
だんだん少なくなるな 今は視覚と運動学習強化しとるが
これは50年間できなかったことだ
そのうち暗黙知の領域もマスターしはじめる
ただ人工知能は脳みその模倣にすぎないため
人間の潜在的にもっている閃きの領域まではまねできんだろうけど しかし人間の第六感とやらも実際は大したことがない
宇宙の構造一つわからんのだから 人間の自己・非自己の領域まで模倣できんだろ
生物には免疫系という絶壁があるからな ウイルスや免疫機能が作動させている暗黙の領域まで計算しはじめるとやばいかもな 新生児一人作るのに必要なコドン計算はたかだか知れているらしい 満面の笑みを浮かべた異常者が監視カメラに映っている動画でも見るか 満面の笑みを浮かべた異常者が集団で走っている動画は無いかな 満面の笑みを浮かべた異常者がプールに浮かんでいる動画がみたい 谷崎を読むにはかなり気合いが要る
やはり志賀直哉にしよう 何にせよ生物というのは外界との密接なやりとりの上に成り立っているものだから
機械が模倣するには限度がある
しかしその機械が自然と同化する、という発想を書いたのが円城だ 人も悟性の領域では全ての自然をひっくるめて系として見做しているのかもしれない 生物も系としてとらえると有機物ではなく
有機体という表現になる
これは安部公房が間違えたのを分子生物学者に指摘されていた 安部公房の『壁』にこういうのがあったな
満面の笑みを浮かべながら舐めまわすようにして読もう 太宰治って双子座だったっけ
蟹座寄りの双子座だったな
おそらく頭の回転の早い人間だったのだろう 谷崎は獅子座だなあ
威風堂々としていて圧倒的な風格がある 芥川はいわずもがなの魚座
志賀直哉は水瓶座寄りの魚座 安部公房も魚座
埴谷が山羊座寄りの射手座
見ていると文学も大体星座通りの志向性だな カミュはサルトルに論戦で負かされたらしいが
カミュは蠍座だから仕方ない
あの不条理の理屈(シーシュポスの神話)は蠍座特有のもの 俺自身が蠍座だからカミュのいいたいことは筋が通ってなくともなんとなく分かる 柄谷いわく、志賀直哉の小説は「気分」が主人公である 気分だけが対象に乗り移って一人歩きをしているわけである 太宰は己のエゴと格闘して自分を肯定するのが好きだからな
気分が一人歩きしている小説なんて読んでも退屈なんだろう 満面の笑みを浮かべながら気分が一人歩きする志賀直哉の小説を
わたしは少しずつ舐めまわすようにして読むことにしたのだった 志賀直哉は文壇でも権威の最高峰的な場所にいたらしいから
エゴと格闘したい太宰にとってはちょうどいい標的だったろうな しかしアニメのサザエさんが始まる50年も前の小説に瑞々しさを感じるのだから
文学も捨てたものじゃないな
時代をあまり感じない サザエさんって始まったのが1960年代後半で
実はそんなに古いアニメじゃないんだな しかしテレビ自体の普及が1960年頃からだから
テレビの歴史としてみれば古いのかもな
日本でテレビ普及のきっかけになったのは
皇太子の成婚パレード中継を見たい人が多かったからだろ 1926年が昭和元年だ
昭和時代のテレビ文化はせいぜい30年程度か マスコミに社会の木鐸としての機能があったのはおそらく70年代までだ 木鐸というと難しいが要するに社会を良い方向に先導してゆこうという
確固たる気概があった 80年代に入ってからテレビを見なくなった人は結構いただろうな 今でもマスコミには権力を牽制する役割があるが
どこか茶番じみて下らなくなっている 今日も明治、大正時代の政治新聞を読むぞ
読めない漢字が多くて文法も難しく眩暈してくるが
この頃には記者にも本物の知識人が多くいたのだろうな 学問も一通りおさめて文芸でもニュース記事でも戯曲でも何でもこなせる
みたいな記者が多くいたのだろう 国学の歴史だの漢文だの俺はさっぱりだからな
完全に大正デモクラシー以降の庶民洗脳政策に頭やられてる 寺子屋みたいなのがあって谷崎潤一郎みたいな優れた教師がいれば
義務教育の学校やめてそっちに通っていたな
義務教育は兵士育成施設みたいなもんだから俺のごとき軟弱者には厳しすぎた 政治が混乱状態にあると犯罪と事故が増えるからな
茶番の内で済ませるように卑屈な努力をしているのかも 政治の混乱では犯罪率増えて、戦争があると犯罪率が下がるんだよな
おかしなものだ
ハハハ ____
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/:::::::::::::::: || | もしもし、台風でJRが止まって今日はちょっと・・・
|:::::::::::::::::::::::: ∩! ,ヽ _ あいすみません・・・
\:::::::::::::::: | ー ノ
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| ::::::::::::: ゝ__/____i
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(__(__ ヽ⌒⌒⌒ヽ
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`ー' `ー' /
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・ 。/( ●) (●)\ + +
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(_⌒) ・ ・ ||____________ |ま | ̄|
l⌒ヽ _ノ | |\ |___| {}@{}@{}−| る| |
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(_ノ  ̄ / / \`ー―’___
(__^) | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|_| >>909
全裸でマル飲むな!
見られたらバツが悪いぞ 志賀直哉に匹敵する「気分小説」ないかな
まだ志賀自体断片的にしか読んでないのだけど 谷崎と志賀を今まで読んだ事ないのだから
どれほど俺が文学に興味なかったのかってのが分かる しかし共産の票少ないっすねえ
少なくていいんだけどね今はまだ 俺は何年も考えた挙句共産しかありえないという結論に達した
もう今後変わることもないだろう
今の現実にそぐわないだけで長い目で見れば共産なのだ
共産は革命を起こしてはならない
ただ待つのみである この長い目というのが曲者で
おそらく数百年単位で見た場合の話である
だから別に俺が生きてる間に実現しなくてもいいわけだ
それくらいの気持ちで待たなければならない
生きてる間に革命だのなんだの、それはおかしい 最低でも二世代先の未来が明るくなるように頑張るのが正しい 生きてる間に解決可能な問題なんてほとんど無いからな
目先の欲望はある程度かなうがそれだけのことだし
後にはとくに何も残らない 俺は非常に振り回されやすいタイプの人間で
自分の信念などこれっぽっちも持って無いからな
どちらかといえば振り回されないためには共産しかありえない、と
言い換えたほうがいい 振り回されないための方法を考えあぐねる
殆どのことは苦肉の策 オレは麻生太郎が好きという理由だけで自民党投票してきた
麻生氏が逝っちまったら選挙行かねぇや
あと最高裁のやつよく分かんねぇから全員×書いてきたわ
>>915
よく見ると禿げてる人が当選してるな >>924
好きな政治家がいるのは良いことかもね
自分には応援できる政治家など誰一人いない
皆間違っているような気がして 戦後の歴史は全て、何もかも間違えているような気がしてくる
対立構図をでっちあげて、競わせて、上澄みをもてはやす
その繰り返しに過ぎないからな ジャイナ教が人間にとって一番楽だろうな
精神的には
最近調子悪いし宗教などやる気力もないけど
あとは文明が終わるのを待つだけ・・・
下らない人間の時代が終わればそれでいい 破滅的で陰惨な未来も御免だし、今のまま文明を維持続けても
何が解決するわけでもないと思う
俺は既に「待つだけ病」にかかっている 振り回されないために共産一択
楽したいならばジャイナ教か水飲み百姓
文明を嫌悪して人間の時代が終わるのを待つだけ病
まるで現実味なし
助けて志賀直哉! 文学は束の間の心の救いにはなるかもな
時代を超えて普遍的な価値が云々・・・という気はしないが
誰だっけあれソクラテスだったか
「人の一生は短し、芸術は長し」とかいっていたひと
ヴンガクは芸術なのかなあ
あまりピンとこないが
なにがしかの形で生きているのは確かだけども
聖書もある種の文学だしな あー・・・ソクラテスじゃなくてヒポクラテスだったのか
しかも「芸術」の部分は「医学」に相当するらしいな
アリストテレスの第一哲学の時代では「テクネー(技術)」の概念で
医術も芸術も形而上学的に説明がついていたからな 外科医術でもブラックジャック先生くらいのレベルにまで腕を高めると
芸術に見えたりするのかもね 芸術というと、西洋文明の影響でどうしても絵や彫刻のイメージが真っ先に浮かぶ 芸といっても別にパフォーマンスだけのことじゃないからな 習慣の中で身に付けてきた事柄は「知」と呼べるのか
でも暮らしの豆知識とかよくある
ちょっとした思い付きのレベルで 第一哲学が重んじられていた時代には
知の力を信じれば左派で、信じなければ右派という感じだったらしい ここでいう知とは単なる知識のことではなく
人間の認識不可能性に挑むこと、つまり
真理の探究を意味している
人間の認識の力によって世界の真理をどこまで言い当てることが可能であるか
このむつかしいテーマに真っ向から挑むのが第一哲学の役割だった
それより以前は自然や人の観察が主体であったらしい この第一哲学で提示されたテーマはその後二千年以上経っても
まるで決着がつかず存在論や認識論という大きな思想の流れを生み出して
今もなおどんどん拡大・複雑化している
決着どころではなくなっている
真理は一つではなくなってしまったのだ
正義だの真理だのはしょせん人間の概念世界のさんぶつだったのである 概念は自己展開している・・・
真理とは全概念の実現・・・ 過去をあまり美化しないようにしなければな
かつて俺が嫌っていた人間と同じことをしてしまいそうだ 始皇帝が儒学者をたくさん殺したのは確かだが
生き埋めにされたのは儒学者の中でも罪人だけだったはず
何か「皆殺しにした」というイメージで語っている人を見かけた 何の罪状もなく思想が権力の都合に悪いからというだけで排除するのは
ただの暴君だしな
思想犯なんて今時ナンセンスですよ小沢君 社会の中である種の強制力を持つようにならないと
本物の思想とはいえない そういう意味で日本人の「自由主義」はアメリカや欧州とはまるで異質
半分は社会主義だからな 日本は敗戦国だがあまり外国に負けたという実感、自意識を持って生きている人は今時いない 島国だからそう思い込んでいられるだけだ
島国に感謝すべきなのだ ドイツの敗戦処理の仕方は壮絶だったな
おかげでヒトラーのような存在を生み出すに至った ヒトラーはダーウィンの思想を愛好していたが
使い方を間違えすぎだ
フロイトも心理学の使い方が少しおかしかった
要は上流階級のもてあましているネガティヴな意識を
積極的に利用していた 生き場に乏しくなっている金持ちや上流階級の意識を利用すると
思想って結構簡単に流行るんだな、と
しかし廃れるのもそれだけ早い
情報もまた上流から下流に流れていくだけだから 今は情報の制御術が問題になっている
人工知能にスポットが当てられているのもそのため ラルクのHYDEがクロロの恰好でライブしていたらしい
クロロ自体が元々HYDEをモチーフに作ったキャラだというから
分からんでもないが、誰が得をするのかようわからんな
ネタとしては面白いけど 冨樫のプレッシャーが増すからこれはこれでいいのかも 島崎藤村を読んでいる
この人の文章はえらく堅実だな >人間の苦悩によって起ったひとつのオモチャであったが、
志賀流以来、健康にして苦悩なきオモチャの分野をひらいたのである 志賀の小説が優れているのは「気分」を主人公に置くことで
エゴとの格闘の形跡を消し去り我欲を安定・洗練させたこと しかしまだ志賀をロクに読んでいないからな
これは断片的な情報から得た俺の勝手な見立てによるもの 本編に入る前にあれやこれやと妄想して勝手に見立てるのが好きだな
んで、本編に触れるとギャップに襲われる
ギャップとの格闘が面白いのかもしれん 素朴な「気分」への回帰願望
気分ってあまり意識できないからな・・・ 以下wikiから抜粋
>気分概念は実存主義哲学において重要な概念となっており、この場合、
もはや単なる我々の知覚や行為に付随する
心理的現象を意味するものではない。
ハイデッガーの場合、気分は、決して目立たない仕方で我々自身の
存在を規定するものであり、了解とともに現存在の開示性を構成する
本質的契機として位置づけられている。
たとえば、人間存在はその無根拠性ゆえに未来に不安を抱くが、
この不安こそが、現存在を世界内存在へと孤独化させ
その自由存在へ直面させる根本的気分であるとされる。
この気分は、自発的に惹き起こされるものでも外部の刺激に
自動的に反応するのでもなく、世界内存在という在り方として
世界内存在自身から立ち上がってくる。
そうして、私たちが世界の内で何ものかに出会い、
それに注意することに先行して、そうした個々の出会いの場である
世界全体を開示するのである。
こうした事態について、ハイデッガーの「聴くこと」についての説明が
わかりやすい。すなわち、「我々が聴くときというとき、
耳が受け取ったものに何かを付け加えるのではなく、
耳が何を聴き分け、いかに聴き分けるかということも、
我々が聴くものによって既に調子を合わせられ(〈気分づけられ〉)、
決定されている」のである(『存在と時間』87頁)。 以下wikiから抜粋
>投企(とうき)とはマルティン・ハイデッガーによって提唱された哲学の概念。
被投という形で生を受けた人間は、
常に自己の可能性に向かって存在している。これが投企である。
人間というもののあり方というのは、自分の存在を発見、
創造するということである。そのために、我々は
現在から未来に向かって進むということであり、
そのために自分自身を未来に投げかけていくということが
投企というわけである。
我々、人間にこれが可能なのは意味を理解することが
可能なためであり、このことから物事の知覚や意識が構成されていく。
そのときに自分と関わりのあるものが存在するということであり、
関わりのないものは存在しないということになる。
例えば社会に大勢の人間が存在しているとしても、
その中で目に付くのは自分と関わりのある人間のみであり、
その他大勢の人間は意識することなく
存在していないも同然といった形にである wiki抜粋
>了解という語は、19世紀初頭以来のドイツにおいて、
精神科学一般の自己反省や意義をめぐる議論のなかで、
歴史や文化形象に向かう人間の基本的なあり方を表すものとして、
哲学的概念に高められた。
そこでは、自然科学における「説明」概念との対比が強調されている。
ディルタイは、文化形象を人間の心的体験による表現として捉え、
それをわれわれは価値体系との連関において理解/了解すると考えた。
そして、その際の範型が、個人が自己の歴史を振り返って
一つの統一的な意味を作り上げる「自己了解」である。
了解の基盤は、個別的、個性的に実現している
われわれの生の普遍性なのである。
ここにおいて、自然科学の説明にみられるような
「客観的」知識追究の態度は放擲される
>ハイデッガーは、この了解概念をさらに拡大し、
これを気分とともに世界にかかわる現存在のあり方、
その自己遂行の基本的様態(「存在」了解)として捉えた。
ハイデッガーにとっての了解は、たとえば道具の
意味了解にみられるように、その使用能力をも意味するものとして、
プラクティカルな性格をもつ。
その点は歴史に関しても同じであり、歴史の了解は、
現在における世界定位というプラクティカルな性格をもつ wiki抜粋
>世界内存在(せかいないそんざい)とは、
マルティン・ハイデッガーによる哲学の概念である。
これは人間が実存することの意味であり、
人間が存在する形態の根本構造を意味する言葉である。
人間というのはいかなる反省にも先立って存在し、
しかもその多義的な現存を各自が引き受けるということによって
本質的に、そして何らかの世界の内において
この世界を理解しつつ存在せざるを得ないということである >いかなる反省にも先立って
これが曲者だな
ヘーゲルでは自己反省と自己意識の本質は切り離せない 太宰治は頭の回転早いからな
日本人の普遍的な「気分」なんてもの退屈で耐え難かったろうな 大正時代に文壇で影響力の高かったのが志賀直哉で
鴎外や芥川や夏目漱石を凌いでいたらしい
これもデモクラシーのような不自然な運動が流行ったおかげで
自然な「気分」への回帰願望が高まっていたのかもしれない プロレタリア文学を害悪視するのはなんとなく分かるが
プロレタリアになにか悲哀のようなもの感じてしまうからな・・・
うーん・・・つまるところ演歌のような感覚か 日本はともかく空気読めない人間に異様に厳しいからな
なんだろうねこれ
差別とは違う
「気分屋」とかよくいうけれども、これも空気読まされているようなものだから 2chは空気あえて読まないのが華、みたいな部分がある
だから居心地良いのかも
その代わり、板やスレッドごとに空気が細分化されている
自由だが息が詰まるという 空気読めず、気遣い・おもてなしの精神がないと非国民だからな
それでも仲間はずれにされるだけで日本人を名乗っていられるのだから
平和なのかもな
俺は合わなければ空気読んで自分から去るから、仲間はずれとは無縁か
これが無縁社会ってやつか
縁ってつまるところ物事の結びつき、因果関係だからな
必然性を感じなければ無利して関係を取り持たないし
人間関係の希薄さとかあまり意識したことがない アスペ、キチガイ、攻撃的、というのは上記の裏返しに過ぎず
大したことはない
空気読まされているだけ
最初から空気読まなければ攻撃的になる必要性もないのでは
しかしそれでは日本で暮らす意味ないな 安吾が文壇の状況を説明しているだけで笑う
安吾の存在感は異様だな
また出たか、という感じだ >>979
テレ東の真似したな
>>981
おっさんの卑屈な努力の賜物である 尾川正二という人の本を買った
この人は元国語の教師、日本語の研究者だが
二十代のころに太平洋戦争で歩兵部隊として
ニューギニア戦線に送り込まれて極限状況を体験して生還してきた人だ ニューギニアは亜熱帯の島国で面積は日本の約2倍もあり
当時ほとんどは密林で覆われていたという
ここに送り込まれた日本兵がたくさん死んだのだが
死因の多くは伝染病や飢餓による栄養失調だったという
戦友の死体を食べなければ生きられないような状況であったという マラリアは有名だけどアメーバ赤痢はあまり聞かないな
大腸に寄生してシスト(包嚢)を形成する病原虫らしい 当時の大本営は亜熱帯の自然の過酷さなど知らなかったのだろうな
お前ら、病原菌にやられて餓死してこい、と命令されたようなものだ シスト(包嚢)というのは寄生虫が自分の身を守るためにつくる
バリアーみたいなものだな
実際の写真でみるとかなりグロテスク ニューギニアの現地人が案内役として親切にしてくれたらしい
ニューギニアの人でもマラリアにやられるんだろうな 日本兵が現地人をレイプしたり殺して食べたという話も
昔見たことあるけど実際はどうだか確かめようがない 島崎藤村の勉強論みたいなのを読んでいた
頭で考えるよりもまず悟って自分を正すのが先決、みたいなことを書いている
そのとおりかもな 物事の順序や道理、先人の苦労、自分に出来ることの限界を知ること
簡単なようで中々できない 実際に荒地から畑を耕して綺麗に整地したときの疲労感と充実感を知るだけでも
百姓のしていることのほんの片鱗だけは味わうことができる 今は便利な機械があるけれども堅い地面を手作業で耕すのは
マジで足腰に来るからな
俺は三日くらいで嫌になった 動画でどじょう掬いの踊りを見ていたがこれも足腰に来るだろうな
安来節だっけ https://www.youtube.com/watch?v=n_dk8ChdCA8
ゆらゆら帝国のPV
この踊っている人たちは阿波踊り協会所属のクロートらしいな
これも中腰キープだから足腰強くないとサマにならない なにか、ロックと民謡が合体した風変わりな曲だけど
好きでよく聴いていた 最近文字をたくさん見るから目の疲労がはげしいな
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