退屈ゲロスレ
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
通俗的くそ小説、されど子どもに大人気
そもそも大人が通俗的だ、くそだ、というようなものを
子どもがよく好む 大人社会のもつ醜悪な側面を子供はよく真似するからな
ありきたりにいえば社会の縮図ってやつだ 俺も子供のころに日本の歴史や大人社会をくそだと思い
憎んでいた
あのときの感覚を忘れないようにしよう 邪魔なやつは殺して欲しいものは奪い取る
これが人として正しい道だ、とさえ思っていた気がする 良いと思ったルールは他人に押し付け、反対するやつは痛めつける
反抗すれば皆殺し
やはりこれが人として正しいのだ
うそだけど 衝動的、即物的、感情的、荒唐無稽で脈絡のないやつをな 『ドアD』の冒頭を読んでるがこれがいかにも通俗小説の書き出しだな
ありきたりなシチュ、ありがちなキャラ造詣、即物的なセリフ
あっという間に日常から非日常へ飛ぶ奥行きも何もない即効性の展開
こういったものを参考にしてゆくか 大学生テニスサークルの飲み会から一気に映画『CUBU』のような
無機質な閉塞空間へ飛ぶ展開
通俗的すぎて最高だな ありきたりな日常シーンから
無機質なゲーム風のシチュに放り出される若者たち
ゲームのルールに従っていると自分の命が危ないので
最初はみんなを守りたいと思っていたキャラも
仲間もどんどん切り捨てていくようになる
そういう感じの通俗性でいいな チート法を見つけて調子に乗るシーンも必要だな
それでゲームマスターの怒りを買ってまた仲間が殺される
ゲームマスターの機嫌次第でルールは改変されるという
つまりクソゲー要素も通俗性に不可欠 クソゲー、無理ゲー
それが文明社会のファクターとして根深くある 最近読んだ小説で一番面白かったのが『デカルトの密室』だ
これはカテゴリとしてはSF小説なのだが、通俗的でくそな部分と
難解で哲学的な部分が融合している奇妙な作品だ 作者の瀬名がいうとおり「知能(インテリジェンス)」にまつわるストーリーで
主に人間と機械の差はどこにあるのか?という大きなテーマに沿って
様々な思考実験や哲学観を交えながら進行してゆく 大衆小説というには難解で(まず気軽に読めない)
哲学・思索小説というには設定や展開が安っぽい
非常に微妙な立ち位置にある作品 専門領域に入る前の、大学1、2年の段階では通常教養的な事柄を学ぶのだが
その中に哲学もよく入っているのかな
瀬名は大学の教養段階で知ったデカルトの知識を参考に
ロボティクスや認知系の学問と結び付けている 勉強しなくても元々俺の感性はくそだからな
即物的、感情的、衝動的、論理性皆無のくそ 問題はこのくその衝動をどうやって形にすればよいかだ
俺の衝動はいつもイビツで幼稚でアンモラルの志向性を持っているのだから
うまく形にならない
飽きっぽいしな
嫌になればソッコーでやめる 俺個人は星座でいえば<蠍座>だが
性格は7割くらい<射手座>なのである
俺個人の自由以外に何ら興味がないという
無駄だと思えばすぐにポイだ
そして忘れる 最近は体力、気力ともに衰えが来ている
しかし衰えが来ているだけで衝動の面は昔と大差ない 俺の持っている志向性は主に秩序の破壊と個人の自由
反集団主義であり他人の自由を意図的に束縛しようとする人間を許さない しかし義理・人情や集団秩序にうるさい日本では
そのような志向性に忠実に振舞っていると
犯罪者だか精神異常者だかに追いやられていく
そこで自分の志向性とは反対のものに
こだわりを持つ必要が生まれてくるのだ もともと人間は真の無秩序には耐えられないようになっているな
かなり弱い存在だ
破壊的な性格だが実際の破壊行為を俺は好まない 自由を縛り付けている要素を解体したいだけで
真の自由は存在しないものとしてみている 意図的に他人の自由を縛りつけようという発想が邪魔なだけだな 人は元々自由に何でもできる存在(選択肢が無限にある)だからこそ
秩序が必要、という人もいる
それは理屈としては分かるが
実際に何でもできるわけがない
自由よりも不自由さを自分で学び取る必要がある
不自由さを自分で学び取るための自由がある 群ようこのエッセイ集のようなものは意図して書かれた「凡人の退屈な日常」であって
それほど俗物的とは思わない 通俗くそ小説の最低条件は、ちょっとした悪意のある
無邪気な好奇心を満たすために消費されるだけの
奥行きのない娯楽要素があること
要は深く考えないこと 悪意は愛をたてまえにしたベタなドラマで適当に誤魔化すのがよい
ラストシーンでカップルがくっつけばそれでよい
まず場の混乱を乗り切ることが大事だ
乗り切るためのかっこよくインパクトのある方法をいくつか用意する
ヒロイズムは控え目にして主人公にもくそ要素を与えておく 通俗的くそ小説の勉強を始めよう
知的さを一斉排除して
俺はひたすら退屈で下らないことをやるのだ 志賀直哉に挫折したショックでくそ小説に走り出した
志賀直哉は俺には早すぎた 志賀直哉は分かりやすくいうと純粋な「心境小説」だ
作中で表現されている心境に達したことのない人でなければ
何をいっているのかよくわからない、という作りになっている 理屈で解釈して想像で補えるが、それでは何が良いのかさっぱり分からない >>52
Please take your time. 松本清張の短編集を読んでいる
この人の文章はなにか新聞記事のように
淡々と事実を書き連ねていくようなスタイルだ
癖がなくずっと同じようなリズム ものものしい装飾や情緒的に崩した文体をほとんど使わない 全体的に堅いイメージではなく淡々として穏やかという風情 漢詩、SF、哲学、生物学、数学、政治新聞、
明治・大正文学、英語構文、通俗くそ小説、etc ああああああああ
リアル鬼ごっこの映画クソだったなあ 最近一気にたくさん文章を読んで疲れているな
少し休むか 一日中外に出してサークルやベランダで飼っている近所に越してきた基地外嫁!!!犬の散歩をさせるどころか、姿を見たことがない 基地外犬が2匹うるさすぎる この地区から出て行けバカ嫁 >>64
「姿を見たことがない」ってところがホラー , -───--、
/ ( ゚д゚ ) / >>1乙zz...
r-<,ぅ⌒cソ、. /
ノ '、 , 、 _, ' //
(_,. //
(.,_ `'ー-、_,,..ノ/
~`''ー---‐' ありがとうの「アリ」を描いたつもりが化物になってしまった 昔苦手だった松本清張が難なく読めるようになっている
あまり引っかかりのない文章だからかな 本は読んだことないが松本清張ドラマや映画は面白いから定期的に見たくなるな >>72
松本清張のドラマたまに見ていたね
原作は文章がすごく淡々としているから慣れないと入り込めないかも 小説としての味わい深さというものが無い
新聞記事を眺めているときの気分に近いものがある >>74
トランプとかドゥテルテとか、早々に縁を切ったほうが良い 権力問題はどうでもええがな
なるようにしかならんわけで オレは統合失調症になってから本が読めなくなったな
他のこと考えちゃって集中して文字を追えなくなった
テレビも副作用で目が痛くなってたが今は見れる
松本清張はどちらかというと映画の方が好きだわ >>78
精神病んでいるときは読書やテレビは控えたほうがいいかもね
自分の場合は映像や音があると気が散るので
本の文字を追っていたほうが心が落ち着く
読書といってもしょせん他人の思考を追いかけるだけだから
自分では何も考えないし テレビはもう見ていない
捨てたしな
ワンセグで見れるこたみれるけど 紅茶を飲みながらバロック音楽を聴くのがええかもしれんが
最近は音楽もあまり聴いていない 日本の娯楽といえば昔から遊楽、見世物感覚だからな
権力闘争から抜け出して息抜きするというニュアンスが強い 踊りにしろ歌にしろ、相当なテクニックが競われるような時代だしな
これも昔からそうなのだろうけど 心境文学はまだ駄目だな
志賀直哉の場合は特に説明が一切省かれているから
気分がシンクロしていなければ良さがわからん 無駄のなさが志賀直哉の持ち味で
原稿を書き直すたびに欲が出て
枚数が増えていくのが小説家の定例なのだそうだが
志賀が書き直すと枚数が減っていくという逸話がある
無駄をそぎ落として必要な描写以外何もしないからそうなる 志賀は国語の教科書の常連でよく短編を目にしていたけどな
未だに理解できんわけである 志賀独自に純化させたエゴイズムによって
「気分」だけで現実を切り取り対象を描き出す 文学でも通俗でもない幻想小説を読むか
山尾悠子の小説をな 嫌なことがあって切れそうになったがなんとかこらえた 齢を食って弱るとほんまにだめだな
怒ることも怖くてできなくなってくる 心臓が落ち着くと感情も落ち着く
やはり生理現象だな 疲れているときなどはちょっとした音の刺激でもイラっとくるからな
これも神経刺激による生理現象だ 大丈夫ですか?お大事にしてください
お袋さんが電気スタンドを壊してしまって落ち込んでいます >>105
電気スタンドは粗大ゴミで拾ったやつを長年ずっと使ってる
粗大ゴミやリサイクルフェアおすすめ 昔の電気器具は丈夫だからな
うまく使えば50年は持つように出来てる 松本清張の文章は味わいが無いと前に書いたけど
そんなこともなかった 老いや死に対して強くなるにはどうすればええんじゃろか 人によっては齢を重ねるほど死に対する受け入れができるように
心境が変化していくらしいがそうはならない人のほうが多い気がする 不安を喚起しないような神経刺激を常に受けていればこうはならないはずだ 楽しみで誤魔化していると楽しくなくなったときに
不安が蘇ってくるわけだろ
だったら楽しみは控えて退屈なことを続けたほうがいいな 辛い環境に身を置き続けることで根源的不安から開放されるという方法もあるが
それができるのは強い人だけだ 写経や瞑想でも別にいいが
なにか方向性が違うな・・・ どう考えてもジャイナ教が一番正しいのだが
正しいことというのは出来ないんだなこれが 経済のレベルでいえば今の日本は成熟期かもな
あとは緩やかな衰退か・・・ 昭和に大衆文化が成熟して平成では
裾野が広がり空虚なブラッシュアップが行われている 明治時代には大衆消費文明なんてあまり見越してなかった
欧米から良いもの取り入れて文化水準を引き上げたい一心で
活動した文化人が多かった 松本清張を読んでいるといかにも昭和じみていている
松本清張の全盛期は昭和初期頃という話をきいたことあるが
今読んでいるのは1970年代の作品
バブル期には画家の絵とか飛ぶように売れていたらしいが
その少し前の絵の世界の話だな >>131
;彡彡彡イ ヾヾヾヾヾミミミミミミミ、
!川川リア __,,ィイエ エェェュ_ヾミミミi
|川川ア __ _ ヾ川リ
川川リ / ●ヽ /● ヽ .|川|!
川川|. ー'' `ー- .川リ
川川| ,ィ :、 Nリ 今でしょ!
ヾ川ヘ / しヘ__ノしi! /リ
! ヾ| ,.-─--、 | ;|
`ー!. ;'`ー--'' ノ` |''
ヾ、 `゙゙゙´ ノ;、
\ / |) ヽ
|\______/ / |\ キュビスムはもう使い古しの手法だが
セザンヌのは渋い 三島由紀夫は松本清張を快く思っていなかったようだな
松本清張は特に公権力に対する一個人の弱さを描くものだから 清張の描く人物スタイルは今見れば普通なんだがな
三島にとっては腐れた戦後民主主義の象徴というようなイメージが強かったんだろうな それまでの推理小説というと分かりやすい探偵役がいて
名推理しなければならんかった 名探偵コナンなどは今でこそベタだけど
社会派と名探偵モノと日常モノとロマンスが合体したハイブリッド漫画なんだな 清張は嘘っぽいヒロイズムを嫌って
単純に社会との関わりにおける人間の弱さのようなものを描きたかったという
間接的に社会批判の意図があったにせよ
人間など今も昔も権力には弱い生き物よ、という共通したテーマがある(らしい) 三島にはこの「権力の飼い犬」のようなキャラクターを当たり前のように描くことに
強い反発があったらしい
それで日本文学全集に清張を入れることに大反対したのだそうな 昭和社会派推理も今やただの古典
当時は時代の最先端
時間の流れはこんなものだ 松本清張の文章に「新聞記事のような」印象がつきまとう理由が分かったな やはり文体とリズムだった
清張はデビューしたころ、書きたいものはたくさんあったが
自分特有の文体がないことが不安で
分かりやすく自分でも真似できそうな文体を探して
そのまんま模倣していたという 自分特有の文法の味わいといったものにあまり拘りがなく
いかに書きたいテーマを効果的に伝えることができるのかという部分に拘っている
それで他人の小説はそれほど読まず、事実の下調べを大量に行っていた
それが事実をありのまま伝えようとする新聞記事のような雰囲気に
繋がっていったのだと思う
それでも人間のリアリティはあるがな 社会派推理小説を古典として読んでいるのが少し虚しい 清張の影響で美術鑑賞2ch掲示板を見ている
絵画の表現や技法は大雑把に出尽くしているからな・・・
今はメディアアートが主体なのか 絵を描くなら俺だったら素朴な風景の具象画を描く
見るなら抽象画が好きだけど 出尽くしたものの模倣でも別にいいわけだが
出るところに出ればゴミ扱い受けるからな 俺はありがちな構図の風景画が好きなんだな
三角比で木があって丘があって小屋があって、みたいな 木の根っこあたりを中心に安定した構図の絵を描くだろうな
なんせ心が不安定だから 画面を三分割してニの部分に木と空、一の部分に小屋、くらいでバランスとれるな 通俗くそ小説を読んでもやはり面白くない
大人しく松本清張を読むか 美術鑑賞の仕方あまり知らんがな
美大の受験を受けるときに申し訳程度に勉強しただけで 単純な絵画に限定すると自分の感じたままでいいが
美術鑑賞になると話が違うからな あまり好きではないが見ていて感情を揺さぶられるのは野獣派の
きつい色彩の絵だな マチスの絵とかあまり好きでもないが
独特の色彩感覚に感情を揺さぶられる 完成されたいい絵だな、と感じても好き嫌いとは割と無縁なのであった ゆでたまごwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww /) (\
/ ( ) ヽ
/^つ __) .(__ とヽ
ソ/、ヽ=@=ノ\ ヽ′
/ ./\ (^ω^//ヽ \
/ ノ ヽ イ \ ヽ
( ヾ 'i l ,i )
\ \ l | ./ / 〃`
\ ヽj ∩ | / ./ _、 rニ-、
ヽ、 * `' ./ 、\ ′__ ヽ`、
`ー-―'''" \ 、`ヽ ― ̄-、ヾ |i l
ヾ\ /// ``;;そ
、ヾ`ヽ // / ノYヽ
ヾ` : ;:;て
ノW 清張は志賀直哉と相性悪いな
志賀直哉は社会問題なんぞに興味持ってないから 俗物的で知的さ、思慮深さとは無縁
インパクトの追求
設定はいい加減、感情の先走り感重視の展開 子どもじみた先走った感情をインパクトのある表現でぶつけると
通俗くそ小説になる あと、大人や業界にも媚びを売ったような
とってつけたような表現を加えると完璧である レジで「お札(おさつ)」のことを間違えて「おふだ」と言ってしまって
少し恥ずかしかった 小銭がたりなくて「あ、おふだしかないや」って独り言だがな ヘッセは以前少しだけ読んだ事あったな
途中で挫折したので再度挑戦 以前読んだときは、あの言い回しの面倒さがすぐ嫌になった
今なら難なく読める 台詞多目で止まることなくザクザク読める
これはポイント高い 子どもに受けるといわれると納得してしまうな
内容確かに薄いが 新渡戸稲造の本も読んでいるんだが
これは数十分では読めない
含蓄が多く言葉遣いも難しい 五千円札の肖像画にもなっている日本の有名な思想家な ヘッセは『デミアン』以降急に難しくなる
俺は初期の作品ではなくデミアン以降のことをいっている
おいそれと手を出せるシロモノではない 何か一つのことについて努力を続けていると
あるとき神様が降りてくる、ということがよくあるらしい 本は意識的に頭を使って読むことをしなければ頭よくならない
俺は逆に頭の悪くなるような読み方をしている
基本的に心が落ち着けばなんでもいいんだな 愛用の筆記具をフリックスのボールペンに変えた
なんせ書き味がいい 昭和推理小説ブームの原点
今読んでいる
ヘッセが『デミアン』を書いた当時のドイツは
かなり悪い状態だったのだな
身内の死や第一次大戦を経験して精神的に追い詰められていた中
足掻きながら創作していたらしい
ユング派の心理学に光明を見出していたことは有名だ
「少女革命ウテナ」というアニメに出てくる鳥と卵の比喩は
ヘッセの『デミアン』から拝借したものだ
幾原監督もおそらく若いころにヘッセを読んで影響を受けているな 一昔前の意識高い系(死語)の人にとっては
ヘッセ後期の作品って教養として当たり前だったのかもしれん 武士の精神を西洋文明と対比する形で書いてあるところが目立ってるが
これはいらぬ誤解を受けそうだ 武士そのものについて描くのではなく
武士の精神を日本人的な精神の代表として見た場合に
西洋にも対抗しうる歴史と伝統を持っている、ということを
新渡戸は言いたいわけであり、別に武士道を低く見ているわけではない あくまでも汎化して描いているから、「こんなの武士じゃねえ」だとか
「日本人は武士じゃねえ」だとか、批判を受けいていただろうな しかしいかにも思想家じみた文章だな
惚れ惚れするくらい思想家 純粋な国学者とかではなく
国連で次官を努めるような人だから
あくまでも海外に対するときの日本という視座に立っていたのかもしれない 朱子学って官僚用に導入したのは家康のころだが
綱吉(5代目将軍)のころから既に教育として導入しているんだな 家康が導入した朱子学を
下々に広まりやすいように体制を変えたのが綱吉ということかな
当時の世情を知らんから頭が混乱してきた 綱吉というと生類憐みの令のイメージしか持っていなかった
世情の混乱に対応するための方策かもしれんな、朱子学の導入も ヤクザ者の武士が徒党を組んで荒れているのを諌めるために
道徳的支柱が必要だということで無理矢理導入したのだな 以前の代で大名を武力で押さえ込んでいたため
家督相続からあぶれた荒くれ者の浪人が増えたってことね 世情が荒れて浪人増えて
それで由井正雪の乱(慶安の変)に繋がっていくわけか
やり方が乱暴すぎる
事前に密告されて自決に至ったがな
>そのような情勢下の慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、
後を11歳の子・徳川家綱が継ぐこととなった。
新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、
これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて
行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を
爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、
これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など
幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐する。
同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、
その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、
そこで徳川幕府の壊滅を正当化するための勅命を得て、
全国の浪人たちを味方に付け、幕府を支持する者たちを
完全に制圧する、という作戦であった 由井正雪自身は幕府からもお声がかかるような優れた学者だったらしいが
荒くれ者ばかり集めて計画練ってもロクなことにならんな 浪人ってノラ犬を殺して食っていたりしたのか
どんだけ困っていたんだよ 『点と線』今読んでも古くないな
1958年の作品だが当時最新のブームを生み出したといわれると納得できる むしろ清張が1970年代後半に書いた絵画ミステリとかのほうが
いかにも昭和中期じみた古めかしいものを感じる
齢のせいもあるんだろうか
こなれてきて成熟したような雰囲気が漂っている 台詞回しとか、若い作家ではまず出てこないようなこなれた感がある 60代後半だから当たり前か
もう円熟の境地に差し掛かってる
そもそも清張が本格的に小説に着手しはじめるのが
40代中ごろのことだからな 年代が古いから古臭いというと違うんだな
やはり作者の精神年齢による 表現形式や扱う題材はどうしても時代の影響から逃れられんがな 仮に未来視じみた能力があるとしても「予見」に留まる 新渡戸は誠意のある「親米派」だな
お札の絵になるわけだ
俺もこの精神を少しは見習うべきなのか ヘッセの文章はともかく訳文の影響もあるが
ひらがな多用の回りくどい言い回しが多い
これに慣れると中毒性が出てくるのかもな ヘッセの『デミアン』はアメリカのヒッピー文化にも多大な影響与えている本だ
ヘッセの「己自身に戻れ」というメッセージに感化されて広まったんだろう 本から生き方のヒントを探す、という生き方に陥るからな 文字を目で追って心が落ち着けばそれでよい
ネット記事の乱読と同じく内容は大して頭に残らない しかし山田悠介の読みやすさは異常だな
これが子どもに受ける理由だったか たまに説明が長々と入る場面があるだけで
あとは大体短い台詞の応酬として脳内で処理できるから
ページをめくる速度が速い
ちょっとした感情のやり取りを小気味良く描くのが上手い作家だ
ゲーム世代というよりもネット世代寄りの作風
エヴリスタのような感覚でサクサク読める 大衆小説と呼ぶにはライトだがラノベとも携帯小説とも少しイメージが異なっている 児童向けというにはクールな仕上がりで
大人向けというには何かがたりない
ジュブナイルでもなければバイオレンスでもない ネットで共有できる程度の「感情のリアルさ」はある
これが肝なのかもしれん 本を読んで、「本を読んで人生が変わった」と言い続けることで
本を読んで人生が変わったと言い続ける人生に変わる 変わらないことを続けることで何かが変わることもある
変わろうと思っても簡単に人は変わらないのだから 『デミアン』、思春期に読むとドーパミンが出て精神強壮剤になるらしい
本って薬だったのか! 内容は置いといて文体それ自体がそんな感じだからな
ひらがなを多用したくどい言い回しが全編に渡り繰り広げられる
しかし今の俺はどちらかといえばセロトニン派
穏やかな気持ちになりたい かつてグルジェフの著作にベルゼバブがなんたら、という難しい本があった
あれはグルジェフ当人がいうには、本の示す内容よりも言語それ自体の力を
利用することにより読む人の意識に訴えかけるような効果を狙ったものらしい
だから日本語翻訳してあるものを読んでも書いてあることの本質には届かない
という話を聞いた 感情の波立たない状態が穏やかなのか
それとも感情の全領域において調和のとれた状態であるのか
そもそも感情には自分では把握しきれない未秩序な領域が多すぎて
調和といってもピンとこない 感情には身体の生理面に左右される領域が多いな
グルジェフがいうにはもともと人間の本能的な領域と感情的な領域とは
別の原理により作動しているのだという
すぐに感情が振り回されたり精神に混乱きたしたりするのは
人間が本来的なエネルギーの使い方をしていないからなんだそうな
いわれてみれば確かにそんな感じがある しかし江戸時代の国学者、無茶なことしているな・・・
儒教と仏教の排斥などと意味不明のことを 中国伝来の仏教の中にすでに儒教観が混ざっていたらしいが
儒教の方が歴史的には先に伝来している 日本の習慣には最初から仏教と儒教の混ざった形の原理がある
これを排斥したら習慣がぶっこわれる それがなければ「日本」なんて成立しなかったのだからな 漢字や仏教、儒教の伝来以前にも文化や文字があったという説があるが
俺はあまり興味がない 神道に通じるような細々とした信仰だの一部の共同体だけで流通していた文化だのは
あったのだろう 日本最古の文献とやらが中国文化に頼って書かれたものなのだから
それに従うまでだ 小さな神社だの山だの見ていると
日本固有のものは確かにある 武士道を日本の代表的精神に例えるというのは
少し苦肉の策感がある 花を生かしているのか殺しているのかわからねえ
禅にはそれ自体が主体をかき消すだけの矛盾を孕んでいる 未だに日本は近代化すべきだったのか否か、という議論が後を絶たない
まだ日本が欧米文化を取り入れてから間もないから当たり前だがな 数百年先の未来を見据えて活動しないと文明なんかすぐに退廃していく 日本文化を数百年、数千年とこの先残してゆく気があるかどうかだよね
愛国ってのはそういうこと ずっと変わらないものを信じて守る気がなければ倫理も正しさも生れない アメリカの「連続性」の思想がどうしても受け入れられん
気味が悪すぎて 文化には単純な模倣作業という側面が強い
ここには知性も論理も無縁である 良いか悪いか以前に環境にしたがったり教えられたことにしたがったり
周りをみて空気読んでしたがうのである
これが模倣である 受け入れてしたがいながら、徐々に良いか悪いかについて考えてゆくようになる 人間が行動に用いるエネルギーは行動だけのものだからな
思考や感情とは無縁に「反射」のレベルで動くことも間々ある 山田悠介を読んでいたことを黒歴史にしている人多いな
若者が「没頭」する要素は確かにあるのだから
恥ずかしいこと何もないのに 子どもにとっては浅いだの深いだの関係ないからな
まずは共感だからな
子どもとは共感を求めて動く生物
正しさだの論理だのを探すのは子どもではない 武士が娯楽に興じたり武以外の芸や技術を磨くための余暇が生まれたのは
封建時代が成熟した末期のことである
武士の精神を重んじるならば封建とセットで見る必要がある 「世界平和」なんかただの戦後妄想だからな
日本にとっての平和というのは「泰平の世」のことで
これは封建社会の成熟と切り離せない キリスト教圏の人からみると宗教無しに道徳や倫理が生まれるというのは
不可思議な現象にみえるらしい 義務教育を受けると基本的には儒教を軸にした日本式社会主義を植えつけられる 半分は民主的だが半分は規律でお膳立てされたものである 儒教は日本においては規律訓練の中で学ぶものであり
宗教ではない
挨拶が基本だとか目上の人間は敬えだとか
そういった単純な常識である 小説を書くよりも下調べのほうが好きなディレッタント気質の小説家いるな 松本清張4冊目読んでいる
異色の視聴率ミステリ
『点と線』のフレッシュな雰囲気とは違って
70歳手前で書かれた作品だけに文章の成熟度が高い 50〜60年代の作風よりもバブル期手前の作風のほうが
古めかしい雰囲気 テレビの視聴率競争が激化したのがおそらく
この『渦』が書かれたあたりからか
最新の動向に目を光らせていたわけだ テレビは今でも視聴率競争やってるからな
もはや伝統芸能か ちなみにこの小説は読んだ事がない
東野はいつも立ち読みだけで挫折する 今や推理小説のメジャー作家だがな
東野は清張の本を読んで推理小説の勉強をしたらしい
どことなく雰囲気が似た部分がある
清張よりも若干クールで堅い今風の文体だけども 清張はもっとリズムが淡々としていて大人しく丸い雰囲気がある 志賀直哉に挫折したショックでくそ小説に走り出し
松本清張で心の安定を得る >>308
マジだった
これはちょっとショックだな
DBのブルマのイメージが強烈だし 無作為に本読んでも神経が落ち着かないな
何かテーマを決めるか 廃品を修理して売って生計を立てていたらしく
生活に困ってやったんやろな 『渦』は社会派ミステリーっぽくない
どうも扱う題材が目新しいため調査に大分手間をかけて
ミステリーとしてはいまひとつという感じだ 当時のテレビ事情の参考資料にはなる
どこまでが事実に基くのか分からんがな テレビ視聴率調査における不正の実態を
素人が追いかける、という筋書きだ 申し訳程度に人が死んでミステリーっぽくなるけど
ちょっと無理矢理感が漂ってる 武士の闘争の世界はゴツゴツしすぎていてついていけないな 封建末期には医学をたしなむ武士も増えているな
平賀源内もそうだろう 発明家としての方が有名かもしれんが
この人は武士でありながら芸術や学問の才に長けている
「日本のダヴィンチ」と例えられることも多い
実際ダヴィンチほどじゃないけど 実際は武士じゃなかったのかもしれん
今読んでいる南條という作家の小説の主人公が平賀源内だ
設定では武士になっていた
どこまでが事実なんだか 「シグルイ」という漫画の原作である『駿河城御前試合』の作者だ
武士同士のゴツゴツとして生なましいやり取りを得意とする作家 この作家は95歳で亡くなっているが
90歳こえても普通に現役で小説書いているな
生まれたのは松本清張と同じ頃のようだ 「シグルイ」は絵がラリっていて読むのが辛かった
日本封建制の精神構造の中でも特異な部分を切り抜とって
執拗に描いているからな <封建社会は少数のサディストと多数のマゾヒストによって形成される>
かなり誇大的な文句だが、そういう側面はあると思う 「シグルイ」で思い出したがハンター×ハンターの共闘議論どうなったんだろうな
まだ連載再開すらしていないか ぶっちゃけどっちでもいい感があるが
共闘だった方が面白みはある もう何もかもダメだ・・・
ストレスで胃も痛い・・・
自殺したいけど実行する勇気が無い 尿道はやめろおおおお
/⌒ヽ/⌒ヽ
(^ω^ ;)ω^ )
⊂∩ ∩つ )
/ 〈 /
( /(U)`J し'
┃
/⌒ヽ|
( ^ω^∩ ポッキーゲームお
/つ ノ
しーJ >>337
自殺は最後の究極の切り札ダゾ
>>338
中世の拷問にありそう
中世にポッキーないが 松本清張なんか、以前は退屈で吐き気を催すような作家だったのに
今は心の癒しになっている
おかしなものだ 松本清張って新聞社で働いてた時に虐めや差別されてたんだっけ? >>341
なんかそんなことが書いてあったような気もする
その前は印刷所で働いていて、友人がプロレタリアの雑誌を
定期購読していただけで「アカ」の疑いで逮捕されたとか
なにか人間そのものや社会に対する不満を持っていたのは確かだろうね 清張の小説は意図的にプロレタリアの俗物さの側面を押し出してるが
俗物ではない人の側面(善悪観念を排除する)を描き出す努力も同時にしている 人のもっている権力に対する弱さや俗物っぽさの背後に潜む真実を
観念的になることなく社会派という枠の中できっちり描きたいのだろうなと 真面目な人なんだろうけど根っこが通俗寄りの作家だな それにしても心の癒しが出来て良かったな
いつもこのスレに来ると切羽詰まった空気だったからな
あっぱれさん >>346
どうせすぐ飽きるがな
自分の性格からして
ははは・・・ 少なくとも新聞社で真っ当に働けるようなタイプの人間ではないと思える
清張
作家が天職だったのかもな 読書自体定期的にやってるけど
これも(読書という行為自体)すぐに飽きるという癖がある これは一生読めるな
愛読書にしよう、と思っても大体2年持たずに飽きているから >>347
確かに
あれだけ語ってたヘーゲルのへの字もで最近でてこないな
オレはしつこい性格だから何となく分かるわ
統合失調症で読めないオレの分まで読書してくれよ 文字自体が嫌いだからな
とりつくしまがないとはこのことだ >>351
ヘーゲルも実質2年で飽きた(というより挫折した)
基本的に嫌になればすぐにやめるタイプであります 自由や理念についての興味が高まっていたときだったから
あのくそ難解な文章でもなんとか読めたのかな 読書に飽きれば絵本も読めなくなるからな
ひらがな読むのもめんどうくせえ、となる 何か一つのことを体系的に習得しようと思えば
よほど好きか向いているかでもなければ忍耐が要る
儒教では忍耐も徳の一種なのかもしれん
つまり俺には徳が無い 忍耐は儒教の徳ではなかったな
武士道では克己とセットでよく語られている
海外における忍耐の徳というのはキリスト教以前の
西洋にも流通していた概念らしい
ギリシア哲学由来か 武士の教訓をまとめた葉隠の書とやらを昔よく読んでいた
内容もう忘れているけど、こんなもん実践できるかいな、と思っていた 日本の仏教は中国経由で元々あった輪廻観が欠落している 不浄に対する考え方にせよどこかお気楽だと思う
ケガレを浄化すればそれでいいわけだからな 強迫的な潔癖症の人がいるが
これも「綺麗好き」とは無縁
輪廻観の欠如である
壮大な輪廻観を持っているのはインドの原始仏教 ケガレというのはおそらく
生に固執してきた人たちの否定的イメージの集合観念のようなものか 集合観念という例えがよくわからんが
なにか凝集的なイメージがある
意識と同じくイメージも何某かの契機をもって収束するということだ 複雑な神経ネットワークが同期・収束することで擬似的であるにせよ
「人格」というイメージを持つことができる 意識はどこにあるのか、という疑問がよくあるが
あくまでも環界も含めた統合的なものであって
場所を指すものではないんだろうな 統合しているのが脳みそだから
脳みそに意識があるという感覚もある
内臓は内臓で脳みそとは別の神経ネットワークを持っているからな 腸管神経も統合の仕組みができれば
それ自体で意識に芽生える可能性もある 好んで赤い車に乗っている人間には近寄らんほうがいい
経験則で危険だと分かる
郵便局の車は例外 しかし目立つほうが事故が起き難いので
嫌々でも赤を選ぶという奇特な人もいるかもしれないな 下っ端には目もくれない外向タイプにも多い
獅子座性格の人間も好むのかも ともかく中身が「好戦的」な人間が多いイメージがある
赤い車 ガソリン自動車社会肯定派は俺の中で争い、競争社会肯定派に等しい 赤=情熱的、というのは良い解釈だが
俺の中では最近そうではなくなってきた
色彩感覚ってのも人によってかなりまちまちだがな 信号では赤=危険、止まれというのが常識だが
好戦的な人にとっては赤=GOサインに他ならない
血が流れてもかまわないから突き進め、という性質 最近の俺は紺色がGOサインだ
かなり渋い趣味になってきている
苦渋のほうの意味 青では進まない
青のような爽やかな色では前に進まない 紺の深い色合いが好きだな
これはおそらく骨董の壷とか趣味のおっさん的な感覚なんだろうと思う
深みの無い色に対して関心が無くなっていく 青磁の壷に異様にこだわる骨董好きのおっさんいるじゃん
あれと同じような感覚 青磁は薄い色のが多いが
闇の中で光を当てるとすごい濃厚な色彩が出る 深みというのはいわゆる「心の奥底から浮かび上がってくる」ような感覚をもたらすもの 心の奥底に強い赤や青が消えうせてきているのかもな
若いころは白黒と三原色以外に興味なかった 野獣派の絵画を見ていると感情がゆさぶられるのだから
何某か思うところあるけど好きにはなれない
セザンヌの素朴な風景画がいい 抽象画もすでに出尽くして見る人が見ればただの図案と化しているからな 具象として自分の主体や精神を表現することに限界を感じ
多くの作家が抽象画に流れていった 最近自分の趣向がおっさん臭くなっていることに不安を感じる 齢くっても精神だけはずっと若いままでいようと思っていたのに
人格としての中身は幼稚なままだが趣向の面でおっさん臭くなってきている 武士の精神が日本の代表精神だとは思わないけど
武士じみた振る舞いしている人間で溢れているからな実際 今は表向き泰平の世だがシステム依存によって成り立っている面が強い
泰平の世では武士も武芸以外のことを鍛錬する
勉学に励むのだってそうだ
演技や歌も同じこと スポーツできて勉強もできてイケメンの侍はモテる
侍も武士だ
侍は偉い人にも一応顔の利く武士のこと 日本は階級社会ではなく役割社会だ
しかし武士は掟として主従関係に従っている 己の役割に徹しきることで己を高めるということ
武士として生きるならばそれを体得しなければならない 家督争いからあぶれると浪人かカブキモノ、遊び人コースだからな
遊び人から賢人になるようなドラクエじみた人もいるが
いわゆる官僚の敷いたレールから外れてしまうとそうなる 俺の頭の中では日本ってまだ封建社会だから
封建社会のまま近代化してしまっただけ アメリカ自由主義を受け入れているのに実質は護送船団方式で
できない人間には教育的指導が入るようになっている 面接でイオナズンを唱えるネタが昔はやっていたな
ドラクエのノリだけで渡っていけるなら誰も苦労しないと思う 今ドラクエ3やるとしたら勇者、僧侶、僧侶、僧侶という狂ったパーティを組むだろう 清張は古代史にも詳しく
単なる趣味としては古美術を描かないのだろうな ミステリーのランキング上位に『十角館の殺人』がずっと入ってる
以前三回くらい読んだがそこまで完成度が高いとは思わんかった
古典ミステリーを踏襲したようないかにもミステリーマニア心をくすぐる要素があるだけ 『虚無への供物』以降のいわゆる本格推理モノは苦手だな
作者のいじわるな動機が透けて見えて性に合わない 『虚無への供物』はアンチミステリーといわれるひねくれたもので
俺はこれが好きで何十回も読み返していた
探偵役がそれぞれ好き勝手な妄想を繰り広げて
何が真実なのか分からなくなっていく 推理小説マニアは文春文庫がやっている「東西ミステリーベスト100」の作品
全部読んでいるのが前提だしな
俺はあまり興味ないからついていけん 2012年版のランキングtop10
1 横溝正史 獄門島
2 中井英夫 虚無への供物
3 島田荘司 占星術殺人事件
4 夢野久作 ドグラ・マグラ
5 宮部みゆき 火車
6 松本清張 点と線
7 天藤真 大誘拐
8 綾辻行人 十角館の殺人
9 京極夏彦 魍魎の匣
10 横溝正史 本陣殺人事件 横溝は文章がものものしいからな
集中して読まないといけない 閉塞した孤島、呪われた一族、連続殺人、名探偵、と
俺の苦手な要素が揃ってる 人間の弱さ、愚かさ、寂しさ、世の中の面倒くささ、文明社会の浅ましさ
そういったものが強烈に焼きついたほうがいい 人間の強さ、賢さ、ポジティブさ、世の中の面白さ、文明社会の進歩的で優れたところ
だけを抜粋して描くととんでもないブラックユーモアになる 何でも他人のせいにする人間は愚かだが
愚かさを自覚できないのも他人のせいなんだから
とりつくしまなど無い 俺はなんでも文明社会のせいにしている
俺が文明社会に依存しているのも文明社会のせいだ 自分が悪いとも思ったことはない
気持ち悪いとはよく思う 自分の弱さ、気持ち悪さの処理に手間取っているだけかもな 自分が自分であることが何よりも薄気味悪い
身体と心も伴ってないように思える 武家社会にはどうしても馴染めない
己の役割に徹しきることで己を高めるということ
武士として生きるならばそれを体得しなければならない
だから日本人の精神を武士の精神だとは思いたくない
実際は武士だらけなんだが
サムライ・ジャパンだからな 一見マスコミとネットの対立構図にも見えるが
スマップ自体が過去にマスコミ芸能界で人気を獲得して
今はそのお釣りみたいなものだろうから 武士になるには今川状やら実語教やらを書き写して覚えなければならんのか フリクションのボールペンで武士の教養を書いて勉強しよう
これで俺も武士だ! 儒学を本格的に勉強していたのは学者やマニアだけだったのか 葉隠の原書がネットで読めるが
達筆すぎて何が書いてあるのかわからねえ 雰囲気からして尊円流の書体だ
上流武家の公式文書に使われていた書体
まったくもって読めない http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/5tai/
くずし字のパターンが載っている優れたサイトがあった これ字の練習にも使えるな
お気に入りに入れておこう 大正時代か
検索欄を見ても今の字形と若干違っているな 文化庁で常用漢字の一覧PDFをダウンロードした
青空文庫とか読み漁っていた影響か、少なっ!ってなる
2000文字ちょいしかない 昔から使われてきた漢字の総計って4万とか5万とか種類あったはず ちなみにSF作家の星新一はショート・ショートを書くときには
分かりやすさを心がけるため常用漢字の表を壁に貼り付けて
それ以外の漢字は使わなかったのだそうな 一度漢字のおさらいをやるか
語彙が壊滅的に少ないからな
小説もまともに書けない 文化庁は親切で漢字の横に使用例として単語をくっつけてくれている 縦に並んでいるだけだから上から順番に目を通していけばOKだ
窮めるってまず使わないな俺は
奥義の習得のときに使うらしいが なんで武士になろうとしているんだろうな俺
まったく意味がわからん 簡単にいうと「右傾化」の影響を受けたというだけのこと 右翼と左翼に対する考え方はたくさんあるが
俺は右翼左翼というと古代ギリシア時代の価値観を基準に置いている 古代ギリシアでは左翼といえば知識人サイドと相場が決まっていた 日本は習慣と役割を重んじる社会であり
知識はそをを上手に回すための道具にされている
戦後左翼の知識人が2000年代まで大々的に活動していたが
最近は下火である 「ものづくりの精神」も今は下火で
もてはやすのは無理矢理感がある
システムに上手に乗せなければすぐに費えていくような状況になっている >神はAI? 元Googleエンジニアが宗教団体を創立
アメリカいつもこんなんだな
そのうちAIと結婚式挙げる人もでてくる コラネタに「プレデター対おくりびと」ってのがあるが
こういった発想をアメリカは素で実践するからな 要は、差異を生み出すことそれ自体が価値に繋がると考えている 差異は屁理屈で解釈すると「違和感」と言い換えてもいい ネタとして面白いかどうか、という価値判断は身内にしか通じないところがある 価値を生み出すことができるかどうかで物事を判断していると
面白さの意味も変わってくる
戦後日本はその罠に陥ってしまったわけだ
面白さはすぐに消費され、強迫的に新しいものに拘る必要が出てくる 普遍的な価値を求めている限りでは倫理も生きて来る
しかし面白さ至上にしているといつしか虚しくなるのは目に見えている 輪廻観の欠落している日本では
ループものの物語が受ける
死は日常と切り離し
黄泉という異世界へ置き去りにした リゼロのアニメを見ていたな
当時は面白かったが今思うと若干胡散臭い いくら西洋文明や仏教が入ってきても日本には
原罪と輪廻観が欠落している
西洋文明は加工物だし仏教には中国経由で現世利益の精神が混ざっている 日本古来の思想って何なんだ
儒教以前にあったのかそんなもん
場所によっては先祖の霊を敬って大切に祭ったりしていただろうがな インドネシアのほうから来た文化を取り入れたりもしていただろうな 日本に共通する心性なんて儒教の導入以前は無かったはずだ
縄文時代から連綿と続く島国特有の信仰なり生活の形態ってのはあったのだろうがな フリクションのボールペンマジで使いやすい
今まで使った中でも最高だな フリクションの青ボールペンでお手本を見ながら適当に字の練習している
インクがゲル状ではなく中々途切れないから気にせずザクザク書けるな よくある昔ながらのボールペンは途切れたりインク溜まりができたりして
若干使いにくい 新渡戸稲造の『武士道』を読んでいる
新渡戸は西洋文明フェチの一面もあるんだが日本の魂をなんとかして伝えようと
苦心して書いている
この本はおそらくアメリカで書いたものだな かつてアメリカ大統領にこの本を献上し
それをえらく気に入った影響でホワイトハウスに置かれるようになり
大統領ファミリーの必読本となったそうな
今はどうだか知らんが
ともかくそれくらい有名な書物 三島由紀夫、葉隠(武士の教訓本)の入門書を書くほどの作家だからな
武士の精神に対する偏愛をもっていたのかもしれない 三島由紀夫は『虚無への供物』も褒めていたな
アドニス会仲間だったってのもあるか
アドニス会とは男性同士の同性愛を題材にしたものだが
三島由紀夫は純粋なホモではなく「そっちの気」もある程度だったらしい ホモもレズも過度になると気持ち悪い
適当に馴れ合う程度でいいだろうに たまにもの専門用語が連続して出てくるものしいところもあるが また日本語が変になった
「ものものしい」の「もの」が瞬間移動したぞ
どうなってんのこれ ものが瞬間移動したのは
量子テレポーテーション実用化の示唆かもしれん
文明社会は恐ろしい・・・
早急にメタ意識を手に入れなければ
欧米学問に置き去りにされるぞ
ジャパンの武家社会は 腸管神経に同期現象を起こしてでも分散型のメタ意識構築が急がれる・・・
デカルトの残した宿題は複雑だ 松本清張は割と小さな人間だなと思う
ミソジニー(女性蔑視)とまではいかずともどこか女性嫌いの側面もあるな
しかし文章は丸くて落ち着いている
自分の資質を見定めて仕事をしているということか 社会派の大作家というイメージに比べて小さい、の意味 フリクションの使いやすさのせいで何かボールペンに覚醒しそうだ 早稲田塾の青ペン勉強法、というのがあってだね・・・ 「早稲田塾 青ペン」で画像検索をかけると
何をやっているのか一目で分かると思う
青はいわゆる「リンク色」で(ネットでもよく使われている)
広く繋がりをもったイメージとして残りやすいのだそうな 青ペン勉強法のおかげで赤ペン先生が減ったのかもしれんな 赤ペン先生は生徒に対し情熱的な赤い線によって
飴と鞭を使い分けた攻撃を繰り返す
赤はリンク色ではないが注意を喚起しやすい 義務教育のころは赤ペンでたくさん丸がついていると嬉しかった
そういうふうに洗脳されていた 緑ペンはいなかったな
緑ペン先生いてもよかったのに
注意喚起ばかりしやがって
テストの回答用紙には調和が欠落していた 緑は和やかな気分になるから
競争社会の答案には向かないんだとさ 赤い線を見えなくするのに緑色の透明シートがあったな
緑はある種、注意喚起の仕方を忘れさせてしまうのかもしれん 最近の俺、深い藍色だからな
赤と青の攻撃に飽きてしまった しかしリンク色効果を確かめるために
筆記具をフリクションの青に変えてみたらこれは使えそうだ
まだ青には可能性があるということかも
赤ペン先生はもう俺には必要がなくなった フリクションに熱心な信者が多いことは俺も知っていた 『点と線』の二回目を読むことにしよう
この作品はガチ古典的名作だからな
長さも適度で文章もキャラもトリックもよく立っている 50歳手前の作品とはいえまだ作家としては新進気鋭のころで
気合いの入れ方が晩年の作品とは異質だ
晩年はこなれてきて円熟味が増してより古めかしく丸くなっている
俺はこの要素に退屈さを感じていて読めなかった 名探偵やら安易な善悪観念を排除して
代わりに「どこにでもいそうな人間」によるゲーム感溢れるトリックと
人間味のある動機を組み込んだ 三島由紀夫はこういうの嫌だろうな
安吾さんなら分かるだろうが 清張の美術ミステリー傑作選があるな
これほしいかも
短編集なのかな? ヘッセは元気のあるときでなければ読めない
変な麻薬効果があるからな 清張の昭和美術ミステリーは古色蒼然としたイメージで鎮静効果がある フリクションで覚醒した状態ならヘッセに挑めるかもな
なんせヘッセのバック・グラウンドには強固なキリスト教の世界観と
第一世界大戦の恐怖がよこたわっており
その上にくどい言い回しの連続からなる自己憐憫の精神世界がのっかっている
読んでいると頭がラリってくるのだ >>523
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ \
/ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ \ \
/ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ \ \ \
/ / / / ̄ ̄ ̄ ̄. ̄ ̄ ̄ ̄.\ \ \ \ \
/ / / ../ . \ \ \ \ \
| | / ./ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ \ | .| | |
| | | .| / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\ .| .| .| | |
| | | .| | / / ̄ ̄ ̄.\ \ | | | .| | |
| | | .| | | // ̄ ̄ ̄\.\ | .| | | .| | |
| | | .| | | | ||∧_∧ | | .| .| | | .| | |
| | | .| | | | |∩・∀・ ∩. | .| 喰らえ!暴風雨! | .|
| | | .| | | | \\__/ / | .| | | | | |
| | | .| | | \ \___/ / | | | | | |
| | | .| | ..\ .\_____/ ./ ..| | | | |
| | | .| | \ (_) (_) ./ ./ .| | / /
| | \. \ \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ./ ./ ./ / /
\ \. \. \ \__________/ ./ ./ / /
\ \. \. \__________/ ./ / /
\ \. \_____________/ / /
\. \_________________/ / ゴー
\____________________/ ついにボールペンに意識の覚醒を頼るようになってしまった シャカシャカ
月月月月月 ; ;; ;;;;;;;;;;;;._、月_((/λ));;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
┳┳┳┳┳ ; ;; ; ;;;;;(<_,` / /.i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
┻┻┻┻┻ ; ;; ;;(二二_/_ノ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
|月月月∧_∧ ;;; ;;;;;i::::::::::::::i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
,/:::::::::::::::/⌒ ̄⌒ヽ)'ヽ;;: ;;;i:::::::::::::::i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
 ̄ ̄ ̄/;;;;;;;;;:: ::::ヽ;; | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
::::::::::::::::|;;;;;;;;;:: ノヽ__ノ: : :::::::: :: :: :
 ̄ ̄ ̄l;;;;;;::: / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 『点と線』の線は電車の路線のことで
点はアリバイを崩すための凝集点のこと
最初はもっと深い意図があるのかと思っていた 矛盾のない強固な四つの岩盤(事実証拠)を崩すために
全国走り回る刑事の地道な努力が見所 四つの岩盤っておかしいな
四つが強固に組み合わさって岩盤になっているというイメージか 三原という刑事がアリバイ崩しに挑戦するのだが
何度確信をもって調査しても裏切られるわけである 三原は少し勘のいいだけの普通の人物で
いちいち紙にメモして事実関係を確かめないと思考が冴えてこない これは読者にも一緒に紙にメモして考えてほしいという
清張によるゲームじみたサービス精神なんだろうな vipperの作ったフリーゲームに「終電論破」というのがあったが
あれと似たような頭の使い方をする
時刻表とにらめっこ 刑事が確信をもって調査するたびに崩されて、まただめか!となる
これが4度も5度も続くわけである 刑事のほうもあまりのガチガチのトリックにビビって自信をなくしていくのだ 遠距離の通信にまだ電報を使っていた時代の小説なんだな
新幹線も通っていないころ >>558
いわれてみれば面影がある
もう10年以上見てないからな・・・
大分ふけたね 山田悠介の『親指さがし』を読んだ
相変わらず世界観の因果関係がおそろしく希薄で
空虚な内容だが感情の切実さだけは描いてある 後書きにも「切実に浅い」ということを書かれている
空虚化してバラバラになった文壇に90年代から
子どもが「ワープ」してくるようになった、というのは確かだからな
それでラノベが大うけしたわけだし
主題の無い空虚な状況に子どもが放り出されて
生きた主題(バラバラ死体の親指)を探すために奔走するという
ある種内容のないホラー 空虚なシチュで感情の切実さを浮き彫りにする、という手法が
この作家の特徴だな
それで大人からは内容が無いと馬鹿にされるが子どもには大うけという 人間個人の主体やら物語の主題やら
本格的に考えられるようになったのって日本では戦後からだしな
明治時代には知識人や一部の苦労人だけのものだったのが
大正、昭和を経て裾野が広がった 欧米の文明にたよってそれを行ってきた反省として
今のネオ空虚な状況がある 空虚を埋めるために切実になるが
その努力も次の世代では空虚に映る アニメを「テレビ漫画」と書いてるあたりが昭和中期だな 俺の知識によると「アニメ」という呼び方が一般に定着したのは
宇宙戦艦ヤマトの放送以降だ
それまでは「テレビ漫画」だったらしい
そのころまだ生まれてないが 清張の社会派ってのは正義心から生まれてくるものではない 芸術も現代社会構造の中ではパターンに分類されていく
そこから抜け出すために芸術家が足掻いてきたわけである 1900年代前後に様々な芸術運動が起こっている
芸術家たちの足掻きの痕跡が見て取れる 芸術やるには完成を目指さなければ意味がない
唯一無二の完成されたものを求め続けるのが芸術 それでも大抵は「主体の表現」としての完成形であって
客観の世界に到ることはない
芸術が教えてくれるのは、真理とは主体が生み出すものであるということ 芸術を学問として解釈したときに「完成された主体的表現が客体に与える影響」を
鑑みた理論がたくさんできあがったことからもこのことがわかる 写真の圧倒的説得力の前に敗れ去った芸術家も多いだろうな 山田悠介の本は驚異的に読みやすいのがまず美点
時間をとらずに読める 日本語のちょっとした表現の違和感に拘る人なら逆に読み辛いかもしれん
「雰囲気」だけで読み飛ばすと速い 出てくる単語が軒並み小中学生が作文に用いるくらいの水準だし
文と文の繋がりも雰囲気で読みとれる 清張は淡々として平易な文だが大人が読むことを意識しているため
文と文の繋がりについて雰囲気だけでは捉えきれない 山田悠介の文章は視覚的イメージを優先しているからかもしれん
清張は社会に流通している概念を巧妙に使いまわす 見たり聞いたりした直接的イメージを繋げているから
速く読めるのだな
清張はちょっとした表現でも遠まわしな間接的関係性をイメージする手間がかかる 遠まわしな表現で場をやり過ごすのは大人のテクニックだな 会話シーンで互いに遠まわしな表現を暗黙に共有している場合だと
簡素な会話でも考える時間がいる
昭和時代特有の「間」についていけないと尚更
清張は親切だからそういった間を用いるときには解説じみた文もよくいれるが 「微笑」しているときに相手が喜んでいるとは限らないからな
微笑に含まれた要素も「間」を巧妙に使って受け取るのが日本流なんだが
それも昭和時代までの話なのかもな 微笑、含み笑いは緊張緩和のためのものじゃないからな
さてそろそろヘッセイチョウに戻るか 漫画だのアニメだのに嵌らなければよかったな
今更後悔するのもあれだが アニメは物心つく以前から毎日見ていたから仕方が無い
漫画は三歳くらいから読んでいた なんちゃってオタクよりは俺はオタク文化の歴史に詳しい しかしオタクって何のステータスにもならんし
後から虚しくなってきて時間の無駄だと悟った 何が問題なのかというと即物的なところで
後世に良いものとして残そうという気が起こらないところだ
そのとき楽しめればそれでいい、ってのは全部ニセモノ 後世に良いものを残す気のない人間は文化的ではないし
文明社会のゴミとして処理される運命にある
文明社会というのはそういうもの 宮崎駿などは俺からみればオタククリエーターの王様だが
あれはギリギリで良いものを残そうと努力しているから
文化人としての社会的ステータスを得ている 強い情念や魂の篭ったものだったら
表現が(歴史的に)浅くても認められるというのは確かだな ある種の未来視のできる人にとって
文明社会がゴミに溢れてどうしようもなくなるのは
もう明治時代から分かっていたことなんだろうな
作家でいえば芥川龍之介なんか分かっていたよね ゴミというのは外装的であり
消費すればポイされるだけのもの 自分の気持ちを伝えるための道具として創作を利用するっていうのは有りだし
実際に伝わってくるものもあるがな
その気持ちだってずっと守り通せるようなものかどうかよく分からない 自分がずっと守りたいと思うものだけ残してゆけばいい
あとのほとんどのことは束の間の意識の混乱に過ぎない
今の日本は欧米文明に振り回されて意識が混乱している段階だから仕方ないがな 今の状態で子どもに良い将来を託せるのか、という問題があるが
昭和時代まではまだ未来が良くなること(世界平和のようなもの)を
漠然と想像して託すことができたのだが
そんなものは西洋文明による錯覚に過ぎないと分かった 右傾化、右傾化といわれてるが
「世界平和」=天下泰平のような気分で過している人は
実際はグローバリズムについていけないし
ただ戦後左翼の流れに振り回されていただけなのでは
俺がそれだからな オタクは戦後左翼思想に振り回された人間の集りだからな
意識が混乱してどちらへ向かえばいいのかわからんので
キャラクターや物語を大量に消費しながら
主題のありかを求め続けてきた
オタクは主体的ではないが主題にはやたらと興味を傾けるからな
物語の解釈で屁理屈合戦をよくやっている 去年の9月からフリーゲームを大量にプレイしていたなそういえば
フリーゲーム界隈にもオタクだかゲーマーだかよくわからん
中途半端な作り手が多かった
この人本物のオタクだな、と感じたゲームはほとんど無かった
凝った構造のゲームで「SCE2」ってのがあったが
あれの作者は生粋のオタクだろうな 「物語を作っている自分」「ゲーマーとしての自分」に対して
過度に俯瞰的で理屈っぽい
それを一挙に前面に押し出したゲーム
プレイヤーの意識の置き場を段階的に別の領域に持ってゆくための
凝った工夫がしてある TV版エヴァンゲリオンの最終話をゲームで実践しているようなもん
自分を他者に置き換えて物語に没頭する行為に対するメタ視点の提供
メタフィクションの一種だな マニア気質で自己俯瞰的で理屈っぽい、というのが
俺の中のオタクのイメージ 可愛い二次元の女の子を消費するだけで満足、っていう俗にいう萌えオタは
オタクではなくてただの消費者 SCE2のゲームフォルダーには二種類のゲーム実行ファイルが入っており
片方のnot worldは部屋で女の子と会話するだけというもの
最初は女の子と「ゲーム全般」みたいな他愛のないオタク的な会話が進む
もう片方のSCE2ではアイテムを合成しながら地面を掘り進む形式の
探索ゲームが繰り広げられていく
SCE2の方は展開がどこかおかしくて次第にnot worldの女の子の会話の中に
SCE2のネタが出てくるようになる
他にも「ゲーム内ゲーム」が複数出てきて、その話題にも触れるようになる 素朴に感情移入していると
今自分がプレイしているのはどのゲームなんだ?と次第に
意識が混沌としてくるようなつくりになっている しかしこのゲームには「プレイヤーが自己俯瞰的なオタク精神を持っていること」
という前提があるので心の置き所はある
安部公房の『壁』のように心の置き場が無くなっていくような不安感はつきまとわない 最近『デカルトの密室』を読んでメタ意識について考えていたが
オタクの場合は自己主体と切り離した場所で「メタのメタ」みたいなことをやっているから
どんどんおかしな方へ特殊化していく メタ意識というのはあくまでも「自己を俯瞰するもう一人の自己」である 松本清張の遺作はGHQ占領時の日本が舞台の陰謀論小説だったのか
いわゆる「もく星号事件」だな
これは清張が70年代にも一度小説の題材として取り上げている 航空機事故の話で、事故の要因が天候の悪化、パイロットの操縦ミスなどによる
事故だったのか、それともアメリカ軍による「撃墜」によるものだったのかという話
清張はあくまでもフィクションとして「撃墜」の方を選んで描いている
今では撃墜説はただの陰謀論という見方の方が強いらしいが
清張の意識としてはアメリカを悪に見立てたかったのかもしれんな GHQ占領時は日本の航空機を全部ストップさせられていたらしい
もく星号はレシプロエンジン(ピストン型)搭載のアメリカ、マーチン社製の機体だ
当時はボイスレコーダーも無かったようだな 飛行機って脆いな
航空機事故の画像を見るたびに思うが 手元の本大分読んだな
そろそろ読む本がなくなってくるか
新しいのを探さねば >>628
オリンピックに向けてゴミの一斉排除を始めたようだ エロ本は簡単に見れないから欲しくなるものであって
目に付く場所にあっては意味などない エロ本も文化としてずっと残したい人もいるかもしれんな 手法としてみればエロ本の文化も90年代に出尽くして終わっているからな
あとは劣化コピーである klgm.xnhlb.xnlxbktglkx.ngbklxnl 異世界にワープすることに飽きると
オタクやコドモはどこにいくんだ GHQは日本を対共産圏のための中継基地に改造する予定だったらしいが
改造しきれないまま撤退したからな アメリカ文明をキチガイ思想と呼んでいたが言葉が悪いので
超常思想に変えるか 超常現象レベルのキチガイ思想
結局キチガイいいたいだけ しばらく文字をメインに生きるか
音楽だの映像だのに対して飽きが来ているな | |
__ノ .| _
| | | ノ\__ヽ
ヽ二二 ヽ -―- 、 | \ノ(◎)
_____/ /" ̄ヽヽ____|  ̄
/ / | | \
| // ̄ ̄ヽ | | \
.\ヽ \\ \ ジャーゴボゴボゴボ…
.\\ ( ゚д゚ ) ヽ \おやすみ \
.\\⌒⌒⌒~\\ \
\\⌒⌒⌒~\\ \
\\::::::::::::::::: \ヽ \
\\_:::::::::::_) )
ヽ-二二-― 山田悠介の『パズル』がおすすめだな
「奇抜な設定」だけでゴリ押ししたような
相変わらず中身スカスカの通俗小説 スピード感と視覚的感覚を重視した分かりやすいイメージの連鎖がある
それだけのこと 何がおすすめかというと
頭を使わずに速く読める!
これに尽きる 速く読めただけで何か自分の頭がよくなったような気がする 山田悠介はクソなのに常習性がある、という感想をよく見る
やはりこの空虚な時代に合っているということかな 「小学生レベル」は幼稚
「中学生レベル」は感性がとがっている 「高校生レベル」は背伸びしている
「大学生レベル」はテニスサークルで飲み会している 『リアル鬼ごっこ』の文庫版も買った
日本語が大分修正されているな あとは村上春樹の実験小説、東野圭吾、三島由紀夫などを買った 三島由紀夫は少しふざけていたくらいの方が面白い
金閣寺などのものものしい文章が未だ読めない 本命はレオナルド・ダ・ヴィンチの手記だ
昔の翻訳版だが
これをようやく手に入れた >>663
月のものだから、月にお祈りすれば良くなる(適当 村上春樹の『アフターダーク』読んでるが
これはかなりマニア向けだな
たぶん一般的なハルキストはあまり好まないタイプの作品だ 消費社会の何が問題かといえば、早いもの勝ちというところだ
先に主題を見つけて我が物とした段階で、あとは模倣を生み出していく 文化そのものが模倣だという人もいるがな
消費文明が模倣を一気に速めてしまい
いわゆる主題を味わうヒマすら無くしていった 山田悠介はどこまで計算でやっているのか知らんが
過去に使い古されて形骸化したものを
特に脈絡なくインパクトのあるビジュアルに乗せて押し出してくる
これが一種の俗っぽさ、幼稚さを感じさせる リアル鬼ごっこ200万部売れてるな
どんだけ空虚に陥ってんだよ2000年代の日本 以前、「恋空」の映画を見たとき
あまりのいかれた展開に白目を向いて引っくり返りそうになったな
あの感覚に少しだけ似ている ケータイで小説なんぞ書いていると
操作の手間から文章の短絡と物語構造の抽象化が進むから
何がいいたいのかよくわからない白昼夢的な展開に陥りやすい 感情の先走り感が『リアル鬼ごっこ』ではよく出てるが
ケータイ小説的な短絡ではなく一応大衆小説の体裁は守っている 同時進行で小説読むの苦手だな
一冊ずつ着実に読むか・・・ 東野圭吾はいかにもベタで分かりやすい小説らしい文章を書いてるな
国語苦手な子供でも頑張れば読める程度のベタで分かりやすい平易な文章 松本清張と東野圭吾をお手本にすれば
小説らしい文章は書けるだろうな ダヴィンチの翻訳本、難しい旧字体の漢字が多い
1954年に書かれたものだからな しかしこのダヴィンチの洞察力の鋭さは何なのだ
同じ人間とは思えん
分析と総合の観察を同時にこなしている 「自由のあるところに秩序はない」、と言い切っているな
これの意図が知りたい
常識人はよく、秩序があってはじめて人は自由さを手にいれる、などとほざくが 進学のエリート高校が舞台なんだが
勉学に力を入れるあまり、部活動や運動場や学園祭が無いという設定
体育会系ガン無視!
それで突然武装団がやってきて担任を人質に変なゲームを仕掛ける
そのゲームもルールもクソすぎる! 【CM】今度はサザエさんが高校生に マスオが一世一代の公開告白…日清食品カップヌードルCMシリーズ第3弾「HUNGRY DAYS」
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1511319972/ >>684
オリンピック前に調整したか
>>685
もうサザエさんじゃないな・・・ 『リアル鬼ごっこ』は駄作じゃないな
奇書の感覚に近い 因果関係希薄な世界設定、即物的且つ衝動的な台詞の応酬
インパクト追求のビジュアルイメージ、
間抜けさと切実さの入り混じった展開、雰囲気だけで読めるが
よく見ると微妙な日本語 感情とビジュアルイメージ優先で
日本語は出たとこ勝負だろうな 朱子学は大学・中庸を改竄して排他性を付け足したってほんとなのかな 体系化して権威に仕立て上げるために優しさを取っ払った、という意味かもしれん いわゆる修身や学問、天下を治めるための原理が書かれた知恵の書だ
中国官僚の登用試験である科挙では必修だったらしいな 科挙では四書五経にまつわる解釈や政治に対する
自分の意見などを答案に論述する試験だ
実際の答案を見たことあるが漢字ばかりで読めなかった
100年ちょっと前まで普通にやっていたからな科挙 >>696は大学、中庸のこと
論語はいわずもがな孔子周辺の人が伝える教訓の書
もう一個は論語のサブアレンジのような書 儒学は日本人にとって意識する、しないに関わらず
習慣レベルで働いている原理のようなものだから
身に染み付いてしまっている
その源流を知るのもいいかもな 日本仏教から輪廻観が欠落しているのと同様
日本儒教には宗教としての側面や叡智としての側面が欠落している
あくまでも天下泰平の道具として取り入れてきたので習慣的に作動しているだけ 明治以降は欧米文明とも混ざり合っているからな
これはもう宗教でも何でもない
日本人が宗教無しで社会を維持できるのはそのためだ
ミックスがとにかく巧妙 改訂版(文庫版)のリアル鬼ごっこ読んだがインパクトがすごいな
この作品は最初自費出版でネットの口コミから話題になったという作品
アマゾンのレビューではぼろくそに貶されている
2001年の作品でネット文化の裾野が広がり始めた頃だからな
噂が噂を読んだという感じなんだろう 天や徳の思想も日本では習慣化されている
精神文化としてはどうか知らない 馬鹿王バカすぎる
ダヴィンチがすごいのは感性として捉えた全体像を全部分析的に
思考の内に捉えることができたところだ
芸術と科学的観察を同時にこなしていたと思えばいい 天才天才といわれているが
実際は活動するときにはものすごい勢いで
感覚と思考力を働かせていたのだと思う
勘だけではああはならない ダヴィンチの手記を今読んでるが
観察の方法がすごくてよくわからん
自然哲学的であり科学的であり芸術的でありポエム的でもあり
どこか狂人のような着眼点ももっている 眼のことを「魂の窓」と読んでいる
これに映ったものをすべて分析に見ることができるらしい 植物は自然の方に運動力を委ねているから
痛みを感じない、ということが書いてある
よく考えると「自然」という場合に俺は植物のことを真っ先に連想してしまうな 人間は植物に対して「痛みを感じないさま」を連想し
憧れているに過ぎないのかもな
植物がいちいち刺激に対してビクッ反応したり悲鳴をあげていると
こちらもビビって近寄りたくなくなるからな
植物が自然なのではなく、自然に身を任せている、という考え方か
さすがダヴィンチだな 『アフターダーク』がよくわからん
マニア向けだ
会話シーンは春樹のノリだが全体的に無機質でドライでほの暗い
ストーリーを追いかけている気がしない 意識世界と無意識世界をコンセプト化したものを
相克の形として表現するのが全盛期の春樹流なんだろうが
この作品ではそれがなくなっている
実験的無機質小説という面持ちだ
筒井康隆の作品でいえば『虚人たち』くらい無味乾燥でドライ まだ適当に軽く読み飛ばしただけだから印象変わるかもしれん 漢文訓読体はなんとか読めるが漢字の羅列になると無理だ 改訂前の『リアル鬼ごっこ』に出てきた変な文章
・二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた。
・そう遠くなく、近いようだ。
・ランニング状態で足を止めた
・いざ、着地してみるとそこは森の様な草むらに二人は降り立っていた
・うっすらと人影がかすかに現れた
・遠く離れると横浜の巨大な遊園地ができた
・ましてや数分間で全てを思い出す事は全く不可能だった。翼は思い出す。
・しかし、翼の心境が大きく変化したのは彷徨い続けてから、その直後であった。
・大介があまりに耳を疑う発言をした瞬間、ベートーベンの交響曲第五番『運命』が翼の脳に響き渡っていた。
・そして、翼はこれが一番の衝撃を受けた。これは、それ程まではっきりと見えなかったが、
・王様はその意見について顔を見ながら『この意見はよいと思わぬか?』と意見を尋ねた。
・翼は森田との出会いによって、一枚皮がめくれたというか、たくましくなった。
・翼と愛は鬼ごっこ体制へと体を硬く引き締めた。
・翼は辛い表情を浮かべながら、写真から強引に目を引き剥がした。
・翼はそれに気づくと腕時計に目をやった。アッという間に時は既に九時半を回っており
・苦しそうに呼吸を繰り返すだけで、息を吐いては白い煙が舞っては消える。
・そこには目の前に九人の鬼達が翼を囲むようにして全ての鬼が地面に落ちた翼をゴーグル越しに見据えている。
・翼はリュックを片手に後ろを振り返り、それでも堂々とした歩き方で振り返る事もせず、皆に別れを告げた。
・翼は辺りをキョロキョロさせながら
・鬼達はピタリと足を止めた。翼達に標準を合わせている。
・翼は輝彦から教えられた住所を頭の中で何回も唱えて、頭に叩きつけた。
・そのボリュームといったら耳をふさいでもハッキリと聞こえてくるぐらいの盛大な演奏だった。
・翼は驚きのあまり視線がハエを追いかけている様に一点に定まらない
・おやじ……あんたも老いたな、と翼は心でそう呟き、腰抜けた輝彦に背を向け
・それはよく、変態おやじが電車で痴漢をした時に、された女性が鳴らす警報機によく似ていた。
・中年のおやじが風呂に入ってからの第一声に、その意味は全く別だがそれに似ていた。 しかしこの程度のおかしさというのは「雰囲気」で読み飛ばせるからな
なんとなく視覚的にイメージできればいいのだ 文庫版では直ってるがそれでも地の文が絶妙に違和感ある
それでも高速で読み飛ばせるのだからすごいな 佐藤探知機ゴーグル
日本の全企業に命令して三日で完成させたんだな
すげえ技術力だ 感性について
ダヴィンチは感性を「地上のもの」といっている
感性が地上のものであることを観照したときに
理性がその外側にあることが分かるらしい
つまり地上で感性を働かせている自己を理性的に
外側から見ることができるのか 観照というのは極力主観を交えない冷静な観察のこと
ダヴィンチはどうも「自分以外のもの」を主観的に観察していたわけではなく
感性を働かせている自分自身を含めた「外側」から物事を見ていたようだ >>726
虞干論における廿拘束を勒馭者として僉括しているようですね >>729
和月ってすごいオタク気質の作家だから
あまり違和感ないな・・・ 捨てようかと思いますお・・・
/⌒ヽ
( ;ω; )
(つ夢と)
`u"u´
ナデナデ ナデナデ ナデナデ
ナデナデ ナデナデ
/⌒ヽ
/⌒ヽ( ^ω^)/⌒ヽ
( ^ω^)U)) (^ω^ )
⊃)))( ;ω;)(((⊂
/⌒ヽ∩))((∩/⌒ヽ
( ) ( )
ナデナデ ナデナデ ナデナデ 四書の「大学」を現代語訳無しで読んでいる
読み片はついてるけど半分くらい意味がわからない
何ヶ月も前から窓の外にジョロウグモが巣を張っている
最初の頃小さかったのに最近すごい太り始めた
たまごを産むのだろうな・・・ 寿命が1年くらいで、秋ごろに卵を残して死ぬらしいから
今がちょうどその時期か 台風きたときも暴風雨に耐えたからな
あの糸すごい丈夫 蜘蛛の糸を鉛筆の太さに束ねるとジェット機も捕獲できるという話があったな
実際にやるバカいないだろうが 漢文を読んでいると意味はわからないが心が落ち着く
最近おかしいな 文字嫌い、松本清張嫌い、漢文大嫌いだったのに
たぶんヘッセのひらがな応酬に疲れたからだな ダヴィンチの手記を読んでいて思ったのは
痛みというのは自然の大きな運動に反する作用から発生していること 器官にとっては痛みが危険信号として働き救いとなるが
身体的苦痛というのは精神にとって害悪なのである 精神は自然を求め、身体は反自然の運動を取る
こういった矛盾がある 人間の身体が植物の栄養素を必要としているのもそれか
麻薬にせよ植物由来がかなり多い
人は古来より痛みの緩和にそれを用いてきた 虫やプランクトンなど
死をもろともせずに数とシステムで勝負をかけているような気がしている
人間も次第に虫化している?? 人間は骸骨格じゃないからな
システマティックに外界に適応する体ではない
あくまでも中間者(パスカル)か 山田悠介の読みやすさは本当に異常だな
読み始めて、「なんだこのクソ展開・・・」とつぶやいていると
気がつくと200ページとか進んでるからな 視覚的イメージ、感情、雰囲気だけで読み飛ばせる
映画化しやすいわけだ
ある種、寓意のある星新一などよりも読みやすい 星新一はいちいちペーソス、アイロニーを意識しながら読む
文章わかりやすいけどさりげなく含みのある表現に来ると眼が止まるからな 日本の仏教は諦念、空、無などに通じているらしいが
その先何があるのかさっぱりわからないから怖いというのがある 儒教の教えは基本的に生の幸福についてで
中国の仏教にはこれが含まれていた
日本の伝来したときにはすでに加工されたものだった 俺はインドの原始仏教についてはさっぱり分からない
最初から「生の苦痛」からの解脱を目的としている雰囲気がある ジャイナ教の教義の中にそれをダイレクトに見ただけであって
実際はもっと奥深いのかもな 日本の「おもてなしの心」ってかなり特殊だな
外国人が珍しがるのも分かる気がする
俺も珍しく思う
俺は外人かしかし 岩波青版の孫氏、論語、大学・中庸を買った
じっくり読むぞ どれもインターネットで読めるんだがな
本のほうが落ち着いて読める 孫氏は中国最古の兵法書
おそらく論語と同じく紀元前400年頃の本 史記の翻訳も買おうと思ったが読める気がしないのでやめた
長すぎる 欧米についていくのはかなりしんどいぞ
多様化する学問と柔軟なコミュニケーションが常に求められる
俺は心の安静が欲しいからな
古代中国へ戻ることにしよう 人間はどうしようもないアホだからな
落ち着く方法を見つけなければならん 松本清張の『昭和史発掘』を読んでいたが
芥川龍之介の自殺に関する考察が少し俗物的で
これが松本清張だな、という感じがある 『昭和史発掘』は小説ではなく昭和時代の事件の中から
ニュースにならなかったようなものを大量の資料と清張の考察を交えながら
紹介するという一風変わった本だ 事実関係からあれこれと可能性を考察することにかけては一流なんだが
考え方として型に嵌っているところが清張にはある
それが量産作家の宿命なのかもしれん 作家としてのカラーというか「清張節」を意識して
あえてそれしかやってないのかもな 漢文が良いのは、読み辛さに耐え続けていると
平易な日本語を読んだときにすぐに解釈できることのありがたさに気付くこと 前川祐のミステリー小説を買ってきた
文章の読みやすさに惹かれたからだ
内容は知らん 新人賞受賞作と書いてあるから若い人だと思ったら
還暦越えたベテランの作家だった 作家というよりこの人は大学の教授だな
作家は副業みたいな感じか 志賀直哉に挫折したショックで変な方面にいってしまったな
まあいい続行だ 中国古典の漢文はマジで脳に来るな
時間の流れが現代文とは違う 現代小説は騒々しいからな
なかなか落ち着いた気分で読めない やはり論語だな
道徳のバックボーンとなる古典中の古典 しかし松本清張、1960年代によくこれだけの資料集めたな
毎日図書館や新聞社を回っていたのだろうか >>793
r──────────┐
| l王三王三王三王三l o==ニヽ
| |王三王三王三王三| .| //
ゝ 乂━━━━━━━乂_| `-=
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ / / / / / / /
〆ヽヽ / / /⌒ヽ 暑いのか寒いのか/ /
|-─O~~~ /( ;^ω^)分からないお γ⌒'ヽ
ヽ_/ノ~~ //\旦 ̄ ̄\ 〜〜i ミ(二i
___||__ // ※.\_(:';;)_\ 〜 、,,_ | |ノ
\。 ..\\\※ ※ ※ ※ ※ヽ .r-.! !-、
 ̄ ̄ \`二二二二二二二ヽ`'----' セックス!まんこ!ちんぽ!おしっこ!うんち!ちんちん!まんまん! 分からなくてもとにかくザクザク読み進める
どの道理解できることというのは世の中にほとんど無いのだから しかし朱子学が未だに官僚の規範として生きているからな
今岩波の『大学・中庸』を読んでるが
これは元々朱子が書いたものじゃないんだが
これを権威付けしたのが朱子ということらしい 『大学・中庸』は修養の書として本物だがな
体制の道具として権威付けしているうちに
思想の大切な部分が抜け落ちてしまうのが宿命なのか 中国は母権社会を元型としており
その上に父権社会の道理をくっつけて無理矢理統合している、
というイメージがある
朱子が権威付けしたのは恐らく父権社会を意識してのことなんだろうと思う 朱子はかなりの曲者だからな
中国のアリストテレスだと勝手に思っている 当時の国の政策に反対していたおかげで科挙の点数が低かったらしいが
おそらく頭脳はかなり明晰だったと思う 仮に俺が儒教を猛勉強して科挙を受けたとしても
答案用紙の汚さで落とされるな 医学教育の本を読んでいた
医者になるのにあほみたいに金掛かるんだな
今はどうだか知らないけど
80年代の本だから 昔は研究者としての側面よりも聖人君主としての潔白な側面が
医者に求められていたからな
努力が認められ難い状況だったらしい 東野圭吾の文章は松本清張に影響うけてるが
清張よりも随分読みやすい あ、東野は元電気技師なんだね
技術者っぽい設計で文章を書くのかもな 電気回路の設計とか、経路のバランス配分を完璧にこなさないといけないからな 東野の文章はこれといった特色はないが
どこ見ても理屈で綺麗に統制されている感がある 反権力なのか権威主義なのか分からんような立ち位置
基本的に弱者の味方寄りだけども、それを大きな権威に平均化されてゆく
弱い存在として描く
大きな力を無駄に振るう存在が嫌いなんだろうね 自殺関連のスレを見ているとよく仏教観出てくるが
そこには一応輪廻の思想が通っている
でも何かがおかしい よくある解釈が、輪廻から抜け出すための修行期間としてみれば
人間に生まれた今が一番のチャンスだ、というもの
自殺はカルマを生み出すだけだからやめなさい、と言いたいのだろうね 自殺やめてジャイナ教に入りなさい、といってるようなものだ(俺の解釈) 自殺は考えたことは無い
精神的苦痛に苛まれているときに消え去りたいとはよく思っていた 自殺も他殺も俺の中では変わらんからな
別にどちらが悪いというわけでもない
何某かの事情があって、どうしてもやらなければ気がすまなかった、
という場合に限るが 現世利益の国で生きている影響かリスクで考える癖がある 山奥で瞑想しながら餓死するのがいい死に方かもしれん 自分が自分であることが一番の不快で
この不快に耐え続けるのが生ということ 不快を誤魔化すために人は愛や死を文化として「発明」した
本来人は皆孤独であり、自分の死を受け入れるために生きるのが正しいのである 近代社会では他人の死を自分とは無縁の場所で起こっている
虚像のように感じて「娯楽」として楽しむ人もいるだろう 現世利益の国で生きている影響かリスクで考える癖がある
近代社会で生きている影響か娯楽に興味をそそられる 2chも娯楽みたいなものか
書き込みボタンを押したらスレッドの数が伸びるからな
ハハハこれはたのしい オカルト板で昔よく煽り合いしていた
むかつくやつは皆殺し、というスローガンを胸に しかしインターネットでやりあっても誰一人殺せなかった
これは虚しい 言葉の暴力ってのは確かにあって
言葉で傷ついて死ぬ人もいるかもしれんが
実際の暴力の怖さに比べるとな・・・ 画面に手を突っ込んで、むかつくやつのレス番から本人をひきずりだし
滅多刺しにして殺そうとしていたこともあった
かなり精神的に追い詰められているときはそういった
妄執にとりつかれた状態になる
今ではもうないが精神的に脆いところがあるからな俺は 正義心が強かったな
ただ、相当歪んだ正義だったと思う
セルフイメージと切り離せないから
俺のセルフイメージの領域を傷付けるやつ=悪として憎んでいた
盲愛と憎悪に支配されやすいコースだ >前文部科学事務次官の前川喜平氏がネトウヨに言及「教育の失敗」
これは合ってる
教育の仕方が悪い ネトウヨを再教育すればいい
俺も再教育受けたい
古代中国からやり直せ ゴミを燃やしたときの熱を利用した温水プールってあるな
ゴミ熱プールか・・・悪くない 地球の生き物の大半にとって
太陽は正義だよな・・・ レオナルド・ダ・ヴィンチの手記にも書いてある
太陽の火こそ真理であると
闇を駆逐する真理の光
しかし、絵においてダヴィンチは
光よりも闇の優位性を唱える・・・ これはいわゆる人生論と絵画論の違いってことだな
前者の闇とは人のもつネガティブさの例えである
光と闇の対立はほぼ観念の世界の話となる しかしダヴィンチの手記、バラバラに断片を並べて翻訳してある影響か
気まぐれな性格にも思えてくる
極めて理知的で観察眼の鋭いところと、気まぐれなポエマーなところが垣間見える 人間存在に対して厳しい格言めいたことをたくさん残してるが
自分に対する戒めでもあったのかもしれない 引間徹という作家の本を読み終えた
今までに無い感触の小説だったな
小さくまとまりすぎている感があるけど完成度は高い いわゆる身障者が主人公で競歩に精を出す話だ
都市の無機質さを風景描写のように短く切り取った文章が多く
それに対比させるように主人公の荒々しい身体的表現を描く
なにか生きている充足感のようなものを表現しようとしている なめらかな文体ではなく若干ラフで勢いに任せた感がある
けどそれがいい味を出している 面白いというよりも束の間みずみずしい気持ちになれる
若返りたい人におすすめ 構造ゲノミクスの論文を読むぞ
計算論的神経科学の論文を読むぞ
実証政治理論の論文を読むぞ
応用言語学の論文を読むぞ 科挙の試験問題の具体例を見ていた
ここでもやはり朱子が顔を出しているな
朱子学から見た旧儒教、という観点も大事だったのか 1300年間も続いたんだぞ、科挙
日本の大学入試センター試験なんてたかだか数十年の歴史だ
みんな、古代中国へ帰れ(酷) 文革前はみんな毛筆を使って字を書いていたんだ
シャーペン、ボールペンはいうに及ばず
万年筆、鉛筆も廃止だ!! あ・・・俺の愛用の・・・フリクションボール(青)がッ・・ 科挙の試験会場狭すぎる
上の絵では人が小さく描かれているが
実際はもっときつきつだったはずだ 実際はこれくらいだろうな
喉が渇いたので私はジュースを買おうと100円玉をポケットから出すときに
秋の曲がった気配に誰もあいつの三味線がフライングしていたのだったが
自己紹介が遅れましタ、アイアムウインドブレーカー略してサラリーマンの
悲哀ですと脳みそがいったとき時計の針はちょうど渦巻き模様に破裂したいた 子、曰く ゆえに我あり つれづれなるままに
おごれる者もナムアミダブツ アーメン 道徳教育なんて昔は無かったんだな
単純に「修身」の思想で事足りる
>日本の道徳は、自然を愛した古代日本人の心情を基調とし、
それを応神天皇の頃に伝来したといわれる論語などの言葉を
当てはめて説明されるようになった。
以来、天皇の理想的統治形態は徳治であるとされ、
それに基づく帝王教育がされてきた。
また、清和天皇以降の歴代天皇は、
名前に「仁」の文字をもつのが慣例となった 俺の解釈では
日本人の古来からある心情で論語と大学・中庸を解釈したものが道徳なのである 道徳害悪論を唱える人がわりといるな
それはおそらく「修身」が身につかないような
義務教育の腐れ道徳教育に対していっているのだろう 道教はどうも世界観が複雑で手を出し辛い
いわゆる仙人の出てくる神話的な物語の延長にあるんだろう
老子も道徳を修めた人間だからな 中国密教の極意は西遊記に分かりやすくコンセプト化されているらしいが
それにもあまり興味がない
道徳の世界じゃないからなあれは 言葉でうまく説明のできない密教的な極意は
エンタメ作品の中にもたまに出てくるだろう
ドラゴンボールやドラクエなどもそれにあたる ドラクエは思い切りコスモゴニー寄りだが
ドラゴンボールはまだ西遊記の体裁を保っているといえる ネトウヨに修身教育をお願いします
義務教育は戦後左翼のせいでおかしくなってしまいました 俺は戦後左翼ブームの影響で洗脳されて幼い頃からオタクやっていたからな ネトがついている時点でウヨじゃないんだよ
気付け! オリンピックまでに修身をがんばって
論語の世界記録を出したい 煩悩、雑念、強迫観念が多すぎるな
たしかに古典の漢文を読むだけでも多少の修養にはなるだろうが・・・ ・日本古来の心
・論語、大学・中庸
・仏教(諦念用) ここから欧米文明へ飛躍するには更に高度な精神を身に付けねばならん それは、原罪への挑戦である
古神道には原罪など存在せんからな >>896
a- a- nanimo kikoe nai. スタンダールの「ほれぐすり」を読みたいのですが見つかりません >>898
aruaru.
>>899
これのことじゃな
真面目に儒学の勉強に勤しんでいたのだが
幕府が勝手にアメリカと取引したことに激怒し
変な計画を立てて斬首された 松陰は維新推進派の人間だったが
急な政策を取ろうとはしなかった 国を守るための方針を固めるために活動していたのだろうな 幕府官僚の規範はすでに朱子学だったからな
古儒教派とは確執があったんだろう
なんせ朱子学になるとエリート育成教育が基本になるから 国学も国粋主義が暴走しすぎて
仏教、儒教排除!となれば歪んだ尊皇攘夷運動に通じていく 吉田松陰も幕末期の思想の混乱に少し頭をやられてしまったらしい 日本はいうほど学歴社会ではないが
知的エリートでなければ中々上にはいけないようになっている 義務教育は朱子学の支配下にあるといっても過言ではない
古儒教の道徳は日本の義務教育では形式的にしか教えない 孔子はこのようなことをいっている(原文の意味に忠実ではないが)
智のある人は変化に対応できるので水の流れも楽しむことができる
仁のある人は山を眺めても心の安らぎを得ることができるので長生きできる
仁というのは人としての性質のことである 変化を素直に楽しんだり風景を見て心の安らぎを得たり
そういった普通のこともできなくなるのはどうもな 「争いを楽しむ」という発想の転換をやらかす人間が多いのだな 戦後左翼に振り回されてオタクになる程度の人間だから俺
幕末動乱の時代で必死に自分の意思を通そうとしていた人の気持ちが
中々再現できない 最近ほんまになーんも考えてないな
脳裏にくだらんイメージが浮かぶばかりで 芥川龍之介の「蜃気楼」を読むか
なぜかこれが好きだな
穏やかな不気味さがあって 精神安定剤は論語と松本清張でいいな
新しい興奮剤を探すか 古野まほろ、清涼院流水、舞城王太郎あたりの文章で興奮できる感性が俺にはない
あれはもう疲れるだけ 西尾維新はギリギリいける
どうでもいい屁理屈が多いが言い回しに奇妙な味わいがあるからな 最近のラノベ事情とか細分化しすぎてまったく分からん 円城塔のようなある種邪道な手を使う人が意外と大穴なんだな
大穴の意味わからんが 明治天皇の出した「教育ニ関スル勅語」のおふれは
当時の最高規範だったらしい
これも例に漏れず朱子学寄りの新儒教の延長にある思想だった 文章のスッキリ感では東野圭吾が圧倒的
シンプルで平易、気取っていない 松本清張は淡々として事実を並べるような雰囲気だが
妙に引っかかりのある表現をよく使う
東野はそれをなくして平坦に仕上げた感じ 村上春樹の『アフターダーク』は中身滑らかでドロっとしてるが
空気が無機質でなんとなく不気味
でもコアな雰囲気が気になる仕上がりだな 文章そのものは有機的で、全体に漂う空気感が無機質ということ 集中して読書したいのにイライラしてだめだな
眼が疲れている影響もあるか 昨日、ブックオフにいったら三歳くらいの子供がずっと走り回っていて
母親とおぼしき人が「店の中だから走らないで」って頻繁に注意していた
母親は怒らずに冷静に言っているのだがどちらかというと
感情が篭っていないようだった
子供はいうことを聞かずに延々と走り続けていた 「店の中だから走らないで」の意味が俺にはよく分からなかった
店員だって呼ばれたときによく走ってるのに みんなが走り回っていたらぶつかって危ないでしょ、っていうと説得力があるが
みなゆっくり商品探しに集中していて誰も走っていないからな
子供にとっては安全な遊び場に見えたんだろ ブックオフの中でみんな走り回っていたらシュールだろうな
ビビって入り難い >>900
あらすじ、それです!
本で読みたいんですがどうやって探せばいいですか?
日本語じゃないと読めません *゚ ..。* . * 。 .。* +。.. 。* .
* 。 * . +。 * +。
。 * .。 ∧_∧ ヘ⌒ヽフ..。 +。.. *
* .。* (*´・ω・) (・ω・ )..。* . * 。
+。. と' つ⊂ つ.。* +。..
* +。 (__ノ_ノ´ (__ノ_ノ ..。 +。..
. .。* . * 。 .。*
どようびを迎えた喜びが この胸にあふれてる
きっと僕らは 自由に空も飛べるはず 77 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイWW 5fba-D0ne)[e] 2017/11/24(金) 17:24:12.62 ID:7cy0D0BS0
香取慎吾のツイッター
中卒の語彙力炸裂しまくっててワロタ >>947
岩波赤版の『カストロの尼』なら近所のブックオフに売っていたな
それに収録されているらしいですが
品番と書名をメモって本屋に注文すれば取り寄せてもらえますぜ
品切れの場合はあれだけども・・・ >>948
空を飛ぶ夢も見なくなってしまった
>>949
アイドルは語彙力なくても成立しまっせ よく批判されている道徳観というのは封建道徳のことだ 松本清張の子供の頃はまだ高等小学校の時代だったんだな
清張本人はいわゆる今でいうところの中卒で貧乏
おまけに両親は不仲という状態で過していた 人生を楽しむことよりも生活の安定を第一に考えていたそうである 新聞社では記事ではなく広告部でデザインの担当やっていたのか
てっきり普通の記事を書いていたものだと思っていた 紀元前の時代から中国の貨幣には漢字が刻印されており
日本へ最初に漢字が入ってきたのは
貨幣を通じてではないか?という説がある 論語原文に出てくる「鬼」って死者の霊魂のことだったか
解説がないと普通の鬼として解釈していたな 漢字の元型は殷の時代の象形文字で、これは主に
うらないや祈りのときに神との対話として用いられていた
すなわち漢字はオカルト(酷) 装飾性を重んじていた象形文字を、線をシャープにして
天地のバランスを整えたのが現在流通している漢字 ひらがなは日本固有の「音」の文化を漢文に組み込むために
漢字を簡素に変化させたもの ひらがなとは日本の心であると同時に
崩された漢字の叫びでもある
いとあはれなり 売り切れて『赤と黒』しか置いてなかった
代わりに西尾維新を買ってきた 昔はエロが豊富な信長書店っていうところに友達を連れてよく通っていた 俺がエロ本を漁り始めたのは幼稚園のときで飽きたのが高校生のころ
でもインターネットではエロサイトを毎日見ていた エロ幕府、とかいうネタ的なデザインのエロサイトをよく見ていたな
とっくに消滅しとるけど 幼稚園でなぜエロ本が読めるのかというと
近所の公園の林にたくさん落ちていたからだ アニメのOVAも落ちていたし
洗濯機とか冷蔵庫も落ちていた
要は暗黙のゴミ放置場と化していた 他にも島崎藤村の晩年のエッセイ集も買ってきた
これは修養向けの落ち着いた本
精神安定剤 島崎藤村は「簡素」という概念を好んでいたらしいが
藤村本人は割と煩雑な煩悩に悩まされることが多く
簡素な暮らしができるように毎日苦心していたようだ まだ性欲あるけど
わざわざバイアグラやエビオス錠などで活性化させたくない 恥ずかしくても消えないものは消えないのだから仕方ないがな そんなタワゴト通じないから
文字を読むしかないがな 西尾維新のラノベはだめだがミステリーはぎりぎりでいけるな
文章に味がある 島崎藤村の晩年エッセイは心が落ち着く
おそらく意図的に落ち着いた文体に現代語訳してあるからか
青空文庫で藤村を読むと少しものものしいからな ちんげん菜wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>986
聞いたことある名前だ
>>987
華南原産だぞ 美は調和への志向性を持っているが度が超えると重圧感に変わる 醜や悪の反動から美に突っ走ると重圧を食らうからな
それで西洋人が狂っていった すべての罪を無に帰す至高の愛は人にとって重圧に他ならない 西尾維新の欠点はキャラクターがしょーもないところだな
これさえ削除すれば良くなるのに 虚無への供物以降オタクに媚びを売るミステリー作家が増えた
京極夏彦もそうだからな このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 12日 16時間 22分 37秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。