ゲロ宗教象徴発狂懇談会
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
すぐに解けるが細かな連投規制がひどい
昔の糞規制に比べたらマシになったのかも 近代以降、理系学問が重要視されるようになっていったのは周知の事実だが
ここでは思考の規範が言語的なものに求められてゆく
ここでいう言語とは数学言語の体系である 日常で用いられる言語は文脈に依存しているが数学では文脈を飛び越えて形式的に記述することができる
しかし数学言語によってでは知識の背後にある情報が必然的に切り離されるという問題から逃れ得ない 数学における徹底した知識の形式化はデカルトの心身分離に遡ることができる
数学のこうした動きは人間の身体の問題とは別の次元で独立して起こっているといえる 数学が人生の何に役立つの?という疑問がよくあるがこういった疑問が出てくるのも
上記のような本源的な分離が有るからだ 日本では江戸時代に官学(官僚が修める学問)として朱子学が取り入れられたが
これは儒教の中でも特に理の働きを重んじるものであり理系学問とは親和性が高かった ソクラテスから続く西洋精神主義の系譜としてデカルトを見ると自分とソクラテスが無関係とはとても思えない 世界遺産級の本を2冊読んでいるが怖くてなかなか進まない 新オルガノンと副題のついたこのベーコンの本は特に怖い
既に絶版だが中古で定価の3倍以上出して手に入れた 自分を慰めるための分かりやすく都合の良い本は読むのをやめた
それは自分のためにならない ベーコンが神学と無縁かというと逆である
93章目に神の最高善が発端になければならないと明示している
ダニエル書からの引用も見逃してはならない 諸学の進歩が天命とも書いてある
カルヴァニズム的な解釈である 17世紀から18世紀にかけての理系主要分野は力学だった
原子が不変の質量を物質に与えていると信じられていた
それが様々な可変的性質を備えていることが分かり崩れていくこととなる 観念論から抜け出すのは難しい
たとえば自然を観察するときに人間の精神を基本に置くか、それとも自然の方を基本に置くか
前者は観念論に、後者は唯物論に陥りやすい ベーコンはそもそも人間の感覚、知覚も信用していない
では経験の光とは一体何なのか 最高善でベーコンとアンセルムスがつながった
ホラーすぎるwwwwww レーニンの時代、物理学が危機に貧しており
物質が消滅したァ!と泣き叫ぶ学者がいたそうである
今まで不変だと信じていたものが一気に崩れ去ったからな 知覚というのは厄介で、主体だけでは「存在」すら認めることができんのですよ 人間同士の相互承認によって自分の存在に安心感を得るという図式があるが
ここに個人の自由など無い 人間の愛以前の問題として最高善の本質について考える必要がある
西洋の表向きの寛容さに騙されてはいけない キリスト教は独善的なのではなく人の弱さ、原罪を乗り越えるべく絶え間ない自己批判を繰り返してきている
そもそも免罪のために大量の罪が要請されるような構造になっている アリストテレス形而上学を読み返している
第7巻の6章、みんなこれに2千年間振り回されてきた
それは実体と本質の関係である 実体とはそれ自体で独立して存在するもののこと
本質とはそれから取り除くとそれでは無くなってしまうもの 本質が無ければそもそも認識することが出来ないというのがアリストテレスの立場である 第一義的に存在するものはその本質と同一である、という考え方である キリスト教神学では神の本質を取り扱うので人の子に定義が許される限りの実体のことを本質という 中世ヨーロッパで人間がどのように定義されたのか分からないが少なくとも理性的動物として
他の動物とは明確に区別されていた ものの明確な区別をつけることができるのがそもそも理性の前提としてある 神より与えられた理性をもちいて神の本質を知ろうとする行為 素朴な感覚はただ有る、以上のことはいわない
そしてそれは区別も何もない、に等しい ただ有る、という段階では人間の本質は存在していない ただ有る、から現に有る、という段階の飛躍
これができるのが人間である 人は大脳が発達し抽象化能力を過度に身につけてしまったがゆえ動物としては神経系が
統一されていない未熟な状態で生まれてくる
赤ん坊が自己同一性を得る契機となるのは親との関係性や自己の身体認識である 最初は他者像としてあらわれるものをこれはあなたのものですよ、と教えられることにより
つまり他者からの承認を通じて自己のものとしてゆく
人はこういった発達段階を経て同一性を獲得しているのである 公共のインターネットで独善的なオナニー思考を垂れ流す快楽ウウウ
ウゲエエエエエ汁が出るううううううびゅうううううううううっっ 承認欲求が満たされていないのに、つまり自他の区別がついていないのに、他人のために
ありもしない愛を与えろというのは酷な話である 無限の愛が神にはあるというのか
う、の、脳が震えるうううううううう!!! 怠惰なる権能…?
いえいえいえ、ワタシは大罪司教ではアリマセン ワタシはたしかにカトリック規定でいえば精神的罪人ではありマショウが……
それに反して敬虔なところもたしかに持っているのデスがね
つまりワタシはシタワデス、意味がわからないデスネ ベーコンを神学として読もうとしたら意識が混乱してきてつい取り乱してしまいました
謹んでお詫び申し上げます 儀式ばった用語の形而上学から文明人は逃れることできるのか 霊の存在が実証されないから科学的ではない、というのは誤りで
霊が存在しないということを証明できないから科学では扱わない、が正解 神学と不可分であった頃の科学では反証不可能の神が絶対条件として有った
人文学を媒介にして神学から切り離された理性が科学につながっているのだから
神や霊に反応するのは仕方ないことである 俺は理系学問が壊滅的に苦手なのでゲーデルが何を言っているのか粉微塵も理解できん ベーコン帰納法を5つの規則に定めたミルの方法論を読んでいるがこれものちに批判されているな 経済学の演繹法に発展させているのが気になる
ミルの幸福論は以前読んだことあるが ニュートンの力学デビューでベーコンが隠れるようになっていった 連続性の哲学を何度も読むうち、パースがデデキント切断を批判した理由が分かった プラトンがイデア論を説明できないことに悩み晩年、連続性の考え方を採用していたことにも
パースは着目している
パースが想定したのは実数の連続性とは異なった潜在的に在る連続性である
そもそも数学における点とは大きさを持たないのだからいくら集めたところで線としての
連続性を獲得し得ない パースもデカルトの精神主義をある程度受け継いでいるが着眼点が違う 宇宙霊魂の考え方を進化と習慣化のプロセスのように書き換えた感じか
宇宙側の進化、法則化、習慣化のプロセスに人も影響を受けているということ
帰納法に自己訂正作用があるのもそのため またたとへばあるしゅのかんけいのごとくそれがせいりつすることによつても
かいしょうすることによつてもぐうゆうせいがそれについてかたられるものに
ぜんぜんなんらのへんかをもひきおこさないとみとめられるものである
なんとなればわたしは[いまのところまだうまれてはゐないが]こんごいこうに
うまれるであらうひとよりもおおきくもなければちいさくもなくひとしくも
なければにてもいないことはあきらかだからである…… 人間の感覚もそもそも信用に値しない
ただ働いているから従うのみである
感覚も実は類似性にこだわっている デカルトの世界観の謎が解けるまで唯物論も唯心論も意味をなさない 現象世界は法則の劣化により時空に不連続がたくさんあるのかもしれない ベーコンは単に哲学的見地から新しい方法論の導入法を訴えただけであり実際の科学的方法論には
疎かったらしい 新概念を観察より先に導入する方法で火星軌道を割り出したケプラーの業績も無視している イドラの排除と帰納法の重要性を訴えたのが一番の功績である 伝統のギリシャ思想を用いた研究法を追い出すためにあえて無視したのかもしれん
ピタゴラスさえ明確に毛嫌いしているからな 旧来の伝統科学ではあくまで自然から得た知恵を自然秩序と人の調和のために用いるものだった ベーコンはそもそも元は大法官であり当時の魔女狩り異端審問にも精通している
自然を支配し自白させるという発想もそこから来たのではないか 人間がまず自然の奴隷であるみたいな書き方をしているが目的は自然に自白させるためである 下僕であり解明者、と書いてある
神学における神を相手にしているわけではなく神より与えられた自然である 西洋のロゴスには否定、肯定の力により世界と自己とを分離して同一性に向かわせる作用がある ユダヤ人の祖先が砂漠で暮らしていた時代に水の在り処を知るのに真偽が極めて重要なことから
否定肯定色の強いロゴス主義に繋がっていったという説もある アメリカから輸入されてきたアイデンティティとは何か根幹が違う気がする 言葉や概念の分節によって世界もそのように認識しているわけだから連続性の問題が難しいというのは仕方がない パースの世界観では真の連続性に比して人間が感じ取っている現象の世界は粗い
繋がりに穴が多すぎるのである
なぜ人は繋がりを求めるのか 同一律を駆使して統一的見解を得ようとあらゆる可能性を考案する 初期近代のルネサンス期が現代科学の芽生えというみなし方もあるが基本的には中世暗黒期にルーツがある 西ローマ帝国が衰退し教会が人々の文化習俗と密接な関係を持つようになっていった時期 ちなみに暗黒期というのはルネサンス期の人々から見た「黒歴史」という捉え方 中世では人の精神と自然のありようは不可分であり有機的な繋がりを持っている
絵画を見ればそのことが如実に分かる 音楽といえば教会音楽だし絵画もほぼすべてキリスト教関連のものである イスラーム科学が当時世界の最先端だったがこれは現代科学の直接的ルーツにはならない
のちににしてヨーロッパへこれが流入してゆく ベーコンは数学を軽視している
定量化の材料にしか捉えていない
ここにも真意があったのかもしれない ベーコンが死んだのは実験の最中に体調を崩したことによる
その実験というのは肉の保存法の研究であった
具体的には鶏の腹に雪を詰めまくっていたのである
このときに風邪をひき悪化させ気管支炎で無くなった
のちの冷蔵庫の登場を考えるとこの保存法には妥当性があった これがもし豚肉だったら後世まで笑い話として語り継がれるところだった
ベーコンだけに 暗黒期のヨーロッパは後世に脚色されまくりかっこいい騎士道物語やファンタジーのイメージに
関連付けられるがとてもそんなきれいなものではない
ただ信仰をもとにして清く正しく生きようとする人は大勢いた 芸大受験のころ俺は中世美術の研究家に憧れていたからな
今でも未練があるらしい
図書館や本屋で美術書を片っ端から読んでいた キリスト教美術には隠喩が非常に多く読み取るのが楽しかった
ダヴィンチなどはいたずら好きで、象徴性を読み取ろうとする人に対して
あえて複雑なトリックを仕組む
ダヴィンチコードでもダヴィンチがいたずら好きということを知らない人が多い
どこまでが冗談なのかわからないのが面白いのだ ダヴィンチは極めて科学的な観察精神を重視しており浅はかに芸術を解釈する人間を
徹底して馬鹿にしている節がある 現代アートになるとそもそも知識が無ければ成立しない
素朴な鑑賞にも耐えうる普通の絵画が俺は好きだった アニメでは露悪趣味ぎりぎりの象徴性を詰め込みまくる幾原監督が好きだった
嫌味とか気持ち悪いとかの次元を超えている 現代アート勢とオタクの解釈の違いから論争が発生してアニメ以外のところにも影響力がある アニメを見まくっているうちに感性がどんどん愚鈍になっていったがもう過ぎたことだ 俺も例にもれずステレオタイプに虚構化された中世観しか見ていないが実際は凄まじく複雑な時代である
まず国境線が曖昧で「勢力図」なんてものが描けない 複雑極まりない民族状況を教会が率先して取りまとめようとしていたわけである 一神教のキリスト教の元でみんな過ごしていたというのは著しい誤りである 強いて言えばキリスト教文化が第一に取り沙汰されるというだけのこと フリーゲームはたくさんあるがツクールRPGだけを取り沙汰するようなものだ テレビ見てないから知らんが金曜ロードショーで「グーニーズ」放映するらしいな
良い映画だから見とけよみんな シンディ・ローパーの歌がいいんだよ
映画の内容は忘れた 権威に弱い俺は今日も神を恐れながら神学を読みキリスト教の文献を漁るのである 西洋文明を政治システムに至るまで輸入した日本がキリスト教に懐疑的というのはどうも精神衛生に悪い うまくアレンジし取り入れただけであって、どこか浮いた感覚がある 習慣のうちに便利なものだけを取り入れて元が何であったのか分からない、その状況が薄気味悪い 価値を生み出せ、面白いことやれ、ばかじゃねーの
そんなのすぐ廃れるに決まっている フランシスコ・ザビエルのころの宣教師たちは確かに異教に対して無頓着だった アメリカがおこなったのは差こそが価値であるという転倒 自由の名の元に幾多の差別と戦い恣意的に争いを生み出してきた国のいうことだから
相応の妥当性はある アメリカで起こったニュー・サイエンス運動が形を変えて日本に入った影響で俺のような人間が生まれてしまったわけだが 西洋科学の根幹を粉砕するような運動でありここではオカルトも平然と科学者が扱う
80年代の間抜けなオカルト番組の企画内容を見ればいかに洗脳されてきたかが分かる 70年代に木鐸機能がマスメディアから消え失せて視聴率獲得競争に入っているのだから
企画が間抜けなのは仕方ないが 人気取り競争は目くらましであって欲望に弱い人間をコントロールするのにちょうどいいだけだ 俺はコントロールされまくった挙げ句オウムオウム真理教の歌が素晴らしい芸術と思い込み
泣きながら聴いていた 旧字体読みにくいがよく考えたら数がそこまで多くない
この機会に全部書き写して覚えてしまうか
3日もあればイケルジャロ 三百種類ほど覚えれば詰まることがなくなる
漢字で詰まるのはストレスになる 神学にも種類がたくさんあるが形而上神学以外は読まない いわゆる哲学的神学というやつだ
歴史学や聖書学は読まないしマリア論も教会法も実践神学も知らん 伝統のアリストテレスとカトリックの形而上神学こそ王道
形而上とは感覚で捉えることのできない、形のない抽象概念みたいなものである 真偽を駆使しまくるためロゴスの作用で理性が分離されやすくなる
これがなければだめなのだ デカルトの"霊感"の正体を確かめるのに必須の作業
俺はデカルトの心身二元論をただのたとえ話とは思っていない 女「私を独りにしないで…」
キチガイ「クローンで増やしてやろうか?」 エルデンリングのPVが公開されていた
うーむ、ダクソ3の上位互換っぽい雰囲気だ ダクソシリーズは嵌ったしエルデンリングも多分買うだろうな 6世紀否定神学の文献を読んだ
うーむ、これじゃないな 倫理って結局なに??
徳、すなわち正義と愛だよォ!!(半ヤケ) ヘレニズムとヘブライの華麗なる融合こそが西洋精神なんだよォ!! https://youtu.be/aUK0ycYBqbg
古代ギリシャそんなに良いものでもないぞ
あと学校の教師が学問の歴史知らないわけねえだろ 昔の西洋では聖書解釈の範囲にしかまともな学問が存在しなかったからである
つまり聖書の解釈幅を広げる=学問の自由度も上がる、という構図があった 神の解釈にアリストテレスを持ち込むことにより信仰と思考の均衡が取れた
これがアウグスティヌスの神学である
この方法論を煎じ詰めたのがアンセルムスでありさらに体系化したのがトマス・アクィナスである 明らかに聖書の教えと対立する地動説が出てきて以降、学問の自由をどのように扱えばいいのかが
大問題となった アリストテレスが地球中心説を採用していたのが大きい
これが聖書の教えをぶち壊しにせずに済んだ要因である
ダンテの神曲も地球中心の印象を植え付けるのに一役買っている ベーコンはなぜケプラーやガリレオの功績を無視したのか
本当に無知だったのか?
ベーコンはものすごい量の知識持っているはずだが ベーコンはヘレニズム思想家たちの良し悪しを割と明確に峻別している ・有限だから
・他の命を奪って糧にしてできているから
・不自由だから 神の肯定には限界がある(述語では言い表せない)
神は人間程度では否定もできない(そもそも否定肯定を超越している)
黙るしかない?→ロゴスは神より出てきたものだからそれでも使いなさい ガリレオ・ガリレイについていろいろ調べていたが当時のカトリック教会はそこまで意固地ではない
あと良心からガリレオが権力と戦ったというのも嘘 教会が認めていたのは自然の有り様を地図のように書き写すことのみであり
理性による仕組みの解明は除外されている
理由は人間の真偽把握能力の不確かさによるものである
また教会が地動説を頑なに否定していたわけではなく枢機卿の中には
地動説が真理であるならば聖書解釈の変更もやむなしとする者もいた 教義としては仮に宇宙無限の広さを持つならば地獄や天国の場所が曖昧になり
神より大きな存在である可能性も出てくるため整合性が危うい まず初期の神学大成者であるアウグスティヌスの考えでは占星術や天文学に携わる者は自覚に欠けていた
天の領域を人間が理性で考察するのはおこがましいことであり人はまず己の内に向かって
下降してゆきそうすることで初めて天へ登ることが可能となる、という教えである 教会がガリレオに圧力をかけていたのは主に道徳と真偽把握能力の面からであり
科学や理論の否定を積極的に行ったわけではない
むしろ科学者の研究を教会側は推奨している 当のガリレオは千年間誰も証明しなかった事実を証明できるのではないか、と大興奮していたに違いない
科学の力によって神学者の認識を改めさせることができるという旨のことをガリレオは明言している
この態度は教会にとって不道徳である アインシュタインは科学とは宗教のようなものだといっている
それは人の直観がそのまま原動力になっているからである
自然のありのままを理性が捉えて解明することなど人間にはなし得ずただ盲信的に
己の直観を信じるしかない科学は宗教のようなものである、と ゾロアスター教の聖典アヴェスターを読もうとしたが4分の1しか残っていないらしい 人間の信仰心を決定づける遺伝子を発見したと自負するディーン・ヘイマーなる人物もいる
「神の遺伝子」として一時期話題になっていた 宗教に背を向けて自然魔術に理性を投入する人間ももちろんいたが正規学問に取り入れられることはなかった 知識人による魔術研究が盛んになるのはルネサンス期以降である 俺は今までに数え切れないほどの超越的な体験をしているがその中でも度級だったのは
プトレマイオスを名前や存在自体まったく知らない頃にプトレマイオスと夢の中で会話したことだ
名前も何も本当に知らなかったのだ
そのときに夢には未知の領域へ人の意識を導く力があることを確信した 何を話したのかは覚えてないが(夢特有の曖昧さ)明確に名前と渦巻く天上世界のイメージが現れた 本当は過去や未来というのは存在せず現象世界の背後に完全に連続した何かがあるのではないか 生や死もただの錯覚であり人間の愛憎が見せているだけの秩序の狂った世界なのではないか
なぜ人は理性を感情から切離そうとしてきたのか スイスの宗教家がいっていた、他人の行動だけを見て責めるのではなく心や感情のことをおもって
慈悲で接しなさい、と
理屈は正しいがそれを実践できれば苦労はない 理性の力で自分の行動を完全に制御できるほど人間は優れていない
ゴキブリが急に天井から降ってくればビビって「ウォッヴ」みたいな変な声が出るのだし
熱湯が手にかかればビビって「ウォッヴェゼル」みたいな変な声が出てしまうのである
人間は弱い 神経を拷問にかけるぞ
神経を拷問にかけるぞ
神経を拷問にかけるぞ 理性到達のための神経拷問理論を確立して人間の自虐史に新たな地平を切り開くぞボケが!! ここでいう地平とは平らな地面のことではなく人の思考が及ぶ範疇の意味である
そもそも地面が平らというのもただの錯覚に過ぎない 思考力、想像力の開拓という意味で科学は絶大なる影響を世界に及ぼしてきた
しかし理性はどうだろうか? 思考、論理は世界を恣意的に限定、分断する
理性は実在のすべてを明晰に捉えようとする 感情には切れ目がない
秩序らしい秩序もない
感情の安定には何が必要か? プ ロ テ イ ン を 買 い 占 め る ぞ !!!!!! そうだ人は毎日生まれ変わっているんだ
古い自分の殻を脱ぎ捨ててなあ そうやって毎日生まれ変わっているからして毎日が誕生日だ、いや毎日どころか毎時、毎分、毎秒で
そうだ今が俺の誕生秒だァ!!
いや、今また生まれ変わったようだ
誕生今である
今ァァァ!!!! カントがいうように時間、空間も人間の直観の形式に過ぎないのであれば過去や今や未来への執着も
また宗教的ということにならないだろうか ともかくデカルトの霊感を再現するために神学をやるのだ 昆虫を除いても数十万という種類の生物が地球上にいてその中でも人間のみが複雑な機械を生み出した
これは異常事態なのである 生老病死愛別離苦に悩みすぐに精神を崩す
幸福や永遠に憧れる
人間は異常 文化相対主義?知るかそんなもの
俺は蛸壺史観至上主義だ キリスト教といえば保守的福音主義だ
引用はすべて福音書から
三位一体論、イエスの再誕を信ぜよ 最強の格闘技は烈蹴拳
なぜなら仙水さんこそが最高の悪役だからだ 中世ヨーロッパには大きく分けて二種類の人間しかいません
それは聖職者と信徒です
信徒を大きく分けると領主、騎士、農民です
これが中世ヨーロッパのすべてです
ありがとうございました 歴史の本を開いても人が動くことしか書いてない
歴史は人が動くだけだ
細かいことなど知るか 屁理屈を並び立てるのが哲学で数字や図形を弄くりまわすのが数学
科学は自然いじめ 科学は向上心、好奇心を刺激するし生活を便利なものにしてきたが パースは学問の最高位に数学を置いていた
純粋に仮説のみを追求できるというのがその理由
科学にとってはもはや数学が必須となっている 中国がパクリと拝金主義で伸びたのは確かだが向こうは人数と試行回数で攻めてくるから我々に勝ち目などない 共産の監視網に加えてカルヴァニズムの通ってない独自の経験主義がある 論文の構成はパターンが決まっているから趣旨だけを拾い読みできる
細かいことなど知るか 中世ヨーロッパの荘園領主は王の立ち入りを拒否する権利を持っていたのだが
これがおそらく封建のスタイルを決定付けている 領主は一番偉いわけではないが小さな世界を国のように見立てて支配することができる
小さな閉鎖世界が無数にあるというイメージ 最高善の本質について考えることだよォ
他に何があるってんだ 偉人や聖人のありがたい物語を聞かされてもはあそうですか、としか思わない 小さなゴミや埃を吸い込むのが掃除機の本質だろ??
掃除機製造の苦労話は知らん 俺は学問が嫌いだ
知識欲もない
何もかもきれいに忘却して宇宙から出ていくんだ
死ぬのも生きるのも嫌だ 死にたいだの生きたいだの思う方がおかしい
そのような馬鹿げた欲望の湧いてこない世界へ行く たぶん鳥やイタチやカメムシが死にたいだの生きたいだの思わないだろう
思う方がおかしいのだ 最高善の本質に到達できれば宇宙は明るく見えるはずなんだ
恒星だらけの宇宙が暗く見える理由が分からない 夢はおそらくユングのいうプレローマ(基底状態)に向かって開かれている
意識とプレローマをつなぐ同一性の曖昧な多次元の心因世界を通過する中で
様々なイメージが立ち現れては消えていく 人は抽象化能力が発達し過ぎた影響で同一性に拘らざるを得なくなった
感情は心因世界を大切にしているため世界を分断する思考とは対立を引き起こしやすい プレローマの二元的運動それ自体が最高善だとしたらここから根源悪も発生している 仏教でいうと阿頼耶識がプレローマに通じているのかも
業の流れは根源悪から発せられる
やはり地獄と通じている ゾロアスターのアフラマズダ、有翼で光背負っていたな
ユダヤ教がこれに影響受けて天使を描いたのか?? 人間の本質が同一性に固執する生き物だとしたら無数の固執が乱立していることになる
混乱を避けるべく他者の自己同一化願望を利用して傷つけ合いバランスを保っているだけに過ぎないのか 平等への欲望は主に差別化願望と結びついている
自己の同一性に拘る限りにおいて簡単に同調圧力が発生する
しかし日本では便宜上和を重んじることで
空気を読んで同調圧力を分散するという手法を取る 和を大切にする日本ではカトリックは独善的と判断し受け入れない 聖徳太子が釈迦の人生に惚れたんだよ
ソクラテスではなく釈迦が日本の最高規範 儒教は便宜的に取り入れたが精神までは受け入れていない
大勢の武士が儒教の経典を好まなかったことからも分かる 武士の美徳や規律への意識が日本の代表的な規範となっていることは否めない
恥の文化もそうである 平等であるように振る舞う
武士の美徳
徳への憧れ
先祖様への敬い
あ、隣人愛とかどこにも無い! ソクラテスとキリストたりねえな、と感じていたが俺にも隣人愛無いことを思い出した 面倒くせえから先に最高善をマスターしておくか
俺は中二病なんだ なろう小説みたいにチートで西洋の理性をゲットしてやるぜ 隣人愛…マジックアイテム
ハルモニア(肉体と魂の調和)…レア
知性…スーパーレア
理性…レジェンダリー
アガペー…エンシェント
最高善…プライマリー 普遍論争について調べているが根が深すぎて頭痛くなる アリストテレスが実在論の立場を採っておりそれが中世神学と強くむすびつく
実在論とは言葉に対応するものが実際に在るという立場である
それに対し唯名論は個物の存在しか認めな人間が普遍というものもあとから人間が名付けただけという立場 個別の事柄を人が経験しているだけなのかそれとも普遍的な何かが先立って存在しているのか 個別の経験を普遍化する癖が人間にあるだけかそれとも普遍的な何かが人に宿っているのか 他人が自分と「似たようなこと」を感じているという前提がないと言葉のコミュニケーションは出来ない 1と2の間に連続性があるというのは人間が勝手に主張したものか
それとも潜在的になにがしかの数字に対応するような連続性があるのか 連続性があると思い込んでいるだけかそれとも連続性があるからこういった思考が成立するのか ある一定の同一性が保持できていなければ記憶も成立しない
連続と同一性の関係は
差異を人はどのように捉えているのか 普遍は音声のつながりに過ぎないとみなした初期唯名論者コンピエーニュの修道士ロスケリヌスがアンセルムスから批判を受けている
三位一体論の否定に対してである ロスケリヌスの説では普遍は実在せず音声の分節や母音子音に還元されるのみである
つまり普遍は実在せず知性や声の中にしか無い 神学者として論理的思考を神学から切り離したのがオッカムである
これはダイレクトに科学の発想へ通じている アウグスティヌスの頃はまだイデア論の色彩が強いから良いのだがアンセルムスが提示した
神の存在証明が決定打となり普遍論争に突入してゆく 近代科学発生のプロセスを神学論争のみに求めるのは無理あるかもしれないが
自然の側に普遍があるのかそれとも人間の認識の中にしか無いのかということは極めて重要である 男らしさや女らしさ(類概念)は人間の認識の中にしか無い社会通念に過ぎないのか?
こういった問題も含まれる 実際にあの人は男らしいな、とか女らしいな、と感じることはあるが
その根拠が自分の中にしか無いとは思えない
これは善や悪にも置き換えることができるがともかく「それらしさ」を決定付けている
本質が有るのか無いのか アリストテレスは実在論というよりも唯名論との間に矛盾がつきまとうことを知った上で
実在的世界記述の立場を取っている
イデア論には懐疑的である アンセルムスが取った手法は実念論といわれている
アリストテレスとプラトンの融合形態である アウグスティヌスの言説と一切矛盾することなくアリストテレスを取り入れたからそうなる 善の概念の本質的実在を探るという一大冒険に打って出たアンセルムス キリスト教神学はおそらくイエスが磔刑になった直後から始まっている 直弟子はもちろんイエスに従うのだがイエスの行いや言葉の解釈が人によって異なるからだ
これはそもそも聖書の段階から表れている いかにイエスが神がかっていたとはいえそれを人々に伝えてゆくには様々な地域の常識や社会通念に
即した表現に置き換える必要性も出てくる 初期キリスト教の共同体(使徒が生きていたころ)には貧富の差が一切無かったそうである 何でもそうだが初期の精神がいかに優れていようとも拡大してゆけばいずれ綻びが出てくる 最新の欧米哲学ブームについて調べているがよくわからん ポスト・カント派の批判やら形而上学の世界認識の反転やら、相変わらず過去の思想の反駁合戦やっているようだ 理性の捉える存在者の全体を世界だとするならば理性によって世界の外側には決してアクセスできない 世界がその内側にある存在者の全体のことを指すのであれば「世界そのもの」は存在できないのではないか?
という考えもある
どういうことかというと、世界以外のものだけが存在しているわけである
ならば世界はいかにして存在することが可能となるのか ハイパー論理学によりネットワーク化の進んだ世界では理性も精神も用済みになりモノと感情だけで人が動くのでしょうか 6月はムカデが産卵準備始めるから嫌なんだよなあ
ムカデは卵をずっと守るし生まれたあとも子供にエサやるんだよ
虫の中でも珍しい行動をとる 虫が消えるだけでスッキリするだろうな
生態系あっという間に崩壊するだろうけど 新キャラのレベル上げ、緩和の宝石とヘルファイアリングをつければ速攻で70までいく
30分かからない ソケット付きのエンシェント武器にレベル50程度の緩和の宝石をはめ込んで
ヘルファイアリングと共に倉庫へ放り込む Adoのうっせえわという曲を聴いていた
俺は椎名林檎が好きなので違和感なかった 椎名林檎が射手座的欲望に忠実なのに比べると少し冷静で論理的という気がする
諦念世代若者の代弁者的な ちなみに正しい感情など存在しない
高次の感情は存在する 共感を求めるのであればどのレベルの感情に訴えかけるのか自覚する必要がある 愛憎に苦しんでいる状態の低次の感情では似たものにしか届かない 「あの感覚」が分かるのと分からないのとで仲間意識が分かたれることもある 森とは木がたくさんあるだけでなく生物共生の最右翼である 生物共生のネットワークを破壊してまで人間が目指すものとは何か 木の時代を長く経験している日本人にはロゴスなど必要なかった 人間の根本的欠陥は同一性への固執
これが本来不要である自己正当化のためのエネルギーを捻出している ヘレニズムがすべての西洋学問の基礎として君臨している以上、精神主義から逃れることはかなわん デカルトが無限に向って一気に拡張したが基本は揺らいでいない すげえ雨が降ってきて突如異様な湿気が湧いてきたwwww 反アリストテレス主義はよくあるがアリストテレスが学問の基礎から外れることは無い
まさに鉄壁 存在の全体を世界に置き換えるのはアリストテレスの特徴である アリストテレスは固有名詞で表現できるものを実体と呼ぶ
動物や人間などの類として表現できるものを普遍と呼ぶ
普遍概念に実体の名詞を当てはめることは出来ない この理屈を用いるとプラトンの主張したイデアの普遍性が実体としては存在できなくなるわけである 神により近い純粋概念を探すという意味ではアリストテレス主義者がイデア論に近接することもある 質料を含まないより上位の形相として純粋概念の実在を想定している
プラトンは最初から最高の形相をイデアと措定してしまった よくよく考えると唯名論の主張ももっともらしく見える
実在論と比べてどちらがより真実に近いか?という観点で見ると頭が混乱する
観念論の罠に嵌る アリストテレスの形而上学では個物の構成要素は形相(エイドス)と質料(ヒュレー)とに分けられる 個物を個物たらしめている(形成している)本質的要素が形相である
形相がなければ個物として認識されることは無い
形相が確認されている状態のことを現実態(エネルゲイア)と呼ぶ 一方、形相を持っていないがそれを持ちうる状態のことを可能態(デュナミス)と呼ぶ
このとき形相を持ちうる素材のことを質料と呼ぶのである 質料は様々な形相になり得るし、形相が他のものの質料となることもある 質料の運動には目的(テロス=終り)があり、それはすなわち形相になることである
運動の原因は概ね形相因ということになる すなわちアリストテレスの世界観では形相を持たない質料が下位にあり
より純粋な形相となったものが上位にあるような構造を持つ これが果たして実際の客観的現実を言い表すものなのかそれとも人間の概念運動が催す主観的なものなのか
古来より論争の的になってきた 個物が存在しないのであれば形相もあり得ない
超越論的唯物論では質料がすべてを支配しているという 史実に残っている限り、無限(アペイロン=限りがない)を万物の根源だと最初に考えたのは
ギリシャのアナクシマンドロスである
今からおよそ2600年ほど前のこと アリストテレスでは無限概念が可能無限と実無限とに振り分けられた
実無限は人間には存在を認識できない
「限りがない」という事実を確認することができるのが可能無限である カントールが集合論から無限を措定しているがウィトゲンシュタインは集合論それ自体を
根本的な錯誤として馬鹿にしていた ウィトはそもそも思考と存在の相関として語られるもの以外を徹底的に拒絶している
ある種清々しいほどの徹底ぶり ウィトの論理哲学論考は鬼のように難解で通して読めなかった ウィトの言語論は一見唯名論だが数学に近い過度な記号操作をしている ウィトはものの総体を世界とは呼ばず論理空間で展開される事実の総体を世界であると定義付けた
この空間における事実の基本構成単位とは対象と事態である
対象の結び付きによって成り立った事態により事実が成立するという構造を持つ 世界の構成要素である事態と対象はそれを記述する単位と同型でなければばらない
これがウィトのいう論理形式である 対象のもつ固有の形式が共有可能でほかの対象と結びつきこれを写し取ったものを像と呼ぶ
[諸対象は像において像の諸要素に対応している](写像理論) ウィトの論理空間では対象の総体こそが実在の限界である
ここでは全てが必然であり他者は存在しない
このことから世界に意味を与えるのは世界の外にあるものであることが導き出される 論理オンチの俺にこんもん理解できるわけないだろうが! 俺は全くといっていいほど医者に行かない
たぶん死ぬ寸前まで行かない
というのも日本のエリート機構が嫌いだからだ
別に医者そのものが嫌いなわけじゃない 日本の大学医学部の歴史は明治10年にまで遡る
最初は帝国日本を目指すための(欧米に舐められないための)完全な国策だった 東京帝国大学の医学部を最高権威にしてそれに対抗するようにして後の旧7帝大が出来る
ここから徹底したエリート主義が始まる いわば強兵の育成を補完する役割として創設されその規範がそのまま地方の医者にも分散されていった 民衆の側から医学を構築しようという意思を踏みにじって研究、学会に至るまで官僚化の圧力をかけていった 俗にいう医局講座制というシステムだが東大を最高権威にしたシステムが最低でも1980年代まで続いていた エリート競争に負けた人間が地方で小さな開業医(ヤブ医者じみている)をやるという
悲惨な状況がよく生まれた ポストの奪い合い、知識と研究に偏重した教育、バカみたいに高価な学費 ポストの奪い合い特に凄まじく(世界でも類を見ない)成果を上げることが最大の目標となる
人権を無視した人体実験も平然とやっていた 手塚治虫がブラックジャックでよく医者のポスト取り合戦を戯画にしていたが 国民に「病院では死にたくない」と思わせること自体に異常性を感じる
むしろ病院で死にたいというのもあれだが 東大精神科はシステムに疑問を感じ昭和52年に自主管理を始めたがそのときも「過激派」の
レッテルを貼られた上予算凍結の処分を受けている 権力への対抗意識がパイオニア・スピリットを生み出すという状況そのものが嫌なのである
このやり方は「無気力な人間」を大量に生み出すことになる
無気力な人間を楽しませるような低級愚劣な娯楽も流行る ブッダの言葉はやたら重たい
キリストとブッダはやばい カトリックの規範となってきた神学者アウグスティヌスだが若い頃は性愛に苦しんだり
盗みをやったりした
マニ教にも嵌ったし弁論術や哲学にも没頭していた ちなみに「自伝」の形式に関してアウグスティヌスの『告白』がのちの世に与えた影響力は凄まじい ウィトゲンシュタインは発達障害を抱えていたらしいが学者としては大天才であった 自閉症の人がよくオウム返しをやるのは言葉に込められた意図が分からないからである
習慣では言葉や論理に厳密性を与えず同調圧力的に使っているため特定の文脈に
自分を縛り付けていなければならない 情緒を重んじるのが日本人の美徳の一つだが読むべき文脈が増えてくると情緒など簡単に壊れる 欧米化に即して情操教育を海外から取り入れたが失敗に終わった 仏教や神道の心性でいかにしてキリスト教文化を理解できるか 世界記述主義とは世界の構造を表現しているわけではない
ニュートンが世界の構造を解明したか?? 世界記述に必要な命題を一つの文脈に従って構造化した、というのが妥当である 科学に不可能はあるか?
物理法則に反することはできない
逆に言うとそれ以外は「正しい知識」を用いれば何でもできる
科学万能キターーー(発狂) 自閉症だったわたしへ、という有名な本があるが幼少期の記述を見ていると
自分の世界にこもっている状態では外界の人の動きが「ごみ」のようにしか認識されていない 「自由」への表現(物を落とすなど)やコミュニケーションの過度な緊張を逃すための行動
(頭を打ち付けるなど)あるいは他者の言動の意図が分からないことから来る「オウム返し」
などに対して周囲が困惑し自分を叱責してきたことについて書いてある コミュニケーションの成立条件を煮詰めていくと割と冷徹なんだよな
ロボットのフレーム問題のごとく論理的になろうとするほど詰まりやすくなるだろう 「自分が感じていることを他人も感じているだろう」という最低条件をクリアしなければ
緊張感が常につきまとう ウィトゲンシュタインがいうように色は排除関係にある
自然界に色が存在しているのではなく人間のほうに要因がある おそらくカントの影響だろうがウィトにとっての時間、空間、色は対象の形式である
色の持つ論理構造が視野の同じ場所に二種類の色を占めることを許さない 特定の錯覚に基づいて人間は擬似的に感覚を共有しているといえる
コミュニケーションに必要なのは錯覚への没入である 生まれながらにして神経が未統一である人間がすがりついたのが愛という錯覚である
愛は強烈な同一化衝動に由来する
キリスト教ではこれの根源を無限に措定した 人間の2大発明は愛と死である
これが人間を人間たらしめた 愛ゆえに大量の人間が死ぬというのはどういうことか
それは人間だからである 自由への表現はたくさんある
しかし人間が自由になることはない
なぜならば愛と死に縛られているのが人間であるからだ アプリオリな総合判断が人間に可能かどうかをカントが探っていたがウィトはそれも否定している ラッセルにも苦言を呈していることから、数学で用いている総合判断もウィトにとっては不十分なのだろう 名はいかなる定義によっても分解することのできない原子記号であるとウィトはいっている
原子記号とそれによって定義された記号が同じ方法でものを表すことはできない 原子記号の意味はその原子記号を使用している諸命題により明らかにされ得る
唯一意義を持つのは命題のみであり命題の文脈においてのみ名は意味を持つことができる 命題の意義を特徴付ける構成要素のすべてが表現(シンボル)である
命題自身も一つのシンボルである 実質的な性質は命題により描写されるため性質によって世界の実体を規定することはできない 思考が感性として知覚可能になるのも命題においてである 命題とは語の集まりではなく語に文節化されているものである 命題記号自体が一つの事実である
事実の配置が命題の意義を決める 命題は肯定、否定の2方向に意義を持つ
命題の中で用いられる単純記号が名である 対象はただ名付けることができるだけであり記号が対象を代理する
対象は語ることができず命題もまたそれがどのようにして在るかを語るのみである 論理結合子は例外的に対象を代理しない
なぜならば事実の論理はなにものにも代理され得ないからである ん??
ディアブロ3のレジェンダリージェムに囚われし者の悪夢ってのがあるんだがこれって強くない? 操作障害を受けている敵のみダメージが加算されるというシロモノだが
レベル25のボーナス効果で15ヤード以内の敵すべてを移動速度低下状態にすると書いてある
すなわち自分の周囲にいる敵すべてにダメージ加算されるのでは ○○とは何か?という質問に対して人はそれを指し示す何かを探そうとする癖がある
しかし根源的には決して答えることができない 無意味の意味は?
無意味の意味を問う意味は?
知りたくなる意味は? 言葉は心因とつながっているか?
心因はどこにあるのか?
記号の意味は?
名詞がある意味は? 人やものが存在する意味は?
存在の定義は?
定義の意味は?
定義する意味は?
意味を説明する意味は? 言葉はなぜ必要?
意味を与えるのに必要?
コミュニケーションの意味は? バケツはなぜガチョウではないの?
イチョウが出血しないのは何故?
部長が胃腸悪い理由は?
理由の意味は? しからばかくの如き面倒くせえを愛することによってわたしはそう思うことのできる自己をも
愛することができ愛こそが神の必然であるという真理へとわたしを導くのでありましょうか?
言ってる意味はわからんがウィトのせいで頭いてえ 意味について事実や真理を知りたいのであれば言葉によって答えることはできない
なぜならば言葉が意味を持つという事実が現に存在しないからである 世界が持つ潜在的な道理や事実が有るのか?
それは人間程度には分からない
そう決まっているのである
誰がそんなことを決めたのか?
神に決まっているだろうが(完) 人間は単に言葉に意味があるように振る舞ってきただけである 自分の行為に意味や目的を持たせるのは人間の特権だと考えている
特権は乱用しないほうがいい 知識について考えてみると、自分や仲間の生存や幸福感に関わる目的があった場合ほど
吸収は早くなる
逆に目的のない知識は意味のないものとして忘却しやすい 何が人を幸福にするのかということも価値の多様化により答えることができない 理想の成就や自己完成を人生の目的に掲げるのは良いが大半の人は挫折する
成功者は常に少数である
多くの失敗、挫折に支えられている
生もいわば多数の死に支えられている 科学が人を幸せにするか?
科学は無限の可能性を探求し続ける
そこにポジティブな夢を見ることはできる 善悪の対決に「カタルシス」を得る人間が多いことを鑑みるにまだ世界は存在していない 人間の認識が世界を作っているのかそれとも世界の規則から人間が認識させられているのか分からない
認識の曖昧さから来る弱さ、弱さから来る無数の混乱… 論理的事実に反して人は言葉に意味があるように振る舞わなければ日常を営むこともできない
日常は論理的解釈を頑なに拒む 人の判断は多くを経験に委ねている
命題と言葉、像や意味の連なりをコンピューターのように処理しているわけではない
環境にほぼ依存して経験からやっている 目に見えない「業」の働きはおそらくある
夢の世界は未知の領域に通じてもいる
これも経験から分かる 双子座には価値の分化を活発に行う性質があることも経験から知っている
蠍座は同一化衝動を憎にも持っている
これも経験である 帰納法は論理的ではないが数字の方が勝手に人間の判断の誤りを修正していく 経験がすべて錯覚に基づいていると考えることはできない ワクチン接種に殺到しているみたいだが安全性について下調べしたのだろうか 5年後に副作用で免疫系が崩壊をきたす可能性もあるわけだぞ
一定の基準を満たしたからといって数年後の保証がどこにも無い 今配布されているワクチンが大量殺戮兵器だと断定している研究者もいる mRNAがDNAに逆転写される可能性を説いた論文を読んだことがある
安全性など一切確立されてはいない 論理マシーンのような哲学を考案したウィトだが宗教にも大いに関心があったといわれている
彼が心酔したのはトルストイの聖書研究だった 信仰の一切を失い人生の無意味さに苦しんだ末トルストイがすがったのはロシア正教会であった
しかし真理を求めていたトルストイの思惑とは違い教会が与えたのは矛盾だらけの教義と
生活規範であった そして教会に別れを告げたトルストイは真理を求めて聖書研究を始める
しかしここでも多くの矛盾に出くわす
まずモーセの十戒では明確に殺しを禁じているのだが旧約の記述には不倫した妻と相手の男を
害悪として殺せと書いてある 新約ではこういった野蛮さがイエスの教えにより修正されている
そして福音書とにらめっこしながら考えあぐねた挙げ句トルストイが導き出した結論は
"イエスの教えこそが人生の意義である"というものだった 矛盾に苦しみながら真理を探し求めたトルストイの姿勢にウィトは感動したのだろう
ウィト自身も自殺衝動によく駆られる時期があった モーセの思惑と旧約、新約の間には溝が無数にある
何を信じればいいのかぶっちゃけ分からない
そもそも聖書とは様々な書物の集合体である
引用の仕方により解釈も異なる ウィトは戦争に駆り出されたときにトルストイの聖書本を常に持ち歩き繰り返し読んでいた
戦友からは「福音書の男」と呼ばれていたほどである ウィトがこだわったのはキリスト教の徹底した精神主義の部分である
肉体の弱さ、精神の永遠性
ここに自由を感じていた 欧米は個人主義、日本は集団主義、という捉え方は適切ではない
日本は習慣社会であって主義で動く人間はむしろ少ない 習慣には無数の暗黙ルールがありただ空気を読んで従うのみである
ルールは明文化されておらずただ従うことしかできない
論理は通用しない いわば命令に対して自然に反応するように自らを訓練する
これが習慣である 習慣社会の怖さは考えるまでもなく体に覚えさせるということ
体が覚えているが頭では分からないことが増えていく
このことを後から無理矢理解釈するが、よくわからない
ジンクスの意味は? なにがしかの内的衝動の表現として身体の癖がある
癖は習慣の中で修正されていく 宗教の祈りも習慣だがキリスト教は理性、知性を持ち込んだ
祈りと理解の両立 文字を読むときに一つ一つの文字に込められた意味や連なりの意味を解釈しようとしていると
神経に異常きたすだろう
文字は習慣で覚えるしかない 「共感」も習慣が生み出してきた国だぞ
日本はとにかく習慣が大前提にある 押し付けがましい体育会系のノリあるが、あれも習慣の産物である セックスがしたからって呼び出しやがって!!!!!!!!!!!!! また糞みたいな誤爆やらかした
ウィトのせいで頭ではやられてんな 日本人は習慣依存できっしょいからセックスも娯楽なんですよ
頭がおかしい カトリック的には日本人は重罪人の巣窟なんでキリスト教は受け入れない方が良い 日本人が陰湿なのは間違いない
陰湿というよりも自己表出の仕方も習慣だから共感得られないと陰湿になっていく きっしょいゴミクズ刺しまくって殺してえ、と思っても表現できない 幼少期は切れると意識を失うまで全力で暴れる癖があった
ストッパーが無かったのである エルデンリングの情報が上がってきたがすごい面白そう
ダクソより若干RPG感が増している 広大ワールドマップにレガシーという巨大ダンジョンが6つある構造
他にもサブダンジョン複数あるとか 霊体召喚は良いシステムだ
オフライン疑似協力プレイできる ダクソ3の踊り子で何度もブチ切れたからな
ダクソ3は条件満たさないと呼べない白霊が多い モンハンのアクションは生理的にきつい
敵が恐竜だらけってのがな 爬虫類好きなんだよ俺
なぜわざわざ鉄の塊で刻みまくるのか
頭がおかしい
人間など洞窟でおとなしくしとけ やりたいゲーム、エルデンリングとディアブロ2リマスターだけやな 一番得て楽しい知識はゲームの攻略知識だ
なんせほぼ無駄がない
哲学だの教養だのの知識は糞に等しい 知識の有無や論理的思考能力、IQの差で優劣決める体質を滅ぼさなければならん 感情と抽象化リソースを自己正当化のために割り振りすぎて人間は腐れた文明に頼らなければいけなくなった 自然との調和というのは人為的不自然なものだから駄目だ
自然との乖離状態を埋める方法はもう残されていない 唯物論的弁証法は嫌いだが心以前に物と習慣に支配されている感じはある
唯心論も唯物論もおそらく錯覚だ 痩せたいといいつつ痩せることのできない人間は習慣を変えなければならない
習慣とは自己訓練である 過去に死んでいった無数のアブラムシに感謝しろ
死に感謝しないやつはすぐに体調を崩すぞ アウグスティヌスは回心する前にマニ教に嵌っていた
マニ教のルーツはゾロアスター教である
のちにアウグスティヌスは悪について、善が失われた状態である、というようなことを言っている アウグスティヌスがマニ教に真理の不在を感じたのは正しい
ゾロアスターでも善悪の決着が付くまで真の世界はやってこない 「未だ見ぬ世界に憧れる」という感覚はどこから来たのか
それはゾロアスター教である キリスト教では真理を無限として措定し有限の肉体しか持たぬ人間に過度な抑圧を強いた
神の国、最後の審判、これらもゾロアスター由来である 人間はまだ世界未満の状態におかれているといえる
自然に対するような人工的な調和を生み出したり無数の宇宙モデルを構築したり
抽象化能力を無駄遣いしてきた
夢見すぎということ さっきからストレスで頭がボーッとしていて働かず自動書記に近い状態で書き込みしている
これが習慣である 旧約聖書はゾロアスターのパクリだとよく言われている
善悪の根元的な何かが隠されている
人間の苦難と責任転嫁の歴史から悪がでっちあげられたのか?
それはまずあり得ない 基底状態(ユングのプレローマ)から発せられる二元的運動として悪が含まれていた
と考える方が妥当である この世には二元的運動しか存在せず人間が認識している個物はその一つの側面に過ぎないのかもしれない
数字の1に対応する現実は無いということ
論理的事実として特権を用いることにより1が存在するように振る舞っているだけであると 二元的運動の振れ幅には階層がありいわゆる「左右対称」のような構造もその階層のひとつではないか 言葉に対応するような現実を探して述語でいくら説明したところで意味には通じていない
意味は現実を飛び越えた人間の特権である 割り箸と扇風機はどちらがアホか??
イモムシがニワトリにならないのはなぜ?? 有るか無いかというこだわりを人間が捨てられないのも二元的運動があるからでしょう
なければそもそも有無という判断も消える お分かり頂けたでしょうか
この世はかくの如き不気味な怪奇現象にほかならないのです この世が怪奇現象の総合商社であることがわかってもわたしにはどうすることもできずただ
ナンセンスな習慣すなわち暗黙の取り決めを続けることしかできませんこの取り決めはまた
無数に張り巡らされた複雑怪奇な因縁および目に見えない業の力によって怪奇現象を補強して
いるのですがさらに深遠な問題としてこれら怪奇現象が人間の同一性へのこだわりに端を
発した錯覚に過ぎないのではないかという懐疑も加わりわたしのこの世への不安を助長
しているのです 情緒を壊すのは誰だ
情緒を壊すのは誰だ
情緒を壊すのは誰だ 80年代の文献を読んだが当時いわゆる学歴エリート社会はアメリカとそれを真似た日本だけだった
後から韓国も似たような状況になっていくが 乱暴にいえば学歴エリート社会が無気力の若者、精神病の若者を濫造したわけである そもそも敗戦以前の問題として日本に対外を見越した相対化運動が起こるのは江戸時代である
幕府は開国に積極的ではなかったが知識人を中心に様々な階級の間で広まっている
このときに国学の書物が統一的イデオロギーの道具として用いられている
平田国学(篤胤)の『霊の真柱』などは有名である 国学を中心にした運動は宗教的な熱狂に近い
日本古来の思想を組み合わせて神的秩序や霊的宇宙観がさも存在するかのように編纂している このときの国学はおそらくカトリックの世界観に対抗するような力学を持っている
いわば日本流の精神主義 対外意識、嫉妬感情、権力への希求を巧妙に利用した競争体制が整うと日本人の情緒や美徳など
簡単に壊れていく
対処療法も欧米から輸入しまくった 日本人が擬似統一的と呼ばれる所以は海外の驚異から国家アイデンティティを割り出したところである
ここには簡単に国粋主義や排他的イデオロギーが生まれる 明治維新後の国学者は天皇中心主義の教化を望んだが欧米には通用しないとされ大半は排除された 明治政府の取った策は国学者の期待を裏切るものであったが神道の儀礼的側面として現実化している
日本宗教の最大勢力が神道本庁であるのもその名残りである 天保から後の対外的危機意識がもたらした民衆運動は日本人の国民性形成に大きな影響を与えている
外圧に弱いというよりも連動して動いている 日本人の真の美徳が知りたい??
古今和歌集でも読んでおけ 割り箸「バケツがしゃべったァァァァ!!!!」
洗剤「割り箸がしゃべったァァァァ!!!!」
そろばん「洗剤がしゃべったァァァァ!!!!」 ところどころ危機の否めなくなった続けざまの機敏な困窮にたいする潜在的な苦痛あるいは定説
それら一般の立案者がでくわすであろう怠惰と夢見がちな幸福の連結がすなわち公的にかき鳴らすべき
定説それ自体の生きる規範たらんとする無思慮の煩悶として初めてのものがスサノオのわずらいごと
なんですがというのもここでまず第一に明らかにされるべきは言語の使用あるいは掲げられた命題と
言語の使用それ自体の相関としての一般規則がこれらによって存在しかかることがらすべての可能性
におきまして同様にいえることとはそれによって思慮分別を培うに値するような何かといいますのも
ここでいう何かとは上記のどの関係にもあたらない原理としての無秩序を同時に成り立たせるのが
権力の享受に他ならないと思う次第でありましてこれに加えて人類の歴史はオレンジジュースのよう
なものであります(意味不明) かっこうをぶちまけるぞ!!!!
かっこうをぶちまけるぞ!!!!
かっこうをぶちまけるぞ!!!! 論理学
ネトウヨ=人間
人間=弱い
ネトウヨ=弱い
ネトウヨはよわい(笑) ウィトゲンシュタインがいうには全ての哲学は言語批判ということである というのも哲学者の大半が扱う命題や問いは誤っているのではなくそれ以前に自分の言語の理論を
知らないことによって問いに答えることが不可能となっている=ナンセンスだというのだ
深遠な事柄を問題にしているように見えて実は問題になっていないということ ウィトゲンシュタインにとっての哲学とは言語批判の営み(実践)なのである 今まで人間が深遠な問題を言葉によって解決したことは無い シュレーディンガーは天才やな
東洋の古代宗教思想から量子力学の定式を発案している 初期ウィトゲンシュタインの目的…言語批判、思考の論理的明晰化
後期ウィトゲンシュタインの目的…言語ゲームの実践 日本語は古来より情緒と結びついてきたので論理的思考には適さないとよくいわれる ウィトによると日常言語は思考が擬態したものであり言語から思考を読み取ることは決してできない
ただ規則に従うのみである スピリチュアルには無数の文脈があるがよくあるのはグノーシスの亜種 日本ではニューエイジ思想を輸入してくるときに精神世界と翻訳しているが
精神世界もたくさんある グノーシス直系の秘術に東洋思想を適宜ミックスしたのが多い 堕天使の去ったあと物質世界が悪にまみれたわけですよ
浄化浄化とうるさくいうのはそのため 教皇庁はニューエイジブームを生ぬるい目で見ている
まず発想が安直なのである ヒーリング音楽板に入り浸っていたことがあるがあのときは霊性の本をありがたく読んでいた まず「汚れた世界」を前提にしなければ成立しないのが安直
浄化が日常業務になる 食べるのをやめて神に祈り続ければ多少は魂がきれいになる 惑星運動に頼ってもアクエリアスの時代に入らないことは確かである 肉や甘いものを食べるな
酒やタバコ、ドラッグは問題外だ 空腹でイライラするのはエネルギーの無駄遣いしているからだ
生存のためではなく無駄なことを続けている脳みそが苦痛を訴えているに過ぎない wikiで「思考」を調べると「考えや思いを巡らせる行動であり、結論を導き出すなど
何かしら一定の状態に達しようとする過程において、筋道や方法などを模索する精神の活動である」
となっている 命題は別の命題の中に現れる
思考は単なる命題記号操作か? チューリング…アスペ
ウィトゲンシュタイン…アスペ
アインシュタイン…アスペ 共感能力というのは擬似的なものだから必須ではない
問題は発達や成長の意義である AIの研究者がウィトゲンシュタインの哲学に殺到したそうだが分からんでもない
人間の思考にはあまりにも曖昧な部分が多い ウィトゲンシュタインにとっては認識論も心理学に流された曖昧な哲学であった 論理学における命題の真と偽は性質を表しているのではない
ある命題における論理命題を正しく位置づけるということである 永遠の謎は人が仮に永遠に生きたところで解かれるものではない
永遠とは人の生きる時間空間の外部にしかありえないからである デカルトにおける「我」というのはウィトでいえば「世界の限界」に対応するのだろうか 俺は特に定まった自分の考えがねえから何か他人の思想に触れているときそれがさも自分の考えで
あるかのように錯覚してしまう
しかし違和感は常につきまとう 違和感を生み出すためにそうしていると考えれば多少は落ち着く 偉人の思想が自分の疑問に答えてくれるかというと真逆である
問題がどんどんでかくなるのを感じる 言語がなければ人間などとっくに絶滅していたであろうが言語が人間の正しい発達を阻害している
ようにも思える 要素命題すべての真理可能性についてその命題は真であるし偽でもある
前者はトートロジー(同義語反復)、後者は矛盾である ウィトの論理空間は恐らく偶然要素が排除された完全自閉の静止状態だな
ここにすべての可能性を必然として含む アスペの人は共感能力を別の領域に振り向けているからチグハグなこと言うが
規範から外れた独自の論理性を身に付けていることが多い 他人に合わせようとすればそれが壊れるから避けているだけだろ 習慣というのはシビアで根拠のないことを常に正当化していばければ成立しない
ある種盲人になれということである
他人に合わせるために嘘も巧妙に正当化される 俺の親父が凄まじい嘘つきだから他人の嘘には慣れている
俺もまた嘘つきである 「ほーら 鬼さんこちら 手の鳴る方へ♪」
「あのー、これ隠れんぼなんですけど…」
「ほーら ほーら♪」
「(クソッ、ほーらをホラーに変えてやる…)」
「もういいかい」
「マーダー(殺人鬼)だよ」
グサッ!! 「お前の代わりはどこにもいないがお前の上位互換はたくさんいる」だと?
バージョンアップってどうやればいいんでしょうかね ディアブロ2リマスターの発売日が決まったようだ
うーんどうしようかなあ ディアブロ3はエンドコンテンツがひたすら高難度に挑み続ける廃人仕様だが
2はレベルの頭打ちが早く装備とビルドの妙で勝負かけるタイプ 習慣社会は根拠なく自己肯定を続けばければならんのだから
実質中身は迷い人だらけになる
迷わないようにシステムが組まれてゆく
これは著しく非合理的 仏教用語の世間というのは迷える衆生のいる世界のことである
生成変化消滅を続けるそれ自体に本性をもたない場所 仏教的な心性をもち世間にあり習慣に従うとはいかなることか 自己否定というのは人間にはできない
暗に「盲信的な肯定への反発」をしている
自己否定それ自体が嘘である 自己嫌悪というのは自分の尊厳を守るための卑怯な方法の一つに過ぎない 自己嫌悪以前にお前は自己を持っていない
それはマヴォロ氏だ
いや、幻だ 世界には古来より数え切れないほど多数の霊的体験や心霊現象が報告されている
そのすべてが錯覚やデマだとは考えようがない
よって幽霊はいる(適当論理学) 昔から神道に違和感があったがおそらく江戸時代に流行った国学的なものだけだな 儒教、仏教、西洋思想へのカウンターとして無理矢理構築された感 中国で興亡の歴史を耐え抜いてきた儒教、仏教に対抗できるわけがない シビアな日常を営むのに都合の良いものを日本人は好んで取り入れてきた 儒教思想は国を治める側から見た全体幸福の秘訣みたいなものでエリート思想と若干の親和性がある 道教は民衆向けの気楽なものとしてアレンジされ広まった
ゲーム感覚の点数方式だから好みではない 習慣に埋没していると人は自明性を失う
世界にリアリティを感じなくなるのだ ウィトが死の間際まで求め続けたのは絶対的な自明性である
癌で余命2年足らずであることを宣告されのちも絶対確実な何かについての思索を続けた 人が言葉の意味に拘るのはそれ自体が不安定な混乱に過ぎないとみなしていたウィトは
あくまでも言語の論理的確実性の限界に挑むという手法を取った 名前と物とを結ぶ心的なプロセスが言葉にあると思われがちだがそれこそがナンセンスな自体を引き起こしているとウィトは言う
思考を記号操作のプロセスとして心因と切り離して見ているわけである 言語の持つ原初的な形式についての話である
子供は言葉を覚えるときに物との同一性をいちいち複雑な心的プロセスによって確認しているか? 最初は極めてシンプルな形式である
日常言語にはそれと断絶することなく様々な複雑な文脈が与えられる
そこに隠された深遠な意味があるのではないか?と錯覚する程に 人間の分裂の歴史は長い
絶対的な同一性にこだわるのは仕方がないのだ 自分がこの世界で絶対的な自明性を持って生きていると感じられることは無い
ほとんどの人はこの世界が何であるのかよくわからないまま死んでいく
なにがしかの確かな思い出はあるのだろうが グノーシスの特定の一派は人がどこから来てどこへ向かう存在であるかを明確に知る方法を体得していたらしいが
呪われた物質を跳ね除けたのか ウィトも自分は呪われていると考えていたらしい
狂気や自殺衝動を避けるようにして自分に常に緊張感のある思考を強いていた 俺は論理性皆無のオカルト人間なのでウィトのいうことが今ひとつわからんが
狂気ギリギリの領域に踏み込んでいるなと 久しぶりに宅間守の記事を読んだが涙が流れてきた
昔の癖か エリート学校の子供をたくさん殺せば確実に死刑になる、という判断を下したらしいが
その前は繁華街にダンプカーで突っ込むことを考えたそうである 自殺をしたら元妻が喜ぶから、という嫌な考えに駆られているな
獄中で死刑反対派の女性と結婚したが1年たらずで刑が執行されている
母親は精神病んでその後亡くなり兄も自殺し父親は酒乱で入院と書いてある 最近林真須美の長女も自殺したというニュースがあった
加藤智大の弟も自殺したらしい 林真須美については報道の仕方に印象操作、横暴さが目立つ
俺の中では冤罪6割くらい ヒ素を混ぜられた元従業員の複数は共犯で詐欺をやっていたらしいこれはおそらくまともに報道されていない
あと夫にヒ素を飲ませたというのも嘘であろう 日本のような徹底した習慣社会で死刑を廃止にするのは難しい
なんせ皆盲目的に自分を肯定せねばならないからだ
理性的判断などできようはぅもない せめて安楽死を採用するくらいのことをやってもいいと思うが 死刑の記事を読んでグロ動画を見ていたら気分が悪くなってきた ただでさえ異常なイライラが募ってんのにどうしてくれるんだ 異常な殺意とイライラに精神が支配されることがある
訳もなく無性に魂の奥底から その前に見たら呪われるという心霊映像を複数見ていたのもいけなかったか
除霊師も逃げ出したらしいから強烈な亡者の怨念でもこもっていたんだろう
さっきから変な物音してくるしやべえな 植松聖の手紙を読み返しているがどう考えても自分の意思を持っていない
コントロールされている 道徳の基本は他人を思いやる気持ちである
他人を思いやる気持ちが芽生えるにはまず何よりも本人の心が豊かでなければならない 祖霊信仰が日本道徳の原型だといわれている
これはおそらく農耕社会に入りある程度人々の生活に余裕が生まれたことにより共有化されていった 豪族が争いを繰り返す古代日本においては聖徳太子広めた仏教が道徳の規範になった
当時の日本にとって隋は文明国であったため隋の仏教は最新の思想であった
文明国日本の規範となるような教えを仏教に求めたのである 律令制はいわゆる近代化政策だ
豪族から私有地を取り上げて人民のものとし戸籍や租税の制度をつくり中央集権の仕組みにした 唐と新羅の情勢が悪化し危機感をつのらせた朝廷は豪族を再編して一気に国政改革を推し進めた
今でいう名字の原型である氏姓制度もこの頃に出来た いわば日本国の基礎も外圧と連動して出来上がったわけである 律令制が法典として完成したのが701年大宝律令のころである
中国の都を参考にした平城京が造られ貨幣鋳造が本格化する
日本書紀や風土記が書かれたのもこの頃である 10世紀頃には律令制そのものの実態は失われてしまう
一因としては財政政策として国軍を廃止したことによる治安の悪化が挙げられる
その後農民は自分の身を守るために武装を始めるのだがこれがすなわち武士の始まりである 便宜上天皇のものであった土地も免税が可能となった荘園の急増により天皇の収入が減り困窮してゆく
荘園の貴族たちは有力武士に管理を委託し私腹を肥やすようになる 武士たちはいくら頑張って土地を開墾しても自分のものにならんので不満をつのらせ
貴族うぜえとかいって争いになったのである(適当) 土地の所有権をめぐる糞のような争いの歴史の上に我々は立っているわけである
道徳は大切にしましょう(崩壊) 架空の美談で塗り固めた道徳の話は面白いなあ
逆説的に心が豊かになる さいきん烈蹴拳の練習をしている
俺の敬愛する仙水さんの基本体術である
上体は相手の攻撃軌道をそらす(受け流す)ための動作に徹して
隙をつき蹴りを叩き込む
あらゆる武術を体得した上でなければ学ぶことが許されないらしいが キルアの疾風迅雷を超える速度をどうやれば出せるのか、とか真面目に考えていた
俺が思うに光子(フォトン)のような念のイメージだ 脳に電気を通して反射で動く神速(カンムル)というのがあるが充電が早く切れるので
あの方式はだめだ 漫画に出てくる非現実的な技を今でもかっこいいと思ってしまう 誓約として一日8時間神に祈り続ければどの程度の力を引き出せるだろう 人間の限界超えた能力がたまに出てくるのが面白い
4次元マンションとか 次元分断は最強なんだよ
メレオロンの共犯者とスクリームを組み合わせれば無敵wwww 少年漫画では最終的には無償の自己犠牲の精神が最強のパワーを生みだす 限界を善悪をも突破してぶつかり合う純粋なパワーに回帰してゆく 戦いを通じて束縛を取っ払っていくのがカタルシスなわけである 旧約聖書を読めばわかるがキリスト教の根幹には人現存在そのものへの強烈な不信感がある
原罪から始まり無限なる神へ通じる途方もない苦難の旅路である 西洋の政治形態は権力の腐敗を前提にしそれでも均衡の取れるようなスタイルに落ち着く
一方儒教では支配者は天の理と結び付けられ仁徳がなければならずゆえに仁徳を失した
支配者は人民により打ち倒されるという構図に陥る 日本の道徳は神道、仏教、儒教、アメリカン(公共思想)のミックスである 国体思想が決議された第2次大戦の頃には愛国が道徳教育に組み込まれている
明治時代には修身という科目があり行儀を最大限重視していた 安倍政権で道徳授業が復活して非難する人が目立つ
なんせ実地経験ではなく美談が先に来るので現実感覚を失うのではないか?というわけである そもそも高度習慣社会である日本に確かな現実感覚など存在しない
皆虚構に埋没するための訓練に忙しい 失われた現実感覚は逆説的に良くできた虚構(劇場のイドラ)により回復させようとする ベーコンのいう劇場のイドラは文字通り詩人や劇作家の仕組んだような綺麗な虚構世界の意味である
ググると別のニュアンスの説明が出てくるが 綺麗な演劇的虚構世界に埋没することによる偏見
これを劇場のイドラという 虚構は虚構で塗り替えられる
人間の感覚は虚構により改造されていく 世界2秒前仮説、シミュレーション仮説、機会に心は芽生えるか、マインドフルネス…… 世界2秒前仮説 → 世界5分前仮説
機会 → 機械 ちなみにですね哲学によくある一見ばかばかしい(誰でも答えられそうな)問いというのは
言語批判のために仕組まれた罠です
意味論的な解釈合戦を誘発することにより言語操作の難解さを引き出そうとしている思考実験である 解釈の際の言語使用そのものが問題となる
見ていると皆、定義の不在に苦しむ どのような見地から何を解き明かしたいのかさえも明確にしないのだから当然である マインドフルネス マインドフルネス マインドフルネス 戦国時代の非日常的戦闘経験の蓄積がのちに理念として根付き徳川政権下において儒学と結びつくこと
により次第に規範として定着していった
幕藩体制の時代に入ると旧来の主従関係を中心とした美徳が通用せずエリート為政者としての
士道を説く学者が現れるようになる 戦国時代は活気のある反面人の命がゴミ同然に扱われることの多かった時代である
戦国時代の反省として生まれた倫理意識が武士を通じて広まるのは自然な流れである 武士の教本である葉隠を読んだことあるが全然儒教的ではなかった
儒学は行動様式の建前なのかもな 葉隠は三島由紀夫が好んでいた書物だ
新渡戸稲造の武士道も読んだがこっちは士族インテリゲンチャから相対的に見られた
若干美談の入った武士のスタイル論 俺が過ごした青春時代はノストラダムスの終末論ブーム真っ盛りのころでエホバも活発に勧誘を行っていた 不景気から日本の伝統を見直そうという流れもあったが時すでに遅し
東京大学でもオタク文化研究が行われるようになっていた 儒教経典も3冊読んだが本当にエリート為政者向けの教えになっている
論語だけはソフトで人情味がある 儒教思想の確信部は中庸に書いてある
これを実践できるレベルのが為政者となる 論理化される前の思弁過程だからかな
どこまでが信仰でどこまでが論理性なのか判別ができん パーリ仏典の翻訳を読んでいる
大乗以外の仏典を読むのは初めてだ
釈迦の問答集スッタニパータだけは読んだことあるが 昔のお坊さんはパーリ読むために何千キロも旅したんだよ
三蔵法師みたいに バラモン教徒との対話などもある
バラモンでも悪行を働くこともあると書いている 犀の角のようにただ独り歩め、を連呼するフレーズあるがニーチェがこれに影響されていた 人には苦しみの元を潜在的に形成する力がある
これ物の識別作用を観察し滅することで悟りに至る
ここでは死さえも消え失せている 身体や現世否定のニュアンスが強いが精神主義ではない
キリスト教との決定的な違い 仏教には信仰対象が無いため戒律と教えのみが形を変えながら広まる
厳しい修行が必要なものから無心でお経唱えるだけで良いものまである 執着が苦しみを生み出すのだが「執着を持たない努力」によってではこれを克服することはできない
執着の再生要因を観ることにより消滅させる必要がある 輪廻において死と再生が繰り返されている要因である
愛欲と煩悩は死と再生を引き起こすので消さなければならない 煩悩とは激流のようなものである
彼岸へたどり着くにはどうすればよいか 問答形式じゃないなこれ
「それは何故か」の部分も釈迦のことばか 釈迦は渇愛の起源を[受]と答えている
[受]の原因は[触]
[触]の原因は[六処](五感+α)
[六処]の原因は[名色](精神と物質、五蘊)
[名色]の原因は[識]
[識]の原因は[諸行]
[諸行]の原因は[無明](無知) 消滅に必要なプロセスが行者によって違うのかもなあ
よくわからん仏典が大量にある 地域や文化によって言語と観念の違いがあるのだからプロセスが変わるのはやむなし オウム真理教のスタイルはテロリズムや神秘体験の悪用を除けば本来的な仏教に近いものだった ユダヤ教の救済観が混ざっているしニューエイジ思想にも影響受けているが
修行のスタイルは大乗よりも近い なぜ仏教経典とウィトゲンシュタインを読んでるんだろう俺
ついに頭が逝ったか 争いは争いを呼ぶというがこれは何かというと恐怖の排除合戦である
恐怖を排除するために人は争う 愛国や誇りを持って勇敢に戦うことで恐怖は排除される 憎悪から戦うのではない
憎悪に飲まれる恐怖を排除するために戦うということである 弱い心は混乱と憎悪を呼び込む
正義は弱きを助ける
いかにして助けるか?
恐怖を追い出して勇気づけるわけである 憎悪に飲まれるのは確かに怖い
取ってつけた即席の理性など一瞬で消え去る ペヤングよりも安い俺の理性が助けを求めている
せめて野菜を入れろと 仏典を読んで賢者ぶってんじゃねえ!というギャグを思いついたが
恥ずかしいので書くのを控えておこう 書いてしまったので書いたあとで思いついた、ということにしとこう 悟り世代は世代間の溝を埋めることができないことを悟っているらしい
欲を捨てたわけではない 世代間闘争というのも習慣によって培われた擬似的な共感意識を基準にしているため
根拠のない盲目的な自己正当化が顔を覗かせてくる 制度と習慣が強く結びつく日本ではなんでも個人の責任とはいうことが難しい しかし宇宙はデカい
相手が悪いのだ
よって宇宙から出ていくのが最良の解決法であるとわたしは考えた 釈迦が生きていた頃のバラモン教徒は形而上学を好む者が多かったのか? ヒンドゥーでは真なる自我アートマンと宇宙の原理ブラフマン究極的には同一であることが説かれている ブッダは自我に本質がないことを非アートマンとして説明している
これがアートマンを否定しているかどうかについては知らない ブラフマンの化身である帝釈天がブッダに悟りを広めるように進言したという話が残っている 宗教に付き物の認知バイアスの罠はもちろん初期の仏教からあった オウム真理教のオウム(オーム)とはバラモン教の聖音(宇宙の始まりの音)である
ヒンドゥーや仏教でも用いられている 認知バイアスだが人はそもそも自分に有益な情報を集める癖がある
宗教ではより強くその作用が働く 自己に対する否定的イメージで死ぬほど苦しんでいる人が何某か救済につながるような道標を与えらると
感動して脳裏に焼き付くだろう 釈迦が(真の)バラモンを褒めていることから推察するにバラモン教の中に何某かの真理を見ていたのか ヴァルナという階級が固定されたいわゆる身分制度だがその最上位が神官のバラモンである
仏教の輪廻もバラモン由来なのである 商業の流入によってバラモン信仰は衰えるのだが代わりに登場したのがサマナ(沙門)である
これはバラモンを基礎にしつつ儀式や格差を否定するものだった
釈迦もそのサマナに属していた バラモンの輪廻は抜け出すことのできない理不尽さを孕んでいる
釈迦は現世の行いによりループから抜け出せるとした
ここが一番の革新性である 無明を滅して死と再生のループから抜け出すということ オウムの麻原も修行者のことを「サマナ諸君」と呼んでいた 知性はアメーバでも持っている
人間の扱う知性とは形式が異なるだけだ 宇宙に遍く非秩序に抗う力として知性を想定してみたが上手く整合性が取れなかった オウムの修行には半ば拷問じみたものもある
薬物や電気ショックねえだろ 釈迦の教えでは外部に頼って悟りを開こうとしてはならないのだが大乗仏教には他力本願じみたところがある 恐怖に襲われたときも自分をよく見つめて心を落ち着け叫んだり震えたりしてはならない 仏教でしつこくお経を唱えるのは理屈によってでは釈迦の教えなど伝わらんからだ 六道では神のいる世界にも寿命がある
苦しみの連続である輪廻そのものから抜け出して涅槃入りするのが最も良いとされる 快楽は苦痛の要因になる
苦痛を緩和するために快楽に頼る
どのみちこれでは死と再生の繰り返しとなる 平等主義だからといって自分と他人が等しいと思うのは誤りである
優劣も等しさも存在しない 等しいと思うのは識別作用である
これも消滅させねばならない 仏教は相対主義?
相対主義は真理の絶対性を否定する立場
仏教は真理を否定しない 恐怖の発生源は自己観察で停止できるのか?
俺なんか憎悪に飲まれそうになったときは苦痛から逃れる方法以外何も浮かばない 「好き嫌いはやめろ」には「好き」も無くせという意味を含めた方が良い なぜ好きなことに拘る?
嫌いなものを無くせば好きなものも必要なくなる
よしこれも消滅だ イソップ童話を読んでいる
実も蓋もない皮肉っぽい話が大量に並んでいる
教訓を学ぶというよりも結末の後味の悪さから様々な解釈が生まれる
星新一が思い切り影響を受けた本である 伝統的に子供の教育に用いられてきた本だから舐めてかかってはいけない 美智子様の読書経験を本人が綴った本を買ったが実にお手本的なものだった 俺だったらハンター×ハンターの漫画も読書に含めるが グリム童話、アンデルセン童話についてはアニメ、漫画、フリーゲーム作家らの策謀により
美少女やエログロナンセンスと関連付けられてインプットされているから読まない
イソップだけは例外 イソップは本当に糞みたいな話が並んでいる
ロバが猿の真似をしたら棒でしばかれたとかロバが水たまりで転んだらカエルに馬鹿にされたとか
ロバがキリギリスの真似をしたら空腹で死んだとかロバが犬に憧れたらしばかれたとか
ロバ哀れ カラスがハクチョウを見てきれいだなと思った
ハクチョウがきれいなのはいつも水場にいるからだと思った
そこでカラスは水場に引っ越したがきれいになることは無くエサ不足で死んだ 完 ニワトリは宝石を見つけた
ニワトリはこう言った
「麦の方が良かった」 完 病気のシカが休んでいると仲間が大勢お見舞いにきた
仲間はついでに草を食いまくった
病気のシカ餓死した 完 ネコの医者が病気のニワトリの家を訪れて「治療をしてあげましょう」と言った
ニワトリはこう答えた「あなたが立ち去ってくれれば健康になります」 完 カニの母親が子供にこう言った「まっすぐ歩きなさい」
子供は答えた「母さんがまっすぐ歩けば僕もそうする」
母親はまっすぐ歩こうとしたができなかった 完 木こりの老人が森で木を切って街へ運ぼうとしたが重すぎて力尽きた
「もうだめだ死んでしまいたい」
そこへ死神が現れてこう言った「呼んだのはお前か」
老人は言った「木を運ぶのを手伝って下さい」 完 病気のトンビが母親にこう言った「神様が救ってくださるから悲しまないで」
母親は答えた「でもあんた祭壇から神様の生贄をくすねてばかりいるからだめだ」 完 ロバとニワトリが庭で食事をしているとライオンが現れた
ニワトリが驚いて鳴くとライオンはビビって逃げ出した
これに勇気を得たロバはライオンを追いかけたが食い殺された 完 ちなみに釈迦は阿頼耶識について言及していない
八識とは瑜伽(ゆが)行唯識学派が提唱したものである
この学派の開祖が弥勒(マイトレーヤ)である 瑜伽とはいわゆるヨーガのことである
大乗仏教において瑜伽行は[空]を提唱する中観派に匹敵する大派閥である 阿頼耶識の内容を種子(しゅうじ)という
人の行いは種子として蓄積されそれぞれの種子が作用し合うことで新たな種子が芽生える ヨーガというのは識の作用を用いた内観法のようなものである ヴェーダ(バラモン教以前からあるインド経典)の集大成であるウパニシャッドには
感覚器官の制御法としてヨーガが記されている もともとは特定のバラモンのみが輪廻からの解脱を行えたのだがヨーガ修行法の広まりと共に
誰もが実践可能となったわけである ちなみに自我の執着は阿頼耶識に基づいている
阿頼耶(アーラヤ)とは蔵の意味である
この蔵は種子を収蔵している能蔵、種子が進行形で収められている所蔵、自我と錯覚されている
執蔵の3つの特性を持つ 種子には業(カルマ)が含まれておりこれが人間に行為を引き起こさせている
人の多くは明確な意思ではなく業の力に動かされているといえる 執蔵と自我とは同一ではないのだが阿頼耶識を統合主体として行為する人間は
これを自我と措定し執着し続ける
無明(無知)はここから生まれる 日本道徳論の著者、伊藤博文にdisられてるな
仏教とキリスト教を排斥した国粋主義を提唱したのだから政治的にウマ合わないに決まっている 明治期の道徳論で、江戸の国学と違い儒教に西洋哲学を合わせたような思想だ
基本的に天皇中心 言い方は悪いが民主主義国家で死刑を認めているというのはいわば国民が間接的殺人者ということである 福岡の一家4人殺人事件の犯人も刑が執行されていた
中国人の留学生グループが犯人だった
金目当ての単純な動機だ 主犯の一人は特に生まれも育ちも問題はなかった
父親が少し厳しい程度だった
母親はショックで心臓を痛めて入院した 植松聖の母親はホラー漫画家で絵を見ると楳図かずおに影響を受けているようだった
植松本人も漫画好きで死刑が確定したあとも漫画を読んでいるらしい
ヒトラーの意思が降りてきたといっているがおそらく虚言ではない 俺も権力構造に影響をダイレクトに受ける人間だから分かる
自分の意思ではないということ程度は 阿頼耶の種子が意識に出て外部のカルマと作用しあっているのかもしれん ナーガールジュナの中論を読んでいる
大乗仏教の始祖が書いた仏教最大の理論書でインド論理学の大家として有名
ギリシャでいうとアリストテレスにも似た論理派
小乗仏典を読み漁りインド中を旅して様々な僧や学者を論破して回った人 論破しすぎて自分の力に慢心していたところ竜宮城に連行されて真の教えを授かり反省したんだと 古代インドにおけるロゴスは呪法であった
釈迦は呪法に手を出すことを禁じていたがヴェーダには呪術にまつわるものも含まれている
医学にせよ呪術と結びついていた
アーユルヴェーダなどは日本でも有名だ アーユルヴェーダとは呪法であるアタルヴァヴェーダから抜粋した伝統的医術の書 ナーガールジュナはバラモン階級だから釈迦よりは身分上だな
釈迦は王族の金持ちお坊っちゃんで幼少期は何不自由しなかった 釈迦は16歳で結婚するまでの間、人が老いたり病気で苦しむことを知らなかったという逸話がある
相当大事にされて情報遮断されたお城で育ったのだろう
その分、世の中を知ったときのショックが大きかったという 空観は西洋哲学と比べると知性、感情、意志の未分化が全面に出ており一見何の捉えどころもない 運動が一旦始まると運動の中に運動の本質はありえず動いているものは決して動かないということになる
動かなかったものは動かないし動いているものも動くことはないのである 「歩いている人」はすでに歩いているので歩かないわけである 物事の原因を4つのみに絞っていてヒュームじみた冷淡なところがある
うーむ、ついてゆけん… 瑜伽行唯識学派と二分する仏教の論理的支柱であるが俺にはよく分からん 単純に俺が論理を嫌っているからだが
そもそもナーガールジュナの説く真理には概念や言語と、それを越えたものの二通りある
真理が唯一のものであるという考えも通用しないのかもしれない 表意文字を多用する日本語では前後の文脈によって言葉の意味がころころ変わるのだし
複雑なイメージや心象が折り重なって波紋のようぼやけたりもする
主体をしぼってゆきトートロジーに仕立てるのに向かない言語なのである オウム真理教が聖地巡礼をしている動画を見ている
麻原は釈迦のことをサキャ神賢と呼んでいた
サンスクリットかパーリ語か知らないがsakyamuniをそのまま翻訳しているらしい
muniは賢人という意味
悪魔を破滅天と呼んでいる
これもオウム特有か オウムの宇宙には6つの愛欲界(六道)の上に形状界がありその上には非形状界があり頂点に
大煩悩破壊界なるものがあるらしく通常の仏教では体験されることのないそれらの領域を
極限修行により観ることができるという 仮に実相がこの通りだとしたら現代人の多くは餓鬼界か地獄に転生するだろうな ちなみにオウムでは夫婦、恋人同士以外のセックスやオナニーを禁じていたが
麻原自身は戒律を超えた最終解脱者なのでイニシエーションとしてハーレムを作りセックスしまくっていた
自分好みの若い女としかやらなかったそうである 麻原は実際にインドで修行を積んでいるのだから普通の人間よりは抜け出すのが早いかもしれないが
今回は地獄行きだろう ポアというのは悪い世界に転生するのを防ぐための殺しとして麻原の中では悪行に含まれないらしいが
これも解脱者特権か 日本はこの先おそらく先進国とは呼べなくなっていく
バイデンが仮に死刑廃止したら日本はどうなるのだろう 近年死刑を積極的にやっている先進国はごくわずかである 韓国は死刑廃止されていないが執行を実質凍結しているらしい 明治時代の修身教科書の復刻版がベストセラーだと
安倍が道徳教育を復活させた影響? 狂信的な国学が流行るよりは健全だが
俺は狂信的な国学の方が退屈はしない 国民みんなが一致団結して天皇と先祖様たちに献身的に尽くせばいいんですよォ!
個人の自由?そんなものは最初から無い
みんなぁーーー 涅槃と極楽浄土を同一視する宗派があるが今ひとつ納得できない
芥川龍之介は蜘蛛の糸で釈迦と阿弥陀を混同しているような気がする 仏教の究極目的は輪廻からの解脱であって極楽で幸福を得ることではない 極楽浄土は六道から切り離されていて寿命がないにもかかわらず涅槃入りの修行をやる
こんなおかしなことがあるか 大乗は教義が多すぎて頭が混乱してくるから釈迦の言葉のみを追うか 気がついたらロックやメタルを一切聴かなくなっていた
最近までデスメタルを毎日聴いていたのに
うーむ、神学の影響か 宗教系の思想に触れていると微妙に意識状態が変わってくる
波長がロックやメタルと合わなくなる
ロックやメタル地獄の波長に近い ナーガールジュナ、原始仏教の仏典すべてを3ヶ月で読破したと書いてある
凄まじいな 大乗仏教という名前自体に慢心を感じる
もともとは釈迦の教えを地道に守っていただけだったのを大衆を広く救済できるように
教義を再解釈しなおしたのが大乗仏教だ 本来の仏教では頼るのは自分の内的努力のみであったが大乗では他力の要素が大きく入っている ネットが広まることで情報の関連付けが複雑になりイメージの連なりが断ち切られて
アスペ的な症状を有する人が増えているという 人がカルマに動かされているのであれば取ってつけたような意識論や精神論は意義を持たない 今まで見た日本のホラー映画の中で一番怖かったのは「輪廻」だ 科学者が輪廻の実証のために無差別殺人をやって転生したらまた似たような状況が繰り返される
以降抜け出す方法無し 執着や嫌悪は輪廻の要因になる
人が死の恐怖を感じること自体が輪廻の引き金になっている
これは怖いことだ←輪廻 仏教で誤解してはいけないのは無我=自分も存在しない、という意味ではないということ 無常→一切皆苦→無我、という不動のプロセスがある
これは法則の話なのである
無常であることに対して自我への執着があるから人は苦しむ
これが自我の同一性を保証するものがどこにも存在しないことを知れば
主体が自我への執着から無我の法へ転換する
しかしこれは理屈では悟ることができず厳しい内観修行を必要とする キリスト教では無限なる神を置くことにより人間は弱いながらも自我を得ることができた
デカルトが行ったのは釈迦とは別の形での自我の転換 我執から来る人の根本的矛盾を解決する方法は無い
矛盾はただ提示されるのみで説明がされないのである
トートロジーも同じことである
人間の論理性には限界がある
ウィトゲンシュタインは論理の限界を知ろうとした 西洋文明はもはや実無限に近づくための論理の限界に挑み続ける他ない ナーガールジュナの漢字表記は龍樹
龍樹の思想は無の形而上学
しかし論理学は悟りの邪魔をする 明治以降日本人は西洋文明とお付き合いしなければならなくなった
心性として空観は根付いているが悟ってはおらず論理好きな人が多い
数学者の岡潔は日本人の情緒や優れた直観を学問に活かすべきだといっていた
しかしロジックに情緒を振り回される人間がふえた 厳密さにこだわらざるを得ない場合を除きロジックは単なる言葉遊びに過ぎないと感じる 日本道徳論を読んでみるか…
はたして仏教とキリスト教を排斥した道徳が成り立つのか 著者は孟子の重んじた仁を主張していたらしいが
論語における孔子の発言ではあえて仁の説明をぼかしている
なぜかというと仁とは人間関係を包括した[思いやり]に他ならないからだ
接する人間によって(相手の理解レベルに応じて)説明を変える 武士も儒教の礼の精神を身につけることで己の高ぶる気持ちを律していた
儀礼に近いのかもしれない
お辞儀の角度にも拘る アメリカでもヨーガが人気あるが「難しいポーズを取ると健康に良い」程度の認識の人が多いらしい 俺は高校のとき先生に礼儀正しく接しすぎて注意されたことがある 緊張するからもうちょっと柔らかくしたほうがいいと言われた
そうか礼儀は人を緊張させてしまうんだ 卓球部の部長をやっていた手前、練習試合のとき向こうの顧問やキャプテンに礼儀正しくする癖がついていた 俺は糞真面目な反面悲惨なほど大雑把でふざけたところもある
これを見抜かれていたのであった 自分の非論理的かつふざけた電波な性格が気に食わず心理学の本を読んでいた
心理学をマスターすれば俺を悩ませていたイライラや超常現象を解決できると思った こういったふざけた考えを持つ段階で治る見込みは無いと悟るべきであった
しかし「俺が狂ったのは親のせい」同じ理屈で堂々巡りするだけなのだ 自分を取り巻く身近な人間関係ではなくもっと広範での権力構造によって性格を変える人間が
昔からよくいる
これは何を意味しているのか 権力争いとは別に権威が欲しくてやっているわけではない
排斥観念と強固に結びついている
人間の排斥観念の恐ろしさを舐めてはいけない
どれだけ殺戮を繰り返しても無駄である 抽象化能力を過度に発達させて大脳の肥大化した人類は
神経未統合の状態で生まれてきてその後様々な幻想に頼らなくては精神を安定させることができない
そもそも抽象とは純粋否定の作用である …否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定…
…無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常… この中に一つだけ間違った漢字があります
探してみてください
…否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定…
…無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常…
…否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定…
…無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常…
…否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定…
…無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無堂[我執]無常[我執]無常…
…否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定[今]否定…
…無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常[我執]無常… 食べ物の味に拘るやつは餓鬼界に転生する
ここも餓鬼界なのかもしれん 俺はよく内側に怒りが沸き起こるから灼熱地獄行きかな
冷淡な人間は寒冷地獄に行く
他人を傷つけるやつは苦痛の地獄だ 仏教では悟りに入るための方法(仏門という)が84000種類あると言われている
ぜんぶ試すのは無理ゲーに近い バラモン由来の用語を漢語に翻訳したときに元のニュアンスと異なってしまうケースが多い アニミズムの段階から神道というのであれば学ぶ必要はない
すでに身につけているからだ 霊無き質料で埋め尽くされたグノーシスの宇宙観と違って石ころにもパワーが宿っている ディアブロ3まだ続けている
デーモンハンターで新しく始めた
敵を殲滅するだけならデーモンハンターのストレイフが一番速い リソースコスト低減付きの装備が揃うまで粘る
チャネリング強化の太極と囚われを嵌めてある
武器には緩和の宝石 リフトに篭もって永久に同じことを繰り返すだけのバカゲーだがなぜか3年も続けている ディアブロ2を20年間毎日続けている信者とか実際にいるからな アクションゲームでもRPGでもないというのがミソだ
RTSとローグライクを組み合わせて戦闘とトレハンに特化させたシロモノ エーペックスやフォートナイトも試したが速攻でやめた このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 14日 3時間 25分 57秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。