発狂ゲロ発狂ゲロ発狂
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ウパニシャッドの初期を読んでいる
一番古い部類のやつ ヤージュニャヴァルキヤ(聖仙と呼ばれている)の思想が対話形式で書いてあるやつ
この頃からすでに仏教の原型が出てくる どこかの王宮で開かれた討論会の模様だな
いろんな賢人の問いに対して的確に答えて相手を黙らせていく この討論会はヴェーダの理解力を試すためのものであるという マントラの書いてあるヴェーダに付いている物語形式の神学論みたいなやつ 通常神話というのは人の古来の感情や抽象思考の萌芽がみられるものだが
ウパニシャッドでは抽象思考がかなり強く出ている 認識不可能なものへの考察を言葉に永遠性をあたえることでこなそうとしている ヨーガの原型思想もすでに古層ウパニシャッドに出てくる ヨーガスートラではプラーナは生命エネルギーのような扱いだったが
ウパニシャッドを見ると「吸い込む息」にプラーナとふりがなが振ってある
吐き出す息とは別物らしい バラモン教はそもそも祭式とヴェーダ絶対主義みたいな部分があるから
できるだけ初期の方の記述を知っておいたほうがいい
あとに出てくる概念はその補足だろうと思う 本来のヴェーダは音の言葉が絶対であり記述されなかったらしいが
口伝が難しくなってだんだん変わっていったのだろう オウム真理教のようなヘヴィ・ヨガ修行をやる気は無い
一日10時間とかやるらしい 俺は仏教をヴェーダやバラモン教から独立しているとは思っていない バラモン教の中の自由主義派閥のことだろう
そういうと正統バラモンは違うというだろうけど >>1立て乙です
書き込みペース早くなりましたね! >>25
蟻
早くなったのは本が理解できなくてイライラしているだけです ワンパターンになっている思考には良い刺激かもしれんけど シャンカラの本だけは読んでいて充実感がある
なぜだか分からない 何の意見が来ても絶対に揺るがないから、相対主義者にとってはひどく見えるかもしれん サンキーヤの二元論学者や唯識派の学者が反論するがびくともしない シャンカラはウパニシャッド初期で示されている宇宙の根本原理を
極端に信頼してそのまま押し出している シヴァ神に直接会ったという伝説もある人間だから発想にかんして俺の思い及ぶところではない シヴァ神の性器から出る甘露をおしっこだと思って飲まないのは誤りだ
もったいない、みたいなことを真面目に言っている 今のところヨーガ、唯識、アドヴァイタの中に瞑想の参考になりそうな知識を発見している
まだ分からないが 俺は妄執が強く既存の思想をあるがまま受け取ることができない 新興宗教には既存の宗教の組み合わせにすぎないような教義がよく見られるが
俺もそれと似たような感じの思考に陥る あれもいいな、これもいいな、というどっちつかずの誘惑にかられるためだ 相対主義もある意味最強だなと思う
何が来ても「ある点ではある(ジャイナ教)」 相対主義と絶対主義どちらがいいか?というのはよくわからん
結局のところ自分の生のテーマと密接につながっているから 思い込みの強い人間を牽制する目的で相対主義者の演技をするやつはたくさんいると思う ある点では私は石のようなものであり、ある点では私は宇宙そのものでもあるかもしれない 人間の思い込みに嫌気のさしたナチュラリストも相対主義に近づいていくかもしれない 東は西の反対概念であるように
西がなければ東を指し示せない 仏教論理学の依存概念、あるいは因果関係の分析が理解できない
アリストテレスの難解版みたいで 竜樹と対立することで厳密な演繹思考を磨き上げた学派である 解脱が目的の論理学だから、これもまた見慣れない概念の宝庫である それは解脱のために捨てるべき対象を正しく選び出し
「捨てよう」という気にさせる欲求である
釈迦は「ただ捨てよ」みたいにいうからな さあ読むぞ
ありがたい論理学を
ニヤーヤ学派のありがたい論理学を泣きながら読むぞ ある対象を得るか捨てるか、その欲求に結び付いた努力を「活動」と呼ぶ
知識の真偽は、その知識が「活動」と整合性を持つかどうかによって量られる だからそれら要因を自覚して捨てようという努力に至るための知識手段も
無数にあることになる 辛いから楽しいことを考えてさっさと忘れようというのはもちろんだめである なぜ辛いのかを死ぬほど考え抜いて根本から捨て去るのが目的なのだから どうやっても捨て去ることができず苦しみのあまり自ら命を絶った修行者も
過去に無数にいるはずである 釈迦は自殺を認めなかったが病苦から逃れるための自殺は黙って見過ごしたらしい 俺の親父も何度か自殺未遂やらかしたが死にきれなかった 苦しみから逃げるための自殺は俺もあまり肯定する気にはなれない 俺の親父は極度のギャンブル依存で破産しても借金をし続けていた 根っからの詐欺師でどうしようもない人間だと自分でよく言っている 母親が半狂乱になってものを壊しまくっても平然としていた 心が引き裂かれて意識が混濁して殺戮衝動が頻繁に湧いて
何度も頭がおかしくなりかけた それでも逃げられるうちはマシである
逃げられずに実際に殺す人もいる 苦しんでいる人がいるから、と変な仲間意識を持つのも間違いである スタージェム稼ぎが異様にだるくなっている
NGSやりたくない 移植パスが使い切れないほど貯まるとまたNGSへの愚痴が復活してしまうな
くそが >>110
ある点では良いといえるし、悪いともいえる(ジャイナ教) 釈迦とは正反対にすぐれた思想は自分の長男かバラモンの血を引く
優れた弟子にのみ教えるべきだ、と説いている これはバラモン血族思想の特色で、ものすごい閉鎖的なわけだ 悟りに関する知恵を伝えるときには弟子の家柄や学識レベルを調べる 弟子もまたヴェーダ聖典の方法に従った師匠への近づき方をしなければならない 人間の世界へのこだわり、霊の世界へのこだわり、神の世界へのこだわり
全部捨てなければならない 欲望や執着によりこちらから近づこうとしてはならない 何についても知ろうとしなくなったときにようやくブラフマンへの道が開かれる 「知りたくない」でもいけない「知りたい」でもいけない しかしその域に達するためにはこの世界のあらゆる現象が
「行為の結果に過ぎない」ということを深い瞑想と検討によって知る必要がある 私という概念はアートマンの間接的な表示に過ぎないということを知ること 肉体、感覚器官、心などが統合されて出来ている「この私」は行為の結果に過ぎない 論理学に頭痛がして胃が痛くなる吐き気がして頭が痛くなりゲロを吐きそうだ デカルトのいう生得観念はシャンカラ先生においてはどうか アートマンによる理解は観念に外的対象から形を与える、ということである アートマン=ブラフマンは人間の考える神の世界超えてるから!
デカルトは生得観念を神と結び付けた そもそもブラフマンの宇宙創造に意味は無い
虚空はただ作られた 未来が明るく輝く必要もないし、暗く閉ざされる必要もない 世界の民族のばらばらさ加減を見ると世界平和などありえないと分かってくる 欧米主導の進歩史観や科学の発展をやめていく方がいいのか 兵器がどんどん作られていく流れは止まらないのかもな AIで動く殲滅兵器とか怖いから作らんよな?
作るなよほんま 「作らないでほしい」は「作ってほしい」と依存関係にあるので捨てなさい
はい、捨てます師匠 私はAIで動く殲滅兵器を作ってほしいとも作ってほしくないとも思わない
私はAIで動く殲滅兵器を作ってほしいとも作ってほしくないとも思わない 仏教における唯一の目的は涅槃への到達である
ここには一切の苦しみが無い
現世に二度と生まれてくることもない 楽の境地へ近づくことに僧侶たちは喜びを感じる
これはある種の快楽的行為といえないこともない 真の楽を得るために一時しのぎの作り物の快楽を抑え込む 作り物というのは依存関係の上に成り立つことがらすべてである 私はAIで動く殲滅兵器を作ってほしいとも作ってほしくないとも思わない
私はAIで動く殲滅兵器を作ってほしいとも作ってほしくないとも思わない デカルトは早いうちから火が微粒子の高速運動だといっていた ある点で私はデカルトが天才だと思うしあほだと思わないこともない
ある点で私はデカルトが天才だと思うしあほだと思わないこともない ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ
不可思議解脱経と言われる
物語形式の初期大乗仏典 不思議という日本語は仏教用語の不可思議から来ている
不可思議は簡単にいうと「言葉や通常の思考では表現できないようなもの」のことである 釈迦の弟子に維摩という在家信者がいて、そいつが病気になって
見舞いに来た文殊菩薩と問答を繰り広げる 日本では文殊菩薩というと慈善によく関連付けられている 平安初期に僧侶が創めた慈善行為に文殊菩薩の法要が含まれていた 菩薩というのは当時は神格みたいな扱いではなく修行者のことである この維摩経は大乗初期だからかもしれんが表現に壮麗に美化されたような部分が見られて
面白いといえばおかしいかもしれんが変な興奮が味わえる 序盤から超優秀な8000人の阿羅漢と3万2000人の菩薩が集まる描写が出てきて面食らう いかに悟りを開く行為が清く尊いかを嫌というほど押し出す 実話かどうかは知らないがインドで仏教が大ブームになっていたことを鑑みると
実話なのかもしれん 仏教は教義的に文化否定のニュアンスが強くやはり習慣に溶け込んだ民間信仰には押される 現に民間信仰のつよいヒンドゥーに数で圧倒されていった インドで生まれてブームになったのだから今でも勢力あると思っている人もいるかもしれんが
大半はヒンドゥーで残りはイスラムとかである
仏教徒は1%にも満たない インドではしょせん自由主義者釈迦の起こした一時的なブームに過ぎなかった
それでも他の国々にわたって2500年以上生き残っている 大ブームといえるのは一時的なものだった
だからブームなんだけど 自分の心を一番真面目に相手にするのが仏教で、神様に頼らない
ただし経典には頼る 経典には大先輩方のありがたい説法とクソ難解な論理学などが書いてある 最近虫を殺さずに放置しとるからコバエがわりとたくさんいる さっきブドウパンを食べようと皿に置いておいたらコバエが2匹すぐによってきた パンに虫がとまろうが無視(笑)
蟻がごはんにたかっていても無視 ジャイナ教からみると忌まわしき恥ずべき行為
悪に他ならない ムカデを憎んでいるわけではない
不快でたまらないからである 俺は別に他の人が虫を殺しまくっていてもなんとも思わない 気持ち悪いものを排除したいという気持ちがよくわかるからである 戦争で実際に人が死んでいくところを動画でよく見ている
かなり悲惨で、きつい 生きたまま首を切断されるときのあの嫌な悲鳴、血が器官に流れ込みゴボゴボいう どうすればできるようになるのか?
そういう考え方はできない 不可思議解脱経けっこう長いな
おまけに説法が難しい 難しいこと大嫌いなんだが?
はやく簡素にまとめろ! ヘーゲルの精神現象学もいちおう目を通したが頭痛がして内容が頭に入ってこない しかし内容は頭に入ってこない
ゴミクズのような文字の羅列にしか見えず、いわばゲシュタルト崩壊との戦いだった 図書館では学術書や哲学書のコーナーにずっと居座ったが
何も頭に入ってこない 単に自分の忌まわしい感情を抑え込むために難しい本読もうとしていただけ 学問にはあこがれはあるが自分ほど向いてない人間も珍しい 今仏教の本を読んでいるのもおそらく8月になったら何もかも忘れさっている たまに知の巨人とかいって本を何万冊読んできたとか豪語している人いるが
あれ内容の大半を覚えていないはずである 経典7000巻を丸暗記する僧侶もいるくらいだからな 俺の場合読書体験の7割はゲシュタルト崩壊との戦いの記録 著者のいいたいことはあります!
内容もきっとあるでしょう コンクール入選のやつと自分のを見比べて落差に唖然として
2度と書かないと誓った しかし俺は内容に何も興味がないからイモムシの絵を原稿用紙に書いていた 今もあほは治ってないが学生時代は致命的なあほさ加減を持っていた 子供心に学校の勉強は何の意味もなさないものであることは知っていた 地球デウスの緊急は1人でも楽勝だから人いなくてもいい 宇宙救っても数時間でラスボス復活するからなこのゲーム
宇宙が輪廻しているのはそのせい アナウンスから15分でラスボス出て30分後消滅して数時間後に復活する 宇宙が輪廻するリズムに脳波がシンクロしてやめられなくなる 復活がどうとかいっているな
釈迦は復活も糞もないからな
涅槃に入ったらそれまで 人数フルで当たりバースト一回
それだけで稼ぎが1200万 昔はUHのゆりかごが恐怖だったが最近は1人だろうが平気で回る 雑魚はすべてスキャッター連打
ボスは弱点張り付きフレシェット連打 累加拡域が絶対に外せなくなった
雑魚の殲滅力が全然違う ユニットの良質素材を売る人がほとんどいなくなって高騰してんだが
どうしろと? 人数多いときに自分で貼ればいいんだろうけどなんとなく不安になる マイショの出品は一部売れ筋を除いて一つも売れない
半年くらい売れていない うまくいけば4000万で売れる
10憶くらいの値つけているやつもいたが なんで10憶って変換されるんでしょうかこのクソ辞書は よく知らないけど虫を絶対に殺さない人って日本にも多いよなたぶん 俺はなぜか殺すのが当たり前だった
親も普通に虫を殺すから 不快だったら命を奪ってもいいという至極自分勝手な理屈による どんな生命でも命の価値はみな同じ?
そもそも価値って何 虫が出たら不愉快だし、殺すのも不愉快なんだよ
ダブル不愉快 殺さなければならない、という意識を持つとそれだけで強いストレスになる 俺が思うに何があっても自分の価値観を心のよりどころにできる人は
宗教など一切必要ない かといって信仰心も持っていない
不可知のものへの憧れはかなり強い 自分の感じるあらゆる事柄に関して根底から不安になることが多い そんなときに昔の人たちはどうやって耐えしのんできたのだ?と気になっていた オウム真理教の事件を鑑みると、俺も状況によっては入信にいたって
殺人もやらかしていたかもしれない 坂本弁護士の殺人を命令した過程とか調べると完全な悪人だろ 子供含めて三人も殺させて、かえってきた実行犯を嬉しそうに迎える 釈迦にいわせると確実に地獄の最下層に落ちるタイプの行為を繰り返している オウムは出版社の爆破テロも計画していたが印刷所の場所が確定できず頓挫した >「もう今の世の中は汚れきっておる。もうヴァジラヤーナを取り入れていくし
かないんだから、お前たちも覚悟しろよ」
「今ポアをしなければいけない問題となる人物はだれと思う」 ヴァジラヤーナというのは教義による殺人の正当化である 麻原も仏教の戒律の厳しいところで自分の心のみを相手に修行していた方がよかった
あれは集団のリーダーになって良い人間ではない 今でもアレフには強烈な麻原信奉者がいるといわれている 汚れた世の中を救ってくれる救世主?
そんなの現れるわけがない 以前アニメばかり見ていたが幸せは感じなかった
依存的に続けていただけで 性欲があったりその対象が二次元になることはそこまでおかしいとは思っていない
ただ苦しみをアニメで誤魔化し続けることが恥ずかしいのかもしれん 難しいアニメの考察や分析は好きでよく読んだりしていた 凡夫の俺が一年や二年で理解できるシロモノではない
修行僧でも最低八年はかかるらしい 相手は心だから図式化して納得するようなシロモノではないわけである
常に生成と消滅を繰り返している しいて言えば常に弁証法で概念が動いているヘーゲルのむつかしさに似ている リアルタイムで自己の心を見つめながら考察しなければ成立しない 読んで納得できるようなことは何も書いていない
すべて自分の心を参照していく 楽になるには苦しみを根本から捨てればいいのです、といわれると
ああそうなんだろうなあと一応の納得はできるでしょうけど ただ悟れと言われても人間は執着が強く身勝手な生き物でねえ 命の価値について教わったことは今まで無い
学校でもそんなものは教えない いじめや動物虐待はそんなに理不尽だとは感じない
やる方は人間関係に感じている圧力を下に逃がしているだけなんだろう
つまり逃げているんだが 苦しみから逃げているので、むしろ憐れむほうが正しい 麻原も盲学校時代にいじめやいやがらせをよくやっていたらしい 俺は親の不仲に苦しんできたが悪い扱いは受けなかった
拷問や虐待は一切なかった 拷問というと大げさだが、子供はデリケートなので「親から精神的拷問を受けている」と
解釈することは多いだろう 仏教の関係者は難解な言葉で人に説教することは少ないはずだ しかし仏典に通暁しているとしたら相当頭が切れる人が多いはず 言葉が物事の理解を阻害するケースが多いことも知っているので
重要なシーンで沈黙することが多かっただけである 頭の回転が速い、論理的思考ができる、というだけではない 物質の時代が終わると心の時代が来る、という予見がよくあった
しかし考えてみると物質と心というのはデカルトが提示した難問であり
科学では着手できない 科学は証明以前に研究の対象として扱わない分野が多い
霊を対象にしていたこともあるが最近は薄れている 仮説として論理だてて再現性のあるデータが得られない事象に関して
そもそも扱わないという風習がある 心は定義付けるのが難しい
存在を認めない人間もいる 意識は神経や器官や細胞が統合的に働いた結果出来上がったものに過ぎないと考える人もいる ウパニシャッドでとらえられている自我とはアートマンのことであり
身体や心の統覚機能とは別の領域にある シャンカラは自我が統覚機能の動きに影響されて動いているように見えるのは
船に乗っている人間が対岸に生えている木を動いているように錯覚することと
おなじだと言っている オウム真理教には悟りのステージに応じて、つまり階級が上がるたびに
信者からの尊敬度も増してゆくという承認欲求を利用したシステムがあった
これがまずい 階級にふさわしいような演技をするようになる
実際はその階級というのが麻原が気分次第で決めたようなものである 自分の実力や性質分相応に認められていると別にいいわけだが バラモンは自分の立場や良い暮らしを捨てて浮浪者同然の生活をし
拘りを捨て去るという修行もやっていた それでも当時の社会システムとしてはその行為自体が尊敬されていたのかもしれない 知恵というのは普通自分の行動と体験を通じて新しいことに気づくことで得ていく 自分の心に対する気づきを誘発するための論理が仏教にはある 釈迦は多くの気付きを瞑想によって手に入れたといわれる とはいえその論理に用いられている知識が確実かどうかが分からない 理屈っぽい思考に凝り固まって執着の強い人間には学問としてやらせたほうがよかったのだろう ダルマキールティはヘーゲル的な考え方なのかなあ
どうも頭がついていかん ニヤーヤ学派はアンセルムスに近い思考実験をやっている
つまり絶対者の存在証明 悟りを開いた釈迦が最初におこなった説法が四聖諦についてだといわれている
生の本質は四つの苦しみだ説 >
苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実
集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実
滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、
執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ
道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには
八正道によるべきであるということ
苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、
滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す
四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、
原始仏教の教義の大綱が示されているとされる 認識として滅諦までは俺はいけない
苦諦が分かってきたから集諦の序盤に入ったところ 苦しいときに楽しいことを考えてしのぐというのは妄執によるごまかしである 苦行者はあえて苦しいことをやることで自分の心の動きを観察している オウム真理教などはほぼ苦しいことを「やらせている」だけなので良くない 釈迦は6年間苦行したが得られるものはなく苦行を否定するに至った 釈迦はもともと瞑想(というより熟考)するタイプの人間だったらしく
釈迦の親父は息子を出家させたくなかったので豪勢な生活をさせることで
家につなぎとめようとしていた
それは無駄なことだった 外出するときに腰の曲がった歯の抜けた老人を見ただけで釈迦は不安に襲われて
外出をとりやめたという 人は誰しも歳をとって衰えていく
自分もいずれああなるのだ、ということを考えて不安にかられたらしい
子供は普通そんなことは想像できても深刻には悩まない 幼少期に無知の極みだった反動で、あらゆることを深刻に考える癖でもできたのだろうか 色は科学的に一応の説明がつくがなぜこの世界に色があるのかはまったくわからない
俺は青いバケツを見ると不安にかられるようになった 唯識の概念を簡略にまとめてあるサイトとか見ると、なんか面白そうとか感じるんだが
経典を読むと頭が混乱する だからたぶん心理学と同じ感覚で俺は見ていたんだな
これも妄執だから黙らせる 原始仏教(上座部=保守派)の主要経典にパーリ仏典というのがある
これのうち釈迦が説いた教えとされる経蔵をいくつか読んでいる 上座部というのは釈迦の説いた教えをできるだけ忠実に残そうという保守派のことである
しかしあまりにも解釈を固定しすぎたために新しい人が入ってこなくなった 前にも書いたが2chに例えると「ローカルルール厳守、sage進行必須」みたいなスレッドのこと 上座部の人らが信頼している経典だから大乗より先に読んでおいたほうがいいな 俺が以前から読んでいたスッタニパータもパーリ仏典の経蔵の一部である パーリの経蔵はそんなに読むのに苦労しない
深く考えさえしなければ理解はできる 難解な唯識概念を立ち上げた世親という僧侶はもともと上座部出身だった 釈迦の言葉は優しいけどシビアなんだな
簡単なようでできないことばかり言う 原始仏教の経典に出てくるブラフマー神とバラモンのブラフマンが同一かどうか知らない 上座部の保守性はさまざまあるが
自身の保有する経典以外に釈迦の言説は一切認めないというのがある
キリスト教でいうところの聖書原理主義のようなもの イエスの言葉は聖書以外には一切出てこない、というようなものである 実際、大乗仏教には釈迦が語っていないことをさも語っているかのように見せかけた
創作がたくさんあるのだと思う
詳しくは知らないけどあれだけの数があるとな 何百年も経ってから新しい経典をいくつも作るのに創作が入らないほうがおかしい そもそも仏教は釈迦を神格化して信奉する必要がない
そういう教えではない 釈迦が説法を思いとどまった動機のひとつに自分の得た悟りの境地があまりにも
「微妙」であったというのがある 1の方の意味
>びみょう
【微妙】
1.
細かい所に重要な意味・味が含まれていて簡単には言い表せない様子。
「―なニュアンスの違い」
2.
《多くは言い切りに使って》
何(どちら)とも言いかねるさま。
「成功するか(どうか)―」 釈迦が得た悟りとは苦痛の果てに垣間見える究極の世界だとかそういうものではなく
心の世界を注意深く観察することによって得た気付きの連続である 楽や苦痛とった両極端・対立した「依存」の世界から離れる「中道」の境地を突き詰めた、ということ この「微妙」の世界観をめぐって後の世で解釈が繰り広げられる おそらく儒教やアリストテレスとも違う
>概念としての「中庸」
「中庸」という言葉は、『論語』のなかで、
「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆されたのが
文献初出と言われている。
それから儒学の伝統的な中心概念として
尊重されてきた。だがその論語の後段には、
「民に少なくなって久しい」と言われ、この「過不足なく偏りのない」徳は
修得者が少ない高度な概念でもある。
古代ギリシャでは、アリストテレスの「メソテース」という言葉で
それを倫理学上の一つの徳目として尊重している。
また、仏教の中道と通じる面があるとも言われる[誰によって?]が、
仏教学者[誰?]によれば違う概念であるという 「過不足なく偏りのない」というのは儒教では為政にかかわる価値観に通じているだろう どちらかというと中庸は対立概念をバランス良く
中和してまとめあげる方向へ行くのだと思える 儒教にも宇宙観がわりと細かに設定されていて複雑だが
仏教の悟りとはかけ離れている ジャイナ教も仏教とほぼ同じころに登場しているがこっちは相対主義の究極形態をとる キリスト教に見られる人間の特権も存在せず相対化される わかりますか
自然界のものはすべて生きているのです
だから地面や水も害してはいけません 俺は容易に両極端に振り回される傾向がある
仏教の中道が難解に感じる要因もそこにあるに違いない 戦争と平和は依存関係にあるということは再三いわれてきた バラモン教の世界観は最初「有」だけであった
無から有が生まれるわけがないからである 感覚器官の対象を快楽に結び付けることがすべて苦しみに通じているということに
釈迦は気づく 釈迦が気づいたのは新しいことではなくはるか古代から伝わる伝統的な知識のこと 修験者が死ぬほどの苦行を繰り返してようやく想起できることに
釈迦は心の観察のみによって気付いてしまった マントラやヨーガによって無理矢理叩き起こそうとすることもある
オウム真理教はそれにあたる 臨死体験に近いことをやって叩き起こそうとして命を落とすこともある 覚せい剤を使った疑似的な体験もオウムは普通にやっていた
上祐も覚せい剤をやらされた 唯識はある種のグノーシス秘術のようでありチートの発想に基づく 段階的に悟ってゆくステージアップの図式は誰が最初につくったんだろう しかし仏教を秘術として捉えてはいけない
それは釈迦が禁じている それで無知な人間に苦行やらせて死に至らしめることもある
オウム真理教のように 俺はヴェーダの秘術的側面からと、仏教の中道の側面から見ていきたい カバラと似た部分もあるが西洋とは思考プロセスが違う 自分が今までやってきた快楽だと思い込んでいたことは確かに苦しみに通じている
ここまでは分かった 病的なまでに肥大した自己肯定を求める気持ちから他者を害することで
快楽を得るという人間もいる
あれもつまるところ自分を苦しめている ナルチシズムの強化版みたいなもので、永久に自己肯定には結びつかない pso2のフレンド申請と違って宇宙からの要請はなかなか断れない 釈迦の言葉は奥が深すぎて考える気にならないのかもしれない それを考え抜いてきた僧侶の先輩がたよ
クソ難解な論理学などつくりおって エリート僧侶で8年かかるのを一か月でてに入れようとした手抜き野郎、俺 オウムの極限修行に数か月間横になってはならないというのがある 〇〇は悪、〇〇は善、というような考え方は中道に背く 多くの動物が持っている生体磁石を人間が持っていないと考える方がおかしい 愛欲に様々な対象を持たせて快楽を追求する行為は低級、低俗、下劣なことだと
釈迦は言っている 気づきを阻害するものは徹底して遠ざけなければいけないからやむなしの判断か ブラフマンは動かないからいつまでも待ってくれるぞ
何度でも何千億年でも輪廻したまえ 釈迦は悟りを開いたとき、もう入滅しようかと思ったらしいのだが ブラフマー神からの要請があったという
それで人々に説法することにした パーリ仏典の経蔵に書いてあるのだから保守派はこれを事実として受け止めているだろう ブラフマンは動かないから、ブラフマー神とは別物ということか
これが本当に分からない 多神教で派閥によって神の位置づけが違うのは分かるが スッタニパータ(パーリ仏典)ではメッタグーという学生が釈迦に質問するシーンが出てくる メッタグーは釈迦に対して「ヴェーダの達人であるとお見受けします」
みたいなことを言っている
それに対して釈迦は否定せずに質問に受け答えする さいごに「かのヴェーダの達人もまた煩悩の流れを渡って彼岸へ到達した」と
いうようなことを言っている 釈迦もヴェーダを学んでいて修行僧のやり方をある程度知っていた 近代国家→人間中心、幸福の追求→人間の都合に悪いものは排除して良い→虫は皆殺し ゆりかごトリガーに三時間くらい参加した
かなり頑張ったな 人それぞれみんな違っていて当たり前→人間も動物も植物もみんな生きている→
みんなに生きる権利がある→命を奪ってはいけない→食べてもいけない→
みんなで餓死しよう! 自分の意志で何も食べないと決めて、その結果命がなくなったらどうなんだ 自殺を禁じていた釈迦もそれをやろうとしとっただろう 食べたい人はどんどん食べて太ればいいだろう
それも苦しみだが 生きるためには仕方ない、という理屈を否定すると餓死しかなくなる 何も食べずに限界近くまで来ると胃が何も受け付けなくなって
食べるという発想自体が消滅するらしい 水分やビタミン、ミネラルのみで一年以上断食した人がいたな
ギネス記録にのっているはず 二か月くらいなら一切何も口に入れなくても死なないという話がある 俺は一週間近く水のみで過ごしたことがある
あれが限界だった 3日くらいの断食なら鼻歌交じりでできるが5日超えるときつくなる 水さえ飲めれば幸せ、と思っていれば幸福の追求が楽勝になる なぜ俺はストレスをためながらゲームをやっているんだろう 俺はあらゆる因果関係から離れた絶対不動のものに憧れがあった
それがブラフマンであるということを知った アンセルムスが証明しようとした神の概念に近いものがあるが
アンセルムスの神は「すべてを包摂している」というイメージが先に来る それより大きいものが考えられないような存在
最高の善の源 大げさで幼稚で短絡的な俺が考えた最強の神は「無限より少しだけ大きい」だった
それって数学にある概念やん 仏教が難解で幼児退行したくなっているが最初から幼稚なのでどうしようもなかった パーリ仏典に出てくる釈迦の言葉はたしかにありがたい感じがある
弟子が代々伝えてきた「釈迦のそのままの教え」らしいが
記憶が全部正確だとは考えにくい 基本思想だけを抽出してあとから分析し理屈を付け加えていく大乗仏教も
間違いだとはいいにくい 大乗は創作宗教だから信じるに値しないと考える保守派も未だにいる NGSも嫌々やっているがちょっとしたタスクをこなすだけで眠くなる マップ移動のだるさが異常で、とにかくテレポートしたくない この時間帯にお昼寝しますと書いてましたが、
しなくなったら夜よく眠れるようになりました
夕方以降は一切カフェインも摂っていません 専用ブラウザで読み書きできなくなったのできつい
しばらく5chやめるかもしれん ヴェーダと仏教の「感覚器官」についての記述を考察している ヴェーダでは感覚器官も五大元素と直通している
本来的に感覚器官を快楽目的で使うのは明らかに誤りである
釈迦はそれに気づいた 釈迦の捉え方では感覚器官による快楽はある種の
欲望の渦ができあがり、そこへ精神が巻き込まれる APIを提供していた大元がクーデターを起こしたとかで盛り上がってるな
何があったんだろう
ともかく5chはやめる可能性が高い pso2、ユニットの8スロ拡張が地獄だということを忘れていた 成功率95%の表記はまったく意味がない
運営によって巧妙に失敗しやすく操作されている 成功率95%が8回連続でミスったときは殺意が湧いた 釈迦はアタルヴァ・ヴェーダの占星術や呪術のたぐいを明確に禁じている 5chAPIの使用権をほぼジェーンが独占しているのは知っていたが
まさか止めるとここまで他のブラウザも壊滅するとはな 専ブラで書き込む際はAPIを通さないと法的措置を取るとか
5chサイドが脅していたのは覚えている Talkというサイトに誘導されるみたいだが俺は行かん 今ブラウザから直接書き込んでいる
専ブラではそもそもスレッド情報の読み込みすら行われない 哲学者ショーペンハウアーの思想を決定付けたのはウパニシャッドである ウパニシャッドこそが世界で一番有益な書物だと高く評価した ショーペンハウアーはヘーゲルと同時期の人間でヘーゲルと同じ大学の講師をしていたらしい
当時はヘーゲル思想が大人気で人柄もよかったヘーゲルの講義にはいつも人が集まっていた 厭世的な思想のショーペンハウアーの講義にはあまり人が集まらなかったという 心理学者のユングはショーペンハウアーにも影響を受けているが
俺の私見では東洋思想への理解はユングの方が深い
ショーペンハウアーの理解は西洋的な価値観が基準となる 東洋思想は恐ろしく多角的で深度がある
理性と感情などといった単純な対立はない インドには特徴を代表するような大きな思想の流れが存在しない
無数に枝分かれしている できうるかぎり根底に行こうとすればヴェーダやマヌ法典がある もともと古代アーリア人は好戦的な遊牧民であり様々な民族に侵略をかけていた 自分たちが優れているということを知らしめたかったのだろう インダス文明が滅びた要因もアーリア人による侵略ではないかという説がある
最近になって否定されてきているらしいが Talkに俺のスレまでコピーされていた
あんな不可解なところ絶対に書き込まない 岩波の起信論を読んでいる
この本は妙な中毒性がある
語弊あるけど、デカルトに近い感覚 難しく考えなくても問答無用で心の中にイメージが入ってくる
起信論を読まされて「これが大乗仏教です」といわれると
疑いなく信じてしまいそう 仏教では心の本性というのがあってそれは人の識別能力による差別相を
越えたところにある 識別能力の働き方をよく観察することによって心の本性が
それとは無関係の場所にあることを自覚すること 感覚器官のもよおす快や不快は観察に錯乱をもたらすので
避けなければならない シャンカラによると身体の痛みや苦しみというのは統覚機能の対象にすぎず
真の自己(アートマン)とはまったくの無縁である 統覚機能が対象とする痛みはその場所にしか発生しない
腕を切断されるとその場所が痛いわけである
これは「私」の痛みではない
統覚機能は常に混乱している 身体の混乱は「私」のものではないと自覚すること
ほら、仏教とアドヴァイタ似ているぞ シャンカラは唯識の仏教徒がアートマンを認めないことを批判しているが 認識そのもの、認識の主体がアートマンなのでアートマンを対象に
思惟することはできない
仏教はあくまでも心のみを対象にする は?
それではなぜアートマンやブラフマンを対象に哲学できるのか
それは・・・
「天啓聖典(ヴェーダのこと)」にそう書いてあるからだ! ごく一部しか読んでないがヴェーダは何か底知れない感じがある
西洋には見られない 神話の世界観からそのまま知性を引き出してきたような印象を受ける
西洋は神への祈りを次第に人間寄りに理性化してゆくのだが 仏教にもその底知れない感じが引き継がれている
ヴェーダへの信仰やバラモンの特別視を除外して対象が
心の世界になってゆくのだが 仏教は神話と無縁ではない
釈迦は神話の神々と対話している 日本の仏像によくある帝釈天もヴェーダに出てくるインドラという神である 梵天はブラフマー神のこと
ブラフマンの神格化されたものらしい
このあたりはシャンカラに文句言われそうだな 俺が疑問に思うのは、釈迦が苦行を否定して中道を説いているのだが
釈迦本人は「苦行は必要なかった」ということを6年間の苦行のあとに悟っている 苦行は必要ない、ということ自体が苦行しなければ悟れないのではないか?
という疑問 人間の思い込み、執着は相当しぶとくて簡単には落とせない pso2で8スロユニットを複数作るのが苦痛で、7スロで妥協した
完全な嫌がらせ 人間には理屈で納得しているつもりでもできないことはたくさんある 仏教の影響で脳波の状態が変わってヘヴィメタルを聴かなくなった 今はミスチルの深海を聴いている
JPOPにしてはかなり深い?内容
ピンクフロイドの狂気を意識しているのはすぐに分かる ミスチルのラブソング的な面には興味ないが深海は良いアルバムだ 感覚の快楽を避けなければいけない
異性と関わってもいけない
美味しいものを味わってはいけない
嘘をついてはいけない
何も殺してはいけない
暴力自体がいけない
あまり寝てはいけない
ほかにもたくさんある 仏教が禁欲的な理由は単純にいって欲望があると心を養えないから
心を養うために欲望を否定する 解脱を目標として修行にあけくれている僧侶は日本では少ない 人々の欲望を終わりなく煽って消費活動へ結びつける近代的な仕組みは
完全に否定しなければならない 仏教はそもそも商売してはいけない
与えられたもの以外を取ってはいけない 俺は信仰心がないし仏教にも帰依できない
今は疑似的に仏教への理解のためにそれっぽい意識状態になっているだけ 自己投影とはある種の精神の異化を試みるということである
ユングがそういっている ユングは晩年、東洋思想に何度も自己投影を繰り返して理解を深めようとしていた やりたいこと無いのになぜ必要だと思う?
どこかにあるような気がするから知りたいだけ?? やりたいことを探すというのは本当に意味が無いことだ 自分のほうから混乱して本質を見失うようにするということ 欲望、欲求に基づくものはすべて身体から来るものであり
統覚機能の対象に過ぎない
真の自己とはまったくの無縁 日本という国は人間関係への依存が非常に強いから
自分探しの必要性に駆られるだけである
つまり、だれか自分を必要としている人がいるのではないか? 誰からも必要とされないのが良いに決まっているだろう 誰かの統覚機能の対象に自分がされるということだぞ
そんなことをいちいちしなくてよい 自分の心が養えていないのに家族を養えるか?
だから金で解決しようとする ジェーンと運営の間に何があったのか知らんけど
最低限の礼儀としてユーザーには事前に知らせるなり
事情を書くなりすべきではないだろか あからさまにパクリのサイトを勝手に立ち上げて黙って誘導とか
裏切り行為にしか思えない 談合してサーバの負荷を分散させただけという噂も出ているが
それだったら一時的な炎上で終わるのか 自分の価値観を信じるというのは大事なことだろうが
価値観の根拠をさかのぼると自信がなくなってゆくのが普通のこと 釈迦が説いたのは心の大切さであって個々人の価値観の信頼性ではない 釈迦の言う法(ダルマ)というのは人間の心の本性にある理法のことである
心の理法のみに頼って生きなさいというわけである
それは社会規範や既存の価値観からはもちろん逸脱している
客観と主観の存在を認めない 世親が書いた唯識の解説書を読んでいるが頭がおかしくなりそう
グノーシス思想にきわめて近い印象を受ける 文字通り心の外側に実体的な世界があることを一切認めていない 初期ウパニシャッドの輪廻の記述を読んだがいろいろ腑に落ちた 主観や客観があると思い込んでいるのは
認識のできていない愚者だというのだから大変だ
俺は自分に主観があると思い込んでいる 私とは何かを考えるときにたしかに心の理法は無視して
社会や習慣で培われた価値観を利用している 親から始まる人間との関係性の中で培われたものが基準になる
これは確かに脆い価値観だ 様々な人と関係して学んできた人は経験豊かで
それだけ多様な価値を認めることができる? 何千億人と関わろうが心の理法を無視しては何も学ぶことはできない 俺はこれまで人から何も学んでこなかったのかもしれない
そろそろ学びが必要な頃か 誰と関わろうが学ぶのは自分の心からだから
人から学び取るという表現は便宜的なものに過ぎない 「心の拠り所」を持つことで精神が安定するというのはある しかし仏教では違う
心の本質以外に拠り所は存在しない 寂しいからといってペットや好きな人に気持ちの安定を求めることも
仏教では否定される 仏教では釈迦の説いた真理こそ正しいとしてそこへ安住することも禁止されている もちろん釈迦の説いた真理を正しいとして他の宗教と論争を繰り広げることも禁忌である
論争自体が釈迦によって禁止されている 釈迦は真理を示しただけでありあとは自分の心と相談しなさい、といわけである
釈迦の説法に安心感を得てそこへ安住してはならない >>707
言葉がいらぬ誤解を生み出すかもしれないときは沈黙する
それが正しい姿勢です 誤解を誤解で上書きする
嘘を嘘で塗り固める
そのようにして培われた価値観は壊す必要があるのです ヘーゲルは人間の思考様態に規定を設けて
精神活動そのものを概念運動として捉えようとしている
人間の思考がどこまで真理を認識することが可能なのかを調べるのが目的である 仏教ではダルマキールティという哲学者がこれに近いことをやっている
しかし思考プロセスが違う 簡単にいえば人間は対象をいかにして認識しているのか
ということに対する分析である
認識の基準となるもの ヴェーダでは認識の主体はアートマンでありそれ自体を認識することはできない 正統派宗教に属していると論理学者でも否定してはいけないドグマ(教義)がある
縛りプレイみたいなものである 仏教は釈迦を絶対とするものではないので自由に思想を楽しむ学者も多いが 人の抽象思考には必ず他の排除、対象の限定というものがつきまとう
この作用についても仏教論理学では徹底して分析されている 一元論学派にとっては区別という問題は取るにたらないものだろうが
二元論以降は変わってくる ヘーゲルにおける概念には普遍、特殊、個別、という三つの契機があり
これらは対立を克服するための運動につながる ヘーゲル哲学においては概念の弁証法運動が絶対精神へと発展するのだが
それが一方通行の西洋進歩史観に通じているとして否定する学者は多い 対立と克服は人類の大きなテーマのようにも思えるが
これはショーペンハウアーによると後付けの勝手な思い込みに他ならない 近代国家の目的は共通善の創出である
善は作られる立場にある
作られたものとしての善は同じく作られたものとしての悪と対立することになる ホッブズは自然状態の人間には善も悪も存在しないと言う
理由はあらゆるものに対する権利を行使できるからである
そうなると万人が権利を主張し合う闘争状態となる 相互侵害を抑制するために国家権力が要請されるという図式
国家に属すれば人々は本来自由であったはずの権利の主張のほとんどを
国家権力に譲渡しなければならない 俺はセックスの神だから世界中の女は俺の好きな時に犯すことができる
という主張も通じなくなる 仏教は究極の楽と自由を手に入れることを目的とする
そのために厳しい戒律がある 欲望に基づいた依存関係
それらを自分の好きなようにできる自由
苦に通ずるのですべて捨てなければならない >個は現実的なものと同じであるが、ただ個は
概念から出現したものであるから、自己との否定的同一としての
普遍的なものとして定立されている 概念上の個は自分自身を産出するものであり、他のものを生み出すという仮象をもたない 神が仮に絶対的な個であるならばなぜ他の無数のものを生み出せるのか
こういったテーマについても哲学では徹底的に分析する 個は概念上に存在するが実在としては存在しえないとする考え方もある 人の感覚器官はそもそも異なる物理的特性をもった刺激を
それに見合った器官で受け取る
神経は異なった情報刺激を無理矢理統合する 統覚器官は常に混乱を恐れているといえる
分からないものを無理に統合している 混乱や苦痛を自覚することなく感覚器官を快の情報に逃避させるのは
誤りである 分からないものを無理矢理統合した状態を「私」と置き換えているだけである
真の自己とは無縁 心にもやがかかって晴れない、鬱屈としている?
そもそも晴れとは雨や曇りの依存概念である 瞑想に必要な情報を集めている
この依存概念に対する分析は必要だと判断した 自分の心の状態を何か別のものに置き換えることはよくある
ある状態を指し示すとき、それが何の依存概念であるのか 常に生成消滅している心と相談するのは難しい
心の世界では同一性について考えるのも難しい ロックベア測定でレベル70台でも簡単に500万超える 最大状態のカマイタチを維持して全部ヒットさせるつもりで接敵すれば強い ゆりかご来たのにほんとに誰も来ないから切れそうになりながら1人で回った 少人数だとすぐに破棄する人が多い
確かに稼ぎの効率が著しく落ちるから仕方がない
俺は1人でも絶対に行く UHは7スロ8スロの貴重なユニットがよく落ちるからな
高スロのユニットはできるだけ貯めておかないと穴あけのときに困る
8スロ穴あけは地獄のような作業 運営による嫌がらせの典型
無駄な金を大量に使わせる 7スロ8スロのユニットはビジフォンではあまり売ってない
大抵すぐに売り切れる >>755
宮崎駿は支配願望がかなり強い
アニメ作りの才能はすごい 自分の挫折心を代償するようにアニメ作りに全力投球してきた人なので
仕事に関しては一流である インドでレイプや殺人事件が増えた理由?
仏教が廃れたから カーストの名残による差別は凄まじいし
ヒンドゥーとイスラムでよく対立もある 心を置き去りにしたまま近代化した国に明るい未来など訪れない 共産主義にして貧富の差を根絶し人々を洗脳してマトリックスに閉じ込めても無理だ 派閥による教義の落差を乗り越えて日本と中国で大ロングセラーとなっている書物だ 大乗仏教とはどのようなものかということを要点のみに絞って
懇切分かりやすく解説しており初心者から上級者までを対象に
修行法の基礎が書いてある
まったくだめな人向けに浄土宗のごとく念仏唱えればいいことも書いてある 日本の主要な宗派すべてで正統派の教えとして認められているらしい
どういうことなんだ?この書物は 1600も前の書物なのになぜこんなにも分かりやすくまとめることができたのか 書かれた正確な年代は分かっていないらしいが
7世紀頃という話もある https://ihatov.cc/blog/archives/2020/05/post_963.htm
たしかに起信論にはヴェーダにも見られる一元論的な法解釈がある
元の法との決定的な違いは一見するとよく分からない 起信論の日本仏教への影響力は絶大であり、修行しない僧侶ばかりになったのも
この書物がきっかけなのかもしれない パーリ仏典にある釈迦の教えを忠実に守っている僧侶は日本にはおそらくほぼ皆無だろうと思う 仏教におおむね共通しているのは欲望や執着、妄執を捨て去れば楽になれるということ ウパニシャッドのアドヴァイタでもシャンカラは同じことを言っている 釈迦はブラフマー神と対話しているからおそらくブラフマンのような存在は
認めていたはずである
信者にはそれを涅槃という形でソフトに説いた ならば結局ヴェーダでいいじゃないかと俺は短絡して考えた しかしヴェーダの元をたどると祭式至上でバラモン血族万歳の閉鎖的な教義がある 釈迦は苦行せずに古代バラモンの苦行者たちが得た境地に至る方法を
人々に説いて回る 浄土宗が一番手っ取り早いwwwwwwwwwwwww 日蓮宗も念仏を割と重視するが浄土宗ほど簡素ではない 創価学会やそれを支持母体とする公明党も日蓮宗推しで
国教にするだのなんだの話あるが、権力と結びつくはなんだかなあという気がする 政教分離の原則が生きているかぎり国家から宗教を強制されることはないから
安心しなされ
仏教などは特に強制は厳禁だから 釈迦の教えでは他人を論破して価値観を押し付けるのは絶対にご法度だから かつての創価学会がやっていたあくどい手口はもう通じない 信者を増やすための論破や説得法みたいなのがノウハウとしてあったんでしょ創価って 日本は人間関係依存だから数と説得で取り込まれるというのはある
空気に飲まれやすい 壊せないような空気を巧妙に作られると太刀打ちができない 釈迦が否定したのは欲望を脱することのできないただ苦しいだけの修行である 苦行はバラモンの伝統であり苦行をしていること自体が周りからの尊敬を受けることでもあった
そこへ満足している場バラモンは欲望から脱することができず輪廻を繰り返すと
釈迦は言っている 欲望というのは果てしなく強固で理屈で対処できるようなしろものではない 生きたい、死にたくない、死にたい、というのも欲望である
この考えが少しでも浮かんではならない 骨と皮だけになって自分で動くこともできなくなるまで断食しても
この欲望というのは湧いてくるという 釈迦もおそらく出家した発端は我執に苦しんだからだろうと思う
それを苦行によって何とかしようとした 人が老いたり病気になったりするのを見て激しい不快に襲われた
自分はああはなりたくないと思った
これが我執である 最初から皆を救うために悟りを開こうと思ったわけではない
釈迦も人間である 創価学会は日蓮の教えを信奉する仏教系の宗教法人だが日蓮宗ではない
もともとは日蓮正宗に属する信徒団体ではあったのだが
教えを無視したため破門同然の扱いになる 日蓮宗から分裂したのが日蓮正宗である
日蓮宗が釈迦を本仏とするのに対して正宗では日蓮を
聖人のように崇拝している 創価学会はいわば仏教を利用した新興宗教みたいなものである 起信論自体は別に修行を軽視していない
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200212-002.html
>現実に、『大乗起信論』からは、凡夫はすでに
真如のうちにいる以上もともと悟っていると説く、
修行軽視の学説が生まれた あらゆる法が真如なのだからあとは妄念を取り除けばいいだけだ、というわけであろう 手抜き仏教で欲望を捨てられるか?
冷静に考えてみんしゃい 仏教で皆平等、世界平和
そんな簡単にいくわけあるか ダルマキールティの認識論はまったく理解できない
難しすぎる
どこが平易なんだか 正確な知識獲得の仕組みについて解説しているのだが
なんか思考プロセスが追いきれない ダルマキールティの認識論への反論者の言っていることはおおむね分かる おそらくダルマキールティはヨガ行者の思考プロセスをかなり意識している
常識が通じない 物が存在していると考えていると唯識は難しい
物があると考えるのは常識でしょう デカルトとカントは相容れないがダルマキールティのむつかしさは
デカルトとカントが合わさったような印象を受ける
合理主義なのだけどなんかおかしい ビジネス上の信頼関係が無くなったという普通の理由だった 5ch自体が2chの乗っ取りなのでは?とよく言われてきた 日本の仏教はやわらかいがそれでもやはり文化否定のニュアンスは残っている 異性と関わることまで禁じている宗派は少数だろうけど 情欲の湧くようなものを遠ざける風習はあるだろう
食事にせよ創作物にせよ ホッブズによると情念は欲求が対象を持ったときにしか発生しない
対象を持つ以前にできるだけ払いのけるのが仏教のやり方だ ダルマキールティは認識手段として感覚器官を認めない
普通は感覚器官から受け取った情報をもとに人は知識を得ると考える 物質があると思い込んでいる実在論者は
感覚器官から受け取った情報刺激の結果として知識があると主張する 経量部では実在を「実体のある」や「本質のある」というふうに解釈しない
「因果的効力のある」というふうに解釈する 西洋哲学でいうとヒュームが踏み込んだ領域の話とも通じてくる 以前1分台のプロ動画を見てビビっていたけど
もう少し火力積めば届きそう 立ち回りはプロ動画を見ながらあほみたいに繰り返せば身に付く
火力だけは金をかけて少しずつ伸ばす以外に無い 月に一度の報酬期間以外にユニットの8スロ拡張に挑むのは地獄だ
下手したら一億メセタ使って逆にスロットが減っていたということもありうる ヨガの行者は外界の対象とは一切かかわりのない知覚を用いているという
唯識とヨガは深いかかわりがある インドでイスラム教によって仏教が迫害される以前の
もっとも仏教論理学が発達していた時代の思想である ヒュームやウィトゲンシュタインが挑んでいたような内容の話も出てくる
仏教哲学の方が西洋哲学よりも進んでいたのではないかと思われる 仏教は解脱を目的として自我や欲望を捨て去る方向へ話が進むため
西洋ではほとんど受け入れられなかったのだろう グプタが言うには、確実な認識とは知覚と推理の二種類に限られる このうち知覚というのは概念を離れた迷いのない認識のことである、と定義される 概念というのは時間的な接続(前と後)がまずあり、言葉と結びつきうるような表象を持つ 俺の勝手な解釈だがグプタのいう知覚というのは
デカルトでいうところの生得観念に近い領域のもの
つまり対象の本質と結びついた直観を得ることができる ヨガ行者はこの知覚を駆使して外界とは切り離された世界を体験する ヨガでいうトランス状態というのは精神が妄執に揺れているような状態ではなく
概念を越えた絶対確実な認識を得た状態のこと このようなことは理屈でいくら考えても理解には到達しない 古代インド思想には生成消滅の常識があるからな
ここが俺の理解を妨げる 心の世界では同一性を求めても無駄である
生成された瞬間に消滅し、あらゆるものが別のものになり続ける 生成消滅を繰り返しながらカルマの作用により何かが相続されている 物質は常に入れ替わり続けているのに遺伝子が似たような情報を伝達し続けるがごとく 遺伝的な設計図がなければ生命は無茶苦茶なことになる 憎悪ソダムはpso2の真の最終エンドコンテンツ
卒業試験と呼ばれることもある プロが三人いれば寄生まがいのプレイでもクリアだけはできるが 知覚に対する捉え方の違いで理解に詰まる
西洋哲学では知覚をそれほど突き詰めて考えないんでしょう
現象学の領域ではそうでもないかもしれないが 西洋では概念的把握を認識の根源に置くことが多いのだと思う
論理学を支える認識もそうである この考え方は一見説得力はあるが感覚的に違和感が強かった 人の認識がそのような単純な地点から始まっているのか?という疑念 西洋思想はソクラテス、プラトンの精神主義がキリスト教神学を経て
デカルトで刷新され現代まで発展してきた 西洋の概念的把握によってではデカルトが提示した心身二元論の問題は
解決の糸口さえ見つからないだろうと思う 俺はデカルトが主張した生得観念が何なのか気になって
仏教やヴェーダにまで手を伸ばしている そうしてようやくダルマキールティの知覚論にとっかかりを得た気になった >>865は書き方が適当すぎるな
要は現代科学もまた精神主義の範疇から逃れていないということ
現に物理学者が躍起になって神を証明できる数式を探している だから論理学とセットで考えなければいけないのは
認識の根底をささえているのが何であるのか?という哲学的問題
確実な認識とは何?という話になる 同一律をまったく認めない不可知論者だったら一般的な論理学は
信用に値しないので使ってはならない、というだろう 生成消滅、心相続、知覚・・・
仏教では論理以前の難しい問題がある 概念知の否定、言葉の否定
ヨガでもやってろ!ってなる 部派仏教の中でも刹那滅を支持する派閥と認めない派閥がある 刹那滅に対抗するがごとく要請されたのが大乗にお馴染みの空の思想である 原因-結果というと一般的には直線的なものとして捉えるが
刹那滅が絡むと無限の次元が生まれる よってダルマキールティは同一性の推論式なるものを考案した ヒュームは同一性自体を否定したが仏教では種子がある 刹那滅というのは人間の認識をはるか超越したほんの刹那に
因果の生成と消滅が起こってるという理屈である
ほんの刹那の因果関係があらゆる存在を構成し
それが持続している、と考える このようにしてあらゆるものがほんの刹那にしか関係を持たないので
諸行は無常であるといわれる 部派仏教の有部では便宜的に次のような位相が考案された
つまり、未来における存在の構成要素が現在に現れることを
生起と呼び、現在における存在の構成要素が過去へと過ぎ去ることを
消滅と呼ぶ ダルマキールティの認識論ではある瞬間の認識対象と
認識の発生する瞬間は別であり同一性は成り立たない 竜樹も強烈に難解だが有部との対立軸で解釈すると
多少は分かる(ような気になれる) 有部で立てられた時間の位相や因果は竜樹によって否定される 空の思想は斬新なわけではなく釈迦の無我をあらゆるものに置き換えただけである
空を悟り依存関係のあるものへの執着から離れること pso2のやりすぎで哲学などについて考える頭が無くなっている
仏教書はかなりきつい 虫は一匹も殺していない
不注意で殺している可能性もある 蚊もコバエもゴキブリも出てきても完全に放置する
ムカデは放置する自信がない
不快すぎて 有部ではカルマというのは無限の次元に存在する
単純な系列としての因果では説明ができない 無限の概念は人間の想像力が未熟なことを教えてくれる
無限など人間の想像ではとうていたどり着けない 最近は蚊が手や顔にとまっても払いのけることもしない
完全に放置 虫は嫌いだから本当は払いのけたい
こう考えている時点で悪行なのかもしれない 俺が今読んでいるのは有部と経量部の認識論
これが唯識に影響を与えていく 釈迦入滅後にできた保守的な派閥(上座部)から
分派したのが説一切有部、略して有部 有部の主張は独特で、現象の構成要素としての法は実在するという 過去、現在、未来という三世にわたり法の実在性を説いた おそらく仏教に難解な論理学を立ち上げたのがこの有部の学者連中である ダルマキールティ以前に仏教論理学の基礎を作ったのが
ディグナーガという人物
ディグナーガは有部から分裂した犢子(とくし)部というところに居た 未来予知ってよくあるけど、俺はそれに近いものを過去に無数に経験している 問題は未来というのは現在のすぐ直後の話なのだ
遠い未来の話ではない
これがずっと不思議で仕方がなかった たとえば会話をしていて相手が次に何を言うのか明確に頭に浮かぶ
相手は直後にその通りのことを言う
これは何十回何百回とある
またテレビを見ていて脳裏に突然あるワードが浮かぶ
浮かんだ直後にテレビの中でそっくりそのままそのワードが出てくる
それ以前は一度も出ていないワードだ
直後の予知という経験が過去にありえないほどたくさんある
錯覚ではない 刹那滅と因果の話を読んでいて何かそこにヒントがあるような気がした その予知というのは過去の情報を総合して推論しているわけではない
突如として浮かぶ
そして次の瞬間その通りになる 関係というのは何か基底となる要素があり、瞬間瞬間で生起し続けていると推察できる 未来に生成される基底要素が先に俺の脳内に生起してきたのかもしれない
この理屈がよくわからない 量子の次元では何か基底となる定型のパターンがあるのかもしれない ゲームの疲労感の上に慣れない仏教知識を急に仕入れて
頭が混乱している 有部はおそらくパーリ仏典の論蔵を軸にして論理面を研究しとったのだろう
そこから経蔵研究の経量部に分かれていく 経量部の開祖とされるクマーララータの日本語wikiが無い クマーララータ自体の詳しい資料があまり残っていないらしい スッタニパータを読んでいた
やはりこれが仏典の基本という気がする 釈迦が一番不浄で避けなければならないと言っているのは「無知」 ここでいう無知というのは世間的な常識や知識がないという意味ではなく
苦しみが生まれる根本的な理由を分かっていない状態を指す そして釈迦は無知をなくすために己の心の観察を怠るなという 観察のための根本認識や観察の方法など、釈迦本人が詳細に説明したわけではない
そのためのちの世で解釈合戦が繰り広げられることになる 言葉で説明できるようなやわな境地ではないのだろけど、それでも人は
言葉と概念にたよって解釈を繰り返す 有部は概念知から知覚的直観を引き出す方法を考えあぐねている 概念知と直観のやりとりを活発に行うことで能力開発していた僧侶もたくさんいる
これはもう悟りとは関係ない 刹那滅を認める立場に立つか立たないかによって認識の図式が変わる 時間軸で考える場合、対象を認識した瞬間を認識手段ととらえて
次の瞬間に認識結果が得られるという考え方は正しくない
理由は前の瞬間は刹那滅によって消えているからだ 知覚における認識では、たとえば青色を認識した場合
青の形象と青の意識自体が得られるという
形象としての青も意識自体の青もまた青以外のものと区別される
この区別というのはヘーゲルの概念論とは少し違う 知覚には四種類あり、その対象は独自相と一般相である 有部ではその瞬間瞬間で得ている認識が違うわけである
認識のずれを人は感知することができないので無理矢理統合して扱っている 美味しいというのも快の感情を交えた統合的な錯覚に過ぎない だから釈迦は食べ物を美味しく味わってはならないという 味覚と臭覚と視覚と触覚と聴覚とが同時に働くことはありえない
その瞬間瞬間によって得ている認識が違う コミュニケーションにせよ大半はずれの解消を無理矢理行っているに過ぎない 無理矢理統合した状態を続けている限り人の妄執がやむことはない
それは無知ということである されど仏教徒は世の中に対して何を主張するわけでもない
論戦は特にタブーである 論戦を避けるためなのかもしれないが、論理学の経典は
反論意見をあらかじめ用意してある
反論に対してそれを否定するという形式でよく書いてある
これはおそらくウパニシャッドからの伝統 定義の提示→反論→ならばお答えしよう→これにて問題は解決された 中観派の空は徹底しており教義そのものも空に放り込まれている 中観派が難解に思えるのは他の派閥の理論と比べるときである あらゆるものに固有の本性はない
だから我々の教義にも本性はない というのが究極的な主張だが
世俗に向けた説明では他の派閥の反論に対して難解な哲学を展開する あらゆる執着から離れて解脱するのが目的なのだから
一般的な理解から離れるように仕向けるでしょう仏教は 一般的な理解が誤りであることを認めるのは骨が折れる
習慣的な営みの中で身に付いたことのしぶとさというのは並大抵ではない 自分が好きなものを美味しい、美味しい、といいながら食べていると
「あなたは無知だ、愚鈍だ」とか言われて「は??」って思うでしょう しかし欲望や執着が苦しみに通じているということがうすうす分かってきて
なんとなく無視ができない 文字のネタバレしか見てないけど
梨木香歩の『裏庭』に構造が似ている 神話の世界から現実世界の仕組みを学ばせるという手法だが
これは元々宮崎駿のお家芸の一つでもあった ヴェーダ文献を調べていて、古代アーリア人とドラヴィダ人のやり取りを見ても如実だが
森林を焼き払うのは重罪だと思う
これにより飢饉や災害が発生し、のちの世で子供が責任を取らされる バラモンは基本的に子供が生まれることも「不浄」とされる
理由は親から罪が引き継がれるからである
必ず浄化の儀式が求められる ヒトラーもアーリア人が優れているとして民族で差別化政策をすすめていたが
ヒトラーのいうアーリア人とは「純粋な白人の民族」という意味である
もともと語学的な意味の分類を勝手に別のかたちに置き換えた 農業は大規模な森林破壊の始まりだと解釈することもできるが
さすがに農業を悪行だと断じることは俺にはできない 一番平和的なのはみな出家して森で瞑想修行やること
これにて一件落着 森で餓死すれば勝手に虫やバクテリアが腐った肉体を自然に帰してくれる
これはありがたい だめもとでSGスクラッチを引いたら能力追加成功率55%が出た
至高の神アイテム 地獄のユニット8スロ穴あけ作業が一瞬で完封できる神アイテム 成功率35%くらいの作業を一気に100%に引き上げることができる つまり同一性にまつわる錯覚である
「これは私だ」「これは私のものだ」など
実際はそうではないのに思い込んでしまう 同一性の推論式は独特の認識論と結びついていて難解だが
ここを読まないといけないな
頭が追いつかない 空の思想はニヒリズムとはまったく異なる
すべてがむなしいということではない ニヒリズムは権威や既成の価値観をことごとく否定し
しまいには虚無的になっていくという危うさがある 空はつまるところ同一性にこだわっても何も得られるものはないから
離れて楽になりなさいということである
それは虚無ではない 論理学というと西洋哲学から来たイメージがあるが
大きな源流は二つあって一つがインド、一つが古代ギリシャである 今俺が読んでいる仏教論理学も古代インド論理学が源流となっている 知覚と推論の分析が進んだバラモンのニヤーヤ学派あたりが
仏教論理学の源流だろうと思う
類似点がたくさんある 二ヤーヤの聖典、ニヤーヤスートラの解説書と
有部、経量部の論理学を見比べていると確かに似たことが書いてある 西洋でアリストテレスの方法論が絶大な影響力を誇ったように
インドではニヤーヤの方法論が絶大な影響力を持つに至った このニヤーヤは知識の確実性を最重要のテーマとしている
確実な知識によってのみ人は苦しみから抜け出すことができる
要は釈迦のいう無知の克服法があると信じられてきた 知識といっても学校の勉強で習うような知識ではなく
認識の方法や認識の結果そのもののことである ただしい認識法でなければ心を観察することなどできはしないからである メンテ明けで誰も人いねえけどマザーデウス行ってきた 壊滅的に人がいない
ゆりかごも2人とか3人とか
切れそう 早押し厨が来ても「誰も来ないよりましか・・・」とか思ってしまうからな ニヤーヤでは刹那滅を認めない派が多いっぽいな
うーん、刹那滅を認めるべきか認めないべきか・・ 本場インドの論理学経典を読んでいると
俺の中にある仏教に対するイメージが崩壊していくのが分かる 俺の中の仏教のイメージというと、心が何よりも大事だから
自分の心をよく観察してお釈迦さまを見習って正していきなさいというものだ 専ブラが終わってから普通のブラウザからずっと書き込みしている
これが不便でたまらない 専ブラが復活するまで待つか、このまま5chやめるか 俺の性格からして書き込める環境がある限りはまずやめないだろうけど 仏教は他人を救うよりも自分の心をただす方が優先される 大乗では私欲を捨ててただ与えよ、という利他行が推奨されてきたが 釈迦の考えでは与えられたもの以外を取ろうとすることは盗賊と大差ない 自分の命もいわば親から与えられただけのものなんだろう このスレッドは1000を超えました。
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