司馬氏は元もと周しゅうの史官であった。
後、晋しんに入り、秦しんに仕え、漢かんの代となってから四代目の司馬談しばたんが武帝に仕えて建元けんげん年間に太史令たいしれいをつとめた。
この談が遷の父である。
専門たる律りつ・暦れき・易えきのほかに道家どうかの教えに精くわしくまた博ひろく儒じゅ、墨ぼく、法ほう、名めい、諸家しょかの説にも通じていたが、
それらをすべて一家の見けんをもって綜すべて自己のものとしていた。
己おのれの頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子むすこの遷に受嗣うけつがれたところのものである。
彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内かいだいの大旅行をさせたことであった。
当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
 元封げんぽう元年に武帝が東、泰山たいざんに登って天を祭ったとき、たまたま周南しゅうなんで病床にあった熱血漢ねっけつかん司馬談しばたんは、天子始めて漢家の封ほうを建つるめでたきときに、
己おのれ一人従ってゆくことのできぬのを慨なげき、憤を発してそのために死んだ。
古今を一貫せる通史つうしの編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集しゅうしゅうのみで終わってしまったのである。
その臨終りんじゅうの光景は息子・遷せんの筆によって詳しく史記しきの最後の章に描かれている。
それによると司馬談は己のまた起たちがたきを知るや遷を呼びその手を執とって、懇ねんごろに修史しゅうしの必要を説き、
己おのれ太史たいしとなりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟じせきを空むなしく地下に埋もれしめる不甲斐ふがいなさを慨なげいて泣いた。
「予よ死せば汝なんじ必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾なんじそれ念おもえやと繰返したとき
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