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恬てんとして既往を忘れたふりのできる顕官けんかん連や、彼らの諂諛てんゆを見破るほどに聡明そうめいではありながらなお真実に耳を傾けることを嫌きらう君主が、この男には不思議に思われた。
いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。
下大夫かたいふの一人として朝ちょうにつらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵を褒ほめ上げた。
言う。陵の平生を見るに、親に事つかえて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるは誠まことに国士のふうありというべく、今不幸にして事一度たび破れたが、身を全うし妻子を保やすんずることをのみただ念願とする君側の佞人ねいじんばらが、この陵の一失いっしつを取上げてこれを誇大歪曲わいきょくしもって上しょうの聡明を蔽おおおうとしているのは、遺憾いかんこの上もない。
そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴きょうど数万の師を奔命ほんめいに疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮きわまるに至るもなお全軍空弩くうどを張り、白刃はくじんを冒して死闘している。
部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古いにしえの名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜ろに降くだったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。