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凄惨せいさんな努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓よろこびを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。
しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌ふうぼうの中のすさまじさも全然和やわらげられはしない。
稿をつづけていくうちに、宦者かんじゃとか閹奴えんどとかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻うめき声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上しょうじょうに横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌きざしてくると、たちまちカーッと、
焼鏝やきごてをあてられるような熱い疼うずくものが全身を駈かけめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺あたりを歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己おのれを落ちつけようと努めるのである
 乱軍の中に気を失った李陵りりょうが獣脂じゅうしを灯ともし獣糞じゅうふんを焚たいた単于ぜんうの帳房ちょうぼうの中で目を覚ましたとき、咄嗟とっさに彼は心を決めた。
自みずから首刎はねて辱はずかしめを免れるか、
それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償つぐなうに足る手柄を土産みやげとして――か、この二つのほかに途みちはないのだが、
李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。