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天漢三年の秋に匈奴きょうどがまたもや雁門がんもんをした。
これに酬むくいるとて、翌四年、漢は弐師じし将軍李広利りこうりに騎六万歩七万の大軍を授さずけて朔方さくほうを出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくにこれを援たすけしめた。
ひいて因※いんう[#「木+于」、U+6745、39-13]将軍公孫敖こうそんごうは騎一万歩三万をもって雁門を、游撃ゆうげき将軍韓説かんせつは歩三万をもって五原ごげんを、それぞれ進発する。
近来にない大北伐ほくばつである。単于ぜんうはこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水しょごすい(ケルレン河)北方の地に移し、自みずから十万の精騎を率いて李広利りこうり・路博徳ろはくとくの軍を水南すいなんの大草原に邀むかえ撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。
李陵りりょうに師事する若き左賢王さけんおうは、別に一隊を率いて東方に向かい因※いんう[#「木+于」、U+6745、39-18]将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説かんせつの軍もまた得るところなくして兵を引いた。
北征は完全な失敗である。
李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣きづかっている己おのれを発見して愕然がくぜんとした。
もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴きょうどの敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。