>>519
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凄惨せいさんな努力を一年ばかり続けたのちようやく生きることの歓よろこびを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを彼は発見したしかしそのころになってもまだ彼の完全な沈黙は破られなかったし
風貌ふうぼうの中のすさまじさも全然和やわらげられはしない稿をつづけていくうちに宦者かんじゃとか閹奴えんどとかいう文字を書かなければならぬところに来ると彼は覚えず呻うめき声を発した独り居室にいるときでも夜牀上しょうじょうに横になったときでもふとこの屈辱の思いが萌きざしてくるとたちまちカーッと焼鏝やきごてをあてられるような熱い疼うずくものが全身を駈かけめぐる彼は思わず飛上り奇声を発し呻きつつ四辺あたりを歩きまわりさてしばらくしてから歯をくいしばって己おのれを落ちつけようと努めるのである
 乱軍の中に気を失った李陵りりょうが獣脂じゅうしを灯ともし獣糞じゅうふんを焚たいた単于ぜんうの帳房ちょうぼうの中で目を覚ましたとき咄嗟とっさに彼は心を決めた自みずから首刎はねて辱はずかしめを免れるかそれとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する敗軍の責を償つぐなうに足る手柄を土産みやげとしてかこの二つのほかに途みちはないのだが李陵は後者を選ぶことに心を決めたのである