>>576
其日は暮方から風が歇やんで空一面を蔽つた薄い雲が月の輪廓をかすませやうやう近寄つて來る夏の温さが兩岸の土からも川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた下京の町を離れて加茂川を横ぎつた頃からはあたりがひつそりとして只舳へさきに割かれる水のささやきを聞くのみである
 夜舟で寢ることは罪人にも許されてゐるのに喜助は横にならうともせず雲の濃淡に從つて光の増したり減じたりする月を仰いで、默つてゐる其額は晴やかで目には微かなかがやきがある
 庄兵衞はまともには見てゐぬが始終喜助の顏から目を離さずにゐるそして不思議だ不思議だと心の内で繰り返してゐるそれは喜助の顏が縱から見ても横から見てもいかにも樂しさうで若し役人に對する氣兼がなかつたなら口笛を吹きはじめるとか鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである
 庄兵衞は心の内に思つたこれまで此高瀬舟の宰領をしたことは幾度だか知れない