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その左賢王に打破られた公孫敖こうそんごうが都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉かどで牢ろうに繋つながれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜ほりょが、匈奴軍の強いのは、漢から降くだった李り将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗まけたことの弁解にはならないから、もちろん、因※いんう[#「木+于」、U+6745、40-8]将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄ごくに収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西ろうせい(李陵の家は隴西の出である)の士大夫したいふら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致らちされた一漢卒かんそつの口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉むなぐらをつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛しばり、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶くもんの呻うめきを洩もらした。陵りょうの手が無意識のうちにその男の咽喉いんこうを扼やくしていたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房ちょうぼうの外へ飛出した。
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