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岸を進むこと数日、ようやく北海ほっかいの碧あおい水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族ていれいぞくの案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎ごやへと導いた。
小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被かぶった鬚ひげぼうぼうの熊くまのような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監いちゅうきゅうかん蘇子卿そしけいの俤おもかげを見出してからも、
先方がこの胡服こふくの大官を前さきの騎都尉きとい李少卿りしょうけいと認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武そぶのほうでは陵が匈奴きょうどに事つかえていることも全然聞いていなかったのである。
 感動が、陵の内に在あって今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。