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いつまでも節旄せつぼうを持して曠野こうやに飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎はねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌きざしたとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽こっけいなくらい強情な痩我慢やせがまんを思出した。単于ぜんうは栄華を餌えに極度の困窮こんきゅうの中から蘇武を釣つろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪たええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止しょうしには見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠まことに凄すさまじくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人おとなげなく見えた蘇武の痩我慢やせがまんが
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