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南行三日めの午ひる、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵こうじんの揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙すきもなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に懲こりたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停とめて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦はくせんを避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に殖ふえていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野こうやの狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句あげく、いつかは最後の止とどめを刺そうとその機会を窺うかがっているのである。
 かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者