【目指せ】脚本家になりたい人総合【脚本家】
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創作に関わる事ならなんでもOK
影響を受けた(好きな/知っておくべき)
脚本家・映画・音楽・小説・漫画
今考えてるアイデア
脚本家になるためにやってること
その他雑談などなんでも語ろう ギャグと小ネタがつまらないのなんて最初からずっとそうなのに
そのくだらなさがトリックの醍醐味だと思うんだが、14年も続くと飽きられるのかね
くだらないネタとつまらないネタは別
昔のネタはくだらなくはあってもつまらなくはなかった
霊能力者が山田に赤い紙を取らせようとする、引き寄せられるようにそれを取る山田
霊能力は実在するのか!?(ここまでは超シリアス)→実はお札でした
くだらないオチだけどそれを大真面目にやるから落差で笑えた
今は真面目な雰囲気がなくつまらないネタだけがあるからただの三流コント
シリーズ追うごとに小ネタは捻らずそのまま…というか あからさまになっていった気がするな
そういうの好きな層ってSNSとかで騒いで褒めてくれるだろうから
作ってる方も楽しいのかなと思ってしまった 黒澤明は「とにかく若い奴はホンを書け」と言ってたよ
まぁそれは監督に向けて言ってたけどね 深い絶望をかかえた青年を元気にさせること。それが自分の仕事であると思い、青年と一緒に暮らし、実践しようとする。しかし、現実はそう簡単ではない。
「ある程度距離をおいて人を助けることは、わりとよくあることなんです。ところが距離がなくなると難しくなる。お互い、聖人でもないし煩悩があるわけですよ。
2人の背負っている過去が出てきてぶつかったり」
ひと口ではいえない複雑微妙な感情が、老人と若者の間で交錯する
いまはドラマの現場も変わりましたね。みんなで議論して意見を出しあって作る。頭がいい人たちなのでしょうが、1人の人間が切実に考え抜いて書いたものは、
複数の人が話し合って描けるものではないと思うのですよ」
「数字を取るため、マーケティングの手法を取り入れることも必要でしょう。でも、どうもそちらに傾きすぎて人間が描かれなくなった。
それで本質的に新しいものを創れるのか、という思いが僕にはあります」 初回の終わりの方を見た時はもう少し深い内容になるのかなと思ったけど、
基本的にはアラフォー世代の身の回りに起きるありがちな出来事をカタログのように見せただけのドラマだった。
そういう意味ではかなり期待はずれだったんだけど、ドラマで描くヒロインの年齢が時代と共に上がってきて、
40歳前後をハッキリとターゲットにした作品としてはこれでよかったんだと思う。
今後、また同じような切り口でドラマを作るなら もう少し深いところまで描いて欲しいけど、
とりあえず今回はこういうテイストでOKだったんじゃないだろうか。
ドラマとしてのクオリティーは決して高くなかったものの、
企画をそのまま組み立てた作品としてはそこそこ面白く見られた。
96年に放送された「ロングバケーション」の南(31歳)と同い年だった人も今は43歳。
そういう当時のF1層が、今、共感できる内容だったことは間違いないと思う。 このシリーズが実に長続きしているのは、見る人の目線を事件の本筋から山田と上田の大ボケぶりと掛け合い、
そして、数々のナンセンスなギャグと小ネタの数々に実にうまく推移させているからだ。私は、山田と上田のキャラクターが事件よりも魅力的な内容にしてしまったことが、
堤監督の仕掛けた最大のトリックだと思う。それと、実に細かな部分にまで小ネタを満載させ、
現実の世界から離れた「トリック」でしかありえない世界観を作ってしまっていることも長続きの理由だ。リアリティーを一切排除することにより、
逆に「トリック」という一つのリアリティーを生んでいる、というわけだ。これは、こういうギャグドラマでは実に難しいことで、ふざけたことを実に真面目に、そして、緻密に創り上げてきた結果なのだと思う
緩いギャグと緩いストーリー展開、それを演出するテンポも緩い。裏では「電車男」がいろいろな要素を詰め込んで、濃度の濃い作品をやっているとしたら、このドラマはストーリー的にも、
映像的にもかなり濃度の薄いスカスカさが目立つ。しかし、このドラマのスゴいところはそのスカスカさがある程度、このドラマの個性になりつつあること。
さすがに、今回ほどスカスカな話だと退屈すぎるが、「特命係長」が濃度が濃くなりすぎてしまうと、何か違ったものになってしまうから、前回のスペシャルくらいの薄さを堅持してくれたらいい この映画の大ヒットは、いかにも現代の日本社会の風潮というものを、反映している。テレビ番組で見てよく知っているドラマの、そのパターンや人物の性格やギャグなどを、観客なと馴れ合う形で展開していく劇場用映画が、
まるでファン大会みたいに、多数の人々を集めているのである。いくつかの映画館では、ラストの主題歌がうたわれる個所で、場内に若者たちの大合唱が起ったという。
渥美清の死によって、「男はつらいよ」シリーズの寅さん映画は、四八本で終ってしまったのだけれども、その流れはみごとに、こういう形で引継がれていることになる。
一本の独立した、日本社会の現状の矛盾を衝いたような映画を、能動的に映画館に出かけて行って見て、自分を新しい状況に追いこむような、映画の見方がなくなりかけてきているのである。
既によく知っている、一つのパターンをふんだ、心地よいものと馴れ合って、その場限りの楽しい思いをしたい。テレビのブラウン管で見た時は、自室で一人だったが、
映画館に行けば同好の士が集って、同じムードに酔って、主題歌が大合唱できる。そんな思いの人間たちが集って、こういう映画を大ヒットさせているのである
http://www.tokakushin.org/cosmos/eiga/eiga.htm
白井佳夫 オリガミクス、オフィスブルー、JCM
この辺りのマネージメント会社にお世話になればデビューくらいはできる
間違ってもマネージメント料抜きまくり
所属作家は海外ドラマパクりまくりの悪徳会社には入るなよ あざとくていやらしい商売っ気感じるのよ、橋田、内舘の本。
同じ修羅を描いても、りんとした品格を感じさせるのよ、向田さんの本は。
通俗的に恥部と醜態を晒すのみに終わらない。
かと思えば、ドタバタコメディも書けるし、その落差が好き(
向田作品は 父権社会の中で女がどう生きてきたか、に尽きます。
その辺りを今の女性にも通じる表現で描いているところが 向田邦子さんは本当に才能のある方だと思います。
橋田作品や内館作品は基本的に女性達へエールを贈るスタンスが
あるように思うので、男性を情けなく描きがちかもしれないですね
橋田寿賀子さん、一度でいいです。
岡田惠和さんのように登場人物が穏やかで、 全員馴れ合いのドラマを書いてください。
猜疑心の塊と疑心暗鬼になるのは健康によくないです(w
内館牧子さん、一度でいいです。
独身のヒロインをいたわり、素敵な奥さんを素敵なままに描くドラマを書いてください 「週刊少年ジャンプ」は長くマンガ誌で人気がある雑誌ですが、あの雑誌の編集方針は「友情、努力、勝利」でした。
『ドラゴンボール』『キン肉マン』『北斗の拳』など多くのヒット作があります。
ところが昨今のジャンプの方向性は「運、血筋、才能」だというのです。
どれも自分の努力ではいかんともしがたいものばかりで、前近代、中世のようです。
とはいえ、読者のニーズを捉えてマンガがつくられているとすれば、社会はそうした現実をすでに受け入れているとも言える 綾瀬さんも作品によって良し悪しが激しい方だけど、やはり、クセの強い役をやらせたら、この方は輝く人だなあ。藤木さんもあまりピンとくる作品がなかったのだけど、このドラマが自分の中ではベストの演技だったと思う。
脚本についても、蛍(綾瀬はるか)と高野(藤木直人)の掛け合いの妙はうまく作られていたし、基本的にゆっくりと進む蛍のウジウジとした恋愛、高野との距離の変化も飽きさせることなく描き切れていたと思う。
演出に関しては、チーフの吉野さんの回よりも、セカンドの南雲さんの回のほうが仕上がりが安定していたと感じた。特に、第九夜の蛍が慣れ親しんだ縁側に別れを告げ、
マコト(加藤和樹)との同居を始めるという嬉しいはずなのに、寂しくて仕方がないという複雑な心境をうまく表現していたと思う。
ドラマとしては「すいか」的なのんびりとした部分と、「ハケンの品格」的な働く女ものとしての部分を持ち合わせた企画であると思うのだけど、両者をうまく折衷させた仕上がりになっていた。 川本ご紹介いただきました川本です。よろしくお願いいた します。ほかの講師の方は、みんな外国の旅行ですが、私だけ
身近な「千葉の旅」という割とさえないタイトルです。ご存じ のように、千葉県は非常に虐げられている県です。(笑)特に、
東京の人間は何となく千葉、茨城、埼玉というのはちょっと小ばかにして、「ちばらき」と言ってみたり、千葉県の北習志野
市というところを「きたならしいの」と言ってみたり、千葉というと何となくばかにしがちです。「男はつらいよ」の映画で
も、あれだけ寅さんは日本じゅう旅をしているのに、房総半島だけはなぜか行っていないんです。浦安には行っていますが。
海辺には行っていない。行けばいいのに。千葉県の人が一回、山田洋次監督に「ぜひ寅さんを房総半島のほうに旅をさせてく
れ」と言ったようですが、結局だめだったようです
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bulletin/pdf/24SaburoKawamoto_p3.pdf 今のドラマはリハーサル日を取らない。ほとんどの局でドラマ作りが簡略化されて、撮影の当日に役者がスタジオに入って、カメラの前で簡単な動きを決めて、
セリフを言ってテストして、すぐに本番。そうすると役者が自分たちの芝居を高める時間が足りないんです。
台本はあるけど、現場は役者任せの状態で、役者も“セリフを言っとけばいいんでしょ”という役者ビジネスな人が多くなってしまった。
自分の言葉に置き換えてセリフを言うのを個性だと思って、きちっとセリフを言って演じようという志向がないんですよ」
また、しっかりした仕事のできないスタッフにも問題がある、と指摘する。
「僕たちは必ずプロデューサーと話し合いながら脚本を作るんです。アイデアを出してもらったり、
このセリフがよくないとか具体的にダメ出しされて作っていくんですが、いま、それができる人がほとんどいない。
“なんかここちょっとタルい”みたいな感覚でしか指摘できないから、きちっとした本作りができてないんです。だから、自分で企画が立てられないので、オリジナル作品が作れず、
小説や漫画の原作に忠実なドラマを作ろうとする。そうすると、原作者や出版社がどんどん強く出るようになって、何かあると、“原作どおりにやってくれ”となる。
でも東海テレビの昼ドラは、自由な発想のオリジナル作品で、リハーサルもきちっとやって、しっかり作っていたんです
そうやって面白いもの、ユニークなもの、そして深く人間の情感とか葛藤を書き込めるドラマだったから、なくなるのは本当に寂しいです。 文学史的には第三の新人って言われる人たちで、人気作家が結構多いんです。安岡章太郎とか遠藤周作とか吉行淳之介とかですね。
私からすると、この人たちは単に人気商売にあぐらをかいているだけであんまり格好よくない。戦後派の先輩に言わせると、
俗情と結託しているヤツらなんです。エンターテイナーとしては良いのだけれど、戦争責任なんかはいっさい口にしない。言うならば、不都合な真実については口をつぐむところはあったと思います
日本文学の平安から続くコンセプトは色好みですから。もう一度色好みに返してやればいいじゃないかと。エロスには、日本の独自の進化プロセスがあるじゃないですか。エロコンテンツだって、
よその国のものと比べるとバリエーションがあって、めくるめく世界でしょ。輸出用のサブカルチャーとして最も稼いでいると思います。
文学が最もクリエイティヴィティを発揮できるエロスを忘れるべきではないと思いますけどね。それにかまけた文豪も多々いて、それゆえ優雅でエッチな、
ちょっと風変わりな日本文学というのがひとつの世界的地位を得ているわけですから。だいたいエロに規制をかけていくのは輸出関税をかけるような門です 近代文学の役割は間違いなく終わっています。経済成長は終わったというのと同じ意味です。経済成長とか都市化とか、どの国も発展途上国から先進国になる途上で一回はチャンスがあるわけですが、
近代文学というのもそれらとパラレルなんです。それまでの第一次産業のライフスタイルが変わり、都市に集まってきた者の人間関係や挫折、出世を題材にするものなので。
日本はそんなものとっくに終わっているでしょ。模造のレベルでは残っていますけどね。例えば『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』みたいなノスタルジックな作品がそう。 昔の選考委員を知る人たちは、彼らが文学に対していかに真摯であったかということを強調しますね。もちろんそれに越したことはないですけれど、それが何なのって。あまりに強調されると、瑣末主義に陥っているんじゃないかとは思いますね。
そういう見方が、文学として認められる範囲を狭めているんじゃないか、と。文学は自然界と同様に多様性が命だと思っていますから、変なものもどんどん世に送り出すのが良いのだと私は昔から言っています。
言論や出版が全部ナショナリストになるよりはよっぽど健全だと思っていますからね。でも放っておくと多様性は得られませんのでね。かつての文学界の暴れ者みたいな人ほど保守化が激しくなる世界ですから。石原慎太郎や村上 龍がそうです。
あの作品は三島由紀夫の『仮面の告白』を意識しているんです。一種の境界例の少年の話ですよね。でも基本的に小説を書きたいと願うような者には、多かれ少なかれ、そういう部分があるわけですよ。私小説を書いている人だって、自分にかまけているけれども、
その自分がどんどん複数化している感じを味わっていると思うんですよね。あるいはストーリーテリングを意識している人は、毎回違うキャラクターを作っては、彼らに血を通わせるということをやっていますから、
自身の中に人格をたくさん育んだ者勝ちなわけです。『僕は模造人間』みたいな小説は、20代の私にとって一番自然だったんですよ。アイデンティティ神話みたいなのが流行っていた時代でもありますから、それに対するアンチテーゼという狙いもありましたけど 、「小津映画に親しむようになってから、多くの映画がうるさく感じられるようになった。
ここでいう「うるさい」というのは「騒々しい」という意味ではなく「煩わしい」問う意味です。
悲しい場面になると、演者が悲しい顔やしぐさをして、悲しいセリフを吐き、悲しい音楽が流れる....これでもかとばかり、
見るものを1つの感情へと、出来合いの大ざっぱな感情へと追い立てようとする。そういう映画を世間で「わかりやすい」というのだが、私は「うるさい」と感じる。
子供じゃないんだ。そんなに「ここは悲しい場面」と説明されなくても、普通の人間なら十分に察するところであろう。」と記し、音楽については
斉藤高順の言葉「小津監督は、心理描写の音楽は大変きらったんですね。どんな悲しい時でも....病気の時でも太陽は頭の上にキラキラと輝きますからね
天気が良いような音楽やってくれと言われました」を引用し、小津が説明ではなく表現を目指していたことを示していく。 戦争間近の情景と、ユーモアあるセリフ、秘めたる性の表現を、十八歳の一人娘さと子の目線で描ききる
優れた人間観察で人々の素顔を捉え、生の輝きを鮮やかに浮び上らせた
なにげない日常や仕事先で出会った人々や出来事を、鋭くも温かい観察眼で綴る
父のいる懐かしい家庭の息遣いをユーモアを交じえて見事に描き出し
表向きの顔とは別に、姉妹それぞれがのっぴきならない男と女の問題を抱えている。猜疑心強い阿修羅になぞらえ女の姿を軽妙に描いた
できの悪い奴と疎まれる菊男。彼は、その冷たい家庭よりも、たまたま行き会った靴屋夫婦の元に実の息子のように通うようになる。家族とはいったい何なのか。
現実の家族ともう一つの家族が交錯したとき、厳格に見えた祖父、そして父も、どこか温かな場を求めて走っていたことがわかったのだった
端的なト書きと贅肉のないせりふで構成されたシナリオだと思います。
演出家や役者を枠にはめるような記載がなく、自由に映像化できるように書かれているような気がしました。しかし、作者の表現したいことが的確に伝わってきます 身体意識”とは、“体性感覚的意識”を短く表現したものです。視覚的意識や聴覚的意識とは異なる、身体の筋肉・骨格・内臓・皮膚・血管・経絡・細胞等々の上に成立する力感・圧力感・流動感・接触感・質感・温感・気感そして
存在感などの一切の体性感覚を根拠として成立する意識系のことです。
人というものは、“身体で感じ、身体で考える存在”であるということなのです。
誰しも生まれてからしばらくの間は理想に近い形で、“身体意識”が働いているのです。しかし言語を習得しつつ成長し…人はしだいに、“身体意識”との結び付きを喪失した視覚・聴覚的意識の過大な意識世界を作り上げてしまうのです。
20世紀の哲学者や詩学者が問題にしたという「身体性を喪失した言葉の氾濫」というのは、このことを言葉の面から捉えたもの。しかるにさらに重要なことは、身体でさえ“身体意識”を喪失することがある、ということなのです 太一さんはフジの仕事が少ないね NHKとTBSがほとんど中心だったと思う
あのクラスの脚本家でフジと懇意だったのは、晩年の倉本ぐらいでしょう。
フジは大物脚本家から相手にされなかったので、トレンディドラマ&シナリオ大賞立ち上げて、
若手の育成と称して、プロデューサードラマを作った元凶だから。
けど、フジにはその選択肢しかなかったと思うが 山田ワールドを醸し出すのに成功していたと思う。
ただ、言いたいことを最初に言って継ぎ足し継ぎ足しで話を進める無駄の多い(?)独特のセリフ回しが、
必要なことしか言わせない脚本に慣れている世代と噛み合わなくなって来たのかもしれない、とも感じた。
プログを回ってみると、ふぞろいファンの「あの間合いに久々に酔った」という感想ある反面、
若い世代かな?セリフが要領を得なくてだらだらと退屈だったという人が結構いた。
あと、SF作品があまりにも普及したせいか、タイムスリップの原因とか、
過去を変えた事によるパラレルワールドの展開とか、オチの意外性とかが重要視されるらしい。
そういう点に伏線がはりめぐらされてラストに繋がっているかが、傑作か駄作かを決める
ポイントになっているようで、少し複雑な思いがした 宮崎駿がこんなこと書いてますね。
「いま、作り手たちは、もはや主人公たちに自発的な動機を与えることができなくなっている。
管理社会の中で、人間の努力の空しさを、どうしたわけか何もしないうちに受け入れてしまったようだ。
かつての、当面の敵「貧乏」も何やらはっきりしなくなって、戦うべき相手が見つからなくなって
しまったのである。
残るは、他のジャンルがそうなっているように、職業意識しかない。ロボットの兵士だから戦い、
刑事だから犯人を追い、歌手を志望しているのだから競争相手に打ち勝ち、スポーツ選手だから
努力するのである。あとは、スカートの中への関心か、ズボンの中へかくらいになってしまった。」
『動機の喪失について」(1988) 赤の他人とはうまくいくのに、本当の家族とはうまくいかないというのは、アン・タイラー作品で繰り返されるテーマのひとつである。後半、彼女は自分の家庭へと戻ってくる。まるで何事もなかったかのように、いつもの日常の雑踏に溶け込んでいくディーリア。
家出をしたのはちょっとの間、家庭を離れ生活をリセットしてみたかっただけなのだろう。そして物語は唐突過ぎるくらいにあっさりと終わってしまう。まるで、ディーリアの行動を安易に結論付けするのを避けるかのように。
だがそのおかげで、この本は大人のメルヘンとして、読み終わったあともその余韻を楽しむことができるだろう。( ジェームス三木
テレビという媒体は、電気や水道と同じように、各家庭につながるので、
エロとか残酷の描写に、ある程度の規制はやむを得ないだろう。
表現の自由は大切だが、そこには美学がなければならない
昨今のテレビ番組は、やたらに叫び、だらしなく騒ぎ立て、節度のかけらもない。
テレビドラマについていえば、ナレーションが多く、回想場面が入り、心の声まで聞かせて、
説明、解説、誘導、結論まで出してしまう。視聴者は参加できないから白ける。
ドラマは隠せば隠すほど、見る人の想像力がふくらむ。
上等なドラマは、七割見せて、残りの三割は見る人の想像力にゆだねるものだ。
ドラマが完成する場は、スタジオや撮影所ではなく、見る人の心の中である。 きっと物語に夢中になった経験のない連中が作るから、
>夢中になれないものしかあがってこないに違いない。
わかる気がする。料理で言うなら、本当にうまい物を食べる幸せを
感じたことのない人が「砂糖を入れたら甘いはず」「醤油をかければ
辛味が出るはず」といったような、セオリーだけで料理したものを
客に出して「おいしいはず」と思い込んでいる。
「不機嫌なジーン」なんか「裁判沙汰を取り入れたらハラハラするはず」
「変人ぽい学者的行動は笑いを取れるはず」って感じのドラマ制作で、
自分たちがつまらないものを作っている実感がなさそう。
他にも「主人公に闘病させれば応援してもらえるはず」「父親と息子が
母親の死を機にすれ違う設定は視聴者が泣くはず」というドラマが……
そこらに浮かんでるパーツを組み合わせるだけで一応物語はできるけど、
やっぱり制作者の内側からほとばしり出る情熱や使命感や人間臭さが
伝わってこそ、視聴者も心を揺さぶられるわけだから。 Around 40〜注文の多いオンナたち
結局、この作品はアラフォー世代に関するあるあるネタを集めて共感させることが
一番の目的なんだろうなあ。だからひとつのドラマとしての完成度は自ずと下がる
ドラマとしてのクオリティーは決して高くなかったものの、
企画をそのまま組み立てた作品としてはそこそこ面白く見られた。
もう少し深い内容になるのかなと思ったけど、
基本的にはアラフォー世代の身の回りに起きるありがちな出来事を
カタログのように見せただけのドラマだった。
そういう意味ではかなり期待はずれだったんだけど、ドラマで描くヒロインの年齢が時代と共に上がってきて、
40歳前後をハッキリとターゲットにした作品としてはこれでよかったんだと思う 市川森一さんが、なぜ脚本展を開くのか、脚本アーカイブズが必要なのかについて熱弁を振るった。
「ドラマの質が落ちている」。市川さんは、こう切り出した。
一因として、プロである脚本家が、作劇法の素人のプロデューサーらに書き直しを命じられる
うちに、単純なスローガンだけで、人間の複雑さを欠く深みのないドラマが出来上がる事例を
挙げた。「脚本家が書く複雑な心理は、素人には『余計なもの』にしか見えず、削られる。それは
もう脚本家の作品ではない」
「日本のテレビの出発点は“時間芸術”。消えることを当然としてきたが、その結果、テレビは、
その瞬間の視聴率さえ良ければいいという価値観をつくってしまった。残すという概念がない
ところに文化はない。未来の脚本家と放送文化のためにアーカイブズは必要なんです」 僕は言葉の本質について、こう考えます。言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ、と。
沈黙とは、内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し、問いかけることが、まず根底にあるんです。
俺だけにしか分からない」というのが、自己表出性。しかし「俺だけにしか分からない」と誰もが思うわけですから、その「誰もが」思う表出性が指示表出性です。
優れた作品(=優れた表現)というのは、ディスコミュニケーションを共有するものなわけです。
これが吉本の〈表出〉概念の根源です。〈表出〉の本質は、まずもって〈沈黙〉としての自己表出にあるわけです
文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、
俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。
コミュニケーションは「指示表出」。
俳句は五・七・五の限られた文字の中に自己表出があって、小説は、筋として「指示表出」があって、
そこに価値が生まれ、間接的に「自己表出」がされている。純文学が「自己表出」で、大衆文学が「指示表出」
「沈黙」は〈自己表出〉であり、コミュニケーションに用いられる言葉は〈指示表出〉である。そして言葉の本体とはそのふたつが
縦糸と横糸として織り合わさったものであると。そしてより重要なのは「沈黙」の方であり、話された言葉はオマケでしかない。 インターネット、携帯電話と、コミニュケーション手段が発達していくのが最近の世の趨勢で、
これに逆行することはできないんですが、コミニュケーション自体が自己目的化したら、それはちょっと病気です。
文化芸術というものは、 人を強制したり、または、 人に導いたり、ということはできないんです。
つまり、もともと、役に立たないことです。 そのかわりに、自由度があるんですよ。
帰するところ、最も重要なことは何かといったら、自分と、 自分が理想と考えてる自分との、
その間の問答です。「外」じゃないですよ。つまり、人とのコミュニケーションじゃないんです。
先生だったら「子どもに対して」ということじゃありません。 子どもに対してちゃんといい授業を見せる、
実行するということは主たることではないんです。 人に対して、というのは あとでいいんです。
自分と、自分が理想と考えるもの、そことの内的な問答が いちばん大切なんです。
先生だったら先生なりに「俺はどうなればいいんだろうか」と、考えていることが必ずあるはずです。
人になんか、わからなくていいんですよ。
自分だけの心の中に問答も反省も絶えずある、ということが、「自分そのもの」にとって大切なんです。
問答の道の行き帰りの回数が多くなればなるほど、そこが豊かになります。それは、最も価値あることです。
先生だけじゃなくて、何の職業であっても、 問答をくり返したそのことは、ひとりでに、自然に出てくるんです。
無理なんかちっともしてないところで、 完全に出るし、わかります。
子どもは鋭敏だから、なおさらよくわかるんだけど、 大人にだってわかられますよ。
自分の中の問答の行き来が豊富になって、 自分の中にたまっていくことが、いちばんです。
先生は、子どもに何か教える必要もないし、「おまえ、こうしろ」なんて言う必要もありません。
問答の道を豊かにくり返している先生が、ただ自然に振る舞っていること、
それが子どもにはいちばんいいんです。 書いてる人に聞きたいんだが話に詰まった時に開く本はあるか?
俺は笠原和夫の「映画はやくざなり」からシナリオ骨法十箇条の部分を読んでるんだが >>459
ありゃ、古臭さ過ぎる。
俺は、笠原が「仁義なき戦い」を書く際に「ゴッドファーザー」よりもむしろ「我等の仲間」から影響を受けた、
と語っていた事に影響を受けた。
「あァ、そういう‘影響の受け方’もあるのか」と。
「何からどう影響を受けるのか」は自分なりに考えるべきであって、
「シナリオ骨法十箇条」のような最初から説教を目的にして書かれたモノに影響を受けるべきじゃない。 セールスマンの死』は、平凡なセールスマンに米国の夢を仮託し、子供への過大な期待を抱いて自滅する姿を、現代の悲劇の象徴として描いた。
また、1953年の『るつぼ』では、魔女狩りを素材にマッカーシズムへの警鐘を鳴らした。その他、代表作に1955年の『橋からのながめ』、
1968年の『代価』などがある。ミラーは、社会と個人の接点からドラマを構築し、社会の矛盾を風刺し、近代化による人間疎外を批判した ドラマの脚本もストック作るようにすればいいのに。
放送と同時進行して書くようなナメた製作体制を未だにやってるなんてな。
視聴率などを見てのテコ入れ・話数増減とか、反響が大きい登場人物・エピソードをふくらませたりとかで、
プロットや構成を企画書段階で組んでいたものから急遽変更して脚本書き直しという事態も珍しくない。
(特にオリジナルもの)
そういうドラマだと、制作と放映の同時進行はテレビならではのフレキシビリティとして利点だったりもする。
レキシビリティに対応しつつ、質が良いものを書ける脚本家って一部の天才だけだと思うんだよ。
そうじゃない人まで無理やり同じようにやらされて総崩れになってるのが今のドラマ界だと思う。
才能あっても、そういうやり方を嫌う人もいるだろう。で、ドラマ脚本の仕事なんてやってられっか。ってことで人材も枯渇しつつある気が・・・
好評だったハゲタカは、脚本家の林が製作時間をたっぷり貰えて何度も書き直しが出来たことが一因だろうしな
もちろん、回ごとに視聴者の反応で脚本や演出を変えられるのは連続ドラマの強みだけど、
元々芯のない脚本が多すぎるから、結果的に駄作に陥るドラマばかり量産されてる 『Foujita』はなぜ映画としても伝記としても失敗なのか 浅田彰
http://realkyoto.jp/blog/asada-akira_160107/
最近の日本映画の文字通りの停滞には目を覆いたくなるものがある。マンガの実写化(それも三池崇史くらい破天荒ならばともかく、多くはマンガをなぞるだけでマンガそ
のものの魅力に遠く及ばない)が氾濫する一方、そんな流行に背を向けたシリアスな作品として評価されているらしい映画はたんに貧乏くさく辛気臭いだけで輪をかけてつ
まらないものがほとんど。困ったことにそんな「日本映画」をありがたがるモントリオール世界映画祭のようなものさえ現れる始末だ。
。「シリアス」な日本映画の端的な欠陥は、「はい、出会いの場面」「次は、語らいの場面」と律儀につないで
ゆくだけの義務的な編集に見られるリズム感のなさであり、それが映画を鈍重なものにしている。言うまでもなく映画とは文字通りの「動画(motion picture)」であり、
運動感(蓮實重彦のように「動体視力」という言葉を振り回す気はないけれど)のない映画は映画ではない――これはもちろんストローブ&ユイレやアンゲロプロスの長回
しのように外延的・相対的に遅くとも内包的・絶対的な運動感をもった映画があることを前提としての話であって、たんに速ければいい(それこそアメリカのTVドラマ「SC
ANDAL」のようなあざとい編集がいい)というのではまったくないけれど(ドゥルーズ映画論の枠組みでいえばこれは「運動イメージ」と「時間イメージ」の差異にもかか
わる問題だが、さしあたってはドゥルーズ&ガタリの「速くあれ、たとえその場を動かぬときでも」という一文を引いておけばすむだろう)。そうした意味でも、とくに近
年の「シリアス」な日本映画の運動神経の鈍さは致命的に見える。この際、編集が乱暴になってもいいから――それこそゴダールのような確信犯的「つなぎ間違い」(faux
raccord)を連発してもいいから――上映時間をとりあえず5〜10%削ってみてはどうか。それだけでも少しはましになるような気がするのだが。 月9を書く即戦力を求めているので、プロデューサーが企画を出させて1年くらい現場主義で育てていくシステムがある」と話す。現在の5大コンクールは「ヤングシナリオ大賞」「創作テレビドラマ大賞」(NHK)
「TBS連ドラ・シナリオ大賞」「テレビ朝日新人シナリオ大賞」「WOWOWシナリオ大賞」の5つ。映像化の有無やカラーなどそれぞれ特色があるが「即戦力」にこだわりどんどん現場に出していく育成ぶりは、
ヤングシナリオ大賞が群を抜くようだ。 特撮】円谷プロダクションが“金城哲夫賞”を設立し応募受付中。受賞作品は映像化に向けて円谷プロがサポート©2ch.net
2016/07/07(木) 20:38:15.41 ID:CAP_USER
円谷プロダクションが、“円谷プロダクション クリエイティブアワード 金城哲夫賞”を創設しました。
本日7月7日より応募受付を開始しています。
http://dengekionline.com/elem/000/001/313/1313495/tca_01_cs1w1_595x842.jpg
“円谷プロダクション クリエイティブアワード 金城哲夫賞”は、『ウルトラマン』シリーズ放送開始50年の節目の年に、
シリーズの原型を築き上げた脚本家・金城哲夫さんの功績を改めて讃えるとともに、
『ウルトラマン』のような永久不滅の作品を生み出すべく創設されました。
テレビドラマの企画・脚本を募集し、受賞作品は映像化に向けて円谷プロがサポートする他、
円谷プロ作品の制作に參加する機会が提供されます。 詳しい情報は特設サイトでご確認ください。
■“円谷プロダクション クリエイティブアワード 金城哲夫賞”概要
【募集内容】 テレビドラマ(30分×13話程度を想定)の企画書と第1話の脚本
※SF、ファンタジー、サスペンスなどジャンル不問
【審査員(敬称略・順不同)】
・大友啓史(映画監督)
・高橋洋(映画監督・脚本家)
・田中芳樹(小説家)
・中島かずき(劇作家・脚本家)
・大岡新一(円谷プロダクション社長)
【応募期間】7月7日〜11月30日
【賞金】 ・大賞(1篇):100万円 ・佳作(数篇):10万円 高倉健さんのインタビューを集めた本で、おそらくこの本は決定版だと思う。非常に面白く、かつ奥深い内容だった。そして、彼の人間性の素晴らしさだけではなく、
その言葉一つ一つの素晴らしさが伝わる内容だった。
例えば、
セリフのうまい下手よりも大切な事があるのです。(略)
本当に嬉しい、もしくは悲しいと感じたとき、人は「嬉しい」とか「悲しい」なんて言葉を口にするのでしょうか。僕はしないと思う。声も出ないんじゃないかな。
優れた脚本家は言葉で悲しさを表現するのではなく、設定で表現するのですよ。
仕事を決めるにはまずホン(脚本)を読みます。ホンのなかに一言でもいいから、ゾクゾクっとくるセリフがあればやることにしています。
人生に取って大切なものはたったひとつ。心です。 単調な毎日の中でささやかな喜びを見つけて生きること
人生はその積み重ね
ささやかな喜びは大きな成功に決して劣らない… 結婚できない男
小津映画との相似性
軽妙なバックグラウンドミュージック
同一カット/せりふ シーンの繰り返し
他愛のない日常生活の中のちょっとした出来事の連続
ローアングルの視線 同一構図の重複
小市民的な恋愛喜劇(実は結構ハイソサエティだが)
こんな感じかな 幸福感溢れたドラマですね 東京物語にも嫌な人物は出てくるがそれは理不尽な行動ではなく、
リアリティを追求した結果として必然的に出てきた人物像。
それに対して渡るの嫌な人物は作者の都合だけで事件を起こすために突然理不尽なワガママを言い始める、
軋轢がどんどん深くなっていってリアルに考えたら解決は不可能などうにもならない状況になったところで、
「ワガママ言ってた当人が突然何の必然性もなくそれを撤回する」か「当事者の誰かが妊娠する」のどちらかで強引に解決させる、
要するに登場人物は脚本家のコマに過ぎず、作家の都合だけが行動原理なので必然性、リアリティが全く無い。 主人公の目的の設定について質問です。
そもそも目的はなくて、外部のトラブルでの主人公のリアクションを中心とした話はシナリオとして成立すると思いますか?
例えば、目的地のないロードムービーで旅先での問題を解決するのみ。日常もの。
あと、主人公の目的を適当に設定した場合、この目的を達成しないのは有りですか?
例えば、スポーツ物としたら全国大会で優勝することが目的だが、話の根幹はそこではなくて人間ドラマにあって、全国大会に出たが勝ち負けは描かずに終わる。(若干意味わからん例えだな、、、
なんだか目的のない主人公だと味気ない感じがしますが、そういう作品など知ってたら教えて下さい。 ヤンシナ・城戸賞等に入賞した作品で、スポ根やアクションシーンの多い作品は何かありますか? 尾崎将也は今まで書いてきたドラマでもそうだけど、
ホームコメディやラブコメは面白いが、そのキャパを超えるものは全然書けないなと思ったな
梅ちゃんでも家庭内の話と色恋の話は面白かったけど
仕事の描き方や問題が起こる→解決までのプロセスは雑で適当脚本だったし 設定で役者と視聴者を煽ろうとし過ぎてて
演出に自由度がないからリアリティが出てこない
結果、説得力のない突飛な感情表現だけが上滑りしていく
物語やドラマの中にショックを配するのではなく
ショックそのものに力点が偏り、自己目的化しているから効果が出ない
キャラクターが自立せず最終的に全員が遊川の分身に収斂する
せっかく積み上げたドラマを自分で壊さないと気が済まない幼児かよ 尾崎将也 @ozakimasaya · 8月19日
脚本教室で初心者がまず知るのは「ドラマは主人公が困ることが起こらないと面白くない」ということ。その次に「その困ることが解決するとき、
単にこうすれば解決したという現実的解決法を示しても面白くない」ということを知る。しかし「ではどうすれば面白くなるのか」を知ることはものすごく難しい。 これもまた別の話 新潮文庫
『ジョーズ』、『赤い河』、『アメリカの夜』、『5つの銅貨』、『ニノチカ』、『男はつらいよ』、『薔薇の名前』、『タイタニック』、『猿の惑星』、『マダムと泥棒』、『カサブランカ』、『雨に唄えば』の12作品 “関西風味ハードボイルドの大傑作”というコピーの黒川博行の『疫病神』(新潮社一八〇〇円)も、僕には脆弱に映る。直本賞候補になった短篇集『カウント・プラン』(文藝春秋
も凡作ばかりだったが(佳作になるはずのネタを揃えておきながら詰めが甘いからだ)、これは今回も同じ。
産業廃棄物をめぐるヤクザ同士の複雑な戦いに巻き込まれた建設コンサルタントの二宮。錯綜した事件の背景とそこから浮かび上がる巨悪の構図。そこでの苦闘をじっくり描きこめば傑作になっただろうに、作者は易きにつく。
主に二宮と相棒の桑原との会話で物語をつないでいくからである。その会話は掛け合い漫才に似て笑わせてくれるが、しかしそれは会話の面白さであって対立する性格のそれではない。花村萬月ならやくざの何気ない仕種からも不気味さを引き出すのに、
黒川はそれをしない。会話に淫して人物の性格など二の次なのである(だから行動に迫真性がない。主人公以外に魅力的な人物がいない)。ラジオ・ドラマの良き原作といった程度だろう。 >>464
いちいち的確だから腹が立つなw
浅田さんは『イワン雷帝』はどう評するのかなあ。言うところの「シリアス」な日本映画っぽいと思うのだが。
某政治家は置いておいて(といっても自分も重ねて観てしまうが)ああいう“鈍重な”映画が好きな人も、洋の東西問わず一定数いると思うんだよな。 小説は模倣から出発しても結局は"自分"受賞作以外にも受賞の機会をもった作品が並んだ充実の年でしたが、最後の決定は自分の小説世界
を持っているかどうかに掛かっていたと思います。そんな"自分"、の好例を皮肉にも辞退作「暗闇坂の人喰いの木」に見てしまう、
自我=幹の凄じさの上に小説の枝葉を繁らせたあの一本の樹には揺ぎなく島田氏その人が棲んでいます。それに較べると、「霧超邸」は華麗さの点でかつての本格名作群を凌いでいながら、まだ自分が淡く所々の文学が借り着ですし、
「レベル7」も前半のこの作者独自の小説的魅力が後半の事件部では社会派の借り着になり、「天使たちの探偵」になると借り着どころかソックリショーで
ミステリーとしての密度高さまが嘘になり、「貧者の核爆弾」もドラマの魅力に人の魅力が追いつかず、翻訳物の完璧な類似品にとどまってしまいます。
「新宿鮫」の町の方が「貧者」の地球より大きいのは作者の視線が感じとれるからで、その目と上質のペンとで仕上げられたこれは人と町の見事な風景画、若さを残したまま大沢氏が巧く若さを卒業していることが新鮮な驚きでした。
「夜の蝉」も安楽椅子探偵の類型を独自の小説世界として斬新に読ませてくれ、その他部門の二作もそれぞれ百年前の事件と竹中英太郎への執着に作者と編者の濃密な自己投影を感じさせる点が賞に繋ったのだと思います ジェイン・オースティン (中公新書)
世の多くの人達は日常を退屈と見なし、さまざまな形でロマンティックな世界に憧憬を抱く。ところがここにロマン主義の弱点を見抜き、持前の機智とユーモアと皮肉
と諷刺で平凡な日常を非凡な喜劇的世界に転じた作家がいる。漱石が「平凡の大功徳」を心得た写実の大家と絶讃し、
山本健吉が「世界で一番平凡な大作家の一人」と評した、英国の天才女流ユーモリスト、ジェイン・オースティンである。その生涯と作品の全貌を描く。
「ジェーン・オースティンの描いた世界は、言うまでもなく後の女流作家の描いた
世界にくらべれば無限に狭い。しかしそれを言うなら、小国はいつでも大国に敗れる
ものとは限らない。私自身はたえず小国の勝利を信じつづけてきた者であることを
この際申し添えておく。」
『ヴィクトリア朝の英文学』(G・K・チェスタトン) 第7回のテーマは「地域発ドラマの挑戦」です。
近年、多くの地域発ドラマが制作され、高い評価を受けている意味とは何なのか。地域からテレビを見つめることの可能性を、みんなで議論しました。
今回上映したのは、2009年に北海道テレビ放送で制作された『ミエルヒ』です。このドラマは、文化庁芸術祭優秀賞、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞など、数々の賞を総なめにしました。物語は、江別町・石狩川でヤツメウナギ漁をする父親(泉谷しげる)
と10年ぶりに帰郷した息子(安田顕)、そして父親の再婚相手(風吹ジュン)が織りなす「家族」の生活を中心に、地方に住むことの意味が描かれています。
上映後、このドラマの演出を担当した藤村忠寿さん(北海道テレビ放送)をお招きして、お話を伺いました。ふつうの地域発ドラマは"みんな頑張って行こうぜ"というような観光的な側面が強いのに対して、
このドラマではあえて"みんな他に行くところがないんだよ"という過疎の現状を肯定するスタイルをとった、と藤村さんは言います。
そこには、地元のテレビ局カメラマンが撮る北海道は、『北の国から』が見せたような美しい富良野の風景ではなく、地元の住民さえ気が付かないような江別の何気ない風景であるべきだという思いが込められていたそうです
首都圏にいる私たちは地域発ドラマと聞くと、つい「街おこしのためのドラマ」と連想してしまいがちです。けれども藤村さんの考える地域発ドラマは違っていて、「キー局が作りたくても作れないようなドラマ」、「どこにでも通用するようなドラマ」のことだと言います。
そのために『ミエルヒ』で採られたのは、脚本に合わせたキャストを組んで、テレビドラマではほとんど使われることのない高性能のカメラを使用することでした。自由なドラマ作りを目指し、
作品としての普遍性を第一に考える藤村さんの姿勢は、既存のキー局中心の構図からはみ出た、新しいテレビ・ネットワークの姿を示しているように感じました。 書き起こしてみると、ほぼ何も言ってないのに等しい。だけども、洋貴の「話したいけど、話せない」、双葉の「話したくないけど、話したい」という複雑な感情が描かれている上、
2人がどういう風に世界の隅っこで生きてきたのか、という人となりも顔を出している。
そして、会話としての圧倒的なリアルさ。つまり、省略と指定代名詞の多用。この文法をドラマ脚本に持ちこみ、エンターテイメントとして成立させた坂元裕二、
そして満島ひかりと瑛太の功績ははかり知れない。素晴らしいドラマである事に異論はないが、
『問題のあるレストラン』に感じる違和感の1つに、「人ってこんな風にして喋り出すだろうか、こんなに内容のある事ばかり喋るだろうか」というものがありました
なんていう噛み合わなさ!脱臼しきった、内容のない緩い会話劇のようでいてコミュニケーションの困難さゆえの面白さ、その真髄が描かれているように思う。勘違いやすれ違いこそが、
コミュニケーションを加速させていくのだ。『それでも、生きてゆく』は、こういった会話劇と共に、少年犯罪、その被害者家族と加害社家族という、「面白い」と言っては語弊があるが、圧倒的な強度を持ったドラマが並走している。 ぼくが「参りました」と思い、いかなる展開になろうとこのドラマは良作に違いないと確信したのは、被害者の母・響子(大竹しのぶ)が事件以来初めて、憎み続けた加害者の両親・三崎夫妻(時任三郎・風吹ジュン)と顔を合わせてしまう場面だ。
響子は彼らに謝罪などしてほしくない、と言いつつ、その動向をいまだに興信所に探らせ、転居のたびに怪文書をばらまかせてきた張本人だ。
その響子が、偶然息子と二人釣り宿にいるところに、三崎夫妻が訪ねてきて鉢合わせしてしまう。これまでの恨み辛みをぶちまけるのか、何としてでも彼らと口など利きたくないと逃げ出すか――緊迫の瞬間だ。
しかしそこで母は息子に、「お茶をお出しして。ここにはお茶菓子はないの?」(注:記憶を頼りに再現しています)と突然の来客にお茶菓子さえないことを恥ずかしがり始める
続いて「そうめんをいただこうと思ってたんです。たくさんあるから、召し上がっていってください」とそうめんを茹でて、困惑している三崎夫妻の分も用意する。
結局居心地悪そうにそうめんをすすり始める加害者と被害者の家族。謝罪など聞きたくないという気持ち、取り乱したくないという気持ちがぶつかりあった結果の行動として、
意表を突きながらも説得力のある、そしてそれだけに異様な迫力を持ち得たシークエンスだった(その後も、小野武彦のシャンプーの件とか、
クライマックスにおけるポテトサラダの件とか最後の最後にかましてくれた呆気にとられるようなオチとか語りたいことは尽きないのだが、どれもこれもネタばらしになるので控えておく)。 ギャラクシー奨励賞
徒歩7分が傑作であることを確信したシーン。
・夕焼け小焼けの地域放送を昼寝したまま聴くことの寂寥感
・元彼とは5年前に別れたことが発覚するシーン
・5話全体
・元彼の前で激しい嗚咽で泣くシーン
脚本はもちろんだけど、スタッフ・キャスト全員の力で神ドラマに昇格してたね
同じ脚本でも変にドタバタしたコメディタッチの演出で大げさな演技だったら、不自然でわざとらしいドラマになったと思う
みんな演技が良かった。とりわけ田中麗奈はハマってた。本当に。
柔らかい質感の画、寄り添ってくれる音楽、清潔感のある美術、もう欠いたとこがなかった。
でもやっぱりあの脚本あってこそだよね。ふわふわだけど、ほの暗いものが通奏してる。小さく。
このバランスは絶妙だった。それでいて優しかった。見れてよかった。
人生に諦め始めた年齢の身からすると、馬鹿馬鹿しい登場人物達がとにかく愛おしい!
みっともない日常の中にある可笑しみ、思いやりを大切にしていきたいと
思わせるドラマだったな 池端俊策:
オリジナルの作品が多くありその中で、前田さんの『徒歩7分』は頭抜けていると、全員一致の認識であり、
前田さんの作品に決定いたしました。作品は、数人の人物たちが延々と会話を続けるというつくりで、
限られた空間の中で、ある女性が自分の人生を告白していく話です。中身は悲劇的要素を含んでいますが、
脚本は喜劇的と言えるくらい、ユーモラスな世界観が描かれています。
悲劇性を帯びているのに、なぜかそれが笑えてしまう。絶対のない世界、
非常に相対的な世界のなかで生きている若い女性の、ある断片をスパッと描いたという鮮やかな作品だった。
「徒歩7分」は主人公の謂わばゆるめの悲劇的情況を饒舌で喜劇的とも思える会話劇に仕立てた作品であり、
そのユーモアに満ちた世界観と筆力は賞讃に価します。
現代を生きる意味を無限に相対化する作風は新鮮であり、今後の活躍を期待し、向田邦子賞を贈ります
「悲劇性を帯びているのに笑える。今の時代をうまくすくい取っている
「小さな世界のようでいて、大きな世界を描いている 以前にカウントダウン ある男の物語を撮った者ですが新しいシナリオが出来たのでアドバイスを貰えませんか?
タイトル:Dear 疫病神
あらすじ:
サラリーマンの僕は人生において不幸続き、厄年のお祓いを受けた帰り道、後をつけてきた疫病神と成り行きで一緒に暮らす事になる。
最初は仲良くやっていた二人だが疫病神の身勝手な行動にキレた僕はとうとう疫病神を追い払う。それで僕は幸せになれるはずだったのだが・・・
登場人物
僕>以後「ボ」
しがないサラリーマン 人並みの幸せを求めるが要領が悪くいつも不幸に見舞われる。
疫病神>以後「ヤ」
僕がお祓いを受けたら突然現れた神様 成り行きで僕と一緒に暮らす事になる。
冷蔵庫の故障で溶けてしまったアイスを流しに捨てているところに電話がかかってくる。
(ボ):「えっ発送した商品の個数が間違ってましたか?スミマセン今すぐ会社に戻って確認します」
厄払いのお祓いを受けているところ。
ナレーション(ボ):最近、本当に運が悪い。仕事でも失敗続き 冷蔵庫は壊れてアイスは溶けるし何かに呪われてるのかなぁ。
お祓いから家に戻る途中で何故か背後が気になり振り返る僕。
厄病神登場、振り返ると歩みを止める厄病神、
2度ほど同じ事を繰り返す。
(ボ):君は誰?何か用なの?
厄病神に聞く僕
(ヤ):お、おいらは厄病神です。
(ボ):厄病神?ところで何で僕に付いて来るのさ?
(ヤ):今日、これから行くところが無くて、、、良かったら今晩泊めて欲しいんだけど?
(ボ):うーん、困ったなぁ、だけど何だか君の事は他人のような気がしないんだよなぁ、
(ヤ):そりゃそうだよ。ついさっきまでずっと一緒だったんだから。
(ボ):じゃあ行き先が見つかるまでだからね。行き先が決まったらサッサと出て行ってくれよ。
(ヤ):ありがとう。 僕はコンビニでお弁当を買って帰る。
1人でお弁当を食べようとすると横から厄病神が覗き込んできて
(ヤ):美味しそうだねぇ〜
(ボ):なに?
怪訝な顔で
(ヤ):お弁当本当に美味しそうだねぇ〜
(ボ):お腹空いてるの?
(ヤ):うん 嬉しそうな顔で頷く
仕方なくお弁当のフタに半分分けてやる事に
(ヤ):ところでさぁ、今日は2人が出会った訳だよね?
(ボ):そうだね。
(ヤ):そしたら今夜は歓迎会という事で2人で呑みに行こうよ。
(ボ):別に歓迎なんかしていないけどね。歓迎会よりサッサと次のところ探して欲しいんだけどな。
(ヤ):あらためてもう一度自己紹介するけど、おいらは厄病神だからね。貧乏神じゃ無いんだから
そんなケチ臭いこと言わないでさぁ〜 今夜くらいパーッと行こうよパーッと!
なんなら送別会でもいいや。君と別れてこれからは別々にやっていくんだから。
居酒屋に二人で向き合って座っている
(ヤ):カンパーイ、いゃあ君は良く頑張った。数々の不幸にもめげずに今まで良く頑張ったよ。
(ボ):全部君のせいだよね。
(ヤ):うん、だからね、これからはきっと幸せになるよ。
それで1つだけ言っておきたいんだ。
幸せってモノはすごく気がつきにくいものなんだよ。そして大抵は失った時に初めて気がつくんだ。
(ボ):厄病神のお説教なんて聞きたく無いよ。君が居なくなれば、宝クジに当たって、カワイイ彼女が出来て、
仕事でも怒られなくて、、そうだ会社を休んで彼女と2人で沖縄旅行とかに行きたいなぁ〜
(ヤ):君の幸せは全部外からやってくるモンなんだね。
(ボ):いけない?君のせいで彼女もできず仕事もミスばっかりで出世もできないし楽しい事なんて何も無かったんだから
夢くらい語ってもいよね。それとも僕が幸せになる事に何か文句でもあるのかい?
(ヤ):無い無い、無いよ。おいらは君が幸せになる為だったら何でも協力するつもりだよ。
(ボ):イヤイヤ、何も協力しなくていいから早く次の行き先を決めて出て行ってくれよ。 床に寝そべってマンガを読んでいる疫病神
(ボ):それじゃあこれから会社に行ってくるよ。
あっ、忘れてた。これはお昼のお弁当代500円、次の行き先探しちゃんとやらなきゃダメだよ。
(ヤ):分かってるって、だけどこのマンガ面白いね。これ読み終わったら探すから、いってらっしゃい〜
(ボ):もう、本当に出て行ってもらう事に決めたよ。君はこの一週間出て行く出て行くって言いながら一日中マンガを読んでゴロゴロしてるだけだったじゃないか?
本当に我慢ならないから出て行ってくれないかな?
(ヤ):ああ、ようやく君は幸せになる為に自分から行動が出来るようになったんだね。僕は本当に嬉しいよ。
(ボ):そんな屁理屈にはもう引っかからないぞ。話し合う事は何も無いからサッサと出て行けよ!
(ヤ):これで本当にお別れだね。バイバイ
家から出て行く疫病神 しばらくして後を追うがもうそこには疫病神の姿は無い
会社から戻った僕 誰も居ない部屋に向かって
(ボ):おーい、疫病神いる?居ないよね・・・
部屋の掃除をしている僕、部屋の隅に見覚えの無い封筒が落ちている事に気づく。
中には数枚の宝くじと手紙。
(ヤ):宝くじも買わなきゃ当たらないよ。クジが当たったらまた二人で呑みに行きたかったけどおいらが居ると当たらないだろうから
当選日までには出て行きます。カワイイ彼女早く見つかるといいね!
(僕)ナレーション:結局、疫病神の買って来た宝くじは全てハズレだった。ただ、買いだめしていたクジ付きのアイスが一本だけ当たっていた。
ブルン、バイクのエンジンをかける僕、オートバイにまたがり走り出す。
カメラが背後から追う
一瞬、僕の後ろに二人乗りしている疫病神の姿が見える。
僕は気づかないままオートバイが画面の奥に消えて終了
完 アドバンスも何も、今まで500回くらい何処かで観たようなストーリーなんだけど。っていうか、オリジナルの欠片もない設定とストーリーで、もはや何をアドバイスしたらいいのか全くわからないwとりあえず脚本の勉強ちゃんとした方がいいよ >>489
このストーリーって今まで有名無名の脚本家が500人以上も考えついた構成だったんですね。
少なくとも貴方が観てるって事は有名な方が多いんでしょうけどw
って事はこの物語をオリジナルで考えついた自分はメッチャ脚本家の才能有りって事じゃないですか!
アドバイスありがとうございます。 >>490
普通に面白そう。
助言ってか素人的に気になるとこは
疫病神と理解するシーンは?足がなかったとか?他の人が知り得ない主人公の赤裸々失敗エピソードを語るとか?
主人公の失敗は本当に疫病神の責任?それなら冒頭にpc画面でも見てて発注個数が不自然に変わるとかあると疫病神の力がわかりやすい?
主人公は自分の失敗を全て疫病神の責任にしたけど、行動しないことは自分の責任で疫病神が去ったからといって幸せにはなれない。自分から動け!ってことが言いたいんです?
アイス棒のナレーションは疫病神が消えたから全部うまくいくって描写に見える気がしますが、、、
尺的にもう少し長くしたらいいのに。もう少し見たいなぁ。
まぁ素人が適当に言ってるんで気にせんでください。 >>491
感想ありがとうございます。これから撮影するので観てくれる人の側からの感想が欲しかったのです。撮影前ならシナリオも修正できますので。
私が伝えたかった事が伝わってるみたいなので良かったです。アイスの件ですが疫病神が居なくなって宝くじはハズレてるのでこれから全部上手くいくという演出ではないです。
ただハッピーエンドにはしたかったのでアイスが当たるというエピソードを加えてみました。
色々と書いて下さった新しいアイデアも参考にさせて頂きます。 ナレーション(ボ):最近、本当に運が悪い。仕事でも失敗続き 冷蔵庫は壊れてアイスは溶けるし何かに呪われてるのかなぁ
これいらなくない?映画なら観れば分かると思うし >>493
前にどなたかからも同じ指摘をされたような覚えがあります。言葉で説明せず行動で示せと
削除する方向で検討します。
エンディングのナレーションも削除して宝くじを換金に行くシーンに差し替えする予定です。 >>491
私の言いたい事とアイスが当たる演出が矛盾してるって事ですよね?
この物語のテーマは「幸せの意味とは?」です。
疫病神の正体は僕が責任を押し付ける為に生み出した別人格の設定です。
バイクの二人乗りのシーンの意味は僕と疫病神が時々は分離するけれど人格が統一されたという事が伝えたかったのですが、、、
あまり上手く伝えられてない事が分かりました。演出を変える事に致します。
感想ありがとうございました。 全部をわかりやすく伝える必要はないと思いますが
たしかに最後疫病神がまた取り憑いてて意味わかってない層にはホラーっぽく見えますねぇ
そんな肉付けをやってると、どんどん脚本が長くなるというwお疲れ様です >>496
おっしゃる通りです。
エンディングがすっきりしないので何とか良いアイデアが無いかと考えてました。
肉付けせずに気持ち良く終われるシナリオがあれば良いのですが、、、 「あたしが、待っていたのはこの人じゃない、あの人だっていう気がして……こっちは、誰に応えていいか、その相手が見えないんです」――報告、説明、主張、詠嘆、教訓――それ以外になにもない戯曲こそ滅ぶべきである。
岸田戯曲の神髄ここにあり 過剰なせりふは、視聴者から想像力を奪い、作品の底が浅くなります。 俳句と同じ余白がせりふにも欲しいのです。
これを言いたい、というのを黙ってこらえるからこそ伝わるエネルギーがあります。
優秀な役者はそこを敏感に察知、尊重してくれますが凡手の役者ほど余計なことを喋りたがり、困惑することもあります。
現場に常にいるわけではないので、余計な一言を勝手に付け加えられて、
それが現場での動きとその役柄の性根に即し自然に出た、こちらがウン、と膝を打つセリフであれば
いいのですが、所詮セリフの素人の考えること、余白を消すことのほうが多く
また本当は法的にはそのことにより、脚本を引き上げ放送中止させ得るぐらいの
著作権侵害なのですが、昨今は現場がルーズになっていて困りものです。
また、いじられても仕方のない脚本が多いとも聞きます。
脚本家が育ってないのかなぁと残念ですが、お互いにせりふにルーズだから
育たないのだとも言えそうです。さんざん言われて来たことですが
ドラマがいつしか・・・・2,30年ぐらい前からでしょうか、企画先行、
スター先行になってから脚本が尊重されなくなる傾向が日々大きく、
またそれだから新たな作家が育たなくなってもいるようです。
作家の文体というものが消え失せ、誰が書いているのかわからない本が
多くなりました。昔は作品のにおいといおうか気配、せりふのタッチで
誰の作品、と解る人がいて、その人達はまた群を抜き優秀でした。・・・・いなくなりました、本当に。
それでもいい作品が生まれればいいのですが、刑事物やサスペンスといった
お話の「仕組み」で見せる作家で優秀な人はいますが(見ているとやはり、
これも相当のベテランであることが多いのですが)、せりふと心理で
見せる作家が僅少になって来て残念で、しかしふと思えばそういう作品が求められる場もまた少ないのですね。 たとえば、老いた母を連れて長男が外出するシーンの前に玄関で、長男が母親の履物を用意しているシーンを書きました。
セリフ無しの一人のシーンです。しかし、これはセーンとしては下の部類なのです。
というのは、外出するための単なる段取りにしか過ぎないからです
私はこの玄関のシーンに更にト書きを付け加え演出家の方へメールしました。
履物を用意している長男が、ふと母親と自分の靴のサイズを見比べて、母の小ささに胸をつかれる、というふうにしました。
もともと、尺によってはカット可能のシーンなので、現場で演出家が
どのように処理するかはおまかせしてるので、わかりません。
薄いシーンというのは情報が一つしかないのです。最初のト書きだけだと、単にこれから出かけますよ、という情報のみ。
手直ししたぶんでは、息子の母の老いへの感慨という新たな情報が
加わりシーンが深くなります。「見比べる」という数秒間の芝居だけで。
新人のドラマが薄手で、ベテランが厚いというのはシーンにこめる情報量の違いなのです。 >>501
昨日、ようやく自分自身で腑に落ちるシナリオが出来たので今日から撮影に入ってます。
会社の後輩を呑みと昼メシと謝礼で釣って何とかグダグダの状況ですが3分の1程撮り終わりました。 >>502
それはよかった。
応援してます〜(≧∇≦)b 興味はあるんだけど、上下2冊もあってさすがに両方買うのは高過ぎると思って買ってない。あと、収録作品があまりに古すぎるから読む気にならない >>505
そうか、好きな作品が何本かあったから下巻だけは買ったわ 某ポータルサイトで自称映画関係者が
実写映画に複雑な思いを馳せている
他ユーザーに個人攻撃、誹謗中傷を繰り返し
物議醸し出してるんだけどそういうクレームってどこにだせばいいのかな?
他の映画関係者だってそういうのがいたら迷惑でしょうに。。。 >>507
そのサイトが何なのか確認しないと、あんたのその書き込み自体の信憑性がないから誰もあんたの質問に答えることは出来ないね。要するにあんたが考えなってこと。勝手にやってろ >>507
すまん、いきなり貼るのはどうかと思い。
これね。ここのreiってハンドルの人。
http://person.news.yahoo.co.jp/profile/OoxrO2SVZ3HQ56jYKK6n9w--/comments/archive/14765001205295.a1b9.00308/#replyArea
別に実写化賛成なのは構わんのだが
反対する人にいちいち噛み付いて
誹謗中傷は如何なものかと。
しかも自分は映画関係者のようなことをほのめかしている。
他でも揉め事多数起こしてるし本当に関係者だったらこういうのまずいでしょ。 努力賞日本映画。そのような現地ロケの日本映画。いろいろとあちらの風景も入れ、日本人商社の出張員がああなればああなる画面は、見ていると実際にこうなるかと日本人としては身にもつまされ、なまなましい同情とガンバレの日本びいきも沸きかねない。
このように日本映画がセットを離れ、しかも大作気取りを避けて主役を四人に組ませてのアイディアと撮影には大いに拍手ものだが、とにかく日本人独特の説明べたが最初から始まって、映画自体にこれがつきまとう。それを演技で補っているのだが、
これまたすべてオーバー・アクトの四人組となってしまったのが惜しい。真田広之が、抜群とはおおげさだが気分満点の好演を見せようとし、それが画面ににじみ声援いっぱいというところなのに、ここぞと気張りすぎた。
主役四人全体が気張りすぎた。つまりオーバー・アクト。これはひとえに監督の滝田洋二郎の、いうならば観客への御親切ごころがうらめに出たというわけだ。なぜ、も少し押さえなかったのか。
これは原作・脚本(一色伸幸)が心して、深刻になる日本独特のお涙を避けたからであろうが、この良さが説明までをも呑気に走らせたきらいが、この映画をマイナスに落としている。
真田はじめ岸部一徳、嶋田久作、山崎努の四名の個性個性個性をあまりにも鮮やかにと思ってか、この四人がいうならばレコード盤の早廻しとなって、私は途中三回四回、演技を台詞を押さえろと心のうちで叫んだ次第。
けれども、日本映画がこのように浜田毅の撮影監督でジャングルとその土地を実感させて撮影。そのキャメラの動きはすばらしい。
さてこの四人、裸身でさらに私たちをくすぐらせるか。このあたり、どこかいつの間にかさらり身をかわされて、立派なラストが物足りないよ >>511
ごめん冷やかしだと思ってた
ちゃんと撮ってて尊敬するわ >>512
ありがとうございます。
トラブル続きで色々と大変だったのですが何とか完成させる事が出来ました。
私の言いたい事がちゃんと伝わったかどうか知りたいです。他にもここが変だよとか感想がありましたら教えて下さい。 金城哲夫賞ってみんな応募したんですか?
「ウルトラを超えろ」ってフレーズが付いた脚本賞です。 応募しました。
規約が独特で、企画書も書かんといかんから大変でしたわ。
規約漏れありで、企画書もやっつけでエクセルもズレズレで応募したけど。 >>515
私はSF宇宙戦争を題材に作品を書いて送りましたが、
515さんはどの様なジャンルの作品を送ったのでしょうか? >>516
何のジャンルなんですかねぇ。
SF、サスペンス何でもありとあったんで何でもありを信じました。
ネットがらみの内容です。
SFが書けるって素晴らしいと思います。
いい結果が出ると良いですね。 >>517
そうですね!
何でもありだから、時代劇やホームドラマでもいいんですよね!!
お互いに良い結果を信じて待ちましょう!!! ヤンシナ大賞のぼくのセンセイってすごいなぁ。
俺が下手くそだからだろうけど、ストレートさに驚いた...
あとシリアス外しのセンスがいい、のかな。
あー、自分のカスっぷりに泣けるなw
書かなきゃなぁ... ヤンシナの映像化見たけど、応募脚本から随分変わってたな
漫画家の言葉遣いがマイルドになってたり、
主人公がバツイチ子持ちになってて競馬シーンがなくなってたり、
毒のない作品になったなーって印象
まあ競馬シーンは取ってつけた感があって元々好きじゃなかったけど
とりあえずフジに応募するとキムチをさらっと登場させられることは分かった
月9のラブソングでも主人公がキムチ食べてたの思い出したよ やんしなドラマ見てみた。
脚本はマイルドになったけど、それ以上にクソになってんじゃねぇか。
なんだあの優しい世界。気持ち悪いというか、脚本家の小島さんも絶望してんじゃないのかなぁ。 >>521 同意
あの脚本ってストーリー大筋はベッタベタだけど
ギャグのシニカルな雰囲気とか、口論のテンポの良さみたいな、いい意味で軽いところが持ち味だと思ってた
新人賞の映像化なのに、新人特有の毒や尖った部分とすべて削ぎ落とした感あるわ 映像化作品って何であそこまで変更されなきゃいけないのか?
もうプロットもしくは箱書きで応募でよくない?(笑) >>499
大物脚本家が法廷闘争して、尚且つ負けるという時代だしね〜 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています