Filmarks 嫌われユーザーワンコのスレ
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小説「君の膵臓をたべたい」。
書店で気持ちの悪いタイトルの本だなと思って、手に取って帯を見てみたら、好評で、それで買って、スタバに長居して一気読みして、”あの一言”で涙があふれた。スタバで隠すのが大変だった。
映画「君の膵臓をたべたい」。
もう原作は読んだし、もう泣くことはないだろうと映画館に足を運んだが、”あの一言”の前に既に涙が溢れていた。
映画のエンドロールの終わりまでに心を整えて座席を立った。
アニメ「君の膵臓をたべたい」を地上波で観て、今度こそ泣かないだろうと思っていたが、また、”あの一言”で涙が溢れた。
映画「君の膵臓をたべたい」のレビューを書いておこうと思って、Netflixで観た。また、”あの一言”の前に涙が溢れていた。
映画の方は、原作に大人になった「君」と恭子のアナザーストーリーが加わっている。 どちらも、桜良が心を開かせようとした二人。
闘病ではなく、共病。
「共病文庫」。
人は、自分の人生が残り少ないと分かっても、一日一日を前向きに生きることができるだろうか。
病気を悟られないようにしながら、家族や友人と明るく過ごせるだろうか。
そうありたい。
でも、難しい。
だから、「君」が選ばれたのだ。
でも、それは「君」が「共病」に相応しいからだ。
笑ったり、遊んだり、旅行したり、怒ってたり、楽しんだり、不安になったり、そして、悲しんだり。
すべて大切なことだ。 人を好きになることは大切なことだ。
「もう、泣いていいですか」
いい。泣くことも大切だ。我慢なんてする必要はないんだ。
映画「君の膵臓をたべたい」は、もう一つ泣くポイントがある。
手紙のやりとりのところだ。
長い年月を経て、友達になるところだ。
やっばり、人を好きになることは大切なことだ。
映画は、浜辺美波さんと北村匠海さんの演技が光る。
原作を読んでいたのに、僕のなかの、桜良と「君」は、完全に、この二人に入れ替わってしまった。
アナザーストーリーは、意見はありそうだけど、こちらも時を経て友達になれたんだから良いじゃないか。
そんな気がする。 【映画人へのオマージュ】
小津安二郎作品を超えたくて、多くの映画人が、長い間、様々な工夫や努力を重ねてきたんだろうなと思う。
そして、その時、理解されなくても、技術的な問題で脚光を浴びなくても、時代を経て、改めて日の目を見ることだってあるのだ。
この作品は、そんな物語だ。
この作品は、そんな不断の努力を重ね、いろいろな希望を繋いできた映画人へのオマージュであり、そして、コロナで亡くなられた志村けんさんへの哀悼なのだと思う。
ほとんど役者の仕事を引き受けてこなかった志村けんさんが、この役を引き受けたのは、志村けんさん自身が、先人のお笑いを超えようとずっと努力してきたから、通じるところがあったのではないのか。
そんな気がする。
沢田研二さんが、この代役を引き受けるにあたって、相当悩んだと何かで読んだ。
沢田研二さんの場合は、志村けんさんとの友情の他にも、いつもつきまとう、自身のジュリーのイメージを払拭したいという気持ちもあったのだろうと考えたりもした。
映画人も、コメディアンも、シンガーも、そして、多くの人も、何かを超えようと悩んだり、考えたり、工夫したり、努力しているのだ。
映画は、昔の場面は丁寧な言葉遣いで、現代の場面は口語長になって、この対比も、とっても、それらしくて面白い。
モノクロになったら、北川景子さんは、当時の女優さんそのものだし、逆に、昔の女優さんが、現代に蘇っても、実は今風に見えるのではないのか。
そんな風に考えながら観るのも楽しい気がする。
演出でノスタルジーに包まれる人もいると思う。
実際、コロナで一つ空いた隣の席の高齢の女性は、若い頃の恋愛を思い出してか、或いは、夫との苦労話が蘇ってか、ところどころで結構泣いてたし、トドメに志村けんさんへのメッセージが映し出されると、ズズって、鼻もすすっていた。
キネマは、神様が、あり得ないこともたくさん散りばめて、でも、ありそうな気にもさせて、想像力も刺激して、僕は、本当に楽しいものだと思う。
いつもそう思って、映画館に足を運んでいる。 【”Magnetic Resonance Mission“ 】
いつも思うのだけれど、このシリーズの日本語タイトルは、僕達、日本人にとってはかなり秀逸だ。
ワイルド・スピード。
更に、略して、ワイスピ。
きっと、これほど、一人歩きし、ブレイクした邦題タイトルは多くはないと思う。
そして、副題もだ。
ミッション系(カトリックではありません)に、ブレイク系(ダンスではありません)。
今回は、ジェット・ブレイクで、ブレイク系だけれども、僕が考えてレビュー・タイトルにした、ミッション系の方が、内容にかなり肉薄して、則しているのではないかと思うし、この映画の本質にも迫っているのではないかと考えている。
但し、ちょっと、冗長で、日本人には分かりづらいかもしれないが…。
“Magnetic Resonance Mission(マグネティック・レゾナンス・ミッション)”
訳せば、「磁気共鳴ミッション」だ。
映画を、ご覧になった人は、お分かりいただけると思うし、この登場人物たちは、磁石に吸い寄せられるようにして、いつも集うではないか。 レティよろしく、今回は、ハンが生き返った。
と言うより、死んだことになってただけで、生きていて姿を表したのだ。
こじつけっぽいところは、日本の漫画のようだ。
それに、新たな敵(だけど、ワイスピ・シリーズでは、”今日の敵は明日の友”で、これも日本の漫画風だ)。
そして、もう、最初から最後まで、バリバリの無茶苦茶だ。
それでも、僕の、レビュー・タイトルの意味も分かってもらえると思うし、この映画の本質だということにも同意してもらえると確信もしている。
さて、次回は…。
コロナ禍だけれども、早々に席を立たずに、エンドロールに挟み込まれる場面もお見逃しなく!
僕は、大画面のシアターの少し前の方に席を取って、更に、空いてることを確認して、横に横に移動して、周りに人がいないことを確認し、マスクはちゃんとしたうえで、バリバリに無茶苦茶な場面で、大声で笑ったり、”おおおおーっ”とか驚いたりしながら鑑賞してました。
あー、かなりスッキリした。
この人たちは、とにかく最強だ。
いざとなったら、サノス達とも戦えるくらいだ。 【優しさと想像力/科学について:オッペンハイマーと朝永振一郎】
毎年、8月6日と9日の原爆の日にあわせて、TBSのNews23がシリーズで放送している、綾瀬はるかさんと被爆者の対話で、今年は、高齢になった女性の被爆者の方が、核兵器が無くなるまで、自分が生きてる限り、語り継ぐ活動を続けたいとする一方、若い人にも、核兵器や戦争の恐ろしさを後世に伝えて欲しいし、そのために必要なのは「優しさと想像力」だと話をしていた。
奇しくも、裕之を演じた三浦春馬さんは、生前、「想像力を届けることが役者の仕事」だと言っていたことを、有村架純さんが舞台挨拶で伝えていたのだけれど、観る側、つまり、受け取る側にも、更に想像力が必要であることは言うまでもない。
最近の映画のレビューで、映画のストーリーをなぞるだけでなく、具体的な指摘はなしに、周りにどんどん同調するかのように低評価が増殖していく様を眺めて、これは、ある意味、イジメが広がる構図と似ているなと考えたりした。
決定的に想像力が欠如しているのだ。
せっかく、人間だけに与えられた想像力なのだから、可能な限り駆使した方が良いように思う。
この「太陽の子」は、反戦というだけでなく、科学と国家、そして、人間としての科学者が、どうあるべきか考えさせられる作品になっている。 レビュー・タイトルにあるオッペンハイマーは、原爆の父と言われたユダヤ系アメリカ人の科学者で、本来は素粒子物理学者として、その時は、場の量子論に於ける無限大の問題を研究していたのだが、アメリカ政府にマンハッタン計画の責任者に指名され、類い稀なリーダーシップを発揮し、原爆を完成させることになる。
たが、太平洋戦争後、2度の原爆使用の凄惨さを目の当たりにし、こうした軍事研究からは距離を置き、更に、アメリカ政府の水爆研究に強く反対したことから、政府や軍事研究者から疎んじられ、公職からも追放され、自身や家族が共産思想に傾倒していたことも理由に、晩年はFBIの監視下に置かれるなど、不自由な生活を強いられた。
朝永振一郎は、日本人2人目となったノーベル賞受賞者で、物理学者だが、その業績を知らしめたのは、オッペンハイマーが取り組んで解決に至らなかった無限大の問題を解決していたことだった。
それも、戦時中の、ものも何もかも少ない、荒廃した状況であったにもかかわらずだ。
オッペンハイマーは、朝永振一郎から、戦争で発表の場を失われていたのだが、これを自分は解決していたとの手紙を受け取り、驚き、そして、朝永振一郎の業績発表の場づくりに、その後は尽力することになる。
オッペンハイマーは、若くして癌で他界し、もう少し長生きしていれば、ノーベル賞を受賞していただろうと言われるほどの業績の大きい物理学者だったが、代わりにというわけではないが、朝永振一郎がノーベル賞を受賞する。
朝永振一郎は、戦争よりだいぶ前に卒業しているが、京都大学の学生だった。 科学や技術の発展が、人類にとって取り返しのつかない結果に繋がることは少なくない。
核兵器はそうだし、ガス化学兵器も同様だ。
世界中がインターネットで繋がり、ハッキングもサイバー攻撃も拡大した。
AI搭載のドローンが、兵器を積んで、躊躇なく殺戮をしないとも言えない。
科学の発展は、人類の進歩に貢献するが、一歩間違えば、とんでもないことになりかねないのだ。
科学者は往々にして純粋だ。だが、それは、探究心に歯止めが掛からなくなる要因でもあるように思う。
修が、京都大学から程近い相国寺の天龍図を眺めていた時、何を考えていただろうか。
実験が成功するイメージだったのだろう。
龍の眼は睨め付けるようでもあったが、人はそう簡単には気がつかないのだ。
修が、比叡山から京都に”原子核爆弾”が落ち、爆発する様を観察したいという探究心に対し、フミが、言い放つひとりの人間、母親としての言葉は物凄く重い。
オッペンハイマーが、類い稀な才能とリーダーシップと、探究心と、成功と、取り返しのつかない結果と、後悔と、強い意志と、悲劇と、驚きと、献身をもって、どんな気持ちで過ごしたのだろうか、ずっと考えている。
世界から争い事はきっとなくならない。
だが、悲劇を最小限にするために、僕達は想像力を最大限に駆使して、生きなくてはならないのだと強くて思う。 >>10
有村とかいう演技大根をごり押しするキチガイレビュワーか
何円貰ってんだろうな 【もう一つのクワイエット・プレイス?】
実は、この一作目、怖そうで避けていた。
それで、この「ドント・ブリーズ」は、もう一つの「クワイエット・プレイス」だなんて思ってはみたものの、はて?、本当ははどっちが先に作られたのだろうかなんて考えて、調べてみたら、「ドント・ブリーズ」が先だった。
そして、あの高音で頭を抱えるさまは、クワイエット・プレイスにも引き継がれていると思って、ちょっと笑ってしまった。
まさか、アイデアはパクリじゃないよね?
こういう戦いについては、悪い奴らvs.迎え撃つ正義とか、悪い奴らを退治に向かうとか、善悪がそれなりにはっきりしたものが普通なのだけれど、これについては、侵入するほうも、迎え撃つ方もろくでなしだ。
ここは、クワイエット・プレイスと異なるところだ。
乗り気じゃないアレックスは気の毒として、最初は、盲目の老人にも災難かと思いきや、サイコパスの本性が明らかになり、ろくでなし同士の戦いが明らかになる。
飛行機に乗り込むロッキーと娘に絆(ほだ)されてはいけないのだ。
あの超人的な盲目の老人が次回どんな活躍をするのか期待はするけれども、息をひそめて、怖いので、更に目を細めて鑑賞したいと思う。
ああ疲れた。 【👻💀🎃😁】
なんだかんだで、妖怪好きなもんで、水木しげるさんのカラー版の妖怪画談も持ってるし、松江の小泉八雲記念館にも何度か行っているし、妖怪大戦争というタイトルに強く惹きつけられて、ついつい足を運んでしまった。
豪華キャストだし。
んー。
正直、お世辞にも面白いとは言い辛い。
ただ、夏休み向けの豪華キャスト娯楽エンタメだということは理解できる。
そして、誰がどの妖怪を演じているか、ほぼ分からず。
まあ、いい事かもしれないけど…。
妖怪で分かったのは、大森南朋さん、安藤さくらさん、杉咲花さん、大島優子さん、ナイナイ岡村くらい😁
小豆洗ってるだけで、セリフもなくて良い役だなあ。
まあ、そこがポイントじゃないと思うけど、気になってしょうがなくなるのでした。 【分からないという怖さ】
先般、YouTubeで、とある女性タレントの実体験の怖い話を聴いた。
無茶苦茶怖くて、それで、色んな人にシェアして憑き物を落とそうと、そのストーリーをLINEに急ぎ書きとめて、昔の会社の先輩や同僚、大学の友人、田舎の友人、取引先のお兄さん、部下だった後輩なんかにLINEしまくった。
実は、かなり好評で、僕自身は憑き物が落ちて、しめしめと思っていたが、中でも一番頭の硬そうな先輩が、案の定、この人とこの幽霊らしきものとの関係性は?とか質問が返って来た。
“分からないから、怖いんじゃないですかーーー”
って、返信したら、”あっ、そういうこと!?”
だって笑。
まあ、この作品も、そうした「?」が残る作品なのだが、大きな怖さに展開するきっかけがない分、少しずつ、ジワジワとホラーの領域が侵食するように広がっていくところが、なんとも”気分が悪く”て、やっぱり怖い。
ただ、僕のYouTubeで聴いた怖い話の方が、怖いと思う。
なぜなら、わけの分からないものを映像として描写するのは、他人の感性に依存してしまうからだ。
わけの分からないものは、自分の想像のなかにあってこそ、より怖いと思うのだ。
だから、日本の百物語なんかの怪談話は、伝統として息づく怖さを秘めているのだと思う。
この作品については、わけの分からないものの映像がイマイチな感じがしてしまった。
でも、雰囲気は怖いけどね。
それと、認知症をモチーフにしているところも、なんか好感度を下げてる気がする。 【それぞれの理由】
この「もののけ姫」の物語はちょっと複雑だ。
単純な二元論では語れない、現代にも通じるテーマを内包しているからだ。
そして、それが物語に深さを持たせているようにも思う。
また、”今”を踏まえて、やり直すことは可能だとするエンディングの示唆も含めて、僕は、ジブリ作品のなかでも、この物語がかなり好きだ。
可能な限り、外との交流を避けて暮らす集落。
しかし、外の影響を完全に排除することなど出来ない。
大勢の人々が住み、商業も発達して、豊かな地域。
しかし、格差はあり、人の持ち物をつけ狙うような罪深い人間も多い。
男女の格差なく、醜いものにも差別なく、役割が与えられている集落。
しかし、武器製造を生業とし、別の地域からは常につけ狙われ、自らも森を侵食し、環境を損なっている。
森。
人間によって木々が伐採され、住む動物達は憎悪を募らせる。
そして、シシ神の支配するシシ神の森。
森の侵してはならないコアな領域。
それぞれ欲するものや、守るべきものが異なり、相互に理解するより、争いで解決しようとする者達。
そして、本来は神の領域と考えられた場所まで足を踏み入れて破壊してしまう。 憎しむべきは対峙する相手なのか。
決定的な判断材料を与えずにストーリーが進んでいく。
これは、今の僕達の生きる世界そのものであり、本来は神の領域とされた場所で失われてしまったところも少なくないはずだ。
シシ神の切り取られた頭を返したのは、まだ、やり直せるという、残り少ない希望を意味しているのだ。
そして、生まれ変わる山々の草木。
元々の森ではないかもしれないが、人間の知恵によって、豊かな自然を再び取り戻すことが出来るのではないかという希望を意味しているのだ。
単純な二元論では、片側の憎悪や正義などに焦点が当たりがちなところを、アシタカ、サン、イヌ、イノシシ、様々な背景を有する人間と、様々な場所を物語に配置することによって、僕達の世界を覆う複雑な問題を、どう考えるべきか、思考を促した秀作だと思う。 【決着・選択/ドント・ブリーズから、ブリーズへ】
息を止めずとも、息を潜めて生きていたのは、この名前も明かされない老人のことだ。
“モンスター以外の何者でもない”
自分自身が一番よく分かっていたのだろう。
前作の奇抜なストーリーの顛末でサバイバルしてしまった盲目の老人の決着の付け方に、制作サイドは実は悩んだのだろうなと考えてしまった。
中東に派兵されて、無事帰還したところで、幸せが待ってるわけではない。
トラウマに苛まれたり、デトロイトなどラストベルトでは、満足な仕事にあり就けないなど問題が大きいことも背景にあって、犯罪集団が組織されてしまうことも伺われる。
なぜ、娘が狙われるのか。
兵士であった老人にとっても、理由が分からないことほど理不尽なことはないはずだ。
だが、モンスターからひとりの人間に戻るきっかけになった娘を取り戻さなくてはならない。
エグい白兵戦の戦闘シーンは、スーサイド・スクワッドのような笑えるものではないが迫力満点だ。
娘に告解し、老人は息を潜めずとも良くなったのだ。
大きくブリーズ出来たのだ。
同時に、娘も自らの名前を選択する。 【リアル・スーサイド】
DCで、ヒトデの巨大宇宙怪獣まで登場するのに、中学生以下の子供に見せられないって……。
しかし、全然ありだ‼
前回のスーサイド・スクワッドでは、”決死部隊(スーサイド・スクワッド)”のくせに、
”誰も死なねーじゃねーか⁉”
ってクレームがついたらしい。
それで、今回は、初っ端から、
これでもか‼これでもか‼って、
死ぬ‼死ぬ‼死ぬ‼死ぬ‼
そして、おまけの、デジャヴ感…。
ジェイコブ⁉ん⁉ピースメーカァー⁉
2週連続公開で、何やっとん😁⁉ 生物兵器の開発なんかのシリアスな問題を背景に、それを巡る国家機密や内部対立を、さもありなんと見せつつも、なんのこっちゃっと、無茶苦茶目まぐるしい展開が楽しめます😁
2週連続で、スッキリしたよ、ジェイコブ、いや、ピースメーカー‼
でも、”最強”は、君でもなく、サメ男でも、なな何とハーレイ・クインでもなく…、水玉男はすごく気に入ってたのに…。
なんか、コメディ感は、さすが、ジェームズ・ガンだと思う。
さて、次回は…。
〇〇、死んでませんでしたね…。
エンドロールは最後まで。
※ ジェイコブは、ワイスピ・ジェット・ブレイクの、ドムのヤンガー・ブラザー。 【この映画のストーリーを裏読みしてみた】
世の中を、”裏で”謎の組織が操っている…。
みんなの大好物の話だ。
「アンダー・ザ ・シルバー・レイク」でも描かれた、このトピックだが、差し詰め、このフリー・シティのモブキャラと、ゲーム開発者やプレーヤーのいる実際の世界は、逆説的に、そんな関係だろう。マトリックスにも通じる世界観かもしれない。
でも、本当は、ゲーム世界を支配してるように信じ込んでいるプレーヤーこそが最も開発者に操られているのだ。
そう、実生活でのモブキャラは、プレーヤーかもしれないのだ。
AIで自我に目覚めたモブキャラは、僕達自身かもしれない。
飼い慣らされた日常を少し見直してみるだけで、景色は全然違ったものになるのだ。
ネット社会に蔓延るヘンテコなオピニオンリーダーの発言に耳を塞いでみたり、烏合の衆から距離を置いてみたりするだけで、世の中はだいぶ異なって感じられる気がするのは、僕だけじゃないと思う。
ゲームの世界でドンパチをしたり、ネットの世界で誹謗中傷して、ウサを晴らしたところで、実は何も変わらない。
一時的にストレスはリセットされても、実世界は全く変化しない。
それどころか、世の中の変化は激しく、実は取り残されてるだけかもしれないのだ。
キャラクターは何度でも甦るかもしれないが、貴方はリセットされないのだ。
このガンが大活躍するバカバカしくも、エモく、そして愛おしい映画のゲーム世界のストーリーを通じて、貴方は大丈夫ですかと問うているのだ。
このストーリーを、そのまま楽しんでくれてありがとう……、でも、それで良いの?って。
リアルは、そして、貴方自身はもっと素晴らしい存在じゃないのかと。
※ 因みに、裏世界の信奉者の最たるものは、Qアノンや、日本でQアノンをサポートするJアノン、ディープ・ステート思想大好きなネトウヨなのだけれど、これは趣旨が全く異なるので除外して下さい。ディリート。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています