【不細工歌下手】宇多田ヒカス【中古でゴミ同然】 [無断転載禁止]©2ch.net
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お前は本場のR&Bを知らないから宇多田ごときが凄かったと勘違いしてるんだ
90年代にTLCの2ndが大ヒットして2000万枚以上売れただろ?
TLC聴いてりゃ宇多田なんて大したことねーよって事実に気付くだろ普通は(というかあんなの偽者R&B)
その後もデスチャやアリシアやネプチューンズなどが大ヒットしてR&Bが著しく進化して売上も最盛期だったあの頃に
宇多田ごときが成功するわけがないのは洋楽好きの間では周知の事実だったわ
まぁお前らみたいなJ-POP育ちには何の話かさっぱり分からんだろうけどな(笑)
あんな中途半端な歌唱力で本物気取りやがって天下のマライアと比べたら宇多田など素人のカラオケと同然で見苦しかったわ(笑) 運営ルール上、邦楽ソロ女板は歌手1人あたり1スレしか立てられないと
決まっているので、ここに移動して書き込みむのは禁止です
アンチスレや噂スレを個別に立てるのも厳禁
トップページのルールを一読して音楽サロン板などに移動してください
叩き荒らし目的やスレ潰し目的ではない人は本スレへどうぞ
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1486880599/
>邦楽(ソロ女)@2ch掲示板
>
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(専門板※があるアーティストを除く)の情報のうち、 本スレのみを扱う板です。
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アーティストの叩き・中傷目的で個別にアンチスレを立てないで下さい。 胡散臭い女性歌手日本代表
屁が臭い女性歌手日本代表 宇多田はかまってちゃんだから引退なんかしないだろうな
休業中だってあのざまだった 本スレで父母と現夫の話を出された途端にヲタが大発狂しててワロタ
親族の話そんなにタブーなのか? 邦楽板の本スレ1スレのみ、アンチスレ厳禁で他板に立てるルールすら守らず
何年も板移動せず粘着を続ける自演キチガイを受け入れるスレは無い >>7
藤圭子はヒカルと照實が追い詰めて殺したようなもんだし
歌唱力を向上させる努力を全くせず怠けていたヒカルに苦言を呈したのも母だから
母の話は耳が痛くて邪魔なんだよ 晩年に「ヒカルは冷たい」と娘の本性を暴露して死んでいったし
デビューしてから現在に至るまでずーっと
母の方が美人、母の方が歌上手いと言われ続けて
本人もキモヲタもコンプレックス拗らせてるからね キモヲタの安室叩きが酷いw
歌って踊れる目の上のたん瘤だった安室が引退して歓喜だろうな豚駄も >>7
宇多田はヒモ旦那と息子とタカリ親父と親父の愛人を養わなきゃいけないから
引退せずまだまだ活動してくれるね良かったねと書かれたら火病起こしたのかw
事実じゃん 格下のヒモ男と結婚して中途半端に休業と復帰を繰り返すのは母も同じだけど
美貌と歌の才能は遺伝しなかったね 宇多田自身が母親のことを「何も出来ないおばさん」と罵ってたから
基地害ヲタも同調して母親を憎悪してる
母親がいなければデビューすら出来なかったのに 実は、すでに本誌が2000年6月号の特集記事でも報じているように
宇多田ヒカルが大ブレイクして以降、その仕事を一手に仕切ってきた照實は
藤をないがしろにするようになっており、その関係は破局寸前だったのである。
「照實の浮気相手は、『U3ミュージック』で経理などを担当していたスタッフのMって女性なんだけど
ホテルでの"同棲"が藤にバレてしまった。
それでキレた藤がマスコミを使って反撃に出たんだ」(前出・スポーツ紙芸能記者)
2000年、宇多田照實氏の元愛人と騒がれた事務所の元社員のMさん(27)が
実は人気AV女優 鏡樹里亜だったことが発覚した。
現在はすでにMさんとは別れているというが
また新しい若い愛人ができ、滞在先のロスに連れていっているようだという。
東芝EMI関係者のコメントとして
「愛人を作るのは勝手だが、愛人の“お手当て”をレコード製作費でまかなうのはやめてほしい」
照實氏はヒカルのシングルCDが出るたびに、 5000〜6000万円を要求するそうで
「曲が売れるのでメーカーは何も言えないのが実情。
レコード製作費の一部が私物化している」という。 テルザネは若い愛人が作ってくれる手料理をツイで長々と自慢してたよな
テルザネと愛人の間に子供ができたらそっちも養わなきゃならなくなるけど頑張れ 宇多田は藤圭子を死に追いやった張本人だから
藤の話が目障りなんだろうけど
あらかじめテンプレに親族の話禁止と書いておけばいいのに 幼い頃から勝手に家を出ていって帰ってこない人が自殺したのが娘のせい
さすが違反スレ立てで暴れまくって妄想三昧だな
しかも離婚してた20年前の愛人騒動云々は宇多田の親が公式HPに
正式コメント出してるよ 格下の夫ではあるけど現在は大学卒業して宇多田より高学歴なんだよね
宇多田は何だかんだと言い訳してコロンビア大学の勉強について行けなかったからカッコ悪い
人間活動()のサイチュウにコロンビア大に復学するのかと思いきや、ただ男と遊んでただけだし
母親が娘に幻滅するのも分かる 独身の金もある後期高齢者のじいさんが恋人が何人いようがいいけど
離婚していた大昔に名前の出たAVの人の話はとっくに本人が公式にコメントしていて
製作費関連は全て嘘で、とっくの昔に何度も論破されている
>95 名前:名無しの歌姫:2015/12/26(土) 14:00:08.56 ID:sL9iJTI00
>延々貼ってるのが14年前の東スポ()ソースで架空の関係者()記事だしね
>「レコード製作費を要求」って空想で書いてるのが丸わかりで
>原盤がEMIにあると思い込む東スポとアンチしか考えつかない発想だね
>
>
>他歌手と違って、宇多田はEMIで出した全作品の原盤権を持ってるから
>「レコード製作費」は原盤を作ってる宇多田側がEMIが支払う物
>ましてや要求などないない
>
>
>94 :名無しの歌姫:2015/12/26(土) 13:46:17.80 ID:PmJHCRJv0
>
>家族に精神病患者がいて、その人らしく過ごせる環境作りに苦慮してる事は
>7年以上も前に宇多田が名前を出さずにブログに書いているもんな
>本人が嫌がれば強制入院もできないし家族の距離感は難しい
>
>藤母は1978年に芸能界引退して渡米する前から親族とは揉めてる
>藤母の実母(ヒカル祖母)は元夫側と40年前から絶縁したままで
>藤さんも実父と絶縁してるし複雑な家庭すぎて他人の知る所ではないわ 日本のここが嫌い、あそこが嫌い、
海外ではこうなのに日本はダメだよね、と反日発言ばかりするくせに
欧米では売れないので結局日本に出戻って
日本人相手に手っ取り早く稼ごうとする乞食根性がみっともない
そんなにイギリスマンセーならUKチャートTOP10に入ってみろよ >日本が大好きと日本語詞の曲を作りまくってるけどマスゴミのいる日本で
穏やかに子供を育てるのが難しいのは当然
日本が少子化で支援が遅れてるのもその通りで反日では全くない
マネージャーがいないと何もできないオバサンにならないようにと言って
20代後半で休業したのが母親のことだと発狂
なんだアンチも藤が何もできないと認めてるんだなあ
娘が病気したり離婚して多忙で悩んでいても金使いまくって散財して
藤に会ったこともない週刊誌の妄想記事に「娘に相手してもらえてない」と読んで発狂 母親が死んだ直後に嬉しそうにタバコを吹かしてる写真が衝撃的だった 照實の不倫記事が出た時
鏡樹里亜の出演AV一覧も一緒に載っていて
女性器の中まで小型カメラを突っ込んでさらけ出すハードなプレイもやっていて
その時はさすがに宇多田可哀想と思ったわ
宇多田はそのAV女優を実の姉のように慕っていたとか わざわざアンチスレに乗り込んで
長文で亡くなった母親を中傷するキモヲタ
醜い 藤圭子の美貌と歌唱力には勝てないね、ってレスを注意深く避けてるのが笑える 妄想米ぬかのIDコロコロ連投すごいね
違法スレ立てでID変えまくって暴れてるような輩だからスレ潰してもいいよな
>母親が死んだ直後に嬉しそうにタバコを吹かしてる写真が衝撃的だった
自殺の過熱報道とメディアスクラムで、すぐ日本を出て英国に戻っただけ
今の夫や友人に食事に誘って貰って励ましてもらったら何が問題?
米国と違って喫煙者の多い英国だし室内でタバコを吸ったら何が問題?
休業前までウタダ喫煙してないと言っていて休業中は自由にできたんだよ
本人が「親や身近なスタッフも吸ってて音楽業界は喫煙者が
凄く多いけど、自分は喉が弱いから吸えない」と言及もして
親の喫煙に不満を言ってたからな
家族が自殺した人は立ち話で談笑したら駄目だと批判するのは基地外だけ
海外まで追いかけて外出する待って盗撮するマスゴミが気持ち悪いだけ
>出演AV一覧も
>宇多田はそのAV女優を実の姉のように慕っていたとか
宇多田は面識無し
デビュー当時に適当な報道が満載で、長年ずっと離婚しまくっている
夫婦のトラブルで書かれた東スポ報道のAV女優との関係もないと公式発表済
しかも18年も前の話 ↓答えられない箇所は注意深く外すw
>>22
欧米では売れないので結局日本に出戻って
日本人相手に手っ取り早く稼ごうとする乞食根性がみっともない
そんなにイギリスマンセーならUKチャートTOP10に入ってみろよ >宇多田と父親は藤を追い出す
これも完全に嘘w
いつもの夫婦の揉め事だと宇多田の母親自身が話して当時記事になってる
13回も結婚離婚だけど、書面上をのぞいたらその倍以上はあると母親本人が話してる
両親が揉めて母親は出ていって一家離散で、17才から宇多田は仕方なく1人暮らしで
宇多田は母親を追いかけて高校卒業した18才からNYで一緒に暮らしてる
ブログにも2人で暮らしてた生活の様子を書いていて動画も公開してる
卵巣手術で休業したり19才で結婚して日本に拠点を移すまではね
逆に父親とは17才以降、一度も同居してないし、休業の数年前まで
仕事以外の話を全くしない関係だと度々発言している
もしも親が17才の思春期の娘と揉めることがあったとしても
海外で娘の金で散財して自殺したのが17才の娘のせいって意味不明w
20代前半を最後に週間チャート100位に一度も入らず亡くなった母親の
演歌ファンで宇多田のファンやってる人など殆どいない
そして母親が綺麗で歌上手いというのは宇多田本人がずっと言い続けてること
>欧米では売れないので結局日本に出戻って
ファンが日本に沢山いて活動再開を待っているのに仕事したら乞食?
海外に別荘あったり海外にも住む日本ミュージシャンなんか腐るほどいて
リリースもしてるけど、みんな宇多田より遥かに欧米で売れてませんよw
で、ソロアーティストでUKトップ10に入る日本人歌手など存在しないし
宇多田が休業して海外行ったのはメディアに追いかけられる日本と違って
静かに普通の暮らしができるからで仕事と一切関係なし 米ぬかは自分が精神病で貧乏で家族から見捨てられてるのを
大金持ちで家族から心配され続けていた藤圭子と同じだと思い込んでるからな
親の精神不安定さとの付き合いに苦しんできた1人娘の宇多田が
母親を嫌ってるという妄想逆恨み
>20年も会ってない親族や、30年以上も藤さんと会ってない業界人が何を言おうが
精神病なのは本人の発言、周りの発言、デビュー当初からの母親に関する発言でも明らか
警察も藤さんが向精神薬の服用歴があることを認めて具体的な話は言葉を濁している
亡くなる2年前にも藤さんに呼び出された親しい担当記者も具体的に病名も書いている
523 名前:名無しの歌姫
米国の空港で現金5千万円が没収された2006年、藤圭子本人がテレ朝とフジに
自ら連絡して、パスポートを見せながら超早口でまくしたてたインタビュー内容
・私はファーストクラスの飛行機とホテル代だけで5年間で5億円以上は使った
・モナコ、アムステルダム、パリ、メルボルン、シドニー、ネバダ、コネチカット、
カリフォルニア、ニュージャージーとか世界を旅してる、ホラ入国してるでしょ
・ここ5年間は日本に帰っていない、夫の連絡先も知らない
・私は重病で原因不明だけど、目が見えにくい、背中も足も全身が痛い、
全く眠れない、24時間吐き気が酷い、頭痛も熱もあって私は重病なんです
・カジノでは現金5千万円を持ち歩くのが当たり前なんですよ
・歌手は引退した、藤圭子の名前は商売に使っただけでもう捨てた、私は純子
>合衆国連邦捜査局が発表した海外配信の記事に2006年の事件の詳細が書かれている
>藤さん(宇多田純子)は空港が叫んだり異常行動が見られ、空港職員に声をかけて
>支離滅裂な回答を繰り返したことから現金押収に至っている
>
>「現金を引き出した貸金庫は3年前に借りた」→「証明書で数ヶ月しか経ってない」
>「現金は慈善団体に寄付するために引き出した」→「寄付先を答えられず」
>「1万ドル以上カジノで儲けた」→「カジノのレシートを見ても表記なし」
>「私は重病だ」→「病名も治療内容も言えず、ドクターや病院の情報すら言えない」
>「別居中の夫と音楽ビジネスやってる」→「夫の連絡先を言えず」
http://www.thesmokinggun.com/documents/crime/japanese-pop-queens-mom-fights-dea
http://www.thesmokinggun.com/file/japanese-pop-queens-mom-fights-dea
2010年に担当記者を呼び出したときも「10年ぶりに帰国したが夫と疎遠」
「パニック障害と診断された」と言って、大量の現金を無造作に持ち歩いてた
病気でも自由に旅行して、大金あって誰でも会えるけど、親族と20年絶縁したまま
芸能界で実生活でも親しく交流する人もいなかったのは事実だな
>家族に精神病患者がいて、その人らしく過ごせる環境作りに苦慮してる事は
>7年以上も前に宇多田が名前を出さずにブログに書いているもんな
>本人が嫌がれば強制入院もできないし家族の距離感は難しい
[自分らしく]2008年11月23日
最近、健康のこととか、心身のケア、の話なんかしちゃってますけど。
なんで「私は、私らしくいられるように必要なだけのケアをしたい」って言ったかっていうとね。
「健康体」ってなに?と思うの。私には分からない。なにが「普通」なのか。なにが「正常」
「健康」なのか。なにが「異常」、「不健康」なのか。ある程度さ・・・病気や障がいは、
その人の個性、という見方もできるんじゃないかな、と思うの。「異常」とかではなくてさ。
それは、私が幼い頃に目の見えないおばあちゃんと育ったり、若くして難病を発症したファンと
交流したり、身内に精神病をわずらう人がいたり、私自身病気したり、そんな経験があるから、
思うことなのかもしれない。その人が、その人らしく生きられる環境を作ること。それが大切だよね。
まず、病気でも障がいでもなんでも、それを含めての自分なんだっていうことを、
まわりが受け入れて、理解するように努めてくれたら、本当に嬉しいよね。
なにより、自分自身を受け入れるところから、「治療」が始まる気がするな。 ・藤は美人なのに宇多田はブス
・藤は歌上手いのに宇多田は下手
・コロンビア大学の勉強について行けなかったヘタレ
・欧米では売れないから嫌いな日本で出戻り商売するヘタレ
キモヲタでも認めざるを得ない事実 34名無しの歌姫2017/09/21(木) 17:57:01.76ID:o9U3k7yP0
・藤は美人なのに宇多田はブス →藤に興味ある人はいない
宇多田ファン層は10年前の大金押収事件のインタビューまで見たことない人が大半
・藤は歌上手いのに宇多田は下手 →藤の歌に興味ある人はいない
・コロンビア大学の勉強について行けなかったヘタレ →ただの低学歴米ぬかの妄想
・欧米では売れないから嫌いな日本で出戻り商売するヘタレ →
ファンのいる母国で休業明けに仕事するのがヘタレとか言い出す意味不明さ
欧米に不動産があって海外によくいく日本のミュージシャンは多いが
誰も宇多田以上に売れてないうえに、宇多田が海外に住んでるのは仕事関係なし
スタッフと離れて自力で暮らせるようになりたくて海外に行ったんだから
キモい妄想米ぬかアンチ婆でも認めざるを得ない事実
501 名無しの歌姫 sage 2017/09/16(土) 08:54:05.90 ID:rHaV8hOQ0
16歳でNYの自宅に帰った母親と同居する為に自宅から通える大学に進学しただけ
日本と米国行き来して超忙しく仕事して精神バランス崩して、腫瘍できて手術して休業
休業中に19歳でスピード婚して日本拠点に戻して仕事再開して中退
という朝から10余年前の本業と無関係の糞どうでもいい顛末だが今さら何?夢でも見たのか? アメリカは大学は入るのは簡単で卒業することが難しいんだから
その言い訳は通用しないよ キモヲタがどんなに擁護しても
アメリカで無様に失敗したブスである汚点は消えない 馬鹿かよ米ぬかかよ
残念ながらコロンビア大学の卒業率は95%と超えていて日本の大学以上
アイビーリーグの大学は入るのがスゲー難しいから
金持ちでもハリウッドセレブの子息でもなかなか入れないけど
コロンビア大学は卒業するのは難しくない
日本と往復して学校に通うには仕事や手術があってムリだっただけ 628名無しの歌姫2017/09/21(木) 18:15:16.61ID:Dx96pJ/H0
コロンビア大の講義中に教授に怒られて
教室から追い出されるほどの落ちこぼれだったから中退せざるを得なかっただけ 宇多田は日本のバカヲタを騙してしか稼げないんだから日本に住んで日本に税金納めろ 宇多田は日本で税金払ってるけど税法すら理解してない馬鹿だもんな米ぬかは
日本で得た収入は全て日本で納税される、これ納税の基本中の基本 631 名前:名無しの歌姫[sage] 投稿日:2017/09/21(木) 18:27:00.55
インド人の教授の講義を馬鹿にして級友と私語しまくってたら
ここはカフェじゃないんだ、出ていけと罵倒されて教室から出された話は本人がしてた 安室の引退報道でどのTV局も
「安室さんがナンバーワン」「安室さんが女王」「安室さんこそ平成を象徴する歌姫」と絶賛してるから
豚駄キモヲタの発狂が激しいね 42名無しの歌姫2017/09/21(木) 18:34:47.67ID:o9U3k7yP0
631 名前:名無しの歌姫[sage] 投稿日:2017/09/21(木) 18:27:00.55
インド人の教授の講義を馬鹿にして級友と私語しまくってたら
ここはカフェじゃないんだ、出ていけと罵倒されて教室から出された話は本人がしてた
という妄想
嘘を100回かけば本当になると思ってる妄想馬鹿米ぬか Can You Keep A Secret?でMステに出た時に喋った話だよ
ガチで認知症なんだな、キモヲタ童貞爺
そのインド人の教授が変なターバン巻いてておかしかったとか人種差別発言もしてたぞ >>633
学生時代に授業中にお喋りされて怒られたならアイビーリーグの大学生は
全員怒られてるし、学生時代の思い出で腐るほどある話
それで退学させられた空想とかどこの保育園だよ
コロンビアの教授は学生を指導して卒業率を上げるのが主たる業務な
コロンビア大学は合格率7%の超難関だけど卒業率は95%を誇る大学
働きながらでも卒業する意志さえあれば時間をかければ卒業できる
卒業したら社会的に高い評価を得られるが、宇多田の仕事に特に役に立たない
無理して米国と日本を行き来して通う価値がないと行ってみて選択するのは本人の自由
http://blogjapan.collegetuitioncompare.com/2017/01/columbia-university-in-city-of-new-york.htm 心理学のインド人教授をおちょくって教室からつまみ出された話は週刊誌にも載ったのに
ID変え変えジジイは本当にファンなのかね 学生生活について聞かれる→クラスメイトとお喋りして教授に怒られた→
→教授が中退させた妄想→私語で中退させる馬鹿私大があると思い込む米ぬか
実際は日米を往復して仕事しながら手術の療養で休業していた宇多田は大学に
さほど魅力を感じないと米国拠点の学生生活をやめて結婚して日本拠点に戻した
コロンビアは入学は簡単だけど卒業は難しいから勉強がついていけなかったんだ
→真逆、コロンビア大は
合格率7%の最難関だが卒業率95%で本人の意志さえあれば卒業できる手厚い大学
米ぬかのID変えまくりの100連投は過去の宇多田スレで散々出ていて自己紹介
米ぬかアンチの空想は何一つ当たらない
そして20年近く前のネタを昨日のことのように語る精神障碍者の特徴満載の米ぬか
そういえばPINKレディー?とキャンディーズ?どうこうと書いてた痴呆症の婆だったな インド人教授を馬鹿にしたエピソード、リアルで目に浮かぶ
日本でも一般人を無許可で撮って公式サイトに載せて晒し上げて笑い者にして喜ぶ
性根の腐ったブスだから
http://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_10.html
2009.02.23
おっさん(笑)
私と一緒の経路で、梅を撮影してるおじさんがいて、
ちょっといい景色のところで写真をとろうとすると
そのおっさんがどうしても映り込むというパターンに(笑)
おっさん、気持ちは分かるが私も(ケータイでとはいえ、一応このサイト用に)撮影しようとしてるんだから、
一瞬どいてくれてもよくないか(笑)
「おれは脚立も使ってちゃんとしたカメラで撮ってて、
ケータイで写メしてる小娘とは違うんだからどく必要はない」オーラがすごかった
2009.02.23
ここでもおっさん
っていうかもうここまできたら私もヤケになって、
おっさんを撮影することが趣旨になってきたところです
なんかいい感じ(笑)
おっさん乙w ID変え変えジジイが必死に連呼してる米ぬかって奴と
ブス田ヒカスの文体が似てて笑える 8年前のブログwwwwwww
しかも軽口をたたいてるだけのブログ
米ぬかじゃない、ただのファンスレを荒らしてる単発キチガイアンチだと
告白しようとどうでもいいんだよ
大学生が注意されようと中退には何の関係もないから諦めろよ 9年前に梅の花を撮りにいって、おっさんと被って写真が撮れなかった笑い話
17年前にのときの学生時代に雑談していて教授に注意されたよくある話
そんなブログを読みに行って発狂して、教授に退学させられたという
意味不明な空想語りする米ぬか
とりあえず本スレ1本しか立てられないアンチスレ立て禁止のこの板で
何年も居座ってルールも守れないキチガイは、板移動いつするんだ? 藤圭子の美貌と歌唱力を少しでも引き継げれば良かったのにね
ブサイクの歌下手くそ 大学生にもなって大勢の学生の前で教授から怒鳴られて教室から弾き出される
一般人を盗撮した画像を8年以上も晒し上げて嘲笑
ブスの上に人間性も最悪
本当に安室の足下にも及ばない 54名無しの歌姫2017/09/21(木) 19:19:38.02ID:5Hvgib2c0
大学生にもなって大勢の学生の前で教授から怒られる→欧米の有名大ではよくあること
梅写真にオッサン映り込んだ写真しかとれなかったお笑いネタを8年間も発狂
宇多田ファンは関心がなく誰も買ってない藤藤と連呼
その藤が亡くなるまで宇多田の才能を絶賛して娘を愛してたことに発狂するアンチ
精神病ブスの上に人間性も最悪で2ちゃんの邦楽板ルールすら守れない
本当に安室どころか人間の足元にも及ばない精神病の宇多田アンチ >>22
宇多田と違って欧米でコンサートを成功させているX JAPANとBABY METALのメンバーは
日本の悪口なんて言わないもんな
成功する人間と失敗に終わった豚の差 Xジャパンwww
米ぬか婆はずっとX連呼していて大好きだよな
宇多田と全く関係ないバンドやアイドルグループを応援してこいよ
子育て環境を話すのが日本の悪口だと思い込む高齢独身のメンヘラ婆は
Xスレに帰るなり、日本歌手が海外リリースしたランク圏外の売上妄想してこい 大学生にもなって大勢の学生の前で教授から罵倒されて
変質者扱いされて教室から隔離されるなんて
よくあることじゃねえよwwwww明らかに異常だよ
メンヘラ豚駄を擁護するのも大変だな 豚駄と違って世界で成功しているXJAPANとベビメタを僻むID変え変え孤軍奮闘ジジイ
悔しいのう
悔しいのうぅ Xジャパン信者で浜崎大好き米ぬか婆のまとめあるよ
>・当板で異常な宇多田叩き連投するキチ『米ぬか』まとめ1
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
米ぬかは「宇多田より自分の方が歌が上手い」「初期はマシだが18歳以降の
宇多田の全てが大嫌いでアンチ」と誰も興味のない自分語りと叩き連投をする
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突然Xスレ話をはじめて、異常連投で叩きしかしない自分を正当化するが
18歳以降の宇多田と、復帰後のXの評価に何の関連もなく、まさに意味不明
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
親族全て日本人で出自が明らかな宇多田を朝鮮系米国人と連投し論破される
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1453321088/262
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1453321088/263
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1453321088/264
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
重国籍で日本で脱税してると低能無知を晒し発狂し「日米租税条約」を教わる
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1453321088/272
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「このファンスレで叩き連投を嫌がる宇多田信者は2chから出ていけ」と喚く
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
脈絡なく無関係の『他歌手』の名前を挙げて、宇多田を叩くのも大きな特徴
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「メイジェイ」「AKB」「JUJU」「西野かな」「浜崎」「あゆ」「神田沙也加」
「ケイクラ」「アデル」「ジャニ」「嵐」など手あたり次第に名前を挙げる
>宇多田の鬱でキモい歌詞より西野カナの方が歌詞もマシ
>アデルが好き、アデルが圧勝、暗い曲でも豚田とレベルが違いすぎる
>英語は分からないが、アデルの作詞の質は「歌詞カード」で分かる
>西野カナ、JUJU、メイジェイの方がよっぽど歌が上手い
>神田沙也加は七光りでも努力が認められてる、宇多田に爪の垢飲ましたい
>愚痴とサビでギャアギャア泣き叫ぶ宇多田曲を聴く人は鬱でおかしい人だけ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
信者ネタ連発を指摘されて弁解連投して以降、浜崎の名前を出す頻度が急減
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
このスレで他歌手の批判レスは無いが、米ぬかがネットの何処かで
「宇多田ヲタが他歌手を叩いた」と住民に八つ当たり発狂を続けている
>宇多田信者は、浜崎、西野カナ、メイジェイ、AKB、ジャニを馬鹿にしてる。
>宇多田をアーティストだと勘違いして、浜崎を馬鹿にしていて許せない。
>他の歌手を馬鹿にして宇多田マンセーしてる(「マンセー」を連呼)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「叩かれてるというスレで直接言ってこい」と促されるが全く聞かない
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
そして他歌手を叩き出す(当スレで他歌手の名前を出すのも叩くのも米ぬかのみ)
>売り上げ=質なら今一番質の高い音楽やってるのはAKBとジャニだなw
>じゃあ宇多田よりAKBジャニが上ってことで良いんだな?
スレ民は「AKBやジャニが上でいいよー」「それでいいぞ売上もどうでもいい」
「全ての人が宇多田より上でいいからファンスレから出て行け」という結論
当スレ住民は「宇多田の歌が好きなだけで他歌手との比較に全く興味なし」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
米ぬかの特定ワードは、過去スレの浜崎信者による連投叩きと共通点が多い
情弱無知を晒したり、過去に西村の糖質妄想を擁護していた点も共通している
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
過去スレで浜崎信者を名乗った連投荒らし基地まとめは、以下を参照
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1449572231/6-9
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1449572231/14 >・当板で異常な宇多田叩き連投するキチ『米ぬか』まとめ1
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
平日も休日も常軌を逸した叩き連投で、四六時中貼りつく自称30代女の無職チョン
邦楽板のIDランクで1位常連の異常連投で、宇多田を叩くのが唯一の生き甲斐
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
俺呼び自称ネカマ無職の高齢BBAで、ひたすら宇多田叩きの即レスでスレ民の会話を妨害する
切ればIDが変わるwifi+固定IDでスマホから自演擁護や連投するが半コテで即効バレる
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
変な草や死語のネット用語「おk、〜乙」等を多用、半コテ全開で以下のワード連呼
「宇多田ヲタ、信者、マンセー、糞スレ、18歳〜、メンヘラ、豚、整形、?、w、!、=」
「枯れた、ヒモ、才能、AKBジャニ、歌下手、音痴、ブス、不細工、父、母、親、ザネ」
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ID変えがバレて以降、ID切りまくりの単発で異常連投して米ぬか用語で宇多田叩きを続ける
IPスレでWiMAX2とスマホで米ぬか用語連投して宇多田叩きしているのが完全にバレる
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「宇多田ファン用スレで宇多田叩き連投を嫌がる信者は2chから出ていけ」と発狂
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叩きと荒らしと妄想連投しかせず「アンチスレに行け」と言われると逆ギレ
「レッテル貼り、人格攻撃、コピペ荒らし、コピペ基地、否定的意見、客観的に」
を連呼しながら「ファンの数、売上」など数字に固執し、復帰後の妄想で発狂
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精神病で社会復帰できず、当スレが唯一の居場所だと思い込んで異常執着している
日本で十数人しか来ない当ファンスレに宇多田ファンが1人でも来ると即レス発狂
→SNS等に数百万人いるファンに関心がなく、当スレのみが世界の中心だと思い込む
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毎日12時間以上も大量連投を続け、2ちゃん廃人だと指摘され『明日は仕事』
『友人はいる』と弁解→翌日も数分おきの大量連投で、もはやコント
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女を名乗るが同IDで「俺」と何度も書いていると指摘されて苦しい弁解
>そのレス俺のじゃないもん>西村とかいうやつとは別人です女だしw
>俺って書いたけどネナベwその方が通りやすいからね。
>女の証拠みせましょうか
>写真は嫌なので使ってる化粧品は米ぬか美人っていう奴です→『命名:米ぬか』
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焦るあまり、米ぬかは大量連投のスマホIDの他、WifiでID変えまくりの
複数ID持ちだとバレる (叩いて「同意」と自作自演するのが定番)
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米ぬかの書き込みID遍歴の一例
489 :2015/12/12(土) 17:44:48.13 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか29レス目)
491 :2015/12/12(土) 17:50:17.59 ID:qt4eDfNr0 (※別IDで1レス目)
501 :2015/12/12(土) 18:06:59.94 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか33レス目)
504 :2015/12/12(土) 18:14:46.21 ID:qt4eDfNr0 (※別IDで2レス目)
写真は嫌なので使ってる化粧品は米ぬか美人っていう奴です
506 :2015/12/12(土) 18:21:12.44 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか34レス目)
わかんないけど勝手にID変わった、米ぬか美人って化粧水愛用してます
508 :2015/12/12(土) 18:23:27.02 ID:zpkE9l4J0(米ぬか35レス目)
518 :2015/12/12(土) 19:58:07.86 ID:tUsmWriK0 (※また別IDで1レス目)
安物使ってると思われてもいいけど実際女だからw
520 :2015/12/12(土) 20:09:23.83 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか40レス目)
521 :2015/12/12(土) 20:10:05.50 ID:tUsmWriK0 (※また別IDで2レス目)
522 :2015/12/12(土) 20:11:38.17 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか41レス目)
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『勝手にID変わった』と言い訳して元ID使って失笑される
複数ID持ちの自演以外に自由自在にIDが変わる事はあり得ない
ここからWIMAXでID切り替えて単発連投しまくるようになる XJAPANとベビメタに負けている現実について言い訳できないので
米ぬかとかいう仮想敵の話にスライドして話題そらし ブタダのこれまでの失言の中で一番笑ったのは「私は日本のブリトニー(キリッ!!」って迷言
あんなにデブスなのに自分はブリトニーと同等だと思い込んでた厚顔無恥のブタダ >・当板で異常な宇多田叩き連投するキチ『米ぬか』まとめ3
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浜崎ヲタしか知らない情報を語り「浜崎の方が凄い、宇多田ファンは浜崎を馬鹿にしてる」と発狂
→米ぬかが当スレで大量連投してきた「宇多田の1stアルバムの売上300万ガー、浜崎の資産ガー」
「生楽器のゴーストガー」「宇多田の脱税ガー」「パチ屋買いガー」「宇多田は英語話せない」
「宇多田は朝鮮系」などは全て論破される
→その結果、17歳以降の宇多田曲は鬱で駄曲しかなく18歳以降の宇多田の全てが嫌いだと
方向転換して、大量連投(1日30〜100レス)で宇多田を叩きのスレを潰しを続けている
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本スレ板に乗り込んでが、ひたすらヒモ愛人ザネを連呼の発作を起こすのが定番
その他、脳内妄想で宇多田を叩き、実母本人が話したソースが貼られると中傷だと発狂
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何度リリースしても欧米ランク圏外のXを引き合いに出し連投して笑われる
宇多田とジャンルもカテも何もかも違う10代のメタルアイドルグループの名前を連呼
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宇多田母は1969年にデビューし1972年以降、チャート100位圏内に一度も入らず
娘の売上に何の影響もないと米ぬかは知らず、宇多田叩く目的で名前を使う
引退した昭和歌手に興味があるなら懐メロ板に行けと言われるが止めない
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宇多田は休業前の5年間で3枚のオリアル、30曲以上も作ってヒットし超順調
休業は15才から囲まれてきたスタッフと離れて自活が目的だと説明されるが
米ぬかは「才能枯渇、ネタ切れ」とひたすら大量連投するのも超定番
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その他、宇多田が一度も有料ファンクラブを作らず、無料ブログを続けて
ファンの囲い込みをしないのは「ファンや世間を馬鹿にしてる」と叩く
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ジョークも通じない真性キチで、脳障害があるので10年以上前の妄想で発狂する
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全て論破され「編曲を自分でやるから素人の曲」や「金持ちになって宇多田は
世の中を馬鹿にして性格が悪くなった」と主観と妄想全開の叩き連投中
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強制IPコテハン表示できるワッチョイが各板の本スレで進み、導入を期待する住民に
「強制コテハン反対、絶賛意見はTwitter行け」と自演連投するのも定番
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・米ぬかについて詳細は以下を参照
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1459645377/527
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1459645377/528
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1459645377/529
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・米ぬかのヤフコメID(他にもヤフー複数垢あり)
等質裁判が勝訴した妄想、浜崎の方ガーと必死に妄想ガセを垂れ流して宇多田叩き
http://person.news.yahoo.co.jp/profile/lKWQ7iybf2TSJHe_PgrhPtkwRwKN/comments/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ Xやベビメタは生歌で勝負ライブで勝負出来るけど、宇多田は歌下手くそ過ぎるからね 完全に詰んで売上の次は生歌ガーというお馴染みのアスペルガー連投な
でも米ぬかがここまで発狂連投するのは1年振りかな
前は米ぬかが毎日100連投とかしてたけど浜崎とXとキャンディーズだけではなく
安室も大好きだったんだろうね
スレ荒らして違法スレで10数年前の妄想ばかり何年も連投したところで
宇多田の人気にも売上にも一切影響が無く、米ぬかが生きてきた人生は無駄w >>66
トシやスーメタルに歌唱力で宇多田が完敗してるから、何も言い返せないのねw
涙拭けよ トシwww
スーメタルwww
宇多田ファンはメタルやロックバンを求めてないし歌上手い人は五万といる
声楽と違ってポップスは好み問題だからトシと叫んでも無駄
Xスレ帰るか違法スレ立てずに板出ていけ乞食 >>68
草生やしても完敗してる現実は変わらないんだな
まともにボイトレしてあの下手さなの? 高校生なら先生を馬鹿にするとかはあるかなと思うけど大学生にもなったらそれは卒業じゃないかと思うけどな。
それ位の年齢で社会人として働いてる同世代がいる事を考えるとね。宇多田の働くと世間一般の働くとは違うよ。
宇多田の場合は若い頃からチヤホヤされた環境にいた訳だし休業中も今も変わる事は無いだろうし
高熱費払っただけで世間を知った様な気でいて偉そうな所は昔から変わらない。
後大学も運転の免許もボランティアとかも言うだけ言って全部中途半端。
やりたくない歌手の仕事させられて職業の選択肢が無かったのは可哀想だけど
コロンビア大学行けたならそれこそ休業中に復学して幅を広げてみれば良かったのに。
若い友達とクラブに行ってバカ騒ぎするよりもよっぽど有意義だと思うけどな。 浜崎ガーベビメタガーXの売上?ガーヒモガー藤ガー
独身の爺さんに愛人ガー学歴ガー10数年前ガー生歌ガー
無職で話し相手もなく365日ずっとコかレを繰り返し言い続ける病気なんだよね
宇多田のファン層は誰かと比べて宇多田が好きという人は殆どなく
歌い上げる歌手やアイドルが好きなわけでもなく宇多田の声や
音楽が好きなファンなので米ぬかが朝から晩まで何年連投しようが無意味という結論 宇多田がトシやベビメタみたいな声なら売れてないね爆笑
>>70
一般企業に就職するわけでもないし一度行ってみて大学は不要だった人が
復学する必要は無い
15で大ヒットしてスタッフのいない環境で生活した事がない歌手が
20代で休業して自力で生活して、メディアに追われない場所で出産育児して
たまにスタッフが待ってる日本で仕事して超多忙
これ以上、あれこれしろと指図すらならアンチこそ働いて子育てでもしろよと 宇多田みたいにライブで勝負出来ない歌手が商売出来るのは日本だけ ここは日本だよ米ぬかチョン
ライブ量産しなくてもたまに歌番組にTでるくらいの宇多田の音楽を聞きたい人が買う
握手券や特典がついてるわけでもなくCD1種売りでも聞きたい人がいる
残念ながら宇多田の歌声が安室でもベビメタでも売れていないから
叩いて比較したところで無意味 YOSHIKIくらい欧米で成功してる人が日本社会の欠点を皮肉るなら
ああそうですかと聞く気になるけど、豚駄じゃなぁ
でもYOSHIKIは決して日本や日本人の悪口を言わない
統失母とヒモ親父に育てられた下品な豚駄と違って育ちが良いから 宇多田ヲタもライブで勝負出来ないことは認めてて草生える トシヨシキ連呼の米ぬか婆、上で言われてるだろ
大嫌いな宇多田に粘着して本スレ板に違法スレを立て続けるキチガイは
大好きなXの欧米の売上でも数えてこいよ
宇多田と年代もジャンルも違って接点もない無関係のロックバンドを
絶賛したところで宇多田ファンはXのファンになったりしないから
ホルホルしたければXスレに帰れ 宇多田はアンチ以外にはライブも評判良いよ笑
昔から無料配信も多くて歌番組も高視聴率で常に生歌だったから
宇多田の生歌を聞いたことなくCD買うファンなどいない
不安定だったり喉の持病で休養も多かったが、宇多田の曲は
宇多田が歌うのが一番良いという曲が満載で別の人が代わりにはならない
米ぬか婆さんが暴れたところで意味なし ちょっと海外で暮らしただけで
通ぶってドヤ顔で日本の悪口をベラベラ喋るのは安藤美姫と同じw
安藤は落ちこぼれブタダと違ってちゃんと大学卒業したけど >>78
それはお前が悪い評判を「アンチ」と認定して見ないことにしてるだけだろう 海外の子育て話で日本の法整備の遅れを少し話せば日本の悪口?
日本の良い所と言いまくって、休業中の震災にも8千万円の現金を
日本赤十字に寄付して日本で納税してる宇多田が日本嫌いって無理やりすぎる
あと米ぬか無職のメンヘラ婆は昔から全く同一の叩き連投しても
毎回同じ返しをされて完全に詰んでるし時間の無駄じゃね
せめてアンチスレ板に移動して米ぬか婆は死ぬまで宇多田叩きを続けたら? 基地外アンチによる悪い評判ー客観的にー否定的意見ーだっけ
スレ立て違反で該当板に移らずにゴネる基地外の妄想が批判されるのは当然
嫌なら板移動しろよ早く NY在住の矢野顕子も日本人の悪口は言わないし
同じロンドンで子育てしてる高田万由子や今井美樹だって
日本の育児事情をdisる発言はしたことない >>72
別にアンチじゃないんだけどな。
ファンだったんだけど母親の件で不信感が募った元ファン
でも前から人間性が好きになれなかったけど
働く事も育児をする事もそれこそ人の勝手だし
それで価値がはかれるものじゃない
宇多田は音楽にもファン対してもどこか謙虚さが足りないのよな
そこが嫌いなんだよ
だからライブも殆どしないし喉が鍛えられないから
歌も自信持って歌えない。
ユーミンとか中島みゆきのそんなに上手くないという種類の
ものとは違って本当に下手なんだよ。 育児事情を聞かれて答えてのは普通
宇多田は逆に日本のいいところの方が沢山答えてる
そして歌も日本詞ばかりになってきている宇多田は単なる愛国者だから
米ぬかチョンが発狂するのは分かる
18才以降の宇多田が嫌いと15年言い続けてると米ぬかの自己紹介も飽きた
ユーミン中島みゆき、ベビメタ、X
米ぬかは次々と高齢歌手や最近知った歌手の名前を挙げ続けてるが
ポップス歌手を比較して叩くような基地外に宇多田の良さは分からない
というわけで、違法スレを立てずにアンチはスレ移動な 「私は日本のブリトニー(ドヤァ」失言に関しては
さすがのキモヲタも恥ずかしいのか触れないwww
ここまで大宣言しておいてアメリカで鳴かず飛ばずだった恥ずかしい豚駄 宇多田曲をユーミンや中島みゆきが歌っても合わないし逆も然り
休業してようが日本の大震災に巨額寄付するほど日本が好きでと
日本を離れて穏やかな環境で子育てすることを選んだり
再婚相手は人種にも学歴や収入も気にせず気の合う人と
再婚するのも宇多田らしい
要するに米ぬかの長年粘着して発狂してるポイントが意味不明 安室曲がiTunesで上昇しまくりだな
大空で抱きしめては死亡したよな 「私は日本のブリトニー(ドヤァ」
また妄想のキモい婆さんか
当時、宇多田が「キャラも全く違って音楽性も違うのにマスコミが
日本のブリトニーだとキャンパス内で広められたせいで付きまとわれて
迷惑した」と言ってたのを脳内変換 あと蓋を開けてみれば人間活動なんて聞こえは良いけど結局自由気ままに遊びたかっただけなんだなぁと思った
大学に限らず学校に行けばそれこそ色んな人との出会いとかもあるだろうしさ
大学ならストレートで通う学生もいるだろうけど社会人や年配の人もいるだろうし
まあそれを宇多田は求めていないというだけの話なんだろうけどさそれにしたって
休業しなきゃ結婚も育児も出来ないのかね?仕事しながら育児してる人はいっぱいいるけどね。 さすがに作り話を自信満々に語っててちょっと笑う
「日本のブリトニーと言われてどう思う?」「全く違うタイプの歌手ですよ」
と言い続けていた映像は探したら今もつべにあるんじゃねw
因みに09年の英語インタビューでも同じこと言ってるからな 矢野、高田と
海外と日本の育児事情について質問される機会が多いけど
宇多田みたいに日本人の悪口を言ったりしないよ 宇多田は倉木麻衣は私のパクリから始まって
倖田來未の衣装に因縁つけたり
坂井和泉が亡くなった時も小馬鹿にしたコメント出すし
前々から悪口大好きで好戦的
育ちが悪いからね 宇多田のどこが日本人の悪口?
現地の子育て状況を語ってるだけ
そりゃ移民大国で行政介入しまくる欧米が日本より進んでるのは当たり前で
日本も少子化食い止めには欧米を倣うのは必要不可欠
まあ子育てもしたことのない高齢閉経婆の米ぬかには関係ないわな 要するに宇多田は自分でも歌うのが難しいような曲を作ってる時点で作詞作曲する才能が無いともとれる 倉木パクリと言ったのは浜田
しつこく何度も絡まれて「PV見て似てると思った」と冗談っぽく乗っただけ
翌日には宇多田だけが謝罪して、番組が編集されて流されてるとか
意図と違うと説明したのが17才
それに対して倉木側が抗議声明文だして宇多田のせいで倉木が不登校になったと
メディアに発表して宇多田が叩かれまくり
その直後に倉木がアルバム発売して、宇多田超えの歴代アルバム初動記録達成
というのが16年も昔の話
宇多田アンチババアの脳内は10年以上前から停止しているんだよな 倉木の弁護士が抗議文を出したり、宇多田の会社に倉木に謝罪しろって
朝鮮ヤクザが街宣車で何十台も押しかけて連日怒号という展開すぎたよな
17年前を昨日のことのように話す痴呆症米ぬか婆と言われてたけどまさにだわ
因みに放送翌日の宇多田ブログこれな
[2000/06/28]
あらら・・・倉木麻衣ちゃんと宇多田のファンがヘイヘイヘイのことを争ってます??
そげなつもりでながったのに・・・
昔ラジオ局で「ヒカルちゃんに似てるって言われてる子がデビューしたんだけど聴いてみてや」って
感じでテープ聴いた時「うーん?どこが似てるのかな?」と思ったヨ。
んで後々「アーティストとしては似てないけど事務所やレコード会社の仕事の仕方、それと境遇、が
似てるのねー!なるほど!」と分かったわけさ。私はその点はかなりはっきりさせたつもりだったんだけどな。
浜田さんもそういう「業界的」な視点からの意見だったと思うよ。
私も最初はミーシャに似てる〜!と言われたけど今じゃそんな風に思ってる人全然いないじゃん?
麻衣ちゃん(と呼んでいいのかな)も最初は周りに言われたかもしれないけど、もうそんな話とは
関係無い素敵なミュージシャンとして皆に知られてる、と思ってるからこそっ!!私は話にのったのだけれど
私も浜田さんがあんまり積極的にはやしたてる姿には正直びびった!けど、もう話題的に古いし
(浜田さんゴメンナサイ!(笑))、彼女はそんなこともう関係無いミュージシャンだから、
適度にノリつつ適度に否定しつつでトークを盛り上げたつもりだったのですが・・・
浜田さんのあの言い方はひどかったし私も笑いとろうとするべきじゃなかったね。
嗚呼悲しきかな芸人根性・・・
今さあ!私が週刊誌にされたことと同じことを、麻衣ちゃん(んーなれなれしい響きする??麻衣さん??
やだーーーこうなるとなんだか変に意識しちゃうべさー)がされていることを気にせずにはいられないのだが
・・・あの頃私は笑い飛ばしたりしていたが実はかなりつらかった!!
そのー、なんだな、彼女に、もう少しでおさまるから、もし周りの人間に失望しても大事な人が分かるから、と、
んー・・・伝えたい!(何言ってるのかよくわかんない??こんなんじゃ伝わんない??)
オババの大きなお世話かいのう・・・
[2000/06/28]
今日書き過ぎだって?そんな日もあるさ!!さっき書いたことも含めて争いの場にもなるし
影響力すごいなぁ、と思うときがあるけど、今は、なんだかすごくネットが無力な気がしてしょうがねぇ!!
ただ液晶画面の前に鎮座して指先だけの運動してよう。今、朝のニュース(早く寝ろよ・・・)で
三宅島のことを見て、何かできないかと思っても、こんなブログで何を言おうとどうにもならない??
避難所で不安な生活してる人達はパソコンでネットサーフィンできるような状況ではさらさらないわけですし!
どうでもいいようなことの時だけマスコミはこのHPから私の言葉をピックアップするけれど、こういう肝心な時に
限って取り上げてはくれなさそうな気配だよね。
朝方の書き込みが多い理由は、この時間帯になるとナチュラル・ハイになって(というか意識が遠のいてくるから?(笑))
いつもより勇気が出るからという説が浮上・・・こっ、こえーっ!(笑) 「東京では外で赤ちゃんが泣いてたら、すごく嫌な顔される」
「ベビーカーを持って外に行って乗り物とかに乗ると
周りがまったく協力してくれない上に
『なんだよ、こんな時間に』みたいな視線を投げかけられたり、実際に嫌なこと言われる」
どう見ても誇張した日本人の悪口ですwwwww
子連れの女性にそこまで攻撃する日本人なんて希少
ちなみに発言当時は既婚女性板で主婦たちが
わざわざ日本人のイメージを不当に下げて発信しなくてもと怒ってましたわ 東京で子連れで嫌な顔をされたんだろう
実際に日本は子連れで子供が泣けば親の責任で冷たいしな
高齢独身無職の米ぬかが鬼女板で宇多田叩きまくってた報告もイラネ
宇多田は東京が好きで、世界の都市の中でも特に清潔で
住みやすいけど子育てには問題があると言ってるまで
あと必死で叩こうが宇多田の音楽ファン層にはなんの影響もないのが復帰で分かっただろ
時間かけて2ちゃんで連投しても無意味だから、せめて該当板に池 >>99
その発言見た時、随分と民度の低い地区に住んでいる人の体験談だなと思った
照實の娘らしい、いかにもな発言 宇多田は子育て手伝ってもらえる親族は夫だけという特殊な状況だが
乳児連れのアジア系の外国人でも英国では親切にしてもらえてるんでしょ
東京でも乳児と2人きりの母親に社会が関心をもつのは大切なことよ
反日ならわざわざ子育て問題を話したり日本の好きな所を一杯語ったり
活動休止中に多額の寄付したりしないから納税もしてない無職アンチが叩くだけ滑稽 米ぬかはずっと反日だーと発狂叩いてのね
宇多田のように全額日本で納税して寄付もして日本の良さを
熱く語ってもスルーして、海外と日本の子育てで周囲の反応を語れば発狂
しかし宇多田のCD購買客はそんなこと眼中にもなく終了
時間をかけても2ちゃんで連投しても一切無意味な米ぬか人生 ただ自分の周囲にベビーカーに危害を加えるような乱暴なDQNが多いってだけの話を
さも東京都全域がそうであるかのように嘘をつくブタダ
性根が腐ってるから海外でも無様に失敗に終わる 都内に子連れできて英国との違いを話して、日本も意識改革されたらいいんだよ
東京ほど綺麗な街はないと宇多田が言ってるのは聞こえないらしいしな
とりあえず働きも育児もしない無職独身のメンヘラ米ぬかババアは死ねばいい 欧米で売れないからノコノコ日本に出戻ってきた宇多田おばさんが
グラミー賞でも獲らないとアンチは黙らないわな
もしくはXJAPANやBABY METALみたいに欧米コンサートを成功させるか
海外で泣かず飛ばずなのがカッコ悪いんだよ 宇多田の周辺にはベビーカーに乗った赤ん坊をブン殴るような民度の低い輩が多いんだねw
照實の知り合いかなぁ ええ?宇多田も10代のアイドルグループに入ってメタルやれって?
色物路線でもなく海外で成功した日本の女性ソロ歌手って誰?
宇多田より惨敗してる人しか見当たらないんだけど
休業するためにマスコミから逃れて海外行って子育てしてるだけで
2ちゃんのキチガイを黙らすために音楽やる暇人などいないぞ
あと宇多田みたいに震災で自腹きって寄付してる歌手も僅かしかいないねw ベビーカーの子連れに手を貸してくれない人が多い個人主義の東京
ベビーカーの小柄なアジア女に手を貸そうとする移民大国
育児支援は少なくても東京は街が清潔で治安よくて広くて住みやすい
少子化を解決するには育児支援や市民が育児に協力的な街作りが必須
こんなのは当たり前で発狂してザネ藤連呼してる引きこもり馬鹿が異常 外で子供が泣いていたら凄く嫌な顔される
ベビーカーを持っただけの女性に嫌味を言うって一度も経験したことないし見たこともない
どこの被差別部落の話? ベビーカー云々は宇多田の創作話でしょ
豊胸手術受けた人やグラドルを馬鹿にしたツイートもしてたね ロンドンでアジア人種差別も受けているはずだけど
その手の話はしないね
変な作り話で日本人を貶めるのは好きなのに 引きこもり無職婆も他国に行ってみろよ
ベビーカーに限らず、障害者も欧米の方が助けてもらえるからな
日本最高ホルホルするのは自由たが、ボランティア精神にしろ
寄付文化にし習う所は見習えばいいだろ
つかグラドルを馬鹿に?は?
まさかスリーサイズ書かれるのが嫌だというツイの一文? 無職の高齢閉経婆の米ぬかは知らないもんな
宇多田はアジア人が自分だけの私立の女子校に通ってたり
アジア人差別されたことを話してるのたも知らないんだよな
そもそもロンドン市民の半分は移民で養子縁組も大量
小さい女が赤ん坊といたらデカ男が助けるのは日常の国と日本は違うから そんなにロンドンが大好きなのにロンドンでは絶対に売れない
イギリス人にもアメリカ人にも相手にされないブタダw グラドルを馬鹿にするのは紀里谷と結婚中に
紀里谷をグラドルに寝盗られでもしたんだろ マスゴミのいる日本よりロンドンの方が暮らしやすいだろう
日本人のソロ歌手で海外で宇多田以上に売れてる人はいないから叩いてもブーメラン
グラドル馬鹿にしてもないのに馬鹿にしたと妄想叩きするのは精神の病気
そんな米ぬかブタは日本人にすら相手されない無職だが 宇多田はブスだから
ベビーカー抱えて歩いてるだけでも冷たい視線を浴びせられたり嫌味を言われるんだね
これが安室ちゃんだったら
みんなニコニコ笑顔でこぞって助けに来てくれたと思うけどね
日本がダメなんじゃなくて宇多田がひたすらブスなのが悪い 米ぬかはブスでメンヘラだから
ベビーカーなくても冷たい視線を浴びせられたり嫌味を言われるんだね
これが安室ちゃんだったら
みんなニコニコ笑顔でこぞって助けに来てくれたと思うけどね
日本は英国ほど子連れを助けてくれないけど
日本がダメなんじゃなく米ぬかがひたすらブスでキチガイなのが悪い
いつ違法スレ立てやめて板移動するんだ? 2ちゃん運営規約で、邦楽ソロ女板は歌手1人あたり1スレ、本スレしか
立てられないと 規定されているので板トップページの説明を読んでください
アンチスレや噂スレを個別に立てるのも厳禁という運営ルールです
ここに書き込みのは全て違法行為の荒らしですので音楽サロン板など
該当板に移動してスレ立てしてください
叩き荒らし目的やスレ潰し目的ではない人は本スレへどうぞ
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1486880599/
>邦楽(ソロ女)@2ch掲示板
>
■邦楽(ソロ女)板は、現在ソロで活動している国内女性アーティスト
(専門板※があるアーティストを除く)の情報のうち、 本スレのみを扱う板です。
■誘導案内
アーティストのネタ・妄想・雑談・アンチ等は邦楽サロン板へ。
ジャンルが特定出来るものや専門板のあるものは【総合案内&自治】を参考に各板へ。
■禁止事項
1アーティストにつき1スレまで!!!
話題ごとに別スレッドを立てるのは禁止。
アーティストの叩き・中傷目的で個別にアンチスレを立てないで下さい。 >>118
正論wwwwwwwwwwwwwwwwwwww 倉木麻衣でも冷たくされずに助けてもらえただろうね
宇多田復帰前の話だからよっぽど汚い格好でブスだったんだな なんという米ぬかコロコロ自演
社会底辺の引きニートで精神病の婆さんが何故か宇多田に逆恨みして
藤さん自殺から毎日連投するだけの生活送り、発達障害なので板移動もできない
雲の上の大金持ちの宇多田は家庭も作って復帰して米ぬか発狂w 何年もこんな異常連投してきてWIMAXコロコロに変えたのもバレてる米ぬかだしな
米ぬかと指摘されると火病起こして連投
770: 名無しの歌姫:2016/01/17(日) 15:09:59.21 ID:sJhCjn6u0
都合が悪くなると「自分じゃない男じゃない俺」で誤魔化せるとでも?w
即レス半コテ大量連投するのはこの板全体でも米ぬかお前だけ
米ぬかID:0snsx+0p0 [20連投]、※wimaxで切り替えた米ぬか別IDは除く
何ヶ月も毎日ここで発狂連投で叩き続けてると1月10日に指摘されると
>466 :名無しの歌姫:2016/01/10(日) 13:55:03.76 ID:0snsx+0p0
引きこもりじゃなくて明日も仕事ですが
448 :01/10(日) 09:51:38.37 472 :01/10(日) 14:33:09.46
450 :01/10(日) 10:17:16.32 474 :01/10(日) 15:28:21.80
452 :01/10(日) 10:36:26.90 476 :01/10(日) 17:20:18.07
454 :01/10(日) 10:41:41.11 478 :01/10(日) 17:33:59.80
455 :01/10(日) 10:43:06.10 480 :01/10(日) 17:45:34.71
457 :01/10(日) 11:53:23.51 482 :01/10(日) 20:36:42.33
470 :01/10(日) 14:14:15.35 485 :01/10(日) 21:05:04.61
486 :01/10(日) 21:11:11.39
1ヶ月ぶりの仕事設定のはずが、翌11日も米ぬか半コテと変な草で大量連投する
もちろん米ぬかと呼ばれると返事をし、相変わらず宇多田を叩きまくって
批判されたら八つ当たりする、いつもの米ぬか
米ぬかID:rtJrkbZE0 [35連投]、※他回線の米ぬか別IDは除く
506 :01/11(月) 09:56:22.99 570 :01/11(月) 20:03:11.45
508 :01/11(月) 10:51:57.96 573 :01/11(月) 20:08:54.04
511 :01/11(月) 11:09:42.28 577 :01/11(月) 20:10:27.01
513 :01/11(月) 12:26:04.86 578 :01/11(月) 20:10:54.73
521 :01/11(月) 13:02:52.12 582 :01/11(月) 20:13:31.10
526 :01/11(月) 15:15:46.59 587 :01/11(月) 20:18:03.15
528 :01/11(月) 17:33:32.02 589 :01/11(月) 20:20:12.52
530 :01/11(月) 17:53:23.59 592 :01/11(月) 20:21:21.59
532 :01/11(月) 18:06:59.87 602 :01/11(月) 20:31:05.11
536 :01/11(月) 18:56:16.71 604 :01/11(月) 20:33:18.98
537 :01/11(月) 19:00:31.40 607 :01/11(月) 20:35:38.72
539 :01/11(月) 19:15:15.67 610 :01/11(月) 20:38:08.76
540 :01/11(月) 19:34:37.39 613 :01/11(月) 20:44:16.69
544 :01/11(月) 19:42:52.21 615 :01/11(月) 20:58:57.18
547 :01/11(月) 19:46:05.94 617 :01/11(月) 21:04:48.51
553 :01/11(月) 19:50:36.68 561 :01/11(月) 19:55:03.84
558 :01/11(月) 19:53:19.64
主に藤圭子ガー歌ガ−、ネットで〇〇を叩いてるのは宇多田ヲタだー
ヒモー愛人ーザネーメンヘラー、宇多田18歳から嫌いー音痴ー海外ガー
ベビメタガー安室ガーXガーと喚き続けて、グラドル叩き妄想の連投
そして日本の災害に多額の寄付する愛国者宇多田の嫉妬する
ファンスレから立ち去れと言われても粘着するメンヘラ米ぬか 引きこもり無職のアンチ米ぬか婆は2年前にID切り変えてることがバレて
どんどんID変えて連投しまくるようになるまで
この板で1日何十連投も宇多田叩きして恥晒し続けてきたキチガイ閉経婆なんだよね
米ぬかと呼ばれるようになった経緯も笑える
452 :名無しの歌姫:2015/12/12(土) 12:34:52.96 ID:zpkE9l4J0 [10レス目/42レス]
>>449
そのレス俺のじゃないもん
457 :名無しの歌姫:2015/12/12(土) 13:09:26.55 ID:zpkE9l4J0 [13レス目/42レス]
>>456
それも俺のレスじゃないし
474 :名無しの歌姫 :2015/12/12(土) 17:10:36.67 ID:zpkE9l4J0 [19レス目/42レス]
女だしw
477 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 17:19:31.26 ID:zpkE9l4J0 [20レス目/42レス]
俺って書いたけどネナベw
だってその方が通りやすいからね。
479 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 17:23:42.52 ID:zpkE9l4J0
何なら女って証拠見せますか?
505 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 18:14:46.21 ID:qt4eDfNr0 [2レス目/2レス]
>>503
写真は嫌なので
使ってる化粧品は米ぬか美人っていう奴です
506 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 18:19:21.75 ID:zVe02fijO
>>505
おまえ、使うID間違えてるぞ…www
米ねか…美人
冗談はレスだけにしてよ〜 !!
507 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 18:21:12.44 ID:zpkE9l4J0[34レス目/42レス]
>>506
勝手にID変わった
化粧水は化粧品に含まれるでしょう?
518 :2015/12/12(土) 19:58:07.86 ID:tUsmWriK0 (※また別IDで1レス目)
安物使ってると思われてもいいけど実際女だからw
520 :2015/12/12(土) 20:09:23.83 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか40レス目)
521 :2015/12/12(土) 20:10:05.50 ID:tUsmWriK0 (※また別IDで2レス目)
522 :2015/12/12(土) 20:11:38.17 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか41レス目)
『勝手にID変わった』と言い訳して元ID使って失笑される
複数ID持ちの自演以外に自由自在にIDが変わる事はあり得ない 米ぬかチョン婆の考える日本社会によると、日本人は見た目がスゲー美人な
芸能人しか助けない屑社会らしいw
出産後しばらくはシミが出て体も浮腫むのが普通だという知識もない高齢独身婆だしな 一応日本では有名人なのに
あれ?宇多田じゃん、しかも子連れだ、助けてあげようと思われずに
ひたすら嫌な顔されたり冷たい視線を浴びせられて罵倒されるのが凄い
ブスな上に体臭がキツいんだろうか >>127
>出産後しばらくはシミが出て体も浮腫むのが普通
安室は出産後でもこんなに激しく劣化しなかった
はい論破 もう既にシミは薄くなってるけど去年の復帰直後しか目に入らないんだな
米ぬか婆によると日本は芸能人の超美人の母親以外は困っていても
手を差し伸べない国で、20才の安室が出産後の日本女性の平均なんだなスゲーな 20才で出産した安室は綺麗だったという無意味な連投おもしろいね
日本はよほど綺麗な母親じゃないと手助けしないとか言ってるし
もはや何と戦ってるのか意味不明 宇多田の顔のシミは普通に日焼けだと思ったが。汚いというか真っ黒じゃん。
体型、顔全てにおいて安室には程遠いからなー。 >>96
横からスマンけど、そういうのを根に持ってるのはアンチ倉木の方だよ
一部の宇多田オタやビーイング嫌いな人間がいまだに蒸し返そうとしてる 【芸能】安室奈美恵と宇多田ヒカル…本物の歌姫になれた2人の“ある共通点” [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1506148043/
宇多田信者ホイホイスレ 宇多田、サザン、いきものがかり、ゆず
この辺が好きとか言う人とは音楽の話をしないようにしている 一切関係ない安室連呼
眼中にもない倉木を引き合いに叩いて荒らす某
芸能界と無縁の田舎の汚い家に引きこもってテレビの芸能ニュース釘付けで
2ちゃんに貼りついて宇多田叩きするだけが生き甲斐の高齢ニート婆だしな 芸スポで安室との比較スレがあるけど、安室に負けそうな宇多田オタが、いきなり関係ない倉木麻衣を叩いててビックリした >>136 あ、それわかるw
倉木のところどころか最近勢いがあるベビーメタルなどの所にも
宇多田信者は現れて喧嘩ふっかけてるらしいからな。海外で活躍してるのが相当悔しいらしいw
で二言目には日本での売り上げ掲げてドヤる。ベビーメタルファンにも嫌われてるんじゃね?
>>137 なんかあんた信者っぽくないな。いつも来てる宇多田信者は
そういうアンチを何かに決めつけてしつこく中傷しないからすぐバレるよw >>138 宇多田信者は売れただけしか勝てる材料ないからな。
安室奈美恵、浜崎あゆみのカリスマ性
倉木麻衣の努力と継続力
ベビーメタルの海外での圧倒的な飛躍とインパクト
どれにも勝てるのが「売れた」だけ。 >>139
ベビメタの所にも?マジかw
若い上に有名なバンドと一緒にライブとかやって全米で人気なんだろ?
宇多田なんかローカル局で生歌披露の失笑を誘っただけw
そこと張り合うのか…ある意味すごいな。 >>136 私は宇多田、ミスチル、サザン、セカオワかな〜
このスレ、本人が来たりしてないの? ヒマそうだしなw 米ぬか自演連投w
違反スレ立てで邦楽ソロ板に張り付き、ひたすら宇多田叩き
叩きに行った所で宇多田擁護あれば信者と発狂してる報告か
そんなことを毎日しても宇多田の実写会の人気も売上も変化なし 数百万人が見てるSNSではなく、数人しか見てない2ちゃん僻地スレを
本人が見てる妄想も米ぬかの定番だったなw
仕事と子育てで多忙な超有名人が自分のこと見てると言い出す妄想キチガイ >宇多田関連スレに居座って異常な叩き連投するIDコロコロ基地外『米ぬか』レスまとめ
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平日も休日も毎日100レスも常軌を逸した叩き連投で、四六時中貼りつく自称30代女の無職チョン
俺呼び自称ネカマ無職の高齢BBAで、ひたすら宇多田叩きの即レスでスレ民の会話を妨害する
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死語満載かつ半コテ全開の以下のワード連呼「宇多田ヲタ、信者、マンセー、糞スレ、おk
AKBジャニ、18歳、メンヘラ、豚、整形、枯れた、愛人、ヒモ、才能、=、?、w、!、
AKBジャニ、歌下手、音痴、ブス、不細工、父、母、親、ザネ、反日、童貞爺」
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「宇多田ファン用スレで宇多田叩き連投を嫌がる信者は2chから出ていけ」と発狂
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叩きと荒らしと妄想連投しかせず「レッテル貼り、人格攻撃、コピペ基地、否定的意見、
客観的に」を連呼しながら「ファンの数、売上」など数字に固執して逆切れ発狂
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ID変えがバレて以降、ID切りまくりの単発の異常連投で宇多田叩きを続ける
IPスレでWiMAX2とスマホで米ぬか用語連投して宇多田叩きしているのが完全にバレる
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精神病で社会復帰できず、当スレが唯一の居場所だと思い込んで異常執着している
日本で十数人しか来ない当ファンスレに宇多田ファンが1人でも来ると即レス発狂
→SNS等に数百万人いるファンに関心がなく、当スレのみが世界の中心だと思い込む
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住民が数人しか来ない当スレを歌手本人が見てると思い込む
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女を名乗るが同IDで「俺」と何度も書いていると指摘されて苦しい弁解
>そのレス俺のじゃないもん>西村とかいうやつとは別人です女だしw
>俺って書いたけどネナベwその方が通りやすいからね。
>女の証拠みせましょうか
>写真は嫌なので使ってる化粧品は米ぬか美人っていう奴です→『命名:米ぬか』
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焦るあまり、米ぬかは大量連投のスマホIDの他、WifiでID変えまくりの
複数ID持ちだとバレる (叩いて「同意」と自作自演するのが定番)
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米ぬかの書き込みID遍歴の一例
489 :2015/12/12(土) 17:44:48.13 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか29レス目)
491 :2015/12/12(土) 17:50:17.59 ID:qt4eDfNr0 (※別IDで1レス目)
501 :2015/12/12(土) 18:06:59.94 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか33レス目)
504 :2015/12/12(土) 18:14:46.21 ID:qt4eDfNr0 (※別IDで2レス目)
写真は嫌なので使ってる化粧品は米ぬか美人っていう奴です
506 :2015/12/12(土) 18:21:12.44 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか34レス目)
わかんないけど勝手にID変わった、米ぬか美人って化粧水愛用してます
508 :2015/12/12(土) 18:23:27.02 ID:zpkE9l4J0(米ぬか35レス目)
518 :2015/12/12(土) 19:58:07.86 ID:tUsmWriK0 (※また別IDで1レス目)
安物使ってると思われてもいいけど実際女だからw
520 :2015/12/12(土) 20:09:23.83 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか40レス目)
521 :2015/12/12(土) 20:10:05.50 ID:tUsmWriK0 (※また別IDで2レス目)
522 :2015/12/12(土) 20:11:38.17 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか41レス目)
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『勝手にID変わった』と言い訳して元ID使って失笑される
複数ID持ちの自演以外に自由自在にIDが変わる事はあり得ない >宇多田関連スレに居座って異常な叩き連投するIDコロコロ基地外『米ぬか』レスまとめ2
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浜崎ヲタしか知らない情報を語り「浜崎の方が凄い、宇多田ファンは浜崎を馬鹿にしてる」と発狂
→米ぬかが当スレで大量連投してきた「宇多田の1stアルバムの売上300万ガー、浜崎の資産ガー」
「生楽器のゴーストガー」「宇多田の脱税ガー」「パチ屋買いガー」「宇多田は英語話せない」
「宇多田は朝鮮系」などは全て論破される
→その結果、17歳以降の宇多田曲は鬱で駄曲しかなく18歳以降の宇多田の全てが嫌いだと
方向転換して、大量連投(1日30〜100レス)で宇多田を叩きのスレを潰しを続けている
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米ぬかは「自分の方が宇多田よ歌が上手い」と誰も興味のない自分語りと叩き連投をし
突然Xスレ話をはじめて、異常連投で叩きしかしない自分を正当化するが
18歳以降の宇多田と、復帰後のXの評価に何の関連もなく、まさに意味不明
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親族全て日本人で出自が明らかな宇多田を朝鮮系米国人と連投し論破される
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1453321088/262
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1453321088/263
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1453321088/264
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重国籍で日本で脱税してると低能無知を晒し発狂し「日米租税条約」を教わる
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1453321088/272
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「このファンスレで叩き連投を嫌がる宇多田信者は2chから出ていけ」と喚く
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脈絡なく無関係の『他歌手』の名前を挙げて、宇多田を叩くのも大きな特徴
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「メイジェイ、ベビメタ、AKB、JUJU、西野カナ、浜崎、あゆ、神田沙也加」
「ケイクラ、アデル、ジャニ、嵐」など手あたり次第に名前を挙げる
>一例→宇多田の鬱でキモい歌詞より西野カナの方が歌詞もマシ
>アデルが好き、アデルが圧勝、暗い曲でも豚田とレベルが違いすぎる
>英語は分からないが、アデルの作詞の質は「歌詞カード」で分かる
>西野カナ、JUJU、メイジェイの方がよっぽど歌が上手い
>神田沙也加は七光りでも努力が認められてる、宇多田に爪の垢飲ましたい
>愚痴とサビでギャアギャア泣き叫ぶ宇多田曲を聴く人は鬱でおかしい人だけ
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信者ネタ連発を指摘されて弁解連投して以降、浜崎の名前を出す頻度が急減
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このスレで他歌手の批判レスは無いが、米ぬかがネットの何処かで
「宇多田ヲタが他歌手を叩いた」と住民に八つ当たり発狂を続けている
>宇多田信者は、浜崎、西野カナ、メイジェイ、AKB、ジャニを馬鹿にしてる。
>宇多田をアーティストだと勘違いして、浜崎を馬鹿にしていて許せない。
>他の歌手を馬鹿にして宇多田マンセーしてる(「マンセー」を連呼)
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「叩かれてるというスレで直接言ってこい」と促されるが全く聞かない
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そして他歌手を叩き出す(当スレで他歌手の名前を出すのも叩くのも米ぬかのみ)
>売り上げ=質なら今一番質の高い音楽やってるのはAKBとジャニだなw
>じゃあ宇多田よりAKBジャニが上ってことで良いんだな?
スレ民は「AKBやジャニが上でいいよー」「それでいいぞ売上もどうでもいい」
「全ての人が宇多田より上でいいからファンスレから出て行け」という結論
当スレ住民は「宇多田の歌が好きなだけで他歌手との比較に全く興味なし」
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過去スレで浜崎信者を名乗った連投荒らし基地まとめは、以下を参照
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1449572231/6-9
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1449572231/14 >宇多田関連スレに居座って異常な叩き連投するIDコロコロ基地外『米ぬか』レスまとめ3
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脳内妄想ソースで「宇多田曲はゴースト」の連呼が口癖
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70レス連投したIDで「宇多田は楽器技能が低レベルだからゴーストだ」など
昭和のアナログ作曲法しか知らない情弱無知な妄言を繰り返す
宇多田がシンセ1本で生演奏音で曲を作ってると厚顔無恥な化石っぷりを晒す
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米ぬかは宇多田が作曲法も編曲法も機材もソフトも、音楽誌やブログ等に
誰よりも大量に公開してる歌手だと知らずに叩く
今は生楽器を使わず曲が作る時代だと親切な人に教えて貰う
編曲家は自分で弾いた演奏音を使う仕事でない、プログラミングして
ミュージシャンの演奏と差し替えるのが普通だと教えて貰う
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宇多田はコンピューターで作曲し、楽器録音のアナログ式ではないのは有名
加工ソフト、サンプル音、音響ソフト、打ち込みソフト等を使いこなす
能力があれば弾いたことのない特殊な楽器の曲でも作れる
演奏技術より耳が肥えて再現できるかが全て
もちろん曲が浮かばない人はソフトや機材あっても無理だと説明される
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恥を晒してもひたすら「じゃあ編曲家が全て作った、ゴースト」と連投
宇多田の初期曲は邦楽歌手を多く担当する日本人の編曲家が担当し
そのアレンジャーの師匠に編曲を習ったり、知識を増やし、テクを磨いて
宇多田は作詞作曲以外に17才から編曲を共作している
20才から編曲アレンジもサウンド制作もコーラスも全て1人でやっている
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また初期曲にもR&B以外のヒット曲は多く、後期の曲に15才の曲と同じ
コード進行で作った曲があったり、英語詞の長さで小節だけ差し変えたり
宇多田は手作り感あふれる自由な作風だと教えて貰う
そして初期曲は打ち込みが多く楽器の音は少なく多様性も少ない
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「アコースティック曲が素人」と叩くが、特殊なアレンジは専門家がついて
演奏もクレジットに入ってると説明して貰う
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そもそも邦楽は鼻歌だけで作詞作曲したり譜読みできない大物歌手が
多いことを知らないため、宇多田を叩けば叩くほど恥の上塗りをしていく
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全て論破され「編曲を自分でやるから素人の曲」や「金持ちになって宇多田は
世の中を馬鹿にして性格が悪くなった」と主観と妄想全開の叩き連投中
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宇多田母は1969年にデビューし1972年以降、チャート100位圏内に一度も
入ってないと自称30代の米ぬかは知る由もないが、宇多田叩く目的で名前を使う
引退した昭和歌手に興味があるなら懐メロ板に行けと言われるが止めない
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脳内妄想で宇多田を叩き、実母本人が話したソースが貼られると中傷だと発狂
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宇多田は休業前の5年間で3枚のオリアル、30曲以上も作ってヒットし超順調
休業は15才から囲まれてきたスタッフと離れて自活が目的だと説明されるが
米ぬかは「才能枯渇、ネタ切れ」とひたすら大量連投するのも超定番
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
その他、宇多田が一度も有料ファンクラブを作らず、無料ブログを続けて
ファンの囲い込みをしないのは「ファンや世間を馬鹿にしてる」と叩く
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強制IPコテハン表示できるワッチョイが各板の本スレで進み、導入を期待する住民に
「強制コテハン反対、絶賛意見はTwitter行け」と自演連投するのも定番
自演や叩き荒らし以外はワッチョイを嫌がらないので叩き専用スレに行けという結論
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 何年もこんな異常連投してきてWIMAXコロコロに変えたのもバレてる米ぬかだしな
米ぬかと指摘されると火病起こして連投
770: 名無しの歌姫:2016/01/17(日) 15:09:59.21 ID:sJhCjn6u0
都合が悪くなると「自分じゃない男じゃない俺」で誤魔化せるとでも?w
即レス半コテ大量連投するのはこの板全体でも米ぬかお前だけ
米ぬかID:0snsx+0p0 [20連投]、※wimaxで切り替えた米ぬか別IDは除く
何ヶ月も毎日ここで発狂連投で叩き続けてると1月10日に指摘されると
>466 :名無しの歌姫:2016/01/10(日) 13:55:03.76 ID:0snsx+0p0
引きこもりじゃなくて明日も仕事ですが
448 :01/10(日) 09:51:38.37 472 :01/10(日) 14:33:09.46
450 :01/10(日) 10:17:16.32 474 :01/10(日) 15:28:21.80
452 :01/10(日) 10:36:26.90 476 :01/10(日) 17:20:18.07
454 :01/10(日) 10:41:41.11 478 :01/10(日) 17:33:59.80
455 :01/10(日) 10:43:06.10 480 :01/10(日) 17:45:34.71
457 :01/10(日) 11:53:23.51 482 :01/10(日) 20:36:42.33
470 :01/10(日) 14:14:15.35 485 :01/10(日) 21:05:04.61
486 :01/10(日) 21:11:11.39
1ヶ月ぶりの仕事設定のはずが、翌11日も米ぬか半コテと変な草で大量連投する
もちろん米ぬかと呼ばれると返事をし、相変わらず宇多田を叩きまくって
批判されたら八つ当たりする、いつもの米ぬか
米ぬかID:rtJrkbZE0 [35連投]、※他回線の米ぬか別IDは除く
506 :01/11(月) 09:56:22.99 570 :01/11(月) 20:03:11.45
508 :01/11(月) 10:51:57.96 573 :01/11(月) 20:08:54.04
511 :01/11(月) 11:09:42.28 577 :01/11(月) 20:10:27.01
513 :01/11(月) 12:26:04.86 578 :01/11(月) 20:10:54.73
521 :01/11(月) 13:02:52.12 582 :01/11(月) 20:13:31.10
526 :01/11(月) 15:15:46.59 587 :01/11(月) 20:18:03.15
528 :01/11(月) 17:33:32.02 589 :01/11(月) 20:20:12.52
530 :01/11(月) 17:53:23.59 592 :01/11(月) 20:21:21.59
532 :01/11(月) 18:06:59.87 602 :01/11(月) 20:31:05.11
536 :01/11(月) 18:56:16.71 604 :01/11(月) 20:33:18.98
537 :01/11(月) 19:00:31.40 607 :01/11(月) 20:35:38.72
539 :01/11(月) 19:15:15.67 610 :01/11(月) 20:38:08.76
540 :01/11(月) 19:34:37.39 613 :01/11(月) 20:44:16.69
544 :01/11(月) 19:42:52.21 615 :01/11(月) 20:58:57.18
547 :01/11(月) 19:46:05.94 617 :01/11(月) 21:04:48.51
553 :01/11(月) 19:50:36.68 561 :01/11(月) 19:55:03.84
558 :01/11(月) 19:53:19.64
主に藤圭子ガー歌ガ−、ネットで〇〇を叩いてるのは宇多田ヲタだー
ヒモー愛人ーザネーメンヘラー、宇多田18歳から嫌いー音痴ー海外ガー
ベビメタガー安室ガーXガーと喚き続けて、グラドル叩き妄想の連投
そして日本の災害に多額の寄付する愛国者宇多田の嫉妬する
ファンスレから立ち去れと言われても粘着するメンヘラ米ぬか >>143
サザンはラッキーなことにいないな、セカオワ、ゆずの信者は怖い、それだけで話したくないw
宇多田聞いてるやつはもう周りにいないからこれもラッキーw セカオワとか宇多田聞いてる人ってメンヘラのイメージ
サザンは爺過ぎてさすがに自分の周りでは聞いてる人いないな 他歌手の名前で連投する癖がやめられない米ぬかキチ婆
宇多田ほど売れてる有名人で無関係の板で叩いて擁護があるのは普通
2ちゃん依存症、宇多田依存症で各地で暴れてる自分が異常だといつ気づくんだ? 若い子達は西野カナと倉木麻衣聴いてますよ私の周りには 自演連投で一人語り
ヒキニートで365日宇多田宇多田と連投してる高齢キチの脳内にいる
周りの若い子が倉木麻衣w 小卒の脳障害患者だから本当にまとめ通りの連投しか出来ないよね
田舎の汚い家に長年引きこもる高齢独身婆はテレビで芸能人ニュースを見て
空疎を繰り広げる他は2ちゃんで、何の関わりもない宇多田叩きして現実逃避
安室のニュースで急に発狂して異常連投するほど芸能人に夢中な恥さらしよ >>153
倉木麻衣はコナンで聴けるし年齢幅広いだろうな。
西野カナは昔でいうところの浜崎とか安室みたいな感じか。
やっぱり歌や曲だけじゃなくて人間的な魅力もあるんだろうな。
別段浜崎も安室もいいとは思わなかったけどいいという人には売れた以外の言い分があったから。 アルバム売上累計3万枚の倉木ヲタが宇多田が不人気だと叩いてる聞いたわ
倉木スレへ逝けよ自演米ぬか婆 iTunesで安室曲が大量に急上昇
安室も若い子にも人気あるよね 人稲スレて安室連呼でいきなりIDコロコロ連投するから分かりやすいな
宇多田が一般層に支持されてるから音源だけのCDでも売れて
擁護があるということが理解できずに浜崎の人気ガー倉木の人気ガー
と言い出す米ぬかネタスレ 精神障害者のババアは安室大好きだったのなと思ったけど
浜崎と倉木とX好きで単なる芸能ニュース見るしかやることのないメンヘラだもんな
安室AKBジャニとかひたすら色んな歌手の名前を挙げてwimax切りまくって
休業中から2ちゃんに毎日連投5年
宇多田の人気も売上も下がらず、何の意味もない米ぬか婆の無断転載5年だったな >>156
カナちゃんは若者にはドンピシャ世代だし、麻衣さんはあの美声と楽曲がマッチして真似したくなるんだよ 西野カナって実はすげえ歌上手いんだよな。バカにしてすまんと謝ったw曲はシングル曲は好みじゃないが
カップリングやアルバム曲は倉木麻衣の初期っぽいr&bっぽい曲もあったりする。
まあでもほぼ女子受けしそうな感じなのでハマるほどじゃないが。 また米ぬか2連投で浅はかなゴミ付工作に大笑い
てあ何度笑われてもアスペルガーだから半鏝で関係ない歌手話が止められないんだな
西野カナは歌上手い倉木浜崎大好きと大昔から宇多田スレで連投してるよな
婆だから最新の若い歌手が西野と倉木ww >>139
それ俺も見たわ。芸速のBabyMetalのスレな。宇多田信者が半数くらい連投自演で荒らしてた。
世界的なアイドルの人たちにも迷惑をかける宇多田信者w ここまでバレバレのIDコロコロ連投1人喋りはメンヘラ板でも滅多に見られないぞ
いつも深夜1時までに寝て朝8時台定期で発狂する米ぬかは
誰からも連絡もLINEもない2ちゃん専用のスマホ握って寝る間際まで
宇多田叩きして起きた途端に発狂連投を寝るまで続ける脅威のメンヘラのヲチスレ 単発「俺」も見たwwww
各地スレで自演して宇多田叩きに行ってるキチガイだという自己紹介な
この違法スレは米ぬかの即レスと恥ずかしい自演だけだから米ぬかが去れば過疎wwww
さあ、またスマホ回線て自演しろよ俺女米ぬか >>163
米ぬか婆は低能セルフ開示が止まらんね
ここまで馬鹿ならそりゃまとめも出来るわ
米ぬかワードの自演連投が始まれば、チャットかというほどスレが回るが
出ていけばピタっと止まる、まるでコント >>167
て言うかこいつヲタなの?意味わからんから放置しておくが。 別にアンチは一人でやってる訳ではない。宇多田アンチなど沢山いる。
関係ないものを何でもアタマの中で関連づけるのは病気だから、病院行った方がいい。 ゴミつけて書けばかくほどバレてるぞ米ぬか単発
早く本スレ板を出ていって浜崎()かベビメタ()か倉木()か西野()かX()信者スレで
好きなだけ宇多田を叩いて馬鹿にされてこい 違反スレ立てを長年し続けて突然異常な連投を始める米ぬかの定番レス
「自分は1人じゃない」「俺は女だ」「宇多田ヲタは2ちゃんに1人だ」
「宇多田信者を〇〇で見た」そしてひたすらいつもの歌手名連呼 >>170
アンチが一人ってそんな風にしか見えないのはもう病気だよな。
過去ログで調べたけど大昔に大騒ぎしてたアンチは全部どこどこの誰々でどうのこうの系の人だったw
きっと2ch上で気に入らないやつが冗談で俺が住んでるのは
〇〇だぜとか言ったらそれ鵜呑みにして一生〇〇野郎とかネタにしちゃうタイプなんだろうな…
そんで同じようなレスしてる人全部その〇〇野郎w
しょーもな。スルーで。 そもそも、ここはアンチスレなんだからねえ。
一時期言わなくなったのに「米ぬかがどうのこうのー」って、
もしかして退院してきたのかもしれん。 米ぬかID変えてるのはバレてるって
過去ログ調べたテイ、2ch呼び、俺呼び、もう香ばしすぎて
お前の自演しかないと書けば書くほど恥の上塗りw
前にも言われてたけどWIMAXの拾い回線とスマホ自演で
即バレでワッチョイスレに行けないのは米ぬかお前だけだからな
あと初めて来たテイなら、ここは歌手1人あたり1スレの本スレのみで
それ以外のスレ立てるのは厳禁と運営が決めたルールのある板な
ここに来るのは、ルールすら守れないキチガイだから侮蔑対象 基本ルールのこれすら守らずに何年間も立て続けてる荒らしや
米ぬか婆はここにいる限り、キチガイ認定で叩かれるのは当たり前
>2ちゃん運営規約で、邦楽ソロ女板は歌手1人あたり1スレ、本スレしか
立てられないとルール規定されているので板トップページの説明を一読ください
アンチスレや噂スレを個別に立てるのも厳禁なのが邦楽ソロ板の大原則です
ここに書き込みのは全て違法行為の荒らしですので音楽サロン板など
該当板に移動してスレ立てしてください
叩き荒らし目的やスレ潰し目的ではない人は本スレへどうぞ
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1486880599/
>邦楽(ソロ女)@2ch掲示板
>
>■邦楽(ソロ女)板は、現在ソロで活動している国内女性アーティスト
>(専門板※があるアーティストを除く)の情報のうち、 本スレのみを扱う板です。
>
>■誘導案内
>アーティストのネタ・妄想・雑談・アンチ等は邦楽サロン板へ。
>ジャンルが特定出来るものや専門板のあるものは【総合案内&自治】を参考に各板へ。
>
>■禁止事項
>1アーティストにつき1スレまで!!!
>話題ごとに別スレッドを立てるのは禁止。
>アーティストの叩き・中傷目的で個別にアンチスレを立てないで下さい。 都合悪いだろうな
2ちゃんの基本ルールすら守らずに何年も同じスレ立てて
板移動もせず連投してる真性キチガイだとバレバレだからな
自演連投を隠そうにも発達障害だから出来ない米ぬか婆 Forevermoreはダサい、大空は凡庸
しょうもない曲しか出せなくなったな と、17年前からずっと言ってると告白済の米ぬか婆さんw
大嫌いな芸能人の宇多田を2ちゃんの邦楽ソロ板で朝から晩まで叩けないと
毎日やることなくて生きていけない高齢メンヘラのゴミ屑 高齢処女の引きニートで性欲解消できない高齢米ぬか婆が妄想する初体験w
精神狂って時間感覚ないらしいけど宇多田は10年以上昔に離婚してるよ
有名人スレに粘着するより男は無理でも友人1人でも作れるように外出しろよ基地 ゴースト作曲家w
まともに声出せないww
コンサートライブ出来ないwww
ツイで下ネタwwww
配信シングル不調wwwww ずっと同じこと言い続けて全て論破されてるね米ぬか
ゴースト妄想、色んな歌番組にでて生歌も大人気で評判良し
完全1種の特典無しのCDだけでも売れる珍しい歌手、
以前のブログのようにツイで軽口も呟くようになって、たまの更新にファン大喜び
365日ずっと宇多田に夢中な無職キチガイがツイストーカーまでして笑われる 米ぬか連呼するしかない工作員だか信者だか相当頭イかれてんな 工作員妄想、信者連呼の米ぬか
バレバレの鏝レスをいつになったら辞めるのか
邦楽板に異常固執で違法スレ立てを続けていつまで1人で自演連投して笑われるのか
いつになったらまともに社会復帰して家族に迷惑かけずに生きられるのか
まずは精神科で治療しろ だから誰がみても分かるように完全に精神病なんだって
親兄弟が病院つれていくべきだけど本人だけは基地外だと分かってないからな
現実逃避で大嫌いな宇多田依存症から抜け出せない2ちゃん廃人 宇多田ネットストーカーで精神障害で違法スレ連投で暴れるwimax真性キチガイ
レスの全てがアスペすぎても脳障害の米ぬか自身は別人ナリ設定らしい
今日だけでもこれだから
167 名無しの歌姫 sage 2017/09/24(日) 00:23:37.54 D:3IXWI7WS0
宇多田オタは病気
177 名無しの歌姫 sage 2017/09/24(日) 07:21:52.13 D:i7n7kMXa0
〜ようだな
179 名無しの歌姫 sage 2017/09/24(日) 07:50:21.57 D:8fhR8aAc0
〜なったな
188 名無しの歌姫 2017/09/24(日) 18:06:42.33 D:i7n7kMXa0
こりゃ病気だな
190 名無しの歌姫 sage 2017/09/24(日) 18:17:50.55 D:3aufo6QY0
宇多田ヲタは病気だな こいつ昔からいるよな。本スレにもいて信者からもスルー(同一人物だからスルーなのかもしれないが) 宇多田に対する世間の評価が下がるだけだな
こんな異常なオタがいればね 米ぬか1人で連投して笑われてる違法スレで宇多田に対する世間の評価てw
精神病だけあって人の少ない2ちゃんスレが全てなんだもんな米ぬか
日本は100人しかいない国民がいないと思ってるレベルの池沼だわ
残念ながら宇多田ファンでスレを見る人がいればキチガイアンチがいるなと思われるだけ 宇多田も浜崎と同じように写真の修正がひどくなってきたな…
誰だよこれというくらいにいじりまくってる。 不細工に写ったら満足
出産から時間経ってビジュ悪くなくなってきたら修正と言い出す
VOGUEも撮影シーン映像まで公開して修正ない普通の画像だと分かるのに
まあアンチスレ立て厳禁の板で違法スレでIDコロコロ連投するほど
常識なくてルールも守れない狂ったヒキニートだもんな ブサイクっつうか普通にcmとかと別人なら修正疑うだろ。
顎削りすぎて顔の大きさ半分になってたぞ。
あとIDコロコロはお前。連投ですぐわかる。 >>197
違反スレに初めて来た設定?
米ぬかキチガイwimaxがID変えながら大量連投してる過去スレ貼って欲しい?
ワッチョイスレでもバレてるんだけど
それから過去の宇多田のジャケやアー写と比べて見れば同じだと分かるが
横から写せば顎シャープな顔なのは昔から
アンチだから知らないんだろうな ほら、196=198 短時間に連投と来た。
言った通り。 短時間で来ただってw
長時間貼りついてる乞食さあ、ここアンチスレ立て禁止で
お前キチガイ認定なんだけど頭大丈夫? あと初めて来たテイ(笑い)らしいのでコレを100万回くらい嫁
>基本ルールのすら守らずに何年間も立て続けてる荒らしや
米ぬか婆はここにいる限り、当然ながら違反キチガイ認定で叩かれます
>2ちゃん運営規約で、邦楽ソロ女板は歌手1人あたり1スレ、本スレしか
立てられないとルール規定されているので板トップページの説明を一読ください
アンチスレや噂スレを個別に立てるのも厳禁なのが邦楽ソロ板の大原則です
ここに書き込みのは全て違法行為の荒らしですので音楽サロン板など
該当板に移動してスレ立てしてください
叩き荒らし目的やスレ潰し目的ではない人は本スレへどうぞ
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1486880599/
>邦楽(ソロ女)@2ch掲示板
>
>■邦楽(ソロ女)板は、現在ソロで活動している国内女性アーティスト
>(専門板※があるアーティストを除く)の情報のうち、 本スレのみを扱う板です。
>
>■誘導案内
>アーティストのネタ・妄想・雑談・アンチ等は邦楽サロン板へ。
>ジャンルが特定出来るものや専門板のあるものは【総合案内&自治】を参考に各板へ。
>
>■禁止事項
>1アーティストにつき1スレまで!!!
>話題ごとに別スレッドを立てるのは禁止。
>アーティストの叩き・中傷目的で個別にアンチスレを立てないで下さい。 十分短時間だろw長時間張り付いてるのもあんた。
本スレで頑張ればいいのに。あっちに書く事じゃないからわざわざこっちに書いてやったんだがな?
しかもあんたディスるのは全てアンチと思ってるだろ。そういう活動してると誰も話題にしたくなくなって
宇多田の足引っ張る事になるよ。でももう遅いのかここの過去ログ見てたら一人の信者の一人舞台って感じだしな。 >>202
ああ、やっぱり米ぬかの臭いレスでバレバレ
>深夜に大笑いしたよ
米ぬかは学歴コンプの小卒で職歴無しの無職メンヘラなのはコロコロ連投で
知ってたけどこれほどの重度の脳障害だとは
1種売りCDで百万人が買って貸し借り含めれはその何倍も聞かれて
人気のある超有名歌手の人気が、数人しか見てない掲示板の僅かな
書き込み数で決まると豪語するキチガイ
実社会で話し相手のいない引きこもり無職だとバレてるのに周りでだってw
この数年、米ぬかが叩き連投すればするほど現実社会では宇多田が人気だね
735 名無しの歌姫 sage 2017/09/24(日) 22:09:07.43 D:+3SCPl0f0
基地外信者がネット上にいるから過疎るしファンも激減すんだよ。
743 名無しの歌姫 sage 2017/09/24(日) 22:35:05.26 D:+3SCPl0f0
誰が買ってるんだろうーカラオケー
みんな知らないし聞いてない
761 名無しの歌姫 sage 2017/09/25(月) 00:54:33.12D:kS/PcSXQ0
別板でもファンが痛くて嫌いになったアーティストでよく名前上がってる。
宇多田も可哀想だな。まともなファンどんどん消えていってる。
805 名無しの歌姫 sage 2017/09/25(月) 22:38:17.88 D:9i5sjYiQ0
映画の足引っ張るのかよウタダは 違反スレ立てで板移動しない、2ちゃんルール遵守しないのはメンヘラ基地外だけ
嫌いな歌手のファンスレ板に固執し続けるのはアスペルガーの典型的な症状
過疎板に長時間はりついてレス乞いする構ってちゃんは引きニート底辺ゴミ
嫌いな歌手を違法な過疎スレで叩いても何の意味もないと分からないのも
2ちゃん依存、宇多田のネットストーカーが止められないアンチは重度の精神疾患
違反スレで居座るメンヘラがどれだけ喚こうが規約違反の屑という結論
少しは外出したり職探したり、嫌われてる親に謝罪して金貰って精神科池 この基地外コロコロ自治厨信者本スレも荒らしてるしそろそろ専スレ作るか。 どうぞ、ここに報告いらないので音楽サロンなり他板で
1日中独り言を連投してきてください
宇多田の人気()や売上()に全く影響しないので、2ちゃん廃人の無職がメンヘラ悪化して
死ぬまでずっと無駄な連投して、芸能人叩きと2ちゃんだけに人生を捧げてください ヲチスレwww
ここがヲチスレじゃん
友人1人もなく親から嫌われ、誰からも連絡もLINEもないスマホ握りしめて
何の意味もなく、朝から晩まで宇多田に粘着して叩く発作が止まらない
そんな精神疾患を煩う無職ニート高齢婆の生態観察スレ 自分のヲチスレが気になってついつい反応しちゃうヒキニート高齢喪処女ババア 笑えるね
ファンスレ板の嫌いな歌手違反スレしか居場所のない社会底辺のババアって何重苦 206から全部同じ基地局からの発信wそこまでしてここで何がしたいのかわからん。
自演が好きなのいいけど通報するんじゃなかったっけ? ID変えまくる自分以外はこないスレだと言い張るキチガイ婆
そしてそんな違法スレで意味のない連投するだけの日々を送るキチガイ婆
とうとう何がしたいのかと自問自答する引きニートのアンチ婆 歌詞もダサい、曲も素人レベル、歌も下手、おまけにブサイク
いいとこなしの芸NO人だな宇多田は 芸no人とかいうダサすぎる婆すぎるワード
2ちゃんルールすら守れなくて幻聴の聞こえるメンヘラ引きニート婆さん 母親を見殺しにしたくせに商売に利用する最低な宇多田 母親が精神病でも遠ざけられて歌手復帰するように言われても愛して
世界中あちこちで何億円カジノに使っても批判もしなかった宇多田の見捨て妄想w
親との関係は私の一生のテーマと、デビューすぐから語っていて
デビューからずっと歌詞にしてきたのを知らない米ぬか
メンヘラ精神病の2ちゃん依存症の低学歴引きニートで、母親に見捨てられ
周りの誰にも相手にされない米ぬかが、会った事もない宇多田に逆恨みする馬鹿さ キチガイすぎて貧乏な母親から見殺しにされた独身処女の米ぬか婆が
何ら生活を覗いたことのない億万長者の有名人家族の妄想で発狂
スレ立てルールすら守らず、宇多田叩きだけが生き甲斐のゴミ人生だもんな 小卒で引きこもり無職で精神病で貧乏で友人皆無で、2ちゃんで芸能人妄想と
宇多田のネットストーカーしかせず親から死んでくれと頼まれているキチガイ米ぬか?
何重苦の汚物なんだよ
仕事しながら子育て中の手が届かない大金持ちと自分を並列に考えるガイジ婆
いつ板から出ていくんだ?もう7年も毎日連投してるらしいけど >>217
こーいうのが小池新党に入れるんだろうな 選挙権もない米ぬか火病チョン、いつファンスレ板出ていって母国に帰るの? >>222
国民の三大義務である労働、教育、納税を何一つ果たしたこともないゴミだしね
米ぬかみたいな引き無職の在日キチガイのせいで働いてる日本人が損をする 宇多田の学校写真の中で一番写りの悪い画像を貼り
世間で需要ありまくりの宇多田に嫉妬して粘着叩きを続ける米ぬか?
1970年代前半までの数年以降は全く売れなかった母親と晩年の画像でも貼れば?
お前が精神病で親に嫌われ家族に嫌われ、周りの誰からと愛されない貧乏人だろうと
宇多田にはなんの関係もないから、早く死ね米ぬか close to youのカッコいいPV撮った当時の宇多田だな
藤さんは娘の才能に惚れ込んで歌手にしたくて堪らなかったんだからw
てか藤さん好きなら90年代は数百枚しか売れてないのに買ってあげれば良かったのに
まあ藤スレに行く訳でもなく違法スレから移動しないキチガイが藤さんに興味あるはず無し 宇多田は卒アルの写真とか子供の頃の写真どれもすげえブサイク
今でもだけどさ 普通だよ
お前は普段テレビしか見てなくて外出すること無いから狂ってるだけ
10年以上引きニートで鏡で自分の顔見たことも化粧することもないゲロ米ぬか婆
とりあえず低能アスペでも2ちゃんのスレ立てルールくらい守れよ 笑った
コケコッコー米ぬか婆が、米ぬか婆と呼ばれて返事してるな
ファンスレ板荒らしでしか人と関わる機会のないメンヘラ無職、板から出ていけ ファンをもってしても可愛いとは言ってもらえない子ども
お母さんは凄い美人だったのに不細工父に似て可哀想に >>227
懐かしいね
12歳当時のMVまだ残ってたわ
https://www.youtube.com/watch?v=XLQD40uNnuk
米ぬか閉経婆は話す相手が10年間で1人もいないマジキチで妄想は全て外れるから
米ぬかが火病連投で宇多田を叩いてるうちは世間で宇多田は人気だな
で、レス恵んで貰って返事してる米ぬかバカ、いつ邦楽ソロ板から移動するんだ?はよ 宇多田は普通に可愛いけど顔売りにはせずに大人気の手の届かない芸能人
そんな宇多田に依存して朝から晩までIDコロコロ叩きの他に予定もない米ぬかは
周囲の誰からも可愛いと言って貰えず
寄生する親に泣かれ続ける高齢処女メンヘラ
違法スレから立ち去るという些細なルールも守れないゴミ人間 宇多田はデビュー当時から太眉ブサイクで話題だったよ
PVもブサイクで特にジャケ写のアップがブサイクで なるほど、それでスゲー売れた芸能人に悔しくて嫉妬してるんだな
引きニートの底辺貧乏のくせに身の程知らずの米ぬか婆
米ぬか婆をヲチして笑ってる人が来てるようなので懐かし映像これも
デビューする前のアー写撮影の映像
https://www.youtube.com/watch?v=SiO0iksD1Jo
宇多田デビュー当時15歳「歌番組で初披露したAutomatic」
https://www.youtube.com/watch?v=YpjQvzLQkYE 宇多田の場合シンガーソングライターつってもやってる事は量産型ポップスだからなー
アーティスト自称するならそういう音作りしてよって思う。 朝起きてすぐ違法スレで宇多田依存性の惨めな米ぬかブス婆さん
今日も家に閉じこもって超人気歌手の宇多田の事だけ考えて1日が終わる 擁護派のあまりのパッパラパーさに
どういう奴に崇拝されてるのかが窺い知れてしまう ID変えてパッパラパーという米ぬかワードの加齢臭が激キモ
2ちゃんでしか他人を感じることのない引きこもり閉経婆らしい
応援スレ以外のスレ立てが違法の板で擁護派と言い出すキチガイさにも笑うわ えっ?
今時ペテン師父子に騙されてるのなんて
情弱高齢者くらいなもんでしょう? 米ぬか婆、悔しいのうwww
違法スレ立てしても味方が誰もいなく1人で父子ーペテンと毎日喚いても
宇多田は売れっ子歌手で億万長者の芸能人
お前はメンヘラ無職で親族や母親にすら嫌われながら縁も無い芸能人妄想
宇多田をネットストーカーして過疎スレで喚いて笑われるだけで死ぬまでゴミ人生 小卒でアスペ乞食によるパッパラパー?という臭い自己紹介に草
脈絡なくシンガーソングライターと誰かに話しかけてるのも糖質そのもの
パッパラーか何か知らんが、キチガイ米ぬか違反スレから移動するか首吊れ 板の基本ルールのすら守らずに何年間もスレ立て続けてる荒らし
米ぬか婆はここにいる限り、当然ながら違法認定で叩かれます
>2ちゃん運営規約で、邦楽ソロ女板は歌手1人あたり1スレ
本スレしか立てられないとルール規定されているので板トップの説明を一読ください
邦楽ソロ板はアンチスレや噂スレ等を個別に立てるのも厳禁が大原則です
ここに書き込みのは全て違法行為の荒らしですので音楽サロン板など
スレ立て可能な該当板に移動してください
叩き荒らし目的やスレ潰し目的ではない人は本スレへどうぞ
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1486880599/ >【邦楽(ソロ女)@2ch掲示板】
>
>
>■邦楽(ソロ女)板は、現在ソロで活動している国内女性アーティスト
>(専門板※があるアーティストを除く)の情報のうち、 本スレのみを扱う板です。
>
>
>■誘導案内
>アーティストのネタ・妄想・雑談・アンチ等は邦楽サロン板へ。
>ジャンルが特定出来るものや専門板のあるものは【総合案内&自治】を参考に各板へ。
>
>
>■禁止事項
>1アーティストにつき1スレまで!!!
>話題ごとに別スレッドを立てるのは禁止。
>アーティストの叩き・中傷目的で個別にアンチスレを立てないで下さい。 >>249
IDコロキチババア
引きニート障害者のおまえ以外から才能あるから売れてるだから
餌貰おうとせずに板をさっさと引越せ レス途中だから再送信
>>249
IDコロキチ米ぬかババア
引きニート障害者のおまえ以外に才能あると思われて長年売れてるだけ
餌貰おうとせずに板をさっさと引越せよ、いつ出ていくんだ? 米ぬかの耳ツンボ脳内妄想が更に進んでるねえ
wimaxでID変えまくりの複数回線もIPスレでバレて早5年
>>245
これほどのメンヘラ引きニートで精神科の治療も受けない高齢処女デブスは
社会に出したら迷惑だけど、家にいる家族が気の毒だよね まともなヲタには相手にされずアンチにしかかまってもらえないキモ信者 社会の誰に相手にされず話し相手もなく母親にも泣かれるメンヘラの引きニート
毎日ファンスレ板の違法スレで餌を貰おうと必死なキモブス米ぬか婆キモブスという汚物 レス乞食のコロコロ米ぬか婆は生身の人間と会話もできないまま等質も発症w
ちびまる子の効果音からAutomaticが作れる天才作曲家妄想には吹いたw
世界初の独自の音楽ジャンルやリズム、楽器等を開発した日本歌手が存在するとか
ちびまる子の音響部が発明した独自のリズムや音楽ジャンルも存在すると思ってるらしい
まず音楽好きがちびまる子でツッコむなら「踊るポンポコリン」だが無知な米ぬか婆 パッパラパー(笑)にまる子(笑)、コケコッコー米ぬかは違法スレ乱立させて生き恥を重ねてるね
低学歴の引き無職でキチガイ病が進行中の宇多田依存症のアンチババアって何重苦よ 情弱工作員には古い言葉が効いてるみたいだな
おったまげー ききすぎて、もはや反論さえ全くできないのでID変えて震える手で、おったまげーwww
ネットとテレビでしか社会と繋がれないゴミ米ぬか惨めたのう ファンスレ板で米ぬかは1人でコロコロして、ヲチされて笑われる毎日
それでも唯一構って貰えてるーと嬉ションする虚しい生活っていう コケコッコーキモヲターと泣き続けてIDコロコロするキモいババア
この板は本スレしか立てられない板だぞババア死ね
2ちゃんの基本ルールも社会のルールも何も守れない米ぬかババア、いつ板から出ていくんだ? 興奮しないでだってw
反論出来なくても貼り付いて餌もらおうとする汚物とはよくいったもんだね 2chでアンチが必死になっても意味ないとか言いながら必死な宇多田ヲタw 2chー宇多田ヲター必死ーでコテってるよアスペ米ぬか
米ぬか婆ほど当該板に固執する極度のメンヘラはいないからヲチ物件として笑われてるだよ ●2ちゃんねる(5ちゃんねる)とニコニコ動画の正体●
2ちゃんねる管理人や既得権益を批判する書き込みをすると2ちゃんねる管理人からハッキングされます。
場合によってはストーカーされます。
実際2ちゃんねる管理人が書き込みをしてる所にやってきます(ストーカー)。
2ちゃんねる管理人からマークされた人は2ちゃんねるを見てるだけで今見てるなとバレてます(書き込んでなくても)。
リアルタイムで2ちゃんのどのスレを見てるか分かるようになってます。
2ちゃんから転載されてるブログ(アルファルファモザイクなど) を荒らすと、その情報はニコニコ管理人と2ちゃんねる管理人で共有されます。
場合によってはハッキングされたりストーカーされます。
31 :可愛い奥様@転載は禁止:2014/12/25(木) 08:13:17.30 ID:gDmdUXyO0
きょう発売の宝島に2ちゃんの運営者ジム・ワトキンスのインタビューがある
どうもジム・ワトキンスはciaか米軍の工作員の可能性が高い
だから2ちゃんにアジア分断工作のスレがたくさんあるんだろうね(アジア分断工作をしてるのはアメリカ)
2ちゃんねる=ひろゆき=ジム・ワトキンス(米軍人、cia)
ニコニコ動画=2ちゃんねる=自民党
ニコニコ動画=ひろゆき
ニコニコ動画=2ちゃんから転載されてるブログ(アルファルファモザイクなど)
NAVERまとめ=ひろゆき
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2013.09.17
2ちゃんねる元管理人・西村ひろゆきの申告漏れは悪質過ぎる!
http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2013/09/post-91ee.html
●この記事が出るまで2ちゃん管理人の"ひろゆき"は「自分は2ちゃん管理人ではない」と嘘をついていましたw
↓
2012年6月29日
2ちゃん運営会社は「ペーパー会社」 登記上の役員証言
http://i.imgur.com/R1oWjxN.jpg
ひろゆき(2ちゃん管理人)は数々の民事訴訟を抱えている。
請求されている賠償金は10億円。
ひろゆきは賠償金を1円も払っていない。
2012年6月
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/ms/1431191456/677
●2ちゃんの広告主、無修正エロ動画カリビアンコム
↓
カリビアンコム…有限会社ピエロ(本社:東京都練馬区、代表取締役:陳美娟)
http://www.peeep.u●s/3ee0ef64
↑
覚醒剤SEX動画カリビアンコムは2ちゃんの大広告主でした
昔、2ちゃんにはカリビアンコムの広告がたくさんあったんです
覚醒剤SEX動画カリビアンコムを大きくしたのは2ちゃんねる管理人ひろゆき、です
2ちゃん管理人はハッキングとストーカーをしています(ハッキングは普通にしています)
2ちゃんは匿名の掲示板ではないです そうだな、過去ログを見る限り無関係な人間を2015年からアンチのコテハンだと決めつけたり
2016年には他サイトの無関係な人間のリンクを貼りまくり
晒しスレまで作ったり。2chで誹謗中傷し放題の奴も身元を特定されて罰せられるべきだな。 全く脈絡なく脳内の誰かと話しだす、ほんこれとバレバレの自演連投
さすがにアスペまとめになるキチガイ米ぬか婆だけあるなと大笑い 新曲発表されたというのにアンチスレで必死にアンチと戦うヲタw
何がやりたいんだか、病院に行った方がいいな 過疎ってるアンチスレなんて放っておいてちゃんと本スレで応援すればいいのにね。
新曲がでても本スレの盛り上がりが寂しすぎる。ID変えて一人が自演して回してるのバレバレだし。
新曲も相変わらず葬式ソングだしテレビは安定の収録出演だろうな。
上手いと言われたいがための演出もファンにはがっかりだ。 ゴミ付2連投w
また2ch呼び鏝、アンチを誹謗中傷という支離滅裂な米ぬかがファビョってる爆
コケコッコーにちびまる子にIDコロコロ米ゆかのネタが日々増えていくわ
ここは違法スレ乱立させた無職のメンヘラ乞食を笑うヲチスレな、早く板から出ていけよ 実社会でも全方位に嫌われる引きニート婆は人稲ファンスレ板でゴネて掲示板ルールも守れないクズ
新曲新曲と2連投してファン語りしながら嫌いなウタダと本スレ板に病的に粘着してるのな
誰からも迷惑がらる底辺ゴミ人間が現実逃避して大人気芸能人に嫉妬連投とは面白い ヲタ連呼、新曲連呼でwimaxでID変えようが自演連投でしかない米ぬか低能すぎる
そういえば半角単芝もwimaxでアスペ米ぬかのコテワードだったね
この板はアンチスレ立て厳禁だから、他歌手スレも移動したし
何年も立て続けてる基地外は米ぬかのみ
ここでコケコッコー米ぬかが暴れてる限り、指差して笑われ続けるだけ ID変えても必ず返事するし必ず特定ワード使いで1日何十連投もする真性米ぬか閉経婆さん
板の住民が基地外を嘲笑してヲチしても歌手話しても違法民には無関係でくそわろ
米ぬか婆は人に飢えて十数人しか来ない当板が世界の全てだと信じる知的障害者よん こんな頭おかしい信者がいるなんて宇多田がかわいそうになる 完全に詰んで、宇多田が可哀相ーも米ぬか語でバロス
休業中も365日毎日狂った宇多田叩きして立ち去ることすら出来ない脳も精神も壊れた米ぬか死ねよ 売れないと5年以上前から異常連投してた米ぬか妄想は全て外れ
脳障害で難聴で世の中に全くついていけないから全て逆張り
で、米ぬかBBAいつ板から出ていって社会復帰するの? もう反論できないのでIDコロコロして1行の短文連投
これもアスペ米ぬかが何年も前から1日60レス連投してた頃からの癖な
・半コテ全開で以下のワード連呼
「宇多田ヲタ、信者、マンセー、糞スレ、18歳〜、メンヘラ、豚、整形、w、!、=
ヒモ、才能、AKBジャニ、歌下手、音痴、ブス、不細工、父、母、ママ、親、ザネ
鬱、暗い、売れない、売上、ファンの数、レッテル、人格攻撃、誹謗中傷、客観的に」 やっぱり米ぬかだったな
配信限定で各サイトで1位になった曲をコケコッコー
もっと売れてない大物歌手をdisるコケコッコー米ぬか 笑ったわ1位の配信曲にコケコッコー
米ぬかは当該板で今まで何万時間、何千レスと連投してるのに
まとめが出来るほど同一連投ばかりしてしまう小卒アスペルガーのヲチ物件な 久々に米ぬかID変えずに開き直ってて草生える
また米ぬか化粧水使ってるうううの話しろよ
デブスすぎて外出もできない婆さんはメイク道具を聞かれて、安いドラッグストアの
肌ケア用品の米ぬか化粧水しか知らないという片腹痛い展開な コケコッコーばかり言ってるのが図星すぎて米ぬかニワトリ婆と自己紹介してるww
しかし今夜は米ぬかチョンの火病発狂すごいな
また3年前みたいに何の意味もなく寝るまで100連投して笑われたいらしい 日本語でおk、これコケコッコー米ぬかが詰んだ時に悔しまぎれに連呼するワード
上に一覧貼られてOKに変えてるのがウケる >>295
仮想敵と戦ってる暇があったら、本スレで新曲について語ればいいのに、暇だね鬼女さんは ファンスレ板に乗りこんでアンチ名乗って荒らしてるコケコッコー婆が仮想敵?鬼女?
独身高齢引きニートのくせにお前そんな板も徘徊してるのか
荒らしのニワトリにはファンが何をしようが無関係だから笑われてる暇あれば出ていけ
この板に6年も連投して恥ずかしい自演して餌もらうのに必死なニワトリ乞食 フルボッコされてもコケコッコー婆は発達障害なのでスレに張りついて
「ファンスレと違法スレで宇多田叩きを続けるキチガイの私をほっといて
」と逆ギレ
「ファンは散々私が荒らし連投してるスレで宇多田の話してこい」
「お願いここで、宇多田叩きまくって自演させて、私は朝起きてから寝るまで
この板で宇多田叩き続ける以外にやることがないの」
「10年以上前から引きこもりで精神病で低学歴の無職婆の私は、宇多田を逆恨みしてる
もう宇多田叩きして宇多田のネットストーカーして、テレビの芸能ニュースを
見るほかに
何もやることがないの、脳が異常だからこの過疎板スレで叩けば
宇多田の売上や人気が下がると思い込んでるんだ」
というのがコケコッコー婆が今まで話してきたトチ狂った言い分 >>281
同意。このスレ見たら信者の方が絶対頭おかしく見えるよ。
宇多田さんかわいそう。信者がこんな頭おかしいのこの人くらいじゃないの? 米ぬかまだいるけど、また鏝ってて馬鹿すぎ
何年もファンスレで宇多田叩きまくって、違法スレ立て続けて板出ていかず
にIDコロコロ毎日発狂
誰が見ても米ぬかは精神異常の引きニートで社会のゴミ
狂ったように叩きまくって批判されると「宇多田さん可哀相、信者ガー」
この板でこんな狂った連投アンチがいるのは宇多田くらいな 同意ーほんそれーと毎度お馴染みのバレバレの盛大な自演に吹くわ
他歌手アンチのように板を出てスレ移動すらせず、長年ずっと居座る狂ったキチガイBBAは死ね
というのが2ちゃん邦楽板のルールを守る全住民の共通認識ですよ 板の基本ルールすら守らずに何年間もスレ立て続けてる荒らし
米ぬか婆はここにいる限り、当然ながらキチ認定で叩かれます
>2ちゃん運営規約で、邦楽ソロ女板は歌手1人あたり1スレ
本スレしか立てられないとルール規定されているので板トップの説明を一読ください
邦楽ソロ板はアンチスレや噂スレ等を個別に立てるのも厳禁が大原則です
ここに書き込みのは全て違法行為の荒らしですので音楽サロン板など
スレ立て可能な該当板に移動してください
叩き荒らし目的やスレ潰し目的ではない人は本スレへどうぞ
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1486880599/
>【邦楽(ソロ女)@2ch掲示板】
>
>
>■邦楽(ソロ女)板は、現在ソロで活動している国内女性アーティスト
>(専門板※があるアーティストを除く)の情報のうち、 本スレのみを扱う板です。
>
>
>■誘導案内
>アーティストのネタ・妄想・雑談・アンチ等は邦楽サロン板へ。
>ジャンルが特定出来るものや専門板のあるものは【総合案内&自治】を参考に各板へ。
>
>
>■禁止事項
>1アーティストにつき1スレまで!!!
>話題ごとに別スレッドを立てるのは禁止。
>アーティストの叩き・中傷目的で個別にアンチスレを立てないで下さい。 あぼーん機能は便利だなw
見えないレスばかり
いつも同じヲタ婆しか来てないのバレバレなんだから無意味なのに 半芝単芝コケコッコー米ぬか起きてきたんだな
また別人ナリ自演して気にしてないアピでいつも1人で連投してると自己紹介 ほんとだな、いもしないコテハン糠がどうとかと
ルールと移動の言葉入れときゃあぼーんで安泰。
自治厨という名の荒らしは他板でも迷惑行為で報告されてるから
ここのも出しとくわ。このアホこのスレにしか粘着してないしな。 もはや日本語も崩壊コケコッコー婆さん
突然「ほんとだな、便利だな、同意」と脳内会話して「あぼーんしてる(チラッ)」と主張するコテ
2ちゃん規約を守れと批判され、支離滅裂な発狂を続けて笑われるヲチ対象な 「もはや日本語も崩壊コケコッコ〜婆さん」も
十分理解不能な日本語だけど。
お前まさか自分はまともと思ってる?
さっさと個人情報晒して通報してきてくださいよw
ほら早く? 前からだけど相変わらず低能で意味不明なチョン米ぬか
半芝かつ単芝で鏝ってるのも、ファンスレ板で宇多田粘着連投する他に
予定も友人もない底辺人生を送る生活も5年以上変わらず惨めすぎて大笑い 最近本スレにアンチがノコノコ来るなと思ってたらこっちがこんなことになってたんだな
多分この荒らしは前から本スレにいる基地外ヲタの糖質
米ぬかだの婆とか言ってよくわかりもしないのに相手を女だと言ってることからも明確
アンチ発言食らったり倉木や浜崎と比べられて負けたと思うと
しつこく同じ文句とコピペでずっとスレを回す。半分以上こいつのコピペや
同一の内容でスレが埋まったこともある
終いにはこいつの「アンチ同一人物視」がしつこいせいでワッチョイ入れたりもあった
(ファンも自演が多かったのがわかり過疎化が進んだのでワッチョイ解除という惨めな結果に)
本スレでも迷惑な基地外ヲタなので無視をお勧めします また別人ナリ米ぬか婆さが深夜に謎言語を語ってる
この本スレ板は歌手1人につきファンスレ1本だと規定されているので
他板に移らずスレ立てしてアンチのくせに板に居座るのは全てキチガイ荒らし確定で叩かれる
そして米ぬかほどの短期間に異常連投する荒らしはこの過疎板にはいない
倉木浜崎ジャニAKBと唐突に他芸能人の名前を出すのも変な草も米ぬか婆の特徴はい終了 図星かw自治厨装った基地外ヲタね。
病院レベルだなこりゃ。 おっとすまん、↑の309さん宛てね。
唐突に意味不明な言いがかりはどっちだよなw
完全に空想の敵への憎しみで狂ってる。 スレ荒らし米ぬか婆が自治厨連呼
宇多田スレに全レス荒らしして長年1日数十連投して、IPスレでwimaxで拾い回線と
ID切り替えとスマホ回線で連投してたのもバレてる半芝米ぬか婆
こんな極度のメンヘラ乞食を擁護するのは自称俺女の米ぬか本人だけと何度言えばry
この板の全員が分かってるので深夜に1人連投しても無駄 いつものスマホとWIMAX2で自演まで始めた米ぬか閉経婆のコント
これをご参考に無様な即レス連投をご覧ください
>引きこもり無職のアンチ米ぬか婆は2年前にID切り変えてることがバレてるが
米ぬかと呼ばれるようになった経緯も笑える
452 :名無しの歌姫:2015/12/12(土) 12:34:52.96 ID:zpkE9l4J0 [10レス目/42レス]
>>449
そのレス俺のじゃないもん
457 :名無しの歌姫:2015/12/12(土) 13:09:26.55 ID:zpkE9l4J0 [13レス目/42レス]
>>456
それも俺のレスじゃないし
474 :名無しの歌姫 :2015/12/12(土) 17:10:36.67 ID:zpkE9l4J0 [19レス目/42レス]
女だしw
477 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 17:19:31.26 ID:zpkE9l4J0 [20レス目/42レス]
俺って書いたけどネナベw
だってその方が通りやすいからね。
479 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 17:23:42.52 ID:zpkE9l4J0
何なら女って証拠見せますか?
505 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 18:14:46.21 ID:qt4eDfNr0 [2レス目/2レス]
>>503
写真は嫌なので
使ってる化粧品は米ぬか美人っていう奴です
506 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 18:19:21.75 ID:zVe02fijO
>>505
おまえ、使うID間違えてるぞ…www
米ねか…美人
冗談はレスだけにしてよ〜 !!
507 : 名無しの歌姫:2015/12/12(土) 18:21:12.44 ID:zpkE9l4J0[34レス目/42レス]
>>506
勝手にID変わった
化粧水は化粧品に含まれるでしょう?
518 :2015/12/12(土) 19:58:07.86 ID:tUsmWriK0 (※また別IDで1レス目)
安物使ってると思われてもいいけど実際女だからw
520 :2015/12/12(土) 20:09:23.83 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか40レス目)
521 :2015/12/12(土) 20:10:05.50 ID:tUsmWriK0 (※また別IDで2レス目)
522 :2015/12/12(土) 20:11:38.17 ID:zpkE9l4J0 (米ぬか41レス目)
『勝手にID変わった』と言い訳して元ID使って失笑される
複数ID持ちの自演以外に自由自在にIDが変わる事はあり得ない 昔から米ぬか閉経婆が寝るとピタッと連投が止まるね
その間にファンスレで発表された新仕事の話をしても妨害皆無でニヤニヤするわ
米ぬかは起きた途端、全てのレスに絡んでID変えて連投荒らす火病を起こすからね
昔から「半芝↑=記号」や特定ワード連投や「。付き」自演は同一だと本人除いてバレてるけど
米ぬか閉経婆は発達障害だから、何年もこの板くる限り、音楽サロン板に移れと教えてやってね 精神異常でIDコロコロ宇多田叩き連投してファンスレ板から立ち去れないような
キチガイ難聴婆に歌下手だと思われてるから、長年売れ続けてる
引きこもりで社会復帰できない米ぬか婆は世間とは乖離してるからな 脳内ライブガー歌下手ガー凡曲ー駄曲ーコケーコッコーのだっけ
米ぬか婆が宇多田宇多田ーとファビョった発作起こすと分かりやすいな
ID変えて即座にこっちにも米ぬか語で書き込んでる WiMAXしか脳内に浮かばない=田舎者w
ばればれだな。 WIMAXだとバレてるのが恥ずかしくて半芝でついつい自己紹介してしまう米糠婆
いつも決まった時間に大量連投はじめるアスペらしい行動パターンだな あんたさあ板を移動して欲しいのかアンチに腹たってんのかよくわからんな。
何がしたい(言いたい)のかわからん。単なる基地外にしか見えん理由。大量連投とか幻覚も見えてるようだし。
医者行ったほうがいいよ。 ワッチョイスレでwimax2回線でIDだけ替えて米ぬかワード連投して
wimaxで拾った別回線とスマホ回線に変えても同じブラウザで米ぬかワード連投して
笑われまくった米ぬか閉経婆は、6年前から今も変わらず半芝かつ単芝鏝かつ半角記号鏝で
IDコロコロ自演連投して恥の上塗りを続けて低能を晒す日々 この人はこのスレが潰れればそれでいいから
言ってることが破綻してても構わず連呼してるだけなんだよ コケコッコー荒らし婆は発達障害の引きニートのメンヘラ基地害のため
宇多田スレで毎日40〜100レスも連投荒らしをしてきた過去6年間、同じレスばかり
・米ぬか半コテ全開で「。付き自演」しながら以下のワードを連呼
「宇多田ヲタ、信者、マンセー、糞スレ、18歳〜、メンヘラ、豚、整形、才能
w、!、=、半芝単芝、駄作、駄曲、凡曲、コケ、ボイトレ、浜崎、倉木、AKBジャニ、
歌下手、音痴、ブス、不細工、父、母、ママ、親、ザネ、鬱、暗い、ヒモ
売れない、売上、ファンの数、レッテル、人格攻撃、誹謗中傷、客観的に」
反論できなくなると1行短文の異常連投を始めるのも定番
この板は歌手1人あたり1スレのみ、アンチスレ立ては厳禁という運営側の規定を破って
ここに立て続けて他板に移らない限り、ファンスレに大量連投で荒らし続ける限り
荒らし無職婆さんは叩かれ続けるのみ >>325
宇多田の欠点を見事に集めてくれてありがとうw ID変えまくっていつ半芝、単芝をやめるんだろうかヲチしてて面白いね
しかも誰からも同意()してもらえない特定ワードを休業中も365日朝から晩まで
本スレ板にはりつき連投する脳障害の無職メンヘラ婆のゴミ人生 重度のメンヘラーなんだろ。
病んでるってものまね芸人もテレビで言ってたよな >>324
自治厨の割に俺すらリアタイで見ていない
過去からの登場人物知ってるから普通に大昔からいる基地外信者だろ。
コピペ連投で人の話ろくに聞けない基地外が確かいたはず。
アンチスレに粘着している信者は今結構多くて
避難所とか荒らし信者スレ作ろうって話が
各板であるからそこにこの重度の社会病質者の
信者のも便乗して作ろうと思うんだが。 5年前からこの過疎板でID変えて無意味な連投することに生活の全てを捧げていて爆笑
IPスレ立ちそうになると慌ててスレ乱立させる半芝単芝コテの米ぬかキチガイは
米ぬか命名時にID切り替えがバレた回線は、WIMAX2と拾った公衆回線
そしてIDの変わらないスマホ回線を同ブラで切り替え連投してると去年IPスレで確定してる
多くても米ぬか以外にキチガイ婆は1人だから次IPスレ立てて特定が楽しみ爆 規約違反の重複立て続けて、当板や宇多田叩きに凄まじい執着するとか
毎夜1〜3時台とか決まった時間に必ず半コテ連投をするのは
精神病だけではなく、脳機能障害アスペルガー患者の典型的な症状だね >>335も>>325のアスペ
18歳以降はーの妄想垂れ流し連投 アスペの意味もわからず句読点の有無だけで同一人物と騒ぐ無能が乗っ取ってるスレはここですか? 同じ事ばかり書く発達障害のパクリ空想ババア
宇多田の作る曲の音楽ジャンルを宇多田が作ったとか思ってたのかな?
邦楽歌手に何の音楽にも似てない独自の音楽ジャンルを開発した人などいませゆ 清水翔太「俺を商業ポップアーティストと一緒にすんな!俺を聞かないやつはセンスない馬鹿!」 [無断転載禁止]©2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1505222823/
エゴサすると俺よくありきたりな歌詞とかってdisられてるんだけど、それこそコマーシャルでビジネスな音楽に取り憑かれた代表みたいな人。
要は俺の曲の中でも、そういうものしか聞こえてないって事でしょ?センスないわー。なんとなくの雰囲気でアーティストを一緒くたにすんじゃーよバカ!
https://twitter.com/sshota0227/status/898169708322578433 安室に話題を全てかっさらわれて、豚田の新曲がまるで売れそうにないw 宇多田なんてそもそも売れていないのでは?
売れてると言ってるのはマスゴミとヲタだけってよくある 豚ババアは板ルールくらい守って他板のアンチスレへ行くか安室スレに行け このアンチスレ厳禁の本スレ板から離れられないと喚く基地婆さん
ひたすら売上に粘着して、デビューから個人事務所の歌手の売上が嘘だと妄想し宇多田を叩くだけの生活 >>347
引退どころか子供産むために一旦休業時にですらあんなに大騒ぎになった人だから別格だよ
普段ジャニーズか三代目だとかしか話題に出さない会社のおばちゃんですら
安室のCD100万枚売れたとか騒いでるし影響力からして比較にならんよ いくら妄想にしたくてもお前の大好きな宇多田の名前は普段聴くことが一生ないから安心しとけ この目立ちたがり性悪おばさんはさぞかし面白くないだろうなw
引退セールは人間活動とかいうなんちゃって引退で切ってしまったカードだから暫くは使えない アンチスレ禁止板に乗り込んで宇多田叩きの安室おばちゃん
日本語の板概要くらい読んで別板の基地専用スレに移動しなさい 大々的に復活したーってやっちゃったからね
全く話題にもならんかったが
未だに復帰したこと知らん人多いよ 豚さんは人間活動とか大袈裟なこと言わなきゃよかったのにな このあとやたら目がギョロギョロになったよな
黒目が全部見えるくらいにw 10年も前、コメント撮り依頼されて面白がってメタルメイクして出ただけ
それより豚呼びの引きニート豚婆さんはこの板から出て行けないコジキか きたきたwまたこいつ嘘ついてるよ
メイクでこんなに目が腫れるなら化粧品会社訴えてるレベル
こいつの宇多田に対しての疑惑への反論は全部大嘘
本スレでも平気で公式で言ってたとか
テレビで言ってたとかありもしないインタビューすらでっち上げてるから注意 CDTVコメ映像とこのMV撮影は完全に同時期だからメイクの違い
https://youtu.be/CKPA8L5ZpqU
コメ映像の1年近く前のMV
上のMVは少し痩せたくらいで大差無し
https://youtu.be/v7Ho43zuHyk メイクじゃここまで変わりません
宇多田はこんな鬼みたいな顔じゃないと思いますし
元々どんぐりまなこだからメイクしてもここまで
怖い顔にならないです
何があったかしらんが目が腫れてたんだと思います
術後なら腫れが引くの2週間くらい見てたのが3週間かかったとかそんなオチでしょうね
あとmvの撮影の時期、CDTVの収録の時期全く同じなわけないのと
整形は顔をがらりと変える目的だけじゃなくメンテっていうのもある
だから変わってない、は言い訳になりません
整形後ずっと二重でその糸が切れ一重に戻る、そこをまた二重にしたなら一重の状態を公に晒してなければ全く私たちには変わらないように見えますから 目が腫れてるならリリース無い時期のどうでもいいコメ出演なんか断ってるよ
釣り目メイクに赤紅という変なメイク出ただけで前後のメディア出演や映像みても変化なし
20代はじめは病気で太って離婚して、休業前年に大幅に痩せたのはあるけどな アンチのくせに本スレにまで粘着レス乞いしてると言い出す宇多田スレ乱立婆さん
この板はアンチスレ立て厳禁という規約があるから板を移動しろ
そんな簡単な日本語すら理解できないんですか?痴呆症ですか? 当時は地上アナログで今ほど高画質じゃないし
今ほどネットで拡散もしないだろうし
さらっと済むと思ったんだろうな
むしろ今、当時の人気でこんなんで出たらヤバイよ?
そしてこんな15周年のおめでとうコメントなんてずっと前から決まってた事は断らないだろ
そこまで自己中な人じゃないと思う
でもまあ何をどう言おうとこれは現実にあったことって事
往生際悪いなあ、別にいいじゃん整形くらい
絶世の美女になったわけでもあるまいし 板の基本ルールすら守らずに何年間もスレ立て続けてる荒らし
本スレを追い出されても、このスレに居座る人も荒らしキチガイ認定れされます
>2ちゃん運営規約で、邦楽ソロ女板は歌手1人あたり1スレ
本スレしか立てられないとルール規定されているので板トップの説明を一読ください
邦楽ソロ板はアンチスレや噂スレ等を個別に立てるのも厳禁が大原則です
ここに書き込みのは全て違法行為の荒らしですので音楽サロン板など
スレ立て可能な該当板に移動してください
叩き荒らし目的やスレ潰し目的ではない人は本スレへどうぞ
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1486880599/
>【邦楽(ソロ女)@2ch掲示板】
>
>
>■邦楽(ソロ女)板は、現在ソロで活動している国内女性アーティスト
>(専門板※があるアーティストを除く)の情報のうち、 本スレのみを扱う板です。
>
>
>■誘導案内
>アーティストのネタ・妄想・雑談・アンチ等は邦楽サロン板へ。
>ジャンルが特定出来るものや専門板のあるものは【総合案内&自治】を参考に各板へ。
>
>
>■禁止事項
>1アーティストにつき1スレまで!!!
>話題ごとに別スレッドを立てるのは禁止。
>アーティストの叩き・中傷目的で個別にアンチスレを立てないで下さい。 ニューアルバム糞だから発売延期したんでしょうね
どうせまた死んだ母親か息子をネタにした歌ばっかりでしょ
ネタが普遍的というよりヒトリよがりすぎてて重苦しいしつまんない
シングル曲以外では知的に見せようと気張りすぎて村上春樹みたいになってるし
特段思い入れのないリスナーがしらける感じが寒い
そういう意味ではゴーストを入れたかのような1stが未だに秀逸だわ
頑張ってひとりで全部印税をせしめようとしだした2nd・3rdはほんと
ヒット曲を抜いたら村上春樹のノーベル賞みたい。
ハートステーションはようやくらしさが出てきたのにトンズラして
Fantome幽霊なんてアルバムで台無しにしたわね。
宇多田のつめの垢まで全部好きという変態にはいいんだろうけど
1000万枚売れるようなアルバムを使った女が大衆性を失っちゃダメよね
1stの大衆性みたいな部分に強くゴースト疑惑を感じちゃうの。
travellingなんて金を手にした小娘のお遊びみたいに聞こえるし。
プロに任せる部分を任せれば次のアルバムは売れるのにどうせ自分で変な編曲してるんだわ
次はどんな人寄せパンダと共演するのかしらね
また気取ってそうだわw 違反スレにまでくるアンチは、本スレでも10年前の映像で荒らして逆ギレとかキモい
嫌いな歌手を粘着妄想する心の病で、邦楽ソロ板から出ていけないなら、まず外に出て病院へ アンチの独り言にいちいち食らいついたり
大嘘こいて他人を悪人に仕立て上げるお前こそ病院へ行け
明らかに人格障害だよ
違反スレだというならお前は社会のルール違反常習者
まずそのお前の都合良いことは嘘でも真実、違反でも都合よければ正しい、
逆に気に入らないことは全部嘘でルール違反とかいう独りよがりのマイルール作るのやめろ 邦楽ソロ板の規約>>368すら守らず、新曲オリアル発売から1年しか経ってないのに
次のオリアル発売を待ちわびて、売れ続けて悔しがる宇多田ノイローゼか
メンヘラ板でも該当板でも帰って好きなだけ連投してこいよ ここだけに異様に張り付いてるのはお前が1人で気に入らないからだろ
何がルールだよ
ここより先にお前が規制される方が早そうだな 馬鹿でも分かるように何度も丁寧に教えてくれてるのに乞食まだ来てるw
この板は歌手1人1スレのみでアンチスレ立て厳禁、基地スレに移動するかアンチスレ板に帰りましょう 宇多田は自分をもったいぶって大物ぶってるのがダサい もったいぶってるというよりいざ自分1人で、だとって感じ
若い時は何もしなくても曲が出来てたんだろうしw
配信のカラクリもわかったのでアンチスレ避難所に記しておく
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/24449/1510197571/l30
ここだと誰かさんがまた大嘘こいて事実を嘘ということにするからな 昔から音楽仕事と歌番組に出るくらいで露出も少ない芸能人の宇多田が嫌いで
関連スレで叩きとレス乞いだけが生き甲斐の引きニート婆さんなのは分かったから違反スレで暴れるな
アンチ基地板から出ずに自演連投しろ まあまあ悔しいからって意味不明な御託並べるなってw
暇ならDLしてあげて捏造売り上げに貢献しなてあげなよ 脳内カラクリ妄想婆さん、相変わらず白痴すぎるね
特典無し1種1枚売りの宇多田の最新アルバムは既にCDだけで70万枚売れてます
そもそも定額DLし放題サービス各社に宇多田曲など含まれていません
そして宇多田のように所属歌手1名で、他業種展開のない個人事務所は
メジャーレーベルから発売した楽曲売上が収益の殆どで売上を誤魔化すことなどできません
また楽曲売上で得た収益の半分は税金でもっていかれます
売上に拘るなら特殊な形態で発売する有名歌手を心配するか
それが嫌なら違法スレ立てせずに別板アンチスレに帰って妄想連投をしなさいね 脳内カラクリって自己紹介かよw
山口県のauひかりdionユーザー、LTEでIP切り替え
IDコロコロで自演で本スレまわしの方がよほど基地外 ちなみに384の使用機種はiPhone
気に入らないレスがつくとファンもアンチだと勝手に決め付けて
自分が責められると自演で悪にしたてルールがどうとかアンチ発言がどうとか難癖つけて
追い出しにかかるのルーティンワークで本スレを私物化してる害悪だから
宇多田も一方的に好かれてあちこちで言ってもいない言葉を言ったなど嘘つかれたりでストーキングに大迷惑 宇多田曲が定額DLし放題と嘘を語ってアンチスレを紹介した挙句
指摘されたら妄想敵に逆ギレしてアンチではないと言い出す?
邦ソロ規約まで破って本スレ板に粘着せずにアンチスレ板に帰れという結論な 山口の宇多田ストーカーはまたIDコロコロで朝から張り付いて擁護してんなあ
実際売れてたら今年の売り上げにだって反映されてるはずなのに全くカスリもしてないじゃんか
信者なら察してあげろよw 自己紹介がすぎる
板ルールすら守れずに本スレに貼りついく定額婆はアンチ板で好きなだけ糖質妄想を書いてこいよ 山口さん、同じ人間があちこちのスレで連投、自作自演装った書き込み、コピペも荒らし行為でローカルどころかネットでのマナー、ルール違反ですよ?
ここもIPは管理されてるしあんたのIPは全てわかってるんだから通報されたら二度と書き込めなくなるのはあんただよ
本スレの過去ログとかのあんたの荒らし行為、アンチの100倍酷いから アンチスレで自演連投しても人稲だから違反スレ来て、定額?アルバムが全く売なかった妄想にすがる自称ファン
アンチの自分以外に宇多田関連スレに来るのは仮想敵1人しかいないと思ってる自称ファン
アンチスレ立て厳禁板で宇多田叩いて批判されたらIP山口といいながらIDコロコロしてる自称ファン うん、こういうのが↑いるから宇多田のファン減ったんだと確信
こいつさ自分が全く同じ事を繰り返し連投してるのにIDが変わってると言うありえない現象で
自演、同一人物視されてるのに全く気づいてないんだね しかも定額ダウンロードにしつこく物申したいようだが
公式で配信ダウンロード数と言ってるわけだからこれは覆しようない事実で売上実数ではない 要するに邦女板スレを荒らして宇多田叩きながらアンチスレ往復する奴が
この邦女板で自由に叩かせてくれない本スレ民の1人に発狂して闘ってるという紹介だな
板の規定を遵守して、アンチスレ板と住み分けする事ができない理由はなに? 逆に大嘘ついてまでここのスレのみ執拗に監視して執着するのはなぜ?
過疎スレに爆弾投下して存続させてるのあんただよ?
こういう事やってたらお前と同じ事、要するに本スレにアンチスレと本スレ避難所への誘導を執拗にやるけどいいのか まず邦女板はどんなに多い歌手スレでも述べ数十人しか来ていません
もしスレ民がファンを辞めて売上が数枚減っても売上全体からすれば取るに足りません
数少ないスレ民が迷惑する位で、邦女板に宇多田スレが有っても無くてもファン数も変わりません
それから去年の宇多田のオリアル曲はCD売上は1種で70万枚突破、定額DL除外曲なので個別DL購入です
数万枚しか売れないはずだと言って叩くのは好きにすればいいですが
叩きしかせずファンを名乗って居座るのは迷惑で時間の無駄でしょう
この板の規約どおりに邦女板から出て、アンチ板と住み分けできない理由は何ですか? はい、また大嘘↑
保身のための嘘を根拠もないのに平然とつく
そんな売れてたら三分の一以下の売上の星野より話題になってるだろう
なぜならない?????
したらば避難所で自演がばれて引っ込んでもここでも丸見えですよw IDコロコロ即レスだね
要は本スレで叩き連投を止めさせるのは1人だけ、他は宇多田を叩きたいファンが大量にいると激怒してるんだね
アンチスレ立て厳禁と板トップページに書いてあるんだから守らないのは非常識な人だけ
宇多田叩きたい人ばかりなら避難所やアンチスレでも1人以外の全員で移ろうよ 個別購入だなんてどこにも発表されてない
そんな発表するアーティストは殆どおらずでよくやる商法じゃん
100万ダウンロードとかの裏は全部そんなんだし
やっぱりまずい事実を嘘に仕立てるのは本当だったね
こうやってどんどん事実が明るみに出ないように都合よくなるように嘘をついている証拠が5チャン上に増えている
この信者の愚行は拡散しなきゃいかんな 宇多田アルバム売上は70万枚だけど、自分の周りで星野源より話題にならずメディアに出てないから
数万しか売れてないのは間違いない?は?どんなアンチ脳なんだよw
まず星野源は業界最大手で音楽以外の幅広い事業展開をする上場企業に所属する歌手
宇多田は所属歌手1人で、宇多田マネージメント以外の業務のない個人事務所で6年も休業中
アルバム1枚の売上30億円と所得税など捻出など資金などない
もし宇多田家の全財産はたいてCD買って路頭に迷う位なら復帰作は出さずに30億円使って暮らすだろう
全国各地のCDショップのレジを自動集計したCD売上が各社から発表されてるので
もし全国回って70万枚もの大量のCDを宇多田事務所がどうやって買い集めてどこに保管するか考えても無理
もし少しでも売上を伸ばしたいならイベント応募ID封入や曲違いやDVDの複数盤など
今は色んな売り方があるけど何もせずにCD1枚で発売しただけしかしていない し
想定以上に売れただけ
ありえない売上妄想を書いてIPが透視できると書いてたら頭がおかしいと思われるので
少し冷静に考えるか、それが出来ないなら突っ込まれない板から出ない方がいいですよ はいはい嘘はいいから
誰からも気にされてないヒット曲があるなら教えてくれw いくら金持ちの宇多田でも個人資産30億円だしてアルバム買って活動再開したと本気で思ってるなら笑うね
そんな妄想叩きで私は本スレ板から追い出された宇多田ファンだと
単発IDで複数人が言ってるテイなら池沼揃い、妄想スレから出てくんなよ 嘘っていうより長文でID変えて自演してまで否定して。そこまで焦る内容なんだね
売上とかこのSNSで広がってるかどうかが重要なご時世に何の武器になると言うのか
捏造して売れてる事にただしても世間の空気だったら意味がない
宇多田は売れてようが売れていまいがもういつかのような勢いはないから痛いファンが1人でもいると目立つよ
マジレスするけど本当に好きなら足引っ張るのはやめよう
アンチは言わせとけってやってないと本当に潰れるよ 宇多田に30億円も貯金があって、誰かが全国回ってアルバム買って全部使って今は一文無し?
幼い子供もいるのにそれは凄いね
どんどん拡散してきてwww 宇多田ファンだけど自分は宇多田にたいして?とおもえばアンチ意見に同意するタイプだからあえて物申すけど宇多田の歌詞集恵比寿で今日見てきたんだけど買うつもりだったんだけどあまりにつまらなくて買うのやめたよ。 こんな違法スレでファンだと言い張るほど行く場所も話し相手もないのか
何千万人が使ってるSNSならまだしも、こんな板に張り付いても
世間に1ミリも影響ないんだから、自分で立てたスレ帰ろうな もう何言っても無駄なのかね、まともなファンがそりゃ本スレにいつかずにこの人のアンチスレ作るわけだ
アンチスレの方が本スレみたい
普通はファン同士結託するのに宇多田はこいつに潰されて終了ですかね
ネットしか今や生き残るすべがないのにこんなのが匿名性強い場所でこんな独裁的な自治してたら
>>407 自分も同じですが歌詞については初期から軽すぎて重視してませんでした
今はとにかく曲がクソ だからアンチスレか避難所いけよ
嫌いになったとか言い出す明らかなアンチじゃなければ本スレいけよ
歌手の本スレ1本だけの厳格なルールがある板なのに何年もスレ乱立させてるだろ
どうしてもこの板で叩きたいと違反スレに張り付くなんか、ガイジ扱いされて当然な ここがアンチスレだけど頭おかしいの?
お前が住み分けできてなくて矛盾してるのわかってるんか?
あとさあドヤ顔で毎回ルールどうのこうのとさ?
あくまでローカルルールであって絶対じゃないんだよ
だから今までほぼ削除されてない(のに削除したと大ボラ吹いたよな?お前)
あと過疎板のローカルルール程度で5ch運営陣が削除してたら人がいなくなるから
そもそも重複スレ禁止などは一時期のスレ乱立からのサーバー負荷を恐れての措置で出来たローカルルール。今のこの板には不必要なルールなんだよ
だいたいお前が自分で言ってるじゃん
「邦楽女性ソロ板には人がきていない」ってな?
自分で言っててその意味に気付いてないのか?
しかしまー宇多田の全盛期時代から時間止まっちゃってる人もまだいるんだね〜
おまけに思慮が浅くて嘘つきで間抜け
ファンは鏡とはよく言うよ。宇多田にそっくり 板の基本ルールすら守らずに何年間もスレ立て続けてる荒らし
本スレを追い出されても、このスレに居座る人も荒らしキチガイ認定れされます
>2ちゃん運営規約で、邦楽ソロ女板は歌手1人あたり1スレ
本スレしか立てられないとルール規定されているので板トップの説明を一読ください
邦楽ソロ板はアンチスレや噂スレ等を個別に立てるのも厳禁が大原則です
ここに書き込みのは全て違法行為の荒らしですので音楽サロン板など
スレ立て可能な該当板に移動してください
叩き荒らし目的やスレ潰し目的ではない人は本スレへどうぞ
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1486880599/
>【邦楽(ソロ女)@2ch掲示板】
>
>
>■邦楽(ソロ女)板は、現在ソロで活動している国内女性アーティスト
>(専門板※があるアーティストを除く)の情報のうち、 本スレのみを扱う板です。
>
>
>■誘導案内
>アーティストのネタ・妄想・雑談・アンチ等は邦楽サロン板へ。
>ジャンルが特定出来るものや専門板のあるものは【総合案内&自治】を参考に各板へ。
>
>
>■禁止事項
>1アーティストにつき1スレまで!!!
>話題ごとに別スレッドを立てるのは禁止。
>アーティストの叩き・中傷目的で個別にアンチスレを立てないで下さい。 ここを荒らすんなら同様に本スレ荒らしまくるからな
覚悟しとけクソが
お前のせいで何年も続いた避難所潰れた事がまだわからんのかクズが 避難所あるじゃんw
ここ荒らすならって?
違法スレ立てアンチスレで宇多田を叩かせろと言ってる基地外か
まさかアンチスレで粘着して宇多田叩いてる屑のくせにファンの避難所いって
スレ潰したことまで有るとはな
宇多田叩いて、どうしても違法スレから離れられないっめ発達障害アスペかよ >>413
こいつ避難所潰し前からやってたんだね?
本スレにしたらばの本スレ避難所とアンチの避難所のURLしょっちゅう貼って誘導しましょうかね
本スレ巣食う害悪が誰かなどがしたらばの各スレにあるし
したらばの本スレ避難所を荒らした証拠もバッチリ残ってます
それよりこいつ違法スレとかおかしなこと言ってるけど何言ってるか全然わかんない
ガイジとか発達とか言ってる本人がまさにそれにしか見えないって突っ込まれるの待ってんのかなw 狂った妄想で叩く人に同調もしくは自演擁護して宇多田ファンを名乗られてもな
アンチスレ禁止板で、別板に移動を促す人に噛み付いて叩きまくってファンもクソもない
宇多田が好きなら本スレか避難所、叩きまくりたいなら別板アンチスレに行け
宇多田叩きしないと生きていけない暇人でも板の規定くらい読めるだろ あっくんは京浜東北線と埼京線どっちをよく使うの?
やっぱり車文化だから電車は乗らないよね 邦楽もおもしろいけど、小遣い稼ぎの方法とか
グーグル検索⇒『増田のセンジョイウツツノ』
9HF7CXXCJU シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
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その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
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開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
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首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
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その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
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自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
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常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
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首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
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いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
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シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
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「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
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常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
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首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
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いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
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でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
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それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
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いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督はこう言った。
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サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
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自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
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指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
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指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
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「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
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でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
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それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
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いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
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でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
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自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
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常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
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聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
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シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
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いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
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セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
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常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
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イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
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でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
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「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
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いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
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セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
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常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
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首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
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イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
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同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
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当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
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自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
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指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
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首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
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イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
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それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
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「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
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イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
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でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
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それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
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「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
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「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
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イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
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それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
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「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
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いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
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首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
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イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
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シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
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セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
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常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
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実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
開幕前日。「9番・左翼」での開幕スタメンをスコット・サービス監督が発表した。
指揮官は右ふくらはぎを痛めたことや頭部死球を受けたことを振り返り、イチローの今キャンプを「クレイジー」と表現した上でこう続けた。
「最後の2日間で右ふくらはぎの状態が大丈夫であることを示してくれた。9番打者として、チームにさまざまな貢献をしてくれるはずだ」
実は、イチローには“もしや”の不安があった。それは“自分は開幕ロースターに入れるのだろうか”ということだった。
首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
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その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
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サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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550kbでは埋まらないらしい 表示が変わっただけで512kなのは変わってない
専ブラでは正しく表示されてる シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
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やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
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サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 シーズンのはじまりはいつでも高揚感を伴うものだが、2018年のイチローの歩みが、楽しみでならない。
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いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
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当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
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しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
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サービス監督はこう言った。
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故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
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自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
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首脳陣は最後の最後まで2つの選択肢を持っていた。
右ふくらはぎに不安を抱えるイチローを登録するか、それともイチローをロースターから外し、内外野を守れるユーティリティーのテイラー・モッターにするか。
首脳陣がその決断を下したのは28日午前。イチローに伝えられたのは、外野守備練習中のことだった。
指揮官から直接聞かされたその吉報に、44歳のメジャーリーガーは何を感じたか。
率直に訊ねると、彼は喜びを隠すことなく表現した。
「まず、ここ、セーフコフィールドに立つことが大きな目標でしたから。途中からは。こんなギフトがあるなんて思いもよらなかったですから。
いやーもうー、なかなかこう言う気持ちになることはない。アメリカでは少なくともなかった。ここまで我慢してくれて、最終的にこの判断をしてくれた。
(キャンプの)途中から入ってきて、ケガをして、の選手に対する扱いではないですからね、これは。
当時、仰木監督がそういう思いにさせてくれたんですけど、20歳の時ね、僕が。それに近い感覚がある、この判断は。びっくりしました」
聞き手として、心が動かされるような言葉だった。
イチローが思い起こした20歳の時の出来事。それはイチローが210安打を放ち、旋風を巻き起こした1994年シーズンのこと。
開幕してすぐ、オリックスが福岡遠征でダイエー(当時)に負けたある試合後のことだった。イチローは、そのときの光景をこう振り返る。
「帰りのバスの中は、負けたので真っ暗なんですね、空気が。僕も空気を読むじゃないですか。
同じように頭を下げて行ったら、監督がバスを降りた時に『イチロー、お前なに下を向いているんだ。ヒット1本、二塁打打って、お前はそれでいいんだ』って、
『勝ち負けは俺が責任とるから、選手は自分のやることをちゃんとやれ!』って、言われたんです、20歳の時に。
その時にこの人のために頑張りたいと思った。芽生えたんですね。
当時はレギュラーで1年目のシーズンなので、自分のことを考えてやるのが精一杯じゃないですか、当然ですよね。
でもチームのために頑張れというのじゃなくて、自分のために頑張れって、なかなか言えることじゃないですよね。
しかもこれからっていう選手に対して。それですごく心が動いた記憶が鮮明にあるんですよ。
それとはもちろん違いますけど、心が動いたと言う意味では(今回のことは)似ていますね」
シーズン210安打を放ち、大ブレークを果たした1994年のイチロー。
やがて世界歴代最多の4356安打の放つことになるその背中を後押しした故・仰木監督の「らしい」言葉を思い出させた、マリナーズ首脳陣の計らい。
サービス監督はこう言った。
「我々は選手を信じなければいけないんだ」
故・仰木彬氏には筆者も、伝説となった1988年10月19日の「川崎球場の激闘」を取材して以来、'05年12月15日に他界するまでメディアの1人として深く関わらせていただいた。
サービス監督の言葉を聞き、私もまた、お世話になった仰木監督のことを思い起こしていた。
首脳陣だけでなくセーフコフィールドのスタッフも、凱旋を温かく迎え入れている。
クラブハウスのロッカーは、6年前と同じ場所。“いつもの場所”でグラブを磨くイチローの表情は実に生き生きとしていた。
「本当、アメリカ人にも粋と言う概念がね、ないと思っていたけど、ちょっとあるかもねって、思ってしまいました」
自宅から通える環境を「最高っす」と喜んだイチロー。開幕スタメンは2013年4月1日、ヤンキース在籍時以来1823日ぶり。
セーフコフィールドに限れば2008年3月31日のレンジャース戦以来3650日ぶりとなる。
また、44歳5カ月での開幕スタメンは1998年に日本ハムに在籍した落合博満の44歳3カ月を上回り、日本人最高齢記録となった。
常に歴史を作り、日々更新していく背番号51の2018年が、いよいよ始まった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています