今年、沖縄は本土復帰45年の節目を迎えた。基地問題に揺れる民意はいまも本土と大きく隔たり、中国がもくろむ「沖縄独立」の危機はいまだくすぶり続ける。いま沖縄で何が起こっているのか。現地からリポートする。(iRONNA)



 今月、沖縄のある自民党関係者と話す機会があり「『オール沖縄』はもうそろそろ終わりでしょう」という話題で盛り上がった。「オール沖縄」は翁長雄志知事を支持し、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対する勢力だ。

 翁長知事が誕生した知事選以降、沖縄でのあらゆる国政、県政選挙を制し、沖縄の政界を席巻した。

 しかし、ここへ来て明らかに潮目が変わりつつある。政府が4月、辺野古の護岸工事に着手したためだ。今後、移設工事は後戻りできない段階まで進む。

 「オール沖縄」には共通の政治理念もなく、さまざまな政党や団体が移設反対という一点だけで結集しているにすぎない。今後も民意をつなぎとめられるか、正念場である。

 だが、当の沖縄で「オール沖縄」の終焉(しゅうえん)を感じている県民は、どれほどいるだろうか。県紙「沖縄タイムス」「琉球新報」を開けば、正義の「オール沖縄」が負けるはずがない、と言わんばかりの強気の記事ばかりだ。

 最近では、近く工事の差し止め訴訟を起こす翁長知事の主張が、法的にいかに正当であるかを力説する記事をよく見かける。しかし、実際のところ移設反対運動は、現場レベルで県民にどこまで支持されているのか。

職業的活動家

 辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前では、工事を実力で阻止しようと反対派が座り込み、機動隊から連日のように排除されている。私の見たところ、反対派は20〜30人といったレベルであり、機動隊を押し返すほどの勢いはない。

 沖縄という土地の特徴は、現地の住民と少し話しただけで、その人が沖縄出身の「ウチナーンチュ」か、本土出身の「ヤマトーンチュ」か、容易に判断できるケースが多いということだ。言葉のイントネーションが大きく違うからだ。

 辺野古で機動隊による強制排除の現場を取材すると、明らかに本土出身者のイントネーションで「美(ちゅ)ら海を守れ」「警察権力の乱用だ」などという絶叫が聞こえる。比較的若い世代は、県外から流入したと思われる職業的活動家がほとんどのようだ。

 辺野古に行って反対派の話を聞いたり、リーダー格の演説に耳を傾けたりすると、それは歴然となる。最前線の反対運動は間違いなく、本土出身者が一翼を担っている。沖縄出身者はもちろんいるが、辺野古住民はほとんどいない。

 しかし、それは反対派もメディアも決して発信したがらない「不都合な真実」だ。

本土との微妙な関係

 沖縄出身者と本土出身者の微妙な関係をめぐっては、沖縄メディアにも同じような状況が存在する。

 安倍政権に不祥事が起きれば「安倍一強の緩み」という決まり文句の記事が氾濫するように、彼らに沖縄の記事を書かせれば、ほとんど「政府が沖縄の民意を踏みにじり、基地建設を強行している」という例文通りになる。本質的に、当事者ではなく傍観者なのである。

 沖縄は6月23日に「慰霊の日」を迎えたが、この日に向け、地元のある民放テレビ局が特集を組んだ。それは辺野古で座り込む一人の高齢者に焦点を当てた内容で、彼は「戦争につながるすべてのものに反対する」と言い切る。

 アナウンサーは「辺野古には、この人のように戦争を体験した多くの高齢者が座り込みに参加しています」とナレーションを入れる。県民の負担軽減策である辺野古移設が、戦争準備の新基地建設であるかのような印象操作番組だ。

 とはいえ、沖縄ではこのような番組に対する批判の声を全く聞かない。作り手も受け手もあまり違和感がないようだ。沖縄では県紙2紙の寡占状態となっている新聞をはじめ、あらゆるメディアがこうした状態であり、おそらく慣れてしまっているのだろう。

【プロフィル】仲新城誠 なかしんじょう・まこと 八重山日報編集長。昭和48年、沖縄県石垣市生まれ、琉球大卒。平成11年入社、22年から現職。

http://www.sankei.com/premium/news/170702/prm1707020018-n1.html