神戸山口組から分裂し、「任侠団体山口組」を結成した織田絆誠代表(50歳、以下敬称略)は在日韓国人3世(本名は金禎紀)だ。「ヤクザの世界は人種差別がないと信じて、この世界に飛び込んだ」と語る彼が、どのようなルーツと家族に囲まれて育ったのかについて、ノンフィクション作家の溝口敦氏が綴る。

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 戦前、織田の祖父である金燕西が朝鮮半島の南に浮かぶ済州島から合格した法科大で受講しようと大阪に来住した。彼は弁護士を志望したが、事業面に進んだ。後に「大阪府協和会」の副会長になり、大阪・淀川区で軍需工場を営むなど「親日派」として名をなした。

「協和会」は日本の朝鮮支配の時代、内務省や警察を中心とした統制機関で、1936年、厚生省は全国各府県に協和会をつくり、1939年、中央協和会を創立した。

 1945年(昭和20年)空襲で淀川の工場は灰燼に帰し、祖父は全財産を失った。その子供は通名を「織田新一」といい、敗戦後のどさくさ時にヤクザになった。子である織田が語る。

「敗戦の焼け野原。父親は自暴自棄もあったんでしょうけど、幼少で早くも世の中をなめたんでしょうね。当時としては恵まれていて柔道もボクシングも習った。梅田の阪神百貨店裏(通称「阪神裏」)にそのころ西日本で一番大きいヤミ市があった。父親はそこで顔を利かし、ステゴロ(素手での喧嘩)ではナンバーワンといわれた。そこでの兄弟分が酒梅組傘下の張本正来組長です」

 織田には5つ上に姉、2つ上に兄がいる。2人とも堅気だが、姉は男まさりで気性が激しく、織田が服役中、組を預かって西成で賭場を開くなど、「織田のねえ(姐ではなく姉)」といわれたほど。父親は人がいいばかりで稼ぎがない「懲役太郎」。短期刑が多かったが、よく服役した。母親は子供を食べさせねばならず、夜ホステスをして帰りは深夜に及んだ。姉が織田の親代わりになったという。織田が語る。

「父親は怒ると怖い。殴りに殴った上、男なら泣くなという。だけど父親からも目一杯愛情をもらいました。男とは、人生とは、と教わり、笑われるかもしれないけど、喧嘩の仕方や警察に取り調べられたときの心構えも教わった。後にヤクザになる自分にとっては、恵まれていたかもしれません」

 どういう教えだったのか。

「実例を言うてましたね。昔、大阪府警はとくに調べが荒っぽかった。取調中に暴行する。そういう場合は『中途半端な真似するな』と怒鳴り、取調室の扉のガラスに自分から頭を突っ込む。血だらけになると、相手はパッと引く。こいつは普通のヤクザと違うなと思わせる。

 子供時代、バカやから自分でそれを実践しました。取調中に暴行を受け、父親の話を思い出して、『中途半端にやるなー』と叫んで、自分で自分の頬を右手で殴りに殴った。腫れ上がり、目がふさがるほど殴ったら、取調官は『止めろ。もう分かった、もうええ』と。これも父親の教育ですね。気迫は本気であれば出る。それがハッタリだと見透かされる。

 父親も喧嘩、ストリートファイトをやっとったんです。知らないもん同士がぶつかり、こいつ、やるか、となる。そういうとき、人の心理は知らないものを大きく見て、こいつは修羅場をくぐってるんじゃないか、強いのではと感じてしまう。しかし、これは錯覚なんや言うてました。

 相手も同じなんや。向こうもこちらを知らない。知らない者同士は互いに相手を大きく思ってしまう。そこを乗り越えろ。サシでやったら実際は強くなかったと何度も体験した。気で飲まれたらあかん、と」

 きわめて実践的な教えに思える。

※週刊ポスト2017年7月21・28日号


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2017.07.16 16:00