志位和夫(日本共産党委員長)、及びその側近である穀田恵二(同国会対策委員長)、小池晃(同書記局長)らが、加計学園の問題をはじめ、国会中継で視聴者が顔をしかめるような汚い言葉を吐いているのは、どのような訳だろうか。
自らが正しいと思うのならば、どんな言葉を浴びせてもいいのだろうか。
彼らの根底にあるものは「暴力」そのものといっても過言ではない。
日本共産党が内に隠しているその姿とは? 長年「共産党」を追い続けた元公安警察が真実を語る。

1、混迷の日本

あれから何年経っただろう。
明治維新、第二次世界大戦、そして戦後の復興を経て、今現在、日本という国はまるでセミの抜け殻になってしまったかのようである。
そんな今こそ、数々の国難を乗り越えてきたはずの日本人の原動力はどこにあったのか。
そして何が日本を経済大国にし、何が日本民族を守ってきたのかを考えなければならない。

その答えはあまりにも身近なところにある。
しかし、その核心部分については最後に触れることにしょう。
まずは、日本をダメにしようとしている巨大組織について明確に示す。

■精神至上主義を捨てさせられた日本人

日本がノーベル賞自然科学部門で米国に次ぐ第二位の受賞者数を誇ることは、周知の通りである。
日本は戦前戦中の精神至上主義から、足場を科学という世界に置き代えた。
それが今日の発展をもたらしたことは論を待たない。
だが、人文科学、自然科学、社会科学というそれぞれの分野において、日本という国における「社会科学」の貧困を感じるのは筆者1人ではあるまい。
仮にその他の科学やテクノロジーが発達したとしても、それが社会全体の進化と豊かさにつながっていなくては何もならない。

そもそも社会科学とは、「自然と対比された社会についての科学的な認識活動およびその活動によって生み出された知識の体系である。
人間の社会の様々な面を科学的に探求する学術分野の総体」である。
そのような観点から、疑問に思うことがある。
今日の混迷した国会のあり様、そして国ぶりに鑑みるに、本当に「社会科学」が真摯に探求されているのだろうか、という疑問である。

■共産主義の野望

ズバリ我々日本人は「共産党(共産主義)」のことを知らなすぎる。
それこそが、現在の日本の衰退を招いていることに気がつかなければならない。
資本主義社会の矛盾を科学的に追求するとして「科学的社会主義」を党是としている日本共産党だが、その実態は「科学」ではなく「暴力」で社会主義社会を実現しようとしているのだ。

しかし、それを隠すために「科学」という言葉を使っている。
こうした言葉のすり替えにより、彼らがその凶暴な姿を隠蔽していることに気が付かなければならない。
「暴力」を「科学」だと言って憚らぬ政党が、暴力的体質を隠したまま存続しているのが日本という国家なのだ。
詳しく説明していこう。

■巧妙なすり替えと共産主義の歴史

日本共産党は1922(大正11)年に「共産主義インターナショナル」(通称コミンテルン)日本支部として結成された。
これは、ロシア革命を成功させた後、「世界同時革命」を計画していたトロツキーらによって「革命の輸出」としてもたらされたものだった。
もちろん、基本理念は旧ソ連と同じく、共産主義革命に反対する者すべてを「人民の敵」「反動勢力」とみなして弾圧するという「プロレタリアート独裁・暴力革命論・階級国家観」の“3理念”を掲げたものだった。

これは共産党を否定する者すべてを排除する「共産党独裁」を意味するもので、旧ソ連で聖職者や非共産主義者が差別、強制労働、投獄、殺害等、あらゆる残虐方法で抹殺された事実を考えればその恐ろしさがわかるはずだ。
だが、当時の貧しい日本人にはこの理念が響いてしまった。
意外にも共産党が36議席を取るなど国民の支持を得たのである。

これについて当時のアメリカは、社会実験として日本でどのように共産主義が根付くかをモニタリングしていた立場から、大変興味深く日本をみていたという。
そして1951(昭和26)年、日本共産党は「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」が決定され、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」と暴力を全面肯定する方針を打ち立てる。

http://tocana.jp/2017/08/post_14176_entry.html

※続きます