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中国共産党の公式発表では「事件による死者は319人」とされているが、実際は定かではない。劉氏は犠牲者を減らした「四君子」とも称されたが、事件後に「反革命罪」で投獄された。

服役中にノーベル平和賞を受賞

北京五輪が行われた2008年、劉氏は「08憲章」を複数の知識人と起草してインターネットで発表する。中国共産党の一党支配を批判し、三権分立や直接選挙の実施などを訴えたものだった。

「08憲章」はインターネットを通して世界中に広がり、多くの賛同者を得た。しかし、劉氏は国家政権転覆扇動罪に問われ、2010年に懲役11年の実刑判決が確定する。それ以来、遼寧省の刑務所で服役することになる。

服役中の2010年、劉氏はノーベル平和賞を受賞する。受賞理由は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」こと。授与の決定は「全会一致」だったという(読売新聞 2010年10月9日)。

発表後、刑務所に面会に訪れた妻の劉霞(リウシア)氏に向かって涙を流してこう語ったという。

「賞は天安門事件の犠牲者に捧げられたものだ。僕はその代表に過ぎない」
――朝日新聞デジタル 7月13日<不屈の闘志、非暴力貫く 天安門事件、武器の所持許さず 劉暁波氏死去>
中国政府は妻が代理として式典に出席することを認めなかった。家族の代理出席が認められなかったのは、ナチス・ドイツの強制収容所にいながらノーベル平和賞を受賞したカール・フォン・オシエツキー以来のこと。
授賞式で壇上に上がったのは、誰も座っていない空の椅子だった。「私には敵はいない」と題された陳述書は、空の椅子の横で読み上げられた。中国政府はインターネットで「空の椅子」という単語での検索を禁じた。

拘束や逮捕は4度にわたる。国内では出版も講演も許されなかった。天安門事件の民主化リーダーの多くは国外に逃れたが、劉氏はそれでも国内にとどまり続けた。劉氏は友人にこう語ったという。

「中国の自由、民主、憲政の希望は民間にあり、僕の根はここにある。中国の問題はここで生活する人が解決するしかない。圧迫と恐怖の中で生きたい人はいない。時間はかかるかもしれないが、みんな気づくときがくるはずだ」
――朝日新聞 7月13日<不屈の闘志、非暴力貫く 天安門事件、武器の所持許さず 劉暁波氏死去>

劉氏は中国出国の機会を放棄し、自分の自由も放棄した。近年でも担当弁護士によると、罪を認めれば釈放してやるとどれだけ言われても、決して応じなかったという(BBC NEWS JAPAN 7月14日)。

中国のネットに「空の椅子」の画像が投稿された

劉氏の文章は中国国内で読むことができず、インターネットで検索することもできなくなった。それでも劉氏の思想と活動は中国で民主化を求める人たちに受け継がれていく。

劉氏の死後、中国のインターネットには「空の椅子」の画像の投稿が相次いだ。当局に逮捕される可能性もあるが、人々は投稿をやめなかった。生前の劉氏が語っていた通りだ。

「どのような力も自由にあこがれる人間の欲求を阻止することはできない」
――毎日新聞 7月15日<社説:平和賞の劉暁波さん死去 自由への欲求は消せない>

7月14日、劉氏の「遺稿」とされる文書が香港のインターネットメディアによって報じられた。写真家だった妻の劉霞氏が出版を予定している写真集の序文として書かれたものだ。

序文を依頼した劉夫妻の親友・G氏は、取材に対して劉氏の音声メッセージが存在したことを明かしている。それは次のようなものだった。

「私のことは心配しないでください。私はこれでも、かなりしぶとい方なのです。今まで色々なことを経験しました。これくらいのこと何でもありません。私はきっと最後まで頑張ります、劉霞のためにも……」
――ハフィントンポスト 7月18日<「私たちは愛の眼差しで満ちていた」劉暁波氏の『遺稿』公開。愛する妻に捧げた最後のメッセージ(全文)>

劉氏が最後に病院で治療を受けている短い期間、妻は夫の世話をすることを許された。それまでは手紙のやりとりも検閲され、妻も長期間にわたって軟禁されていた。2人はつかの間の再会を喜んだという。

暴力を憎み、言論と対話で中国の民主化と平和を実現しようとした劉氏。その不屈の魂の源にあったのは、もっとも身近な人への愛だったのかもしれない。2009年の陳述書ではこう書かれていた。

(続く)