>>1の続き)

「ところが、天皇というものはそれほど堂々たるブルジョアではないんだ。もし天皇がたらふく喰っているような堂々たるブルジョアであったら、革命というのはもっと容易であった。それでないからこそ、革命はむずかしいんじゃないか。

そして、そのむずかしさの中でだね、諸君は戦い、ぼくだって戦っているんだ。それは日本の民衆の底辺にあるものなんだよ」(同書)

彼独特の面白くて激しい表現ですが、この言葉の中に、日本の長い歴史の中で誰一人として天皇と皇室の廃止に実際に手をつけなかった、あるいはつけられなかった理由の一つが隠されている気がします。

天皇は自らの奢侈な生活のために、国民を犠牲にするような存在ではなかったのです。長い歴史を通じて、ヨーロッパの王侯貴族のような贅沢な生活を送っていた方が、どれほどいらっしゃったでしょうか。

むしろ天皇は、質朴ともいえる生活の中で、日本国民のために祈る存在でした。そのことを日本人もよく知っていたからこそ、天皇を打倒するような革命は起きえなかったのです。

1969年当時の全共闘の学生たちは、まさに戦後すぐに生まれ、GHQによる占領下で成長してきた人たちです。彼らが天皇を拒絶しようとしたのは、まさにGHQの望んだ洗脳の成果でしょう。

あるいは、ソ連やコミンテルン(共産主義インターナショナル)が長年進めてきた、日本革命に向けた運動の帰結かもしれません。

しかし、そのような環境でつくりあげられてきた「愛国心」や「天皇」についての誤解とタブーから、ついに日本人が解き放たれるときがきているようです。いや、それはもう多くの日本人にとっては、現実に起きていることかもしれません。

誰がなんといおうと、天皇陛下は平和をお望みです。

日露開戦前夜の明治天皇も、真珠湾攻撃前夜の昭和天皇も、そして被災地や大東亜戦争の激戦地に足繁く通われる天皇皇后両陛下も、そのお心では常に、国民の平和と安全を祈願してこられました。

天皇皇后両陛下は、戦没者や災害で亡くなった人たちへの鎮魂と、明日の復興、そして未来への希望のために全身全霊を捧げておられます。そして、そのことを熟知する人が、確実に増えています。

これまで日本人が追ってきた「理想」は何だったのか。日本人が生命に代えても護ろうとしたものは何だったのか。このようなときこそ、それをもう一度、日本人は振り返るべきではないでしょうか。

もちろん、GHQのWGIPなどの結果、日本の中で極限まで澱み、腐りきってしまって、ひどい腐敗臭を放っている勢力や利権構造も厳然として存在します。

しかし、あなた自身はどうでしょうか。あなたの魂は、澱みきり、腐臭を放つドブの中にあって朽ち果ててしまったのでしょうか。あるいは今もなお、昔と変わらぬ強い光を放っているのでしょうか。

もしそれがまだ、かつてと変わらぬくらいの純粋で明るい光を放っているのだとしたら、偽善的で欺瞞に満ちた戦後日本の薄暗い社会の中で、知らず識らずのうちにそれに被せてしまった黒い布を、そっと外してあげてください。

そして、じりじりと強く輝く自分の魂のあり方を決して恥じることなく、その光を次の世代の人々に分けてあげてください。光り輝く魂は、皆さんがその人生を終えた後も、さらに次の世代へと受け継がれ、永らく続いてきた、この日本という国の素晴らしいかたちを護っていくに違いありません。

それが、未来の若者に引き継がれていくさまを、私はもう少しだけこの国にいながら見つめていきたいと思っています。

※本記事は、ケント・ギルバート著『ついに「愛国心」のタブーから解き放たれる日本人』(あとがき)より、一部を抜粋編集したものです。

(おわり)