2017とくほう・特報 加害・被害の歴史を見つめて――戦争遺跡保存運動 高知 ここに戦争があった

戦後72年、戦争体験者が数少なくなる中、戦争遺跡を史跡や文化財として保存し、平和のために「戦争」を語り継ぐ活動に生かす取り組みがすすんでいます。「戦争遺跡保存全国シンポジウム」(保存シンポ)が開かれていた高知の運動を紹介します。(阿部活士)

遺跡のなかでも戦争遺跡とは何か。「近代日本が繰り返し行ってきた戦争によってつくられ、残された構造物や跡地です。戦争遺跡は本物のもつ臨場感や迫力があり、そこに立てば歴史と空間を共有できます。想像力を発揮して追体験もできます。“戦争”を学び、加害・被害の歴史の扉を開く場です」

こう話すのは、保存シンポを主催する戦争遺跡保存全国ネットワークの共同代表で、高知県立埋蔵文化財センターの調査員だった出原恵三さんです。現在、平和資料館「草の家」の副館長です。

田んぼの中に掩体

出原さんの案内で、戦争遺跡のある南国市の田園地帯を歩きました。まず目をひいたのは、高知空港に近い田んぼに点在する巨大なコンクリートの塊です。高知海軍航空隊の飛行機の格納庫だった掩体(えんたい)です。

当時、敵の攻撃から飛行機を守るために掩体が41基、滑走路につながる誘導路が網の目のようにつくられました。いまは掩体だけが7基残っています。一番大きいもので、幅44メートル、奥行き23メートル、高さ8・5メートルあります。

保存運動が実って2006年、南国市史跡に指定されました。南国市教育委員会発行のパンフレット『掩体は語る』には「1941(昭和16)年1月から1944(昭和19)年にかけて軍用飛行場として国に強制的に買い取られ」て、ひとつの村(三島村、263戸)が丸ごと消滅したと記されています。

出原さんの研究(論文「高知海軍航空隊と関連遺跡」)によると、日中戦争で海軍は中国の首都・南京を、海をこえて爆撃した際、中国空軍などの反撃で大打撃をうけて零式艦上戦闘機(ゼロ戦)開発に乗り出します。

高知海軍航空隊もゼロ戦の訓練飛行場として計画されましたが、最終的には偵察員養成の訓練航空隊として発足しました。

掩体づくりの作業をしたのは「中学生、近くのお母さん、高知刑務所の受刑者、朝鮮半島から強制的に連れてこられた人々などでした」「もの言わぬ掩体ですが、無言のうちに戦争の悲しさ、平和の大切さを訴えています」(同パンフ)

天井に煤(すす)けた跡や壊れた食器など生活臭が残る掩体がありました。「ここは、強制連行された朝鮮の人が戦後のある時期まで暮らしていました」と出原さん。

掩体の表面がえぐられた跡を指さしながら

「米軍は沖縄戦上陸前に西日本の海軍基地をたたく攻撃に出ました。この跡もアメリカのグラマン戦闘機の機銃掃射をうけた弾痕です。日本軍は、その後“本土決戦”に備えた陣地づくり(穴掘り)を急ぎました。この戦争遺跡からも、沖縄が“時間稼ぎ”に使われたとわかります」といいます。

水際で米軍をたたく当時の軍の作戦がわかるのが南国市の久枝海岸に残るトーチカです。巨大な真っ黒なコンクリートの塊。高知県内に58基も残っています。

掩体は、千葉県茂原市(11基)、大分県宇佐市(10基)、北海道根室市(6基)などにも残っています。本土決戦に備えて1945年につくった陣地は全国各地に残っています。出原さんは次のように強調します。

「歴史という縦軸で戦争遺跡をみると、日本の近代の富国強兵政策は東アジアや中国などへ戦争をする地域を広げに広げたけれど、結局、追いつめられて最後は日本に集中します。

しかも、武器も燃料もなく山に穴を掘ることしかできなかった。悲劇を超えて喜劇です。おろかなことです。そのおろかさに気がつき反省して歴史に向き合わないといけない」

細菌戦の体験者も

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-08-22/2017082203_01_0.html

>>2以降に続く)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-08-22/2017082203_01_0c.jpg
(写真)岡村さんに現在のハイラルの写真をみながら証言する731部隊の生き残り兵・谷崎さん(右)