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【中国】ブームに沸く“聖地”梁家河村 「泥だらけの青春」を過ごした習近平氏 男泣きのワケは?[9/01] [無断転載禁止]©2ch.net
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2017/09/01(金) 18:21:48.51ID:CAP_USER
中国14億人のトップに君臨する習近平国家主席には若い頃、陝西省延安市の農村で苦労した経験がある。文化大革命時代、都会の若者たちは「農民から再教育を受けよ」と田舎に送り込まれた。6年後、村を離れる際には涙を抑えきれなかったと振り返る習氏。汗と泥にまみれた青春時代は人生にどんな影響を与えたのか。8月中旬、習氏の原点ともいえる農村を訪ねた。



北京から飛行機で約1時間半、陝西省北部の延安に降り立った。周囲の山々には土色の山肌がのぞく。

延安は、中国共産党の長征の終着点で“革命の聖地”として知られる。毛沢東率いる紅軍が蒋介石の中国国民党軍に敗れ、1934年から36年にかけて、南部・江西省から延安まで1万2500キロを踏破した。

当時、毛沢東や周恩来らが居住した窯洞(ヤオトン=黄土を掘って作った横穴式住居)が残っている。45年に第7回党大会が挙行されたのも延安だ。当時の党員は約121万人だった。

それから70年余り。今秋、北京では第19回党大会が開かれる。昨年末の党員数は約8944万人。欧州連合(EU)最大のドイツの人口を上回る。その党組織の頂点に立つのが習近平国家主席(党総書記)だ。

習氏は53年、北京で生まれた。父親は元副首相の習仲勲氏。長征の際、毛沢東が到着する前の延安などで拠点の整備に当たり評価された。子供の頃の習近平氏は、党幹部が集まる北京・中南海に居住するなど極めて恵まれた環境で育った。

しかし62年、父親が政敵によって反党活動をでっち上げられて失脚、生活は暗転した。66年に文化大革命が始まると、習氏は「反革命分子の子弟」と非難される苦難の時代を迎える。

69年には他の青年たちと同様、「上山下郷運動」に参加させられた。都会の知識青年を地方に送り、労働教育を受けさせるというものだ。その下放先が延安市中心部から約60キロ離れた農村、梁家河−。

ときに習氏、15歳の冬だった。

□ □

梁家河村の入り口には、巨大な駐車場が整備されていた。次から次へとバスが観光客を運んでくる。

大半が中年以上の男性たちだ。ガイドに従って、習氏ら当時の青年たちが整備した井戸や住居跡などを見て回る。気温29度。流れる汗をぬぐわずにメモを取る人が多い。

村のレストランの店員は「5月以降、観光客がどんどん増えている」と話す。村によると、その数は1日平均2500人。村の常住人口が110人なので、毎日20倍以上の人の波が押し寄せていることになる。

日陰のベンチに腰掛け、トウモロコシにかぶりついているお年寄りがいた。姓を「梁」と名乗ったその男性は88歳という。

もしや、と思い、「この村で働いていた習近平さんを覚えていますか?」と尋ねてみた。

顔中にしわが刻み込まれた梁さんは表情も変えず、「ああ、一緒に仕事をしたものさ」「力持ちで頑張っていた。すぐに仕事を任せられるようになった」と淡々と語った。「まさか、あんなに偉くなるとはな。想像もしなかったよ」。このときだけは相好を崩した。

恐らく、梁さんの記憶に残る習氏は69年秋以降の彼だろう。なぜならば、同年1月に他の14人の青年とともに村に入った習氏は3カ月後には、ひとり北京に戻ってしまったからだ。

村の厳しい暮らしに耐えられなくなったのである。

□ □

村での仕事は人糞を運んで堆肥をつくり、畑を耕し井戸や灌漑(かんがい)施設を整備する汗と泥にまみれた肉体労働だった。

もちろん、習氏だけではなく、当時の都会の青年たちは下放を経験している。

李克強首相は18歳から約4年間、安徽省の農村で働いた。王岐山・中央規律検査委員会書記も20歳から約3年間、習氏と同じ陝西省の別の農村に下放された。

ただ、習氏が一般と異なるのは、15歳の若さで農村に赴き、6年間もの長期にわたって農民として過ごしたことだ。失脚した父親の影響以外考えられない。

習氏はのちに、国内メディアなどを通じて当時のことを述懐している。

http://www.sankei.com/premium/news/170901/prm1709010003-n1.html

>>2以降に続く)
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2017/09/01(金) 18:22:10.89ID:CAP_USER
>>1の続き)

「延安に向かう列車の中で(他の青年たちは)みんな泣いていた。笑っていたのは私だけだった」。それだけ父親失脚後の北京生活が辛かったのだろう。

だが、農村の暮らしは甘くはなかった。

「最も我慢できなかったのは、ノミだ。私の皮膚は敏感で、かまれると赤くはれて、かゆくて痛くてたまらなかった」

そして、とうとう「私は年齢も若い。仕事を始めても身が入らず、北京に逃げ帰ってしまった…」

そのことは、現在、村が展示しているどの説明板にも記されていない。

しかし、北京に習氏を受け入れてくれる場所などなかった。結局、北京でも工事現場で汗を流す日々を送る。4カ月あまり後、梁家河村に舞い戻ってきた。

習氏が変わったのは、それからである。

□ □

習氏はまず、延安地方の方言を覚えることから始めた。力仕事を先頭に立って行った。井戸の水質が悪くなると、率先して井戸の中に入り、たまった泥などを取り出した。

習氏は暇ができると読書をしていたという。しばしば習氏の窯洞を訪ね、彼の蔵書をむさぼり読んだ村の青年がいた。

習氏より1歳若いその青年の記憶では、中国の『水滸伝』のほか、ロシア革命前後の激動期を描いた、旧ソ連の作家ショーロホフの『静かなドン』、同じく旧ソ連の作家オストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』などの本を借りて読んだという。彼は後に教師になった。

その頃、習氏が村の人に贈った本がある。本を開いてみると、『…革命烈火試真金 平凡小事出英雄』という漢詩がしたためられていたという。

75年には陝西省の地方の会議で「北京から来た知識青年、習近平同志は毛沢東主席の教えを忠実に守り、最も学習し村の仕事に積極的に貢献している」と称賛されるに至った。

習氏が父親のハンディを乗り越えて、中国共産党への入党を果たしたのは74年、20歳のとき。その年、村の党支部書記にも選ばれ、名実ともに村のリーダーとなった。

北京ではその頃、父親と同じ改革派の●(=登におおざと)小平が復権を果たしていた。

□ □

村では今、習氏が過ごした窯洞が3カ所、公開されている。

すべて補修されてきれいに整備されているが、土の上で寝起きをする大変さは容易に想像がついた。しかも狭い。一番初めに住んだ窯洞では、堅い土の上に布団を敷いて6人で寝ていたという。

梁家河村を訪れているのは、地方の党関係者・政府職員が多いようだ。研修の一環なのだろう。警察組織の団体も見かけた。もちろん一般市民も少なくない。

延安から家族で来たという張氏(62)は「孫の世代にも私たちの苦しかった青年時代を少しでも分かってもらいたいね」と語る。

主婦の王さん(29)は陝西省の他の町から夫と生後6カ月の子供と来た。「習主席が実際に過ごしたところを見て親しみがわいた」と話していた。

村にはホテルもあった。窯洞形式で1泊160元(約2600円)。約2年前にオープンしたという。

村によると、観光客が急増したのは習体制が発足した2012年以降で、これまでに約190万人が訪問したらしい。

こうした観光収入をバックに、伝統的に小麦やトウモロコシを作ってきた村では近年、リンゴの栽培が盛んになり、畜産業にも手を広げている。

村民の平均年収は1984年に169元だったのが、2007年には3112元にアップ。さらに12年には7917元と急増し、昨年は17987元(約30万円)を記録した。額面では約30年で収入が百倍になった計算だ。

習氏はこう評している。

「この小村の変化は改革開放以降の中国社会の発展進歩の縮図である」

□ □

(続く)
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2017/09/01(金) 18:22:22.52ID:CAP_USER
(続き)

1975年10月、習氏の6年以上にわたる農村生活もいよいよ終わりを告げるときがやってきた。

北京の名門、清華大学への推薦入学が認められたのだ。以後、習氏の人生は一転し、父親の名誉回復(78年)もあいまって出世街道を歩んでいくことになる。

北京へ向かう出立の日の朝、村中の人々が列を成して見送ってくれたという。本がいっぱい詰まったカバン2つを持った22歳の習氏。最後にはこらえきれず、男泣きに泣いた。後にそう述懐している。

村の青年12人が一緒に30キロを歩いて隣町まで送ってくれた。習氏の宿で語り明かし、翌朝、みんなでお金を出し合って撮った記念写真が今に残る。

他の知識青年たちより長期間の農村生活を余儀なくされた習氏。汗と泥にまみれた梁家河村の青春時代は彼に何を残したのか。

自ら振り返ってこう語っている。

「私にとって2つの大きな収穫があった。まずは、何が事実なのかを知ったということだ。一般大衆(の生活)とは何かを学んだということである。これは一生の財産となった。そしてもう1つは、自分を信じることの大切さについてだ」

「その後、困難にぶつかったとき、『あの当時のことを思えば、解決できない問題はない』と考えるようになった」

「私を育ててくれたのは延安だ。陝西省は私の根であり、延安は魂だ。私は夢の中で何度、延安に戻ったことか…」

習氏は梁家河村を離れてから2度、訪れている。

最初が18年後の1993年。福建省の省都、福州市トップの党委員会書記となっていた。その際、村の小学校建設を援助している。

2度目が最高指導者に就任した後の2015年。村始まって以来の一大イベントとなったのは言うまでもない。

ただ、習氏は村の人たちが準備したお土産を一切受け取ろうとしなかった。

腐敗・汚職撲滅キャンペーンを進める習氏としては、党内の反対勢力から揚げ足を取られるようなことはできなかったのだろう。

村で食事をしたときも、習氏は「90元(約1500円)」を支払い、領収書を受け取ったという。

□ □

延安市内の“革命の聖地”にも、党・政府関係者の団体が押し寄せていた。毛沢東が江青と住んでいたという窯洞はさすがに立派で、ベッドもあった。習氏の若い頃とは雲泥の差だ。

ただ、居住していた窯洞が党員らの学習の場と化している点では、習氏はすでに毛レベルと言っていい。

「毛沢東のように主席制を導入しようとしている」「『毛沢東思想』のように『習近平思想』を党規約に盛り込もうとしている」

秋の党大会を前に、さまざまな観測が流れている習氏。真偽は定かではない。しかし、一歩一歩、毛沢東に近づいている−その足音だけは新たな聖地、梁家河村ではっきりと聞こえた。

(中国総局長)

http://www.sankei.com/images/news/170901/prm1709010003-p1.jpg
1973年当時の習近平氏(左から2人目、梁家河村の展示資料から)
http://www.sankei.com/images/news/170901/prm1709010003-p2.jpg
1975年10月8日、大学に入学するため梁家河村を離れる22歳の習近平氏(前列中央)と村の仲間ら(村の展示資料から)
http://www.sankei.com/images/news/170901/prm1709010003-p3.jpg
http://www.sankei.com/images/news/170901/prm1709010003-p5.jpg
http://www.sankei.com/images/news/170901/prm1709010003-p7.jpg
習近平氏が寝起きした梁家河村の窯洞内(藤本欣也撮影)
http://www.sankei.com/images/news/170901/prm1709010003-p6.jpg
梁家河村(藤本欣也撮影)

(おわり)
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2017/09/01(金) 18:42:01.73ID:sxtnODHH
少なくとも安倍よりも高学歴で苦労人だからな
習近平さんはな
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