「愛日家」蔡焜燦さん逝く

台湾の蔡焜燦(さい・こんさん)さん(1927〜2017年)が亡くなった。最近体調が優れないと人づてに聞いてきたので、「とうとうその日がきた」という思いだった。

蔡焜燦さんは18歳まで「日本人」として生き、大戦末期には志願して陸軍少年飛行兵になった。戦後は教師からビジネスに転身し、うなぎの輸出などを手掛けた。

セイコー電子台湾法人の会長を務め、台湾のシリコンバレー・新竹(しんちく)で半導体デザイン会社を創業して成功した企業家でありながら、「愛日家」を自負して、日台交流や台湾歌壇の活動に心血を注いだ。

私が朝日新聞台北支局長だった2010年前後、しばしば食事に連れていってもらった。最初にお会いした時に「中国語」という言葉を使うと「北京語と言いなさい」と直されたことを思い出す。

大の美食家で、食事の場所はたいてい兄弟大飯店や国賓大飯店の台湾料理の店だった。私が「中華料理」というと「台湾料理」とここでも直された。

歴史から文化に至るまで、話の中身がいつも濃く、内容を覚えきれないぐらい勉強になった。もちろん日本のことは私よりも詳しく、外国で外国人から日本のことを教わる奇妙な感じであった。

老台北の日本精神

私は早くに父母両方の祖父を亡くしているので祖父というものを知らなかったが、なんとなく台湾にいる祖父のように勝手に感じていた。それでもここ数年はお目に掛かる機会がなく、この訃報にはなおさら残念な思いだった。

もちろん私など、蔡焜燦さんの知遇を得たあまたの日本人の末席にいるにすぎない。蔡焜燦さんと知り合った日本人で、最も有名で、かつ大きな影響力があったのは司馬遼太郎さん(1923〜96年)だった。

週刊朝日連載の司馬さんの人気シリーズ「街道を行く」で台湾が取り上げられたのが1994年。その内容は後に『街道を行く 台湾紀行』(朝日文庫)で一冊の本にまとめられている。

本の中で蔡焜燦さんは「老台北」と司馬さんに名付けられている。実際のところ、蔡焜燦さんは台中出身であったが、「老北京」に比した司馬さん一流の表現だった。老台北は『台湾紀行』全体のあちこちで登場し、物語を引き締める役割を負った。

百戦錬磨の司馬さんが、蔡焜燦さんに会う時は、いささかの緊張感を持っていることが『台湾紀行』の文面からはうかがえる。

『台湾紀行』と対を成す書物が、蔡焜燦さんの『台湾人と日本精神』(小学館)である。日本で14版を重ねるロングセラーとなっているこの本は、『台湾紀行』と表裏一体の役割を負っている。

蔡焜燦さんが、司馬遼太郎さんと初対面のとき、軍隊式の挙手の敬礼を行ったことは『台湾紀行』で描かれているが、『台湾人と日本精神』では、敬礼を受けた司馬遼太郎さんは、少しためらいながら蔡焜燦さんに答礼し、

挙手の右手をなかなか下ろそうとしないので、蔡焜燦さんから「そちらが上官だから先に下ろしてください」と言われて、司馬遼太郎さんはようやく右手を下ろしたという、『台湾紀行』にはないエピソードが語られている。

司馬遼太郎さんは蔡焜燦さんを「冗談とまじめの境目がわかりにくかった」と評した。まったくの同感である。話しているうちに蔡焜燦さんのペースに巻き込まれ、あっという間に対話の時間が終わってしまうのである。

日台の民間大使

もう一人、2000年の政権交代直後に刊行された『新・ゴーマニズム宣言 台湾論』(小学館)を描いた小林よしのりさんは、蔡焜燦さんをどう表現しているだろうか。改めて『台湾論』を本棚から引っ張り出して読み返してみた。

蔡焜燦さんに宴席を設けてもらった小林さんは蔡焜燦さんについて「蔡さんは日本人より日本のことをよく知っていて、日本人より日本のことを愛している人で、民間人でありながら日本と台湾の外交を引き受けているすごい人だ」と評している。

これに対し、蔡焜燦さんは「小林さんの読者の若い人が台湾に興味を持って来てくれたら何人でも私がご馳走(ちそう)してあげるよ」と語っている。

http://www.nippon.com/ja/column/g00430/

>>2以降に続く)