>>1の続き)

他にも「五箇条の御誓文」を読んで考えましょう、とか、イギリスの権利章典と大日本帝国憲法とを比較しなさい、といったかなり高度な設問が用意されています。

この教科書の記述を見る限り、戦前の日本帝国主義を単なる侵略思想として切り捨てていないことがわかります。日本を反面教師として、中国の近代化を進めていこうという意図が強く感じられるのです。

日本は帝国主義発展の中で「虐殺」を起こしたが、逆に言えば、「虐殺」のような行為を除けば、日本から学ぶべきことは多い、というスタンスがはっきり表れています。

中国の教科書は、「帝国主義とは元々そのようなものである」という、リアルな構造分析が非常にしっかりとできています。では、日本の帝国主義が誤った方向に進んだ「カイロス」(タイミング)はいつだと書かれているのでしょうか。

〈1872年に日本は中国台湾島と日本の間にある琉球諸島に進出し、琉球国王に自国を日本領であることを認めるよう促した。琉球は従来中国の属国であり、清政府から爵位を得ていた。2年後、日本は海難に遭った船員が台湾で殺されたことを理由に、出兵した。
台湾人民は勇ましく抵抗し、多くの死傷者が出た。日本は代わりに清政府に賠償を迫った。弱腰の清政府は譲歩し、日本に50万両の白銀を支払った。1879年、日本は正式に琉球を自分のものにし、沖縄県とした〉(同前)

沖縄を日本の版図に組み込んだ「琉球処分」は「中国侵略」の第一歩であり、日本の「帝国主義」の過ちの始まりでもあると規定した上で、こう続けます。

〈1894年に日本は甲午戦争(日清戦争)を起こし、清国政府に勝利して下関条約を締結した。条約によって台湾と澎湖諸島は割譲され、日本に2億両以上の賠償金を支払った。これから日本の中国侵略が始まった〉(同前)

日清戦争の敗戦によって、台湾を割譲し、ここから本格的に「侵略」が始まったとしています。

しかし、その後の、日本の中国進出の記述に関しては、我々が「反日」教育と捉えられるような記述は少なく、むしろ、あっさりとした文章が目につきます。

〈1931年、日本侵略軍は九・一八事件を起こし、中国東北軍駐屯地を砲撃し、瀋陽を占領した。半年もたたずに東北部の全土を占領した〉

〈1932年1月、日本侵略軍は中国上海を襲撃し、一・二八事変を起こした〉

〈1932年3月、日本帝国主義は廃された清朝皇帝溥儀に手を貸し、傀儡として利用し、中国東北部で偽満州国を造り上げた〉

〈日本の全面的対中侵略戦争の脅威に対し、国共両党が内戦を中止し、抗日民族統一戦線を結成し、全国民が奮い立って抗戦をはじめた〉(『歴史(1) 必修』)

以上は、満州事変、上海事変、満州国建国、国共合作についての記述です。この辺りの視点は、一昔前の日本の「進歩主義史観」と大差はありません。その中で、私が注目したのは、「田中上奏文(田中メモランダム)」の扱いです。

「田中上奏文」は、田中義一首相が、昭和天皇に「中国侵略と世界征服のために満蒙を支配下に置く」と上奏したとされるものです。「上奏文」は反日のプロパガンダとして作成された偽書として知られ、昭和初期から日本政府は強く抗議していました。

しかし中国では、これをあたかも史実であったように扱っており、教科書でも「田中上奏文」に依った記述を見ることができます。

南京事件の記述

南京事件は次のように記述されています。

〈日本侵略者は至る所で、放火、殺戮、強姦、略奪と悪事の限りを尽くした。1937年12月、日本軍は南京を陥落させた後、南京の平和居民に対し、非人間的な、悲惨凄愴な虐殺を行った。6週間で30万人を超える身に寸鉄を帯びない平民と、武器を下ろした軍人たちを虐殺した〉
(『歴史 選修3 20世紀の戦争と平和』人民教育出版社)

虐殺の被害者数30万人は、中国が勝手に主張している数字ですが、その数は「日本の侵略」の象徴になっています。それを頭に入れたうえで、次の記述を読んでみてください。

〈1945年8月6日と9日、アメリカは日本の広島と長崎に、それぞれ一発の原子爆弾を投下し、30万人近くの死者を出した〉(同前)

広島、長崎の原爆の死者は、それぞれ約20万人、約7万人だったと日本の教科書には記載されています。ところが、中国では、犠牲者数を合算し、30万人近くと表記しているのです。

これは恐らく数字の偶然の一致ではないでしょう。

(続く)