日本書紀には、「僧侶・曇徴により日本に製紙術と紙文化が伝えられた」
という記述はない 「絵の具や紙墨をよく作り、さらには碾磑(中国の
石臼)も作った」とあるのみ

かつてはこれが「紙を作る」ことの初出だったことと、この後に続けて
「思うに、碾磑を作ることは、この時より始まったのだろうか」とある
ので、製紙もこの時からと解釈されてきたが、製紙がこのとき始まった
のだとすれば、碾磑同様、そのように記述されてしかるべきで、この
ときに製紙方法が伝わったと見るのは謝りとの指摘もある。

日本書紀における曇徴に関する記述はこの部分のみ 朝鮮側の資料で
その存在は確認されているのか?