もし稲作が「中国→朝鮮半島→日本」という流れで伝来したとするなら、古代朝鮮人は中国から「b遺伝子」の稲だけを
導入せず、一方で日本に対して「b遺伝子」の稲を持ち込むという先端科学技術を持っていたことになるな。
中国と日本には「b遺伝子」の稲が存在し、朝鮮半島には「b遺伝子」の稲が存在しないのだからそういうことになる。w


「基調講演 イネと稲作の日本史」 佐藤洋一郎 静岡大学農学部助教授
抜粋
★遺伝子は、遺伝情報の担い手で4種類の塩基(A,T,C,Gと書くならわしである)の並びによって必要な情報
を書きあらわしている。一方DNAには、何の遺伝子情報も持たないのりしろのような部分が存在する。
★SSR領域とは、AAAAA・・・や、TATATA・・などのように、短い配列(Simple Sequence)の繰り返し(Repeat)
のことで、頭文字を取ってSSRと呼ばれるが、SSR領域はこの「のりしろ」の部分に多くが見つかり、何の情報
も含んでいず、個体や品種のSSR領域の配列には変形版が非常に多い。
この、変形版が多いという性質を利用してイネの品種をきちんと区別できるようになる。

●中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。
これらには小文字のaからhまでの字があてられる。aからhまでの変形版がどこに位置するかを調べると以下
の図のようになる。
http://inoues.net/study/ssr.jpg

●中国には8種類全ての変形が存在し、朝鮮にはbを除く7つが存在するのに、日本の品種の多くはaまたはbに限られている。
●aからhのタイプが「中立」だった事を考えると、日本列島に運んでこられた水稲の量がわずかだった、という推論が成り立つ。
(このあたりはちょっと理解できなかった。)
●SSRの多型を調べてみたら、以外にも日本列島に渡ってきた水稲が小さな集団でしかなかったことがわかる。
弥生時代に、多量の水稲が水田耕作の技術とともに渡来したという従来の史観には大きな疑問が生じる。
●従来、稲の伝わってきたルートは朝鮮半島経由だというのが考古学の結果から推論されていた。
しかしSSR多型の観察からは、もう一つの渡来の経路が想定される。
●それは、8遺伝子のうちb遺伝子が朝鮮半島の在来品種の中に見つからないという点である。にもかかわらず、中国と日本には高い
割合で分布している。おそらく過去には、中国大陸から直接日本へ到達するモノの流れがあり、b遺伝子を持つ水稲もそのルートを
経てきたものと思われる。また、a遺伝子は中国ではそんなに高頻度では分布しないが、朝鮮半島と日本列島には高い頻度で分布す
る。この遺伝子は朝鮮半島を経てきたと推測できる。
●唐古鍵遺跡と池上曽根遺跡の炭化米からもこのb遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥生時代中期(宇約2100〜2200
年前)の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた
事がわかる。すなわち、2000年前、明らかに中国大陸からb遺伝子を含む水稲が、近畿にも渡来してきたことが実証できるのである。
http://inoues.net/study/japonica1.html