豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜98年)の際、秀吉子飼いの武将・加藤清正が虎狩りをした様子が、当時の朝鮮人の日記に記述されていたことがわかった。「清正の虎退治」については朝鮮から虎の肉を届けた清正に秀吉が宛てた感謝状など、事実を裏付ける史料はわずかしか残されていない。専門家は「虎狩りの日付や様子、理由をほぼリアルタイムに伝える貴重な史料だ」と評価する。

 日記は、朝鮮王朝時代の在野の文化人・呉希文オヒムンが、秀吉軍の侵攻から1601年までの9年間、避難生活のなかでつづった「瑣尾さび録」。1962年に韓国で出版されたもので、名古屋市千種区の元中学教諭栗本伸子さん(85)らが8年かけて翻訳、自費出版し、虎狩りの記述が見つかった。

 1595年3月4日付の日記は、呉希文が郡役所の報告書や知人の「趙希軾」から入手した情報として、2月24日に「賊」が軍を総動員して虎狩りに出掛け、虎2頭を捕らえた、という内容。同3月12日付では、この虎狩りについて、「賊将清正」が大事にしていた愛馬を食い殺されて激怒し、軍勢を出して虎を捕らえた、などと詳しく記していた。清正は当時、釜山の北東約30キロの西生浦城を守備しており、虎狩りはその付近で行われたとみられる。

 朝鮮出兵時の虎狩りを巡っては、秀吉の側近が秀吉の薬用に虎の肉や内臓を塩漬けにして送るよう武将らに指示した書状や、虎の肉が届くたびに秀吉が武将らに宛てた感謝状が残されている。清正宛ての感謝状も1通あるが、捕獲手段や時期、場所などは不明だった。

 当時の秀吉軍は明・朝鮮連合軍に対し劣勢だった。清正が持ち帰ったと伝えられる虎のあごの骨を所蔵する名古屋市秀吉清正記念館の朝日美砂子学芸員は「将兵に厭戦えんせん気分が広がり、『太閤たいこう秀吉様のため』とは言いづらく、『愛馬の敵討ち』と偽ったのだろう」と話す。

 清正宛ての感謝状は4月12日付で、瑣尾録にある虎狩りの約50日後にあたる。朝鮮出兵に詳しい九州大学の中野等教授(日本近世史)は「瑣尾録に記された虎が秀吉に届けられた可能性が高い」とした上で、「武将たちは各地で虎の被害に遭っていた。秀吉に献上するだけでなく、駆除目的の虎狩りもあったのではないか」と話している。

 

 ◇清正の虎退治 後の初代熊本藩主・加藤清正(1562〜1611年)が朝鮮出兵の際、馬や小姓をかみ殺されたことに怒って虎を捜しだし、自ら仕留めたという伝承。江戸時代後期の「絵本太閤記」で紹介されたほか、浮世絵や芝居などで盛んに取り上げられ、勇猛果敢な清正像が定着した。


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読売オンライン 2018年10月25日