【文禄・慶長の役】清正の虎退治 朝鮮側に記録[2018/10/25]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜98年)の際、秀吉子飼いの武将・加藤清正が虎狩りをした様子が、当時の朝鮮人の日記に記述されていたことがわかった。「清正の虎退治」については朝鮮から虎の肉を届けた清正に秀吉が宛てた感謝状など、事実を裏付ける史料はわずかしか残されていない。専門家は「虎狩りの日付や様子、理由をほぼリアルタイムに伝える貴重な史料だ」と評価する。
日記は、朝鮮王朝時代の在野の文化人・呉希文オヒムンが、秀吉軍の侵攻から1601年までの9年間、避難生活のなかでつづった「瑣尾さび録」。1962年に韓国で出版されたもので、名古屋市千種区の元中学教諭栗本伸子さん(85)らが8年かけて翻訳、自費出版し、虎狩りの記述が見つかった。
1595年3月4日付の日記は、呉希文が郡役所の報告書や知人の「趙希軾」から入手した情報として、2月24日に「賊」が軍を総動員して虎狩りに出掛け、虎2頭を捕らえた、という内容。同3月12日付では、この虎狩りについて、「賊将清正」が大事にしていた愛馬を食い殺されて激怒し、軍勢を出して虎を捕らえた、などと詳しく記していた。清正は当時、釜山の北東約30キロの西生浦城を守備しており、虎狩りはその付近で行われたとみられる。
朝鮮出兵時の虎狩りを巡っては、秀吉の側近が秀吉の薬用に虎の肉や内臓を塩漬けにして送るよう武将らに指示した書状や、虎の肉が届くたびに秀吉が武将らに宛てた感謝状が残されている。清正宛ての感謝状も1通あるが、捕獲手段や時期、場所などは不明だった。
当時の秀吉軍は明・朝鮮連合軍に対し劣勢だった。清正が持ち帰ったと伝えられる虎のあごの骨を所蔵する名古屋市秀吉清正記念館の朝日美砂子学芸員は「将兵に厭戦えんせん気分が広がり、『太閤たいこう秀吉様のため』とは言いづらく、『愛馬の敵討ち』と偽ったのだろう」と話す。
清正宛ての感謝状は4月12日付で、瑣尾録にある虎狩りの約50日後にあたる。朝鮮出兵に詳しい九州大学の中野等教授(日本近世史)は「瑣尾録に記された虎が秀吉に届けられた可能性が高い」とした上で、「武将たちは各地で虎の被害に遭っていた。秀吉に献上するだけでなく、駆除目的の虎狩りもあったのではないか」と話している。
◇清正の虎退治 後の初代熊本藩主・加藤清正(1562〜1611年)が朝鮮出兵の際、馬や小姓をかみ殺されたことに怒って虎を捜しだし、自ら仕留めたという伝承。江戸時代後期の「絵本太閤記」で紹介されたほか、浮世絵や芝居などで盛んに取り上げられ、勇猛果敢な清正像が定着した。
https://www.yomiuri.co.jp/chubu/news/20181025-OYTNT50000.html
読売オンライン 2018年10月25日 >>2
熊のお兄さんが虎なの?
そいつはトラクマになるなあ 朝鮮半島から虎が絶滅したのは日帝時代だよね
我々日本人は、朝鮮半島におけるあらゆる罪を背負っているのかもしれない > 当時の朝鮮人の日記
全部燃やされたんじゃないのか? > 『太閤たいこう秀吉様のため』とは言いづらく、『愛馬の敵討ち』と偽ったのだろう」と話す。
憶測だろ? >>27
距離が距離だし現地調達もお察しだろう事を考えると、充分な補給が常にあったとも考えにくいし
戦線伸ばせず膠着してた時期もあったんじゃないかな? >>39
> 現地調達もお察しだろう
明がにげるとき
放火したからな。
現地調達もそうだが、日本軍にたよってきた
現地住民保護でおおわらわ。 >>8
過去に何度も加藤清正の大河化の話もあり、決まりかけたこともあったが、
そのたびに朝鮮人社員や朝鮮にむやみに気を使うNHKだったため、見送られてきた。
決まりかけた時も、やたら気を使いすぎて見送り、その代わりに平将門に
変わった経緯がある。朝鮮人がNHK内にいる限り、加藤清正の大河ドラマ化は不可能。 >>8
朝鮮人の特性がよく表れていて高評価!
しかしこの事実は後世になると
日本の武将に脅された朝鮮人村人が泣く泣く王子を差し出し
朝鮮王子は気高くそれに理解を示した‥‥とかなんとかになります
ウェーハハハー >>40
蔚山城とか飢えて大変だったからな
漫画の「へうげもの」では清正自ら茶碗をかじっていたし
その経験を活かしてか、熊本城の畳や壁は食べられる素材で作られていると言われている 朝鮮人は、自らの民族を虎に例えるが、それに因む遺物や故事成語、人物などはあるのかね
中国はとにかく多く、日本もそれらを出典にした言葉が今も使われているけど >>45
檀君神話では熊と虎が人間になるために修行したが、虎は失敗してなれなかったという話が
後、朝鮮の昔話のお決まりのフレーズとして「虎がタバコを吸っていた頃」というのがあるらしい 名古屋市秀吉清正記念館なんてあるのか
愛知県人だけどしらなんだわ 太閤さま、寅食ったんだ…すげえわヤッパ。益々尊敬するわ♪ >>41
加藤剛の清正か…見たかったな。
風と雲と虹と…純友が緒方賢だったな…。
あのころの時代劇スターは皆死んでしまった。
生き残ってるのは近藤正臣や島田順司くらいだ…。 >>47
中村区にあるよ!
尾張には太閤様や統一前の記念館、意外と少ないんだよね。
京都や三河、近江のほうが多いんじゃないかな。
尾張大納言さまから明治〜昭和までの資料館は一杯あるのにねえ。 まぁ、甲子園に住むダメ虎なら退治も簡単なんだろうけど。 だがちょっと待ってほしい
加藤清正は実は強制連行韓人のキ・ヨンマスではないのか?検証してみよう >>1
どうにもいかがわしいなあ。
元の日記が偽書でないのか、検証しないと簡単には信用出来ない。
朝鮮半島の資料事情に関して、猜疑心を持ち過ぎなのかもしれんけど。 虎を斬ったのは清正の家臣の菅和泉じゃなかったっけ?疋田豊五郎の疋田影流の弟子だったとか 菅和泉は加藤清正じゃなくて黒田清隆の家臣だったわ
朝鮮で虎退治したんだよ確か >>57
黒田清隆って明治時代だろw
時系列めちゃくちゃだな、おいw >>55
1962年なら信用できると思う
56年前だからまだ漢字が理解できる人が多かっただろうし、
歴史コリエイトする余裕のなかった時代だから >>1
林が時々使うウリは虎ニダの方の虎ならそら退治されるだろうな。弱いし >>2
朝鮮通信使が日本に虎の皮を大量に持ち込んだが、皮革加工技術が無く生皮だったせいで
ほぼ全部腐ってて使い物にならなかったって記録があるんだが、虎を絶滅させたのって
結局おまエラじゃないの? 山賊や虎が出没する陸路で
中国文化の経由地になるはずがない
中国 → 日本 → 朝鮮半島(海岸)
ってのが文化派生の常識だろう >>2
韓国にトラがいないのはDMZで封鎖してるからだよ >>58
黒田長政だったわwww
菅和泉が虎を斬った太刀も現存してたはず 長政自信も争って虎退治に出かけて
大将が軽々しいと叱られたエピなかったっけ キムチの発明者で有名な清正公か。清正漬、がなまってキムチって名前になったんじゃねーの? >>1
>名古屋市秀吉清正記念館の朝日美砂子学芸員は「将兵に厭戦えんせん気分が広がり、『太閤たいこう秀吉様のため』とは言いづらく、『愛馬の敵討ち』と偽ったのだろう」と話す。
?
今回翻訳された半島の記録でも愛馬の為ってあるのに、このアカヒ美砂子学芸員は何を根拠に発言してんの? >>65
何やらしてもほんと朝鮮人は駄目だなぁ(笑) >>72
>秀吉の側近が秀吉の薬用に虎の肉や内臓を塩漬けにして送るよう武将らに指示した書状や、虎の肉が届くたびに秀吉が武将らに宛てた感謝状が残されている。
日本の資料にこういう記録があるからだろ
何で朝鮮の記録は全面的に信じて日本の記録は認めないんだ?
もしかしてお前は朝鮮人?
朝鮮人は絶対に正しくて日本の記録は全部嘘だと思ってる? >>66
>流石2000年来の仲良し韓日友好友好
それを言うなら『日鮮友好』だろう!
歴史的な王朝である檀君も箕子も衛満も李氏も全て『朝鮮』である。 >>1
虎退治の記録がはっきり残ってるのは黒田長政で、清正の話は創作って言われてるんじゃなかった?
何れにしろこれは清正の逸話を知った鮮人の捏造の可能性もありそう 熊本のボシタ祭りは清正公が朝鮮を滅ぼした祭りということでFA? >当時の秀吉軍は明・朝鮮連合軍に対し劣勢だった。
そうなのか? >>67
中国起源のものを朝鮮起源で主張できるのも清正公のおかげ テレビ見て事実だと思ったんだろう チャンぐむ現象だ >>8
加藤清正は私怨で石田三成と対立し豊富滅亡の原因となった
思慮に浅く強欲で無能な男なので大河には向かん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています