【中央日報】豊臣秀吉の目に留まった朝鮮茶碗、日本に渡って国宝に[11/6]
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「私が死ぬ前に望みがあるとすれば、この窯を復元して朝鮮の茶碗を作ることだ。実現すれば500年間余り途切れた朝鮮茶碗の真の再現となるだろう」。
3日、慶尚南道昌原市鎮海(チンヘ)の熊川(ウンチョン)陶甕址展示館で会った崔熊鐸(チェ・ウンテク)沙器匠(64)は2002年に発掘された6つの窯跡を眺めながらこのように語った。この日午後、後輩の学者と共に、忘れられた朝鮮陶工125人の第19回追悼祭をした直後だった。
熊川宝賠山井谷にある熊川陶甕址の窯跡は1500年代初めから低品質の茶碗を焼いていたところだ。生活に使う茶碗で、高麗青磁から朝鮮時代の白磁、または粉青沙器として作られた。
しかし1598年、100年を満たすことなくここは閉窯となった。丁酉再乱(慶長の役)が終わる頃、熊川陶甕址の陶工とその家族125人が退却する日本軍に強制的に連行され、窯跡の火が消えて命脈が途絶えたのだ。
朝鮮茶碗は壬辰倭乱(文禄の役)前後の16世紀後半から日本で注目された。当時壬辰倭乱を起こした豊臣秀吉が朝鮮から持ち帰った茶碗を「井戸茶碗」と呼んで茶会を開き、その時に使った茶碗が日本国宝26号に指定された「喜左衛門井戸茶碗」だ。当時から朝鮮の茶碗は井戸茶碗と呼ばれ、その後、連行された朝鮮陶工らが長崎平戸島など各地で作った。井戸茶碗は今でも日本で最高の茶碗として評価されている。
この茶碗をおよそ500年ぶりに朝鮮陶磁器の由来地の一つ、熊川で再現し、朝鮮沙器匠の脈を受け継いでいるのが崔熊鐸氏だ。豊臣秀吉が絶賛した井戸茶碗も熊川で作られたものと崔氏らは推定している。
崔氏は鎮海宝賠山の近くで生まれた。幼い頃から山のふもとのあちこちに落ちている陶片に接して育った。そして30余年前から宝賠山のふもとに「熊川窯」を作って朝鮮陶磁器の脈を継いでいる。崔氏は「山に埋まっている陶片が師であり、私の学習の場だった」とし「日本に渡った先祖とその子孫が作った作品を見ながら再現している」と話した。
崔氏はほとんど毎日、宝賠山に登る。茶碗に使われる最も重要な材料の三白土(白色・黄色・赤色)を手に入れるためだ。崔氏は「ほかの地域の土で作れば熊川陶磁器ではない」と語った。
三白土を松の枝にのせ、その上に雨水を注いで濾過した後に熟成させれば粘性を持つ粘土となる。この粘土を轆轤に乗せて茶碗を制作した後、牡蠣の殻で作った釉薬を塗る。朝鮮陶工の方法を同じだ。
客を迎える崔氏の応接室には宝賠山で発掘した陶片が並んでいる。陶芸を学んだことがない崔氏にとってその陶片は唯一の師だった。崔氏は「この陶片を見ながら土、釉薬、成形、火の強さなど茶碗を作る方法を習った。言葉のない師匠」と話した。
熊川茶碗といえば自然の美しさと素朴さだ。崔氏が作る茶碗にもその特長がそのまま表れている。轆轤にのせられた粘土を成形する時に素朴さを残し、一年に3、4回ほど窯焚きをする。1000点ほどの茶碗が窯に入るが、生き残るのはわずか10点ほどだ。残りはすべて割れて土に埋められる。
これまで崔氏の弟子は10人ほどいる。一部は崔氏と共に、一部は独立して熊川陶窯の脈を受け継いでいる。
崔氏には最後の夢がある。発見された窯跡のうち原形が残っているところで朝鮮陶磁器をを再現することだ。「土から茶碗を作る人に欲などない。最後の望みがあるとすれば、先祖の窯跡で昔のやり方で朝鮮茶碗を焼くことだ」。
https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=246814&servcode=400§code=400
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]2018年11月06日 08時52分
https://i.imgur.com/tuM8xh3.jpg
壬辰倭乱当時に日本に連れて行かれた熊川の陶工125人の追悼祭をする崔熊鐸氏。写真下は井戸茶碗(中央フォト) >>15
信長の三段撃ちにより蜂の巣になり秀吉の次元断で真っ二つになり家康の糞投げによりンコまみれになって無残に惨めに死ぬだろう 儒教世界では、職人なんて日本で言う穢多非人だよ。だから消えて無くなった、それだけ。 チョーセンジンには 侘び寂びなんて 絶対に理解できないのだろうな
当時の茶器の名品の中には
東南アジアでは ごく普通に使われていた陶器もあるのだがw 昔の朝鮮人も現代韓国人の醜悪さは想像出来なかっただろうな。自らの子孫がこれほどまでに腐敗し永遠の被害者として隣国、日本に君臨すべく手段を択ばずに難癖をつける
民族と成り下がってしまった。 一種のカルトに近い茶人たちが、朝鮮雑器を抹茶茶碗として見立てたのが
始まり、小便壷として使うフィリピンの甕を珍重したのもこの風狂。
肉厚の高麗陶磁はシナの磁器とは比べ物にならないくらい技術的価値が低い。
上野の国立博物館に時代物の茶器がうやうやしく飾られているが、今でも簡単に写しが作れるものなので
なんかアホらしい。 茶道の価値観はある意味異質。
磁器の本場中国で低品質なモノと評価されたものが日本では茶道のワビサビで高評価されていく。
その感覚は浮世絵を名作と評価する欧州の人々と同じなのだろう。
青磁から白磁、黒磁、絵付きと好みが変わり日本の有田焼が世界マーケットで勝ち残っていく。 >>376
3つめのでHP全快しよるがな(´・ω・`) 秀吉が驚いたとしたらそれがどんな名品であれ
それを使って汚物を拾い上げた時だと思う >>1
危ない
絶対に盗み出すつもりだ。
この井戸茶碗、マジで朝鮮人の目の触れないところに保管しないといけない。
あいつら倭寇の時代に盗まれたと因縁をつけた実例もあるからな。 >>1
価値を決めるのは日本人。日本人に愛でられてそのものに価値が出る。
チョンの審美眼、物差しは糞の役にも立たない。何の意味も無い。 >>391
ウリナラファンタジーではそう教えてるのかwwwwさすが文化の通り道ですらない韓国ですね 高麗青磁→支配者の磁器
李朝白磁→庶民の雑器
利休はじめ好事家の茶人の目に留まったのが
刷毛目べったり、形も歪な李朝白磁
庶民の雑器にプレミアをつけたと言ってよい
大量に作られたので現に今でも値が安く手に入りやすい >>387
おそらく当の朝鮮人も中国人や西洋の国の人もこの価値観を持ち合わせていないと思う。
日本人独特すぎる美意識でしょ。つまり他の国では年代的な価値しかない。 >>306
利休は裏ではブローカーをやっていて
秀吉の敵に武器を売ってたんだよ。
茶人の顔した大商人だった。それに秀吉は気が付いた >>1
「茶碗の価値は箱書きで決まる」ということを、彼らは知っているだろうか?
100円ショップで売っている大量生産の器でも、利休が箱書きをすれば国宝級って世界なんだぜ。 >>383
そうだな。だが、ウチの地方にある戦国時代の城の御殿跡では中国陶磁の破片がたくさん出土した。
日本のカワラケも同様たくさん出土した。
つまり、当時の上流階級の日常使いの食器は(高級)磁器、庶民は陶器を使っていたということ。
やはり、茶道の器は特殊だと思う。 落語の演目にもあるね。
権力者が変わるとバッサリ捨てる民度と
権力者が変わっても、残して行こうとする民度の違いだな。 日本に来なかったら只の茶碗でしょ?
陶工も日本で焼かなかったら只の焼き物職人。 陶磁器は土か肝心だから連れて来られた最初は大変だったと思う
適した成分を含んだ土探しから始まったはず
だから職人を外からから連れてこようが日本産になるんだよ >>374
何か上の記事を読むと、陶芸を学んだ事が無いって有るような?
つまり、誰かに弟子入りして技術を学んだとかじゃ無いよねえ?
釜の復興は良いんだけど、何かおかしくないの?
日本には、この系統の技術を学んだ子孫現存してるのに? 誰も聞いてないのに一人でアホなウリナラファンタジー語ってるやつ林だろ?同じ在日にも馬鹿で朝鮮学校でいじめられてたやつの知識なんて何の役に立つの? >>391
土器みたいな須恵器を使ってたけど、平安時代からは釉薬使った陶器が国産されてる
ただし、朝鮮陶工がくるまで磁器は国産できなかった キュビズムみたいなもんだな
権力者がいいね!って言っただけ 侘び茶の道具としての価値。
その価値観はあくまで当時の日本の支配者階級で作られたもので、その枠の中で最良のものということであって、朝鮮井戸自体が工芸的な技術に優れていたわけではない。
このおっさんはわかってるっぽい。 やめてくれそんな昔の徴用工やら強制連行の話は
その当時から日本に搾取されていたからと謝罪賠償に発展
ウリが末裔だからカネを寄越せって言い出す 冗談じゃない 貧粗で物足りないけど小奇麗に体裁つくろってる感じってのが侘び寂びだろ 日常の華やぎにみすぼらしさが際立つ存在となればそりゃ珍品として価値を持つわ
『すさまじきもの』のうちの寒々としたを感じ取ったのならね
それが侘び寂びという独特な解釈へ発展したのだろう ブラタモリの有田焼の回をみると
磁器をつくるまで各工程で細かく高度な作業細分化で成り立っている
とても、李王朝にできるシステムとは思えない
生産地は朝鮮でも、仕切っていたのは中国人と思われ 軍艦島に平戸。長崎県に対する憧れの裏返しとしか思えんな。
まったく韓国人と福岡人はよく似てるwww えーと、100年前まで染め物もできず、
水車も作れないゴミ民族が陶器とか頭
どこか打ったのかな? >>414
ウリナラファンタジー韓流ドラマを史実だと信じちゃうミンジョクですから…… まあ、半島製の高麗茶碗(ホントは高麗じゃなくて李朝だけど)が、日本の茶人に珍重されたことは史実だけどね 陶芸を学んだことがない崔氏にとってその陶片は唯一の師だった。
こんなの素人に弟子がいるのか 日本に連れて行かれたとはいうけど朝鮮に帰っていいぞって言われたのに誰も帰らなかったんだよな
日本の生活のほうが豊かで周りからも尊敬されてたから 山に埋まっている陶片が師であり、私の学習の場だった
失敗してるから山に捨てたんだろ
それが師って爆笑だろ 日本から盗んだバレバレの盗品をすぐ国宝に指定して返さない韓国は、とんでもないクズだよね >>420
いや、陶片にしてばら蒔くことで完成する作品なんだよ >>3
大変な苦難を味わったと聞いている
無理やり高い禄や屋敷を与えられたり、事もあろうに死後神として祀られたりと本当に酷い扱いだったらしい 秀吉の目にとまらんかったら無価値、そんだけのこと
良かったなチョン、秀吉に泣いて感謝しろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています