【大紀元】中国古代の軍隊は何を食べていたのか[12/1]
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秦の始皇帝陵の兵馬俑(イメージ / Pixabay CC0 1.0)
古来より、軍隊の食糧事情は前線で戦う兵士にとって一大事でした。食事の質と量は兵士の身体能力に直接的な影響を及ぼし、作戦の勝敗をも左右することがありました。では、古代中国の兵士は何を食べていたのでしょうか。
中国最古の軍隊糧食は狩りで捕った獲物でした。殷の時代には「田狩」と呼ばれる大規模な狩猟活動が行われ、千人以上の兵士を動員し数百頭の野生動物を捕まえることができました。甲骨文字で書かれた古文書によれば、殷の軍隊は一度の田狩で451頭の鹿を捕まえました。
周の時代になると田狩はさらに規模を増し、周の武王は一度に一万頭以上の動物を捕らえたと記録されています。軍隊の食糧をまかなう為にも、殷や周は絶えず領土を拡大する必要がありました。周の時代になると、その領土は現代の陝西省や山西省、山東省、安徽省まで拡大しました。
捕らえた獲物以外にも、主食として粟(アワ、黄色で小粒の穀物)が食されていました。とはいえ食べ方は蒸してご飯にするのではなく、濃い粥(かゆ)にして食べていました。夏王朝、殷王朝、周王朝は野菜入りの粟粥が糧食の中心であり、そこに豆類や肉類を入れました。食器は主に陶器(粘土を比較的低温で焼き上げたもの)が用いられていました。当時の粥は主食であったため非常に濃く作られ、「厚(濃いの意)」と呼ばれました。
粟は唐王朝期まで軍隊の主食であり続けました。中国の政治的・軍事的中心地が主に北方であったためです。さらに粟は米よりも長期保存に向いていることも理由の一つです。唐王朝期の文献によれば、粟は最大9年間保存できるのに対し、米は5年しか保存できませんでした。実際、粟の保存期間はさらに長く、長安城に蓄えられた粟は20年物でも食用ができたと言われています。
では兵士一人の食糧はどれくらいだったのでしょうか。秦王朝の規定によると、重労働に従事する兵士は朝に粟半斗(1リットル。秦代では1斗=2リットル)、夜に粟三分の一斗(0.67リットル)が支給されました。歩哨などの比較的軽い任務は朝と夜にそれぞれ粟三分の一斗(0.67リットル)が支給されました。漢王朝期には、重労働に従事する兵士は一か月に2斛9斗3升(約58.6リットル。漢代では1斛=10斗、1斗=10升、1升は約200ミリリットル)の粟と、食塩3升(約600ミリリットル)が支給されました。唐代になると、兵士一人につき一日2升(約1.2リットル。唐代では1升=600ミリリットル)の穀物が支給されました。
宋王朝期には、中央軍に相当する禁軍の兵士は月に2.5石(約168リットル。1石=67リットル)の穀物が支給され、地方軍の廂軍の兵士には2石(約134リットル)の穀物が支給されました。
明代でも主食となる穀物は依然として支給されていましたが、小麦粉が普及したことにより、餅(ビン。小麦粉を使って作られた生地を伸ばして焼き上げた中国風のパン。)が軍隊の携帯食として人気を博しました。餅は丸く作られ、真ん中にはひもを通して持ち運べるように穴が開いていました。食糧の進歩により明軍は敵を長距離に渡って追撃することが可能となり、中国華北の寒冷地や森林地帯での作戦遂行能力を大幅に向上させました。
(翻訳・黎宜明)※看中国より転載
https://www.epochtimes.jp/2018/12/38357.html
大紀元 2018年12月01日 12時44分 >>2
で終わってた。(・ω・)
ちなみに韓国の場合は人糞だよ。(*´・ω・)(・ω・`*)ネー いまだに華北中心に書いてるな
華南ではヒエアワは育たんぞ 「餅」はアルファベットで綴るとBingだが発音はピン
留学生や元在中日本人はそう発音していたよ ただまぁ、史書に残ってんのは「公式」の話だから、途中ピンハネなんかで
「こんなにもらってねえよ!」って兵士が憤慨する位の量だったんだろうねぇ。 サツマイモは清代以降でしょ。
にしても、クリでは乳のモンゴルに勝てるわけないわな。 20世紀にもなって兵站の適地徴収をしようとしたら軍隊があったらしい >>2
人は、どちらかと言えば、戦場になった場所の民衆が食べていたはず
古代の軍隊は、家畜を同行させて、戦場で解体しながら進軍してたよ
それ以外では、新鮮な食肉を供給する方法が無かったから 劉邦を追い詰めた項羽だが楚軍の輜重輸卒が山賊の彭越に襲われて食料を奪われたらしいが、米だったのだろうな。
それが原因で項羽が敗れて漢が成立したようだ。 >>1
秦の1日1.67Lは多すぎるだろ
全部食えないだろ
これ米何合だよ そんびんがかまどの数を徐々に減らして脱走兵が出まくりを演出してた つい数十年昔の大躍進政策失敗による大飢饉でも人食べてたんだから競争本能旺盛な人の子孫ばかり残ってしまった中国 中国の古代の記録を信用するなら、人口が6分の1とか10分の1とかになるくらい餓死や殺しあいがあったことになるんだが
こっちは無視なんだな >>19
孔子は人肉の漬物が大好物でしょっちゅう食ってたらしいよ >中国最古の軍隊糧食は狩りで捕った獲物でした。
と言う隠語の敵兵を食ってた 日本で窃盗・強盗・空き巣という狩猟活動に励む支那人は人民解放軍の工作員だったのか 皆さん考えることは同じ様です??
朝鮮半島には肌の色が紫の葡萄原人と言うのが朝鮮人の先祖らしいです!!
でも今は何故その色では無いのでしょうか???
簡単言えばワインの漬けされた葡萄原人の肉はお隣の国の最高の食材だったと言えそうです!!
後はご想像に!! 粥って言っても今の粥とは別物だから。
塩分とミネラルが不足するのを防ぐ為に獣の血を入れて煮てたし。 日本は大飢饉のときは浄土思想が流行って人の肉まで食べずに清く死のうって南無阿弥陀仏とか唱えながら消極的に死を選択したけど中国にも仏教があるのに何でカニバリズムが横行したのかね? >>31
古代では塩は贅沢品だよ
岩塩か大量の燃料を必要とする海塩のどちらか
アフリカの王国が、塩(岩塩)と金を主要な貿易品で栄えたぐらいだから >>36
奴らにとっては珍しい動物を食べることが最高の贅沢らしいから本当にうまいわけではないかも んなもん決まってるだろ、先ず略奪品を食ってそれが無くなったら相手の死肉を食ってそれも
無くなったら味方の人肉を食らうだろ。www >>15
一応言っておくが、栗(くり)じゃなくて粟(あわ)な 基本的には侵攻先で物資も金品も根こそぎ略奪三昧、捕らえた人も食べて応援って感じで食用にしてたからな。
昔の中国で一番生産量が多い食料は人類そのものだし。 唐の軍隊は食料として人肉の塩漬けを持って
西域に侵攻したらしい >>19
食料が歩いてくれるから、楽なんだよな
遊牧民が戦争に強かった理由の一つw 文革では共食いやってたんだっけ?
人肉パーティーって、理解できないわ
最近でも頭部の無い頭蓋骨が大量に見つかったりしてるよね >>39
殷王朝の首都が朝歌になったのも、あそこらへんは岩塩が取れたって説が有力だしね >>10
いつの話をしているかな?
殷王朝は一時的な寒冷乾燥が緩和して狩猟が出来たが
末期に寒冷乾燥化で放牧民族が南下不安定化した
その放牧民を吸収したのが西辺境の周で粟+牧畜食で
東方の殷王朝を遠征できた しかし緩やかな寒乾期
しばらくは寒乾緩和があって南でイネ作れたが
今より寒乾燥していたので稲作は局限的でのみ可能
唐は王族が鮮卑という北方の民つまり南下民
煬帝が水路だけ引いても凶作 華南も寒冷乾燥化
たとえば紙が2世紀に流布したのは寒冷乾燥化で
竹簡用の竹が洛陽付近で育たなくなったためとも
寒冷乾燥にも強い麻の屑で作った紙を利用した
その後統一王朝がほぼないのは寒冷乾燥のせい
イネのような温暖湿潤+潅漑必要な作物が凶作
とまあ 歴史の多くは気温と降雨の解析で説明可能
ほぼ食料の豊凶で説明できちゃうから
それほどヒト集団が賢くないこともわかる >>30
まー古代のそういう統計には色々と問題があるし
戦乱前後で記録上の人口が変わりまくるのは全部実際に死んだり生んだりしているのではなく
農民が逃散したり戻ったりしている結果だと考えられているな >>37
中国は森を切り倒して農地を作ったから、自然から食料を得る手段が無くなったため
日本では江戸時代でも狩猟で生活が成り立ったし、漁業では肥料に使えるほど魚も獲ってた
一方、中国では牧草地まで農地にしたから、「羊頭狗肉」という言葉が死語になるほど、羊も食べられなくなり、
人糞でも食べる豚と鶏になった >>53
人の肝臓が体にいいという話があって、肝臓だけ切り取ったりしていたらしいね いま、WOWOWで司馬遷のドラマやってんだけど
何度か食事風景が出てくる
ご飯はお粥でおかずは、野菜はおひたしで、炊き合わせなんて無し
食材1品をそのまま火を通しただけ
炒め物なんて無い
汁は澄まし汁
物凄く質素
現在の中華料理が誕生する以前の形なのかなーと感じてた
まあ、どこまで時代考証したか分からないが、>>1と同じような食事風景だったな
あとは、川魚の刺身とかも出てきたな そりゃ人肉やろw
攻め滅ぼした相手の肉を食ってたのがシナ人だぞw >>56
それはそうかもしれんけど、なぜか中国古代史のセンセー方はそういう記録は信憑性がないとしながら>>1みたいなのは正確な資料みたいに扱うんだよな 未だかつて、中国の軍隊が近代の軍隊の様に人民を守る「国軍」であった試しがない
常に残虐な独裁者を玉座から引きずり下ろし、取って変わろうとする国内外の人民から守る為の用心棒でしかなかった 人肉食に決まってるだろw 現在でも支那南部では死産や堕胎の赤ん坊を鍋で煮込んで親族が食べている。迫害して殺した民衆も食べてただろw 中国はめっちゃ広いから戦争の行き返りに数か月数年かかるなんてザラ
野菜などの生鮮食品?すぐ腐るだろ。肉?馬や輸送用の牛は食いもんなくなった時の非常食だな。結局一番日持ちするのは米や粟しかない
食いもんの補給?ねーよそんなもん。食いたきゃ奪え殺せ!てなもんだから中国の戦争は道中の略奪なしでは成り立たない >>63
人肉を食べるのは中国の風習だからね
大体、親が病気になったら、自分の太ももを削いで親に食わせるのが
親孝行と言われ、賞賛された(体にいいとされた)
これを褒めた皇帝もいたし、禁止した皇帝もいた
まして他人や敵の肉は当然食うのである >>55
人間が賢くないなんていうのは、トラックで種を運搬でき、農業用トラクターで畑を作り変えられる現代人の傲慢だよ
去年が寒冷だからと数百キロ先から、トン単位で大量に種を買い付けて、
農民に教育して別の穀物に植え替えるなんて現実的でない 人だろ?>>2で終わっているけど
とはいえ当時でも嗜好の差はあったようで
誰もが喜んで「ウメーウメー」してたわけではない模様 >>57
象がいた広大な森林を砂漠に変えるほど伐採したって凄いよな。 >>65
歴史や考古学の教科書が100年遅れてるせいだよ
文献だけじゃなくて最先端技術で気候や地質を
解析して起き得たことをシミュレーションする
理系の素養なければ話にならない世界
日本はその意味で社会からの扱いが遅れに遅れてる
信憑性のある資料って科学的に裏がとれてるもの >>74
体にいいから食べていたし、市場に普通に売っていた
様々な調理方法が記録に残されている >>77
日本はというか中国ではさらに遅れているようだが、都合のよい資料だけつまみ食いでしょ
欧米はそこまで中国史詳しく調べんし あれ?
通過する村を襲撃して、住んでる人を含めて食べてたんじゃないのけ? 狭い地域で短期間に1万頭とか、完全に根絶やしにきてるな さんざん人だ人だって言われてるけど、この板で誰かが書いてたんだが、支那畜共はプリオンに耐性があるらしい。
考えてみると狂牛病の騒ぎがあった時支那は全然騒がなかったような気がする。 >>76
熊本市中央区内に昆虫の自販機があるな。(・ω・)
下通りから離れているけど。(*´・ω・)(・ω・`*)ネー 挑発もままならない荒廃した三国時代での緊急調達に関しては明らかに捕虜ですね
それ以外に説明がつかない >>83
遺伝子を調べたら狂牛病の予防が大きく前進するかもな 北から南に遠征するときって食料どうするか大変そうだな (ンーム`ハ)γー。oO その昔は悪かたアル、テヨン.....ンコの味がしタネ・・・
いにしえの、記憶のことョ 三国時代は軍はでかい臼を持って行っていて戦いがあると
そこで死んだ敵も味方もまとめて臼でごーりごり挽いて食ってたと聞いたで もう食べ物がないからお互いの子供を交換して殺して食べようみたいな話が普通にある 赤眉の乱とか人食いまくって人口激減。
光武帝が奴隷やら犯罪人みたいな戸籍に載らない奴等を解放まくっても人口は三分の一にも回復しなかったんだろ? >>90
(唯我`ハ´独尊)γまんチョン喰てたアル キングダムの秦軍も人間食べれば
兵糧切れにならなかったのにな
そこらに死体転がってんだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています