記録は生命だ。棺の蓋が閉められていても記録があれば永遠の命を得ることができる。記録されていなければ最後にはかすんでいってしまう。どれほど輝かしい文明や歴史であっても避けられない宿命だ。
(中略:「忘れられてしまった鉄の帝国」伽耶の事例)

伽耶について回る亡霊とは『日本書紀』だ。『古事記』に続き2冊目に古いとされる現存歴史書物だが、最も古い正史と認められている本だ。だが、間違いや盗作が多いため自らその信頼度を損なわせてしまっている。たとえばこのようなことだ。雄略天皇9年(465年)5月条を見るとこのような内容が登場する。

「大将軍紀小弓宿禰は龍のようにすばしこく、虎のように睨みつけながら四方を見渡した。反乱を起こす群れは討伐して四海を平定した」

新羅に遠征して死んだ将軍を追慕する天皇の話だが、213年後漢の献帝が曹操を魏公に封じる策文と全く同じだ。『三国志』の「魏書 曹操本紀」の原文はこうだ。「君 龍驤虎視 旁眺八維 掩討逆節 折衝四海」。『日本書紀』はここで「君」の部分だけを「大将軍紀小弓宿禰」に変えてそっくりそのまま書き写している。同年3月条にはこのような内容もある。

「新羅の王は夜に四方から官軍が叩く太鼓の音を聞いて喙地〔喙の国=慶州(キョンジュ)〕が占領されたと知り、数百の騎兵と逃げた。(…)喙地を平定したが残兵が降参しなかった。(…)この日夕方、大伴談連と紀岡前来目連は皆、力を尽くして戦い、死んだ。(…)しばらくして残兵は自ら退却し、官軍もそれに伴い退いた。大将軍紀小弓宿禰は病気で死んだ」

慶州を平定したが、死んだのは倭軍の将帥だった。敗残兵が退却したが、勝利者も後退する。このような間違いと矛盾に比べれば、「四面楚歌」の盗作である「四面鼓聲」などはかわいいほうだ。

このような水準の『日本書紀』に伽耶についての正否論争があるのはおおよそ下記の3つほどだ。まず、562年大伽耶が滅亡すると、欽明天皇が怒りを爆発させる。

「新羅は西の蛮夷で小さくつまらない国だ。(…)恩義に背いて我が官家を打ち倒し、我が民に害毒を及ぼし、我が郡県を滅ぼした。我が気長足姫尊は(…)新羅が窮地に陥って助けを乞うていたところを哀れに思い、首を落とされようとしていた新羅の王を助け、新羅に要衝の地を与えて繁栄させた。(…)しかし、新羅は長い矛と強い弓で任那を攻め滅ぼし…」

これもやはり『梁書』<列伝>の王僧弁伝の内容を適当に借用した盗作だが、気長足姫尊というのは200年に三韓を征伐したという神功皇后のことを指す。その時の『日本書紀』の条はこうだ。

「風の神が風を起こして海の神は波をうねらせた。大きな魚が浮かんできて船を支えた。(…)新羅の王は(…)気持ちを落ち着けて『東側に神の国があるというが、これを日本という。聖王がいるというが、これを天皇という。きっとその国の神の兵に違いない。これをどうして防御することができようか』と言って降参した。(…)高句麗と百済の2国の王もこのことを聞いて到底勝つことはできないと知り降参した。これによって内官家を定めた。これがいわゆる三韓だ」

この記録も間違いだらけだ。当時の新羅の王は婆娑尼師今になっているが、彼は新羅の第5代王で在位期間は80〜112年とされている。200年に会うことができる人物ではない。その上、神功皇后は49年後に再び百済とともに新羅を征伐して伽耶7国を平定するが、この地をすべて百済に与える。苦労して手に入れた地を他人に与えることも、大軍を率いた韓半島(朝鮮半島)の遠征が中国の史書に一行も言及されていないことも、100歳までの70年間にわたり摂政し、後継者である応神天皇が古希の年齢で即位することも納得しがたい部分だ。

『日本書紀』が百済の近肖古王の足跡を借用して神功皇后を創造したという主張が説得力を持つのはこのためだ。時代さえ4世紀に移せば近肖古王の業績と一致するからだ。
>>2-5あたりに続く

イ・フンボン/論説委員・中央コンテンツラボ

ソース:中央日報/中央日報日本語版<【コラム】韓国侵略の名分になった『日本書紀』の間違いを探して>
https://japanese.joins.com/article/337/248337.html