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2002年6月は我が国で初めて行われた韓・日ワールドカップの熱気が激しかった時だ。

史上初めて韓国のサッカー代表チームがワールドカップで勝利を収めて、16強進出に対する夢で国民の期待が真っ盛りだった。

そのような中で無残な事故が発生した。

今から正確に17年前の2002年6月13日。韓国がポルトガルと組別リーグの最終試合を1日控えた時だった。

当時中学校2年生だったシン・ヒョスンとシム・ミソンの2人が京畿楊州郡(現楊州市)広積面孝村里56番地方道の路肩で米軍の装甲車に轢かれて命を失ったのだ。

事故が起きた直後に米陸軍第8軍司令官はその日直接遺憾を示して、翌日には米陸軍第2歩兵団参謀長が焼香所を直接訪問して弔問した。

また補償金名目で2人の遺族に約2億ウォンを送ったりもした。慰めも束の間、直ぐに遺族が受け入れ難い事故調査の結果が出た。

ヒョスンとミソンが亡くなってから6日が過ぎた後に出た韓米合同調査の結果、この事件は『故意や悪意的なものではない悲劇的な事故』、つまり過失事故と結論が出た。

装甲車の操縦手が2人の女子中学生を確認することができなかった上に車長の通信障害まで重なって、やむを得ずに発生した事件という理由だった。

そうして歳月が過ぎてその年の11月、東豆川の米軍基地『キャンプケーシー』で事故を起こした2人の米兵に対する裁判が行われた。

この日の裁判で2人の兵士は業務上過失致死の疑いに対しても『無罪』判決を受けた。

韓国で起きた事故、韓国人の被害者が発生した事件だったが、駐屯軍地位協定(SOFA)によって2人の米兵は韓国の法律ではなく米軍の裁判を受けたのだ。

事実上『治外法権』のようなこの規定で無罪判決を受けた米兵は直ぐに勤務地を移転して米国に帰った。彼らは飛行機に乗る前に「『本意ではない事故』に遺憾であり申し訳ない」という言葉を残した。

夢多き2人の中学生が無残な事故で亡くなったが、責任を負う者はいなかった。

この事件の波紋は大きかった。事故を起こした米兵の罪を問わず終わりになると国民の間では追悼の熱気と反米感情が大きく燃え上がった。

もちろん事故を起こした装甲車の操縦手も穏やかでない生を送った。事故の後遺症で外傷後ストレス障害に苦しんで、精神科の治療を受けなければならなかった。

米国に向かった反感と装甲車操縦手の精神疾患、犠牲者であるミソンの父親はその全てを胸に抱いた。

「顔も知らないが、もうその米兵たちも心の荷を降ろして穏やかに暮らせれば良いでしょう」

事故が起きて10年が過ぎて、娘を失った痛みの心情を抑えた彼のこの一言は当時多くの国民に感動をプレゼントした。

2019.06.13 11:32
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