【歴史の法則】「元寇」はなぜ失敗した? 神風が日本を救ったのか、それとも元軍が愚かだったのか=中国[1/5]
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日本の鎌倉時代に中国を支配していたモンゴル帝国(元)による日本侵攻は「元寇」と呼ばれる。1回目の侵攻は1274年の文永の役であり、2回目は1281年の弘安の役に当たるが、いずれも失敗に終わっている。
日本が元寇を退けることができた重要な要因の1つに「神風」が挙げられるが、中国メディアの捜狐はこのほど、中国の歴史上で唯一、日本を征服しようとした元による試みが失敗した理由について考察する記事を掲載し、「神風が日本を救ったのか、それとも元軍が愚かだったのか」と疑問を投げかけた。
記事はまず1274年の文永の役について、3万の元軍が九州北部に攻め入り、「震天雷」と呼ばれる火薬を用いた武器の前に日本側は劣勢を強いられ、大きな損害を被ったと紹介。しかし、元軍が夜に船で休んでいると暴風雨によって海は大荒れとなり、撤退を余儀なくされた伝え、これが1回目の侵攻であると紹介した。
さらに、1回目の失敗を受け、元軍は20万もの兵を率いて再び日本に攻め入ったとし、これが1281年の弘安の役であると紹介。日本側は激しく抵抗し、元軍は1カ月以上も沿岸での戦いを強いられたと強調する一方、時期が夏であったことから台風が九州北部を襲い、元軍の船は壊滅的な被害を受け、2回目の侵攻も失敗に終わったと指摘した。
記事は、日本では元寇を退けることができた要因がいずれも「暴風雨」であったことから、この風は「神風」と呼ばれていると伝える一方、元軍の侵攻が失敗した最大の原因は元軍が1回目の侵攻で優位にあるうちに上陸し、進軍拠点である橋頭堡を設置しなかったことであると主張。また、日本に侵攻した元軍は元に降伏した南宋および高句麗の兵士たちが中心になって構成されており、士気は決して高くなかったと強調し、「神風が元寇を退けたというのは語弊がある表現であり、元軍側のミスと日本側の激しい抵抗、そして暴風雨という3つの要素が重なった結果である」と主張した。(編集担当:村山健二)
http://news.searchina.net/id/1685690?page=1
サーチナ 2020-01-05 22:12 >記事は、日本では元寇を退けることができた要因がいずれも「暴風雨」であったことから、
違います 日本軍が強すぎたから。
その強さを、中国人なら身をもって体験したはずだろ。 朝廷、寺社勢力 我々の祈りが通じた
幕府 恩賞をケチりたい
神風のおかげにしておけば、頑張った武士以外は丸く収まるからな 人は記憶型と思考型に大別できる
日本が大陸と戦って負けたのは白村江の戦いのみ
油断をしなければまず負けない バイキングならともかく、モンゴルに揚陸戦は無理だったんだろ。 元も江南軍はリストラ移民対象になった旧南宋の兵隊が大半で
非常に士気が低かったと聞く
むしろよく戦ったのは朝鮮軍だと そりゃ日本は狭い国土で戦ばかりやってる軍事国家なのに
大陸の田舎もんが季節も何も考えずにはるばる海渡って
戦争仕掛けてきたからだろ
嵐で補給線もなにもかもズタボロ
ざまぁとしか言えない ・騎馬民族が船戦出来るわけないじゃん
・朝鮮人の船がボロボロで使い物にならなかった
以上 >>17
当時のユーラシア大陸から見れば日本の戦なんて局地戦のママゴトのようなもんだよ 嗾けたのは朝鮮王
それに乗った時点で元軍はジョーカーを引いたといっても過言ではない チョンが混じってたから
日本人ならこの結論に納得してしまう 船の木材調達のために朝鮮の国土が禿山になったんだよね。
国力も相当衰退したんじゃないかな。 >>1
元寇に関してはこの板でも散々考察したけど、日本が勝った究極の理由はこれなんだよな。
「鎌倉武士が基地外だったから。」 風雨が強かったのも原因だろーね
弓矢や自慢の「震天雷」も効果をなさず
乗船白兵戦
となれば、武士の方が圧倒的 >>21
その「ままごと」に負けてりゃ世話はない。
日本とベトナムだが。 >>21
物量重視の平地の戦い方と攻撃方向限られてる局地戦が
全く違うのは当たり前なんだがw
頭弱すぎだろw >>15
そりゃ、元に屈服したばかりでさらに格下の存在を作りたかったからな
惨敗した後は元兵士とともにみんな斬首されたが >南宋および高句麗の兵士たちが中心になって構成
これやんな >>1
騎馬民族の最大の武器である騎馬を大量に輸送できなかったか
馬から下りた騎馬兵()とか雑魚 >>15
そりゃ日本を踏み台にして中国人より立場向上を目指した戦いだったからなw
それで敗戦に導いたら世話ないよなw >>7
なお、朝廷と寺社が恩賞を要求し始め、後の建武新政の遠因に(ry >>21
フビライはそのママゴトに意固地になって3回目の遠征を画策してたがな。 懐かしの打順
1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた
4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた
7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた >>28
モンゴルもついてないよね。
はじめての海外戦の相手が鎌倉武士なんだから。 >>21
そうバカにした物でもない。
時代は下るが、
戦国時代には割合的に、
世界の鉄砲のほとんどが日本に集中していた事になるらしいからな。 船で渡ってきて
弓矢と震天雷での間接攻撃しか出来ないのに
風雨強くて、使い物にならない
上陸戦など無理だろうし
かつ、乗船してきたら逃げるしかないという
負けるだろ 1、騎馬民族のモンゴル人が渡海して日本へ攻め込むなんて無茶が過ぎるから
2、モンゴルに征服された南宋の兵が動員されて嫌々攻め込んできてたから
3、朝鮮(高麗)に道案内を任せたから
三つ重なればそりゃ失敗するわ マジレスすると、モンゴル帝国が征服した地域はほぼ陸続きの土地。
騎馬民族であるから船が不慣れなのは当然のこと。
実力を発揮できなかったんですな。 >>40
モンゴルも十分基地外だが、相手も基地外だとはさすがに想定していなかっただろう。 けど、執権が真空元彌チョップやってたら
確実にモンゴル大勝利だっただろうなw ちなみに
モンゴルが騎馬を大量輸送しても
鎌倉武士は勝ったと思う
結構、機動戦も得意 元寇時の朝鮮
大東亜戦争時の朝鮮
ベトナム戦争時の朝鮮
まさに虎の威を借るキツネ目 >>48
大河ドラマ『北条時宗』再放送は期待薄だからなあ。
羽賀のうえに今度は宮迫(ry >>49
馬は水や食料を大量に必要とするから、補給線が保たないんじゃないか? というより、何故あの広大な領土を征服できたかが知りたい
狩猟遊牧民族が家畜を引き連れ一団となって移動しつつ、農耕民族を各個撃破していったということか
狩猟遊牧民族にとって農耕民は狩猟対象でしかないから、それはそもそもの生活の延長線上の行為ともいえる
だとすると、家畜を引き連れ一団となって移動できないと、その特徴は生かせない はっきり言えば
元に勝目はなかった
ただ、暴風雨は戦況を更に優位にし
少数で大部隊を蹴散らすことができた
だから、神風
さすがに多勢に無勢と考えてただろうと思う >>52
在日がよく言うじゃん
現地調達
それができてた時代 >>39
>懐かしの打順
> 1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
>2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
>3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた
>4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
>5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
> 6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた
>7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
>8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
>9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた
文永の役の経験を基に、弘安の役ではかなり重いっ切った手を打っていたと聞いていたが、そこまでやってたのか。
悪魔には悪魔の手を。
現代にも通ずるね。 >>45
今、当時の地図を見てみたところ、日本はもちろんの事、台湾,キプロス,済州島すら領有できてないんですな。
唯一、海上の島で領有できたのが海南島。
なぜ、海南島だけは領有できたのかは分からん。
とにかく騎馬民族が日本を制服とか、はなから無理。 ああ1回だけ負けたか在日に。こんな侵略の仕方卑怯だぞwww. >>53
モンゴル帝国は、侵略するけど占領しない。
燃料、食料は当然現地調達。
この方式で版図を広げたという話を聞いたことはある。 >>53
・ジンギスカンという不世出の怪物。
・四分五裂を繰り返していた草原諸部族がひとつにまとまった。
・千戸制による軍事動員システム。
・周辺諸国の弱体化。
そのほかさまざまな要因が重なって大爆発したわけで。 元軍は進軍拠点として、橋頭堡の確保を目指したが、鎌倉武士が闇討ちしまくって、拠点を徹底的に潰した
元軍は仕方なく、船に戻るしかなかった
橋頭堡を確保しなかったのではなく、確保できなかったの間違い
神風がやたらと注目を浴びるのは、防衛戦だから当然だが、幕府が褒賞、つまり土地を用意できなかったから
神風のおかげにして、祈願した京都の仏閣にカネを払って終いにした >>64
神風と言ったの
現地の兵士じゃねーのかwwwww >>58
海南島は南宋の抵抗拠点になってたし、なんとしても潰す必要があったんじゃね? 武士は相手の船に死体投げまくっただっけ?
それにビビって上陸できなかった モンゴル人が朝鮮人を従えて侵攻しただけだろ?
中国関係ないじゃん どちらの時も上陸は出来たが太宰府すら落とせなかった
兵站や地理案内に難があり、もし九州の防衛軍を破っていたとしても京都まで攻め上ることは難しかったろう >>73
太宰府の手前の水城でマゴマゴして終了だな。 >>72
いや、中国(宋)の方からも攻めて来てたぜ?
朝鮮半島と中国からの二方面作戦や。 上陸した福岡も平野だが、川ばかりだもんな
得意な野戦はきつい
そして大砲がない艦船はただの輸送船だわな
のちに火薬式艦船砲が発明されて戦闘艦の戦闘力は飛躍的に強力になる >>67
挨拶の使者送ったら生クビになって帰って来た 元軍を撃退し神国日本を守った九州鎌倉武士団....
少弐、大友、菊池、竹崎、龍造寺、引いては鎌倉の御大将である北条を含め戦国の世を経て残った家系は皆無...
強いて上げるなら島津くらいのものか...あぁ無常なり
時代の流れ移りはあな哀しきものなり >>77
宋はやる気なかったらしいけど
風強いしこれやってもダメだわとかで 日本の地形って厳しいしな 陸上で戦うとなると厳しいよ >>81
高麗は優秀な指揮官を派遣してた
こいつは電撃作戦が得意で博多攻略拠点になる山岳地帯を一晩で制圧してしまう お前らアンゴルモア読んでこい
よし、次の大河は元寇で! >>82
それ服従しろみたいなこと言ってきてからで
生かして返さなかったのは時間稼ぎじゃないん >>71
高麗王子(忠烈王)は少なくとも元寇の2年前からクビライの日本遠征に積極的な支持を表してるけど、
クビライは元寇の6年前、日本へクビライの国書を届けた使者が到着した年の
その使者の帰還よりも前からもう「朕は南宋と日本を討たんと欲するのみ」と言っているから、
クビライが日本攻めようと思ったのは高麗王子の支持表明より先じゃないかな >>87
高麗の作戦?
あの島の住民を襲い船にくくりつけたやつか? 災害の起こりうる季節を理解出来ないってのが無能の証明
中国本土ならともかく半島なら台風のくる季節くらい知っていても良いだろうにその場その場の気持ちだけで生きていたってこった >>87
金方慶だな。
讒言で一度失脚したり、某李舜臣と共通点があったり。
まあ確かこっちは終わりを全うしているけど。 >>82
首切られたのは文永の役の後に派遣された使者だよ
鎌倉幕府もそこまで狂気ではない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています