● 広島県朝鮮人被爆者協議会理事長 金鎮湖さん

置き去りにされた朝鮮人

 1945年の広島、長崎への原爆投下により、在日朝鮮人はその年の暮れまでに広島で4万人、長崎で2万人が被爆しました。「日本に残った人も、朝鮮に戻った人も、何重もの差別と病気に苦しんでいます」と語るのは、広島県朝鮮人被爆者協議会の金鎮湖(キン・ジノ)理事長です。朝鮮人被爆者の実態と思いは―。(加來恵子)


 在日朝鮮人は、朝鮮半島から日本へ出稼ぎに来ていた人もいましたが、多くは1930〜40年代に朝鮮半島から強制的に連れてこられた人たちでした。

 日本で過酷な労働を強いられました。


祖国に戻るも

 金さんは「広島県庄原市にある高暮ダム建設には約2000人の朝鮮人が強制労働をさせられ、人間の扱いをされず100人を超す人たちが命を落としました」と憤ります。

 8月15日、日本の終戦=朝鮮解放を迎え「祖国に帰ろう」と、翌46年に本格的に本国朝鮮に帰る動きが起きました。

 しかし、朝鮮の世論のなかに、在日朝鮮人は“国を裏切った。国を捨てて逃げた”などの意識があり、朝鮮人被爆者たちは、日本にいたことや被爆したことを口外することができませんでした。

 54年のビキニ事件により、放射線被害が大きな問題となり、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が56年に結成され、57年に被爆者健康手帳の交付などが実現しましたが、朝鮮人被爆者は置き去りにされました。

 1975年8月に朝鮮人被爆者協議会を結成。被爆者援護法の適用を求めて運動を展開し、76年に在日朝鮮人に被爆者健康手帳の交付を実現させました。

 しかし、朝鮮半島に戻った被爆者は、放置された上、祖国が南北に分断されたため一層の苦難を強いられ、被爆者であることを伏せて暮らしてきました。

 在朝被爆者支援連絡会が2008年の実態調査で確認した生存者382人を18年に追跡調査したところ、把握できた111人のうち生存者は60人でした。

以下略
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-07-23/2020072301_03_1.html