「嫌中」捨て愛国者に 繁栄に魅了され 「香港国安法は必要」
毎日新聞 2020年7月25日 東京朝刊

 香港の衣料品会社員、朱偉強さん(57)は、かばんにいつも中国国旗「五星紅旗」を入れている。「どこにいても掲げられるように」との思いからだ。

 選挙結果などから、香港の民意は伝統的に「親中派4割、民主派6割」とされる。人口約750万人のうち、親中派は香港返還後に中国本土から移住した約100万人や、ビジネスで中国とつながりの深い市民が、その中核をなすと言われる。そんな中でも朱さんは、とりわけ強烈な「愛国者」と言えるだろう。

 だが以前は、中国に嫌悪感すら抱いていたという。
1950年代に中国南部・広東省からやって来た両親の間に香港で生まれた。10代だった70年代、広東省の親戚の家に行く時は、いつも米、油、麺などを持たされた。「当時は(食料や衣類などの)物資の持ち込みに制限があったので、税関で見つからないようズボンを4着も重ねばきしたものだ」と笑う。

 できるだけ多くの物資を運び、親戚の家計を助けた。「資本主義の豊かな香港」と「共産主義の貧しい中国」を実感した。

 10代の頃、家族で米国を旅行したときのこと。「君は中国人か?」「香港人だ!」――。出会った米国人に色をなして反論したのは「貧しい国から来た」と思われたくなかったからだ。

 その一方で、香港を植民地としていた英国にも反感を覚えた。「英国人は威張っていた。我々には英国民としてのきちんとした地位は与えられなかった」

 34歳だった97年7月1日、香港は中国に返還された。同日未明、最後の香港総督パッテン氏が、チャールズ英皇太子とともに英王室専用船で香港を去る式典も見に行った。特別な感慨はなかった。中国人意識も皆無だった。「あのころは『国家』に属している意識がなく、中国は自分とまるで関係のない『外国』だった」

 だが、中国は大きく変貌を遂げつつあった。最高実力者のケ小平氏が78年に打ち出した「改革・開放」政策が実を結び、経済が拡大した。2001年の世界貿易機関(WTO)への加盟で税制など大幅な規制緩和が進み、世界の投資が中国へ向かった。

 朱さんの勤務先も中国に工場を相次いで建設し、急成長。中国本土を仕事で訪ねる度、高層ビルが増えていた。「中国は貧困を脱して豊かになり、国際社会で大きな存在感を発揮するようになった」と感じた。

 そして、02年のサッカー・ワールドカップ(W杯)日韓大会は、朱さんにとって大きな転機だった。「友人に誘われ中国チームの試合を韓国へ見に行った。お祭り騒ぎの中で、顔を五星紅旗のように赤く塗り、声をからして応援した。愛国心が芽生えた」

 08年には北京五輪があり、中国本土で高まった愛国ムードは香港にも波及。当時は香港でも多くの市民が中国国旗を手に応援した。「『中国人の心』がこの時期、私の中で確かなものになった」と振り返る。

 今では親中派団体の集会があれば駆けつけ、中国国歌を歌う。中国が香港の統制を強める「香港国家安全維持法」についても「一部の過激な人を対象にしており、自分には関係ない。香港の安定と繁栄のためには必要だ」と賛成する。


 朱さんは言う。「かつての私には祖国がなかった。返還後、国旗と国歌を与えられ、中国は今や世界にさんぜんと輝く強国だ。その一員であると心から誇れるようになった」

https://mainichi.jp/articles/20200725/ddm/012/030/125000c