正しい歴史を学ぶことができず、垂れ流される政府の虚言

110年前の1910年8月22日――。当時、漢城と呼ばれていたソウルで、日本の寺内正毅・統監と韓国の李完用・総理が「韓国併合ニ関スル条約」に調印し、同月29日、日本が韓国を併合した。110年前の夏のことを

当時、韓国併合は日本国内で賛否がわかれていた。軍閥は併合を主張し、伊藤博文など文民は反対者が少なくなかった。

 19世紀後半の李氏朝鮮では、日本の支援を受けて清国からの独立を求める開化党と清国との従属関係を主張する事大党が対立していた。

 朝鮮国王高宗の王妃閔氏を中心とする政権は、日本の支援を受けて開化を進めたが、これに反発した兵士らが1882年7月、日本公使館を襲撃し、日本人軍事顧問や日本公使館員を殺害した。壬午事変である。

 日本が兵を派遣すると、清国も属領保護を名目に軍を派遣し、日清両軍は反乱の鎮圧後も朝鮮に駐留し続けたが、清国は袁世凱を朝鮮国王代理とすることを朝鮮に強要し、朝鮮は清国に従属する度合いを強めていった。

 日清戦争が起き、日本が勝利して李氏朝鮮は清国から独立し、1897年、大韓帝国が誕生した。

 韓国の学校では、伊藤博文は韓国を併合した悪人で、彼を暗殺した安重根は英雄だと教えている。正しい歴史を学ぶことができない韓国人は政府の虚言を信じるが、伊藤博文は併合に反対していた。
 当時、山縣有朋や桂太郎、寺内正毅などの軍閥が併合推進を唱える一方、伊藤博文をはじめ、文民のなかには併合反対を唱える人が少なくなかった。

 伊藤博文はロシアの南下を危惧していた。欧米列強が日本に軍を派遣しても、到達までに時間がかかり、日本は迎え撃つ時間を持つことができる。
 実際、日露戦争は1905年5月27日から28日の日本海海戦が日本の勝利を決定づけたが、バルチック艦隊と呼ばれている第2太平洋艦隊は1904年10月、第3艦隊は05年2月にロシアを出航して日本に向かった。日本海軍は迎え撃つ準備を進める時間があった。

福澤諭吉は「韓国人は約束を反故にする」と書いた
 一方、韓国からなら、わずか一晩で日本に到達してしまう。伊藤はロシア軍が韓国に駐留する事態になることを恐れた。

 伊藤博文は、韓国からロシアなど諸外国を排除するため、韓国の外交を制限する第1次日韓協約を締結した。
 日露戦争で日本が勝利すると、日本が韓国の外交を直接指揮することを約した第二次日韓協約を締結して統監府を設置した。

 軍閥は韓国併合を主張したが、伊藤博文は韓国を保護国化して国力がつくまで支援をすると主張した。初代統監に就任した伊藤博文は韓国の国力が高まることを期待して、文盲率が94%に上っていた教育支援に力を注いだ。

 大韓帝国が成立した1897年、福澤諭吉は、韓国人は約束を反故にすると時事新報に書いている。
「かの国人に対して如何なる約束を結んでも、背信違約は彼等の持ち前で、意に介することはない。既に従来の国交でも経験したところだが、朝鮮人相手の約束は最初より無効のものと覚悟して、臨むほかはない」(『時事新報』明治三十年十月七日・意訳)という趣旨だ。

(中略)

ソウル市は、統治政府の建物があったと推定した場所を南山人権の森公園として整備する。

 人権の森には「国恥址(韓国統監官邸址)」という表示がある。
日本が韓国を併合した経緯は、朝鮮王朝の開化派とその後に誕生した大韓帝国が要望し、併合反対を主張した伊藤博文を安重根が暗殺したからである。

 その併合反対派の領袖を悪人と呼び、暗殺者を英雄扱いする一方、謝罪と賠償を要求する二枚舌こそ、まさに国恥だろう。
 約束を守らない気質は130年以上経ったいまも変わらない。これも国恥である。
 歴史を顧みず、反省しない民族に未来はない。

佐々木和義


全文はソースでhttps://news.yahoo.co.jp/articles/8dbf8ec77e521c024cfa35c1be9e4560148bd98f?page=1