ドイツ、ニュルンベルクは神聖ローマ帝国の皇帝選挙権を持つ永住者が帝国議会を開いた中世の代表的都市であり、ヒットラーが第3帝国を夢見て歴史的象徴性を得るために1927年からナチ党の全党大会を開催した場所だ。そのため、第2次世界大戦が連合国の勝利で終わった時、ナチの侵略戦争を企画し実行した戦犯を裁くための場所として米国がニュルンベルクを選択したことは意味ある決定だった。

ニュルンベルク裁判は1943年10月、連合国主導の戦争犯罪委員会が戦犯処罰を準備し始めて1945年8月、重大戦争犯罪人の訴追および処罰に関するロンドン協定に19ヶ国が署名し国際軍事裁判方式で進行された。この裁判の最大の意義は戦争での役割を理由に他国で個人が訴追されない、という主権者免責や国家行為免責の伝統から脱して侵略戦争を起こした平和に反する罪、民間人に対して犯罪行為をした人道に反する罪で個人の責任を問い処罰した点だ。

ニュルンベルク裁判は1945年11月から1946年10月まで開かれれながら24人を起訴し12人を死刑に処した一方、東京裁判は1946年1月から1948年11月まで開かれて28人を起訴し7人を死刑に処した。東京裁判はマッカーサー司令官の特別宣言と一般命令で設置された点で国際条約の性格を帯びたニュルンベルク裁判とは異なる。

米国主導の戦略的判断が主に作用し、日王処罰免責や731部隊起訴保留、反人道的犯罪に対する起訴保留などは戦後日本統治とアジア秩序構成方式を前提にした米国の選択だった。遡及立法論議と様々な限界にもかかわらず、二つの裁判はその後の集団虐殺や侵略戦争、戦争犯罪、人道に反する罪などを扱う国際刑事裁判所設立につながったし、転換期の正義を扱う国際的原則と基準を提示したと評価される。

特に二つの裁判は報復的正義、補償的正義、回復的正義でなされた正義の三つの次元のうち、真相調査を通した責任者処罰という報復的正義の明らかな事例を見せた点で重要である。

「子供たちに正義が勝利する歴史を伝えよう」と言う時、私たちが歴史で感じる最大の懐疑は責任者を処罰できない報復的正義の不在からくる。被害を物理的に補充する補償的正義、名誉回復と記念事業の回復的正義も重要だが真相調査を通じて加害者を処罰する報復的正義のない和解の追求は加害者のいない被害補償や加害者のいない名誉回復という不完全な正義の実現として残る。

ナチはユダヤ人虐殺を'最終的に解決'、戦争捕虜殺害を'特別処理'、強制収用所を'保護監護'、残酷な苛虐行為を'確固たる態度'と呼んで人々の日常的な言語感覚をマヒさせた。このように体系的操作が作り出した環境で平凡に任務を遂行した人々も公職に登用されないようにすることは重要な報復的正義の実現過程だ。これは物理的手段を動員した直接的報復と違い、社会的公論による応報的審判を意味する。

和解は加害者と被害者の相互性を前提にする。政治的観点から和解は共同体的きずなの形成を可能にする。しかし、この過程は極端な犯罪や意図的悪を容赦なしに処罰する報復的正義の上だけで実現される。民主主義の履行過程で歴史的正義に対する議論は執権に成功した政治権力の事実承認を越え、根本的な正当性の問題提起を通じて暴力的で恣意的な支配とそうではない支配を区分することにより民主憲政秩序の強化に寄与するという点で重要だ。

キム・ナムグク高麗(コリョ)大政治外交学科教授
https://thumb.mt.co.kr/06/2022/01/2022012013362950330_1.jpg/dims/optimize/

ソース:マネートゥディ(韓国語)[キム・ナムグクのアポリア]なぜ報復的正義が重要なのか?
https://news.mt.co.kr/mtview.php?no=2022012013362950330