【韓国歴史】 「任那日本府説」 倭が4世紀中頃に伽耶地域を軍事的に征伐…話にもならない学説だ ★2 [5/12] [昆虫図鑑★]
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[ペ・ジョンドクの歴史紀行]「任那日本府説」
任那日本府説は、倭が4世紀中頃に伽耶地域を軍事的に征伐して「任那日本府」という統治機関を設置して、6世紀中頃まで韓半島南部を運営したという話にもならない学説だ。
その始まりはシンゴン(神功、ジングウ)皇后だったという。そして、『日本書紀』に出てくる神功皇后は3世紀の人物だ。神功皇后の頃には、合間に韓地百済の王歴を挟み入れた。次は『日本書紀』『神功皇后記』に出てくる百済の王歴と『三国史記』に出てくる百済の王歴を比較したものである。
『日本書紀』神功55年(CE255)百済のチョゴ(肖古)王が死んだ。 / 『三国史記』クンチョゴワン(近肖古王):CE375年王が死んだ。
『日本書紀』神功56年(CE256)百済の王子キス(貴須)が王位についた。 / 『三国史記』クングスワン(近仇首王):CE375年王位についた。
『日本書紀』神功64年(CE264)百済の貴須王が死んだ。王子枕流が王位についた.。/ 『三国史記』チムリュワン(枕流王):CE384年に即位した。
『日本書紀』神功65年(CE265)百済チムリュワン(枕流王)が死んだ。叔父の辰斯が王位を奪って王になった。 / 『三国史記』チンサワン(辰斯王):枕流王の弟で、枕流王が死んだ時、太子が幼かったので叔父の辰斯が王位についた。(CE385年)
百済の肖古王(在位CE165~214)と近肖古王(在位CE346~375)は全く別の人物だ。王子貴須(在位CE214~234)と近仇首王(在位CE375~384)も別の人物だ。枕流王(CE384)が即位したが、1年後に死んで、弟の辰斯王(在位CE385~392)が即位した事実だけが一致する。これも『日本書紀』と『三国史記』の該当年度は120年の差異がある。
日本の学者たちは、肖古王と近肖古王、王子貴須と近仇首王を同様の人物と断定する。ここには何ら適当な根拠もない。名前が似ているから、同じ人物とみなすべきということだ。そして、神功皇后の頃に起こった出来事を、どれも120年ずつ遅らせて適用しなければならないと主張する。いわゆる「120年二周甲説」の適用だ。
なぜなら、二周甲説を適用してこそ、4世紀中頃から始まったという任那日本府説を取り付けられる根拠を都合することが出来るからだ。日本の学者たちは、この120年二周甲説の適用を主張して、CE369年からCE562年までの約200年間、倭が韓半島南部地域を支配したという「任那日本府説」を連結している。
広開土太王碑文の記録から、広開土太王が日本列島を焦土化した時期がCE396年とCE400年だ。また、宋書に出てくる記録を見れば、倭5王が宋国に使臣を送った時期がCE421~479年だ。この時は倭国に百済のタムロ(檐魯)があった時期であって、倭5王は百済の主タムロの王たちだった。広開土太王の日本列島侵攻時期と倭国五王の宋国朝貢記録などを見ると、CE369年から約200年間の「任那日本府説」は、いくら結びつけようとしてもできない事件だ。
このようなことを勘案すれば、神功皇后の頃から120年二周甲説を適用するのは時期的に合わない。仮に、神功皇后が実際の人物だったとすれば、CE201~268年の期間中に大和倭朝廷が九州にいた百済分局のクダラと力を合わせて、九州にいたまた他の韓人たちの分局と戦争を行った記録と見るべきだ。
日本の学者たちが主張してきた「120年二周甲」説の適用は全て適用できるものでもない。第21代雄略の代に至っては、年度の差異なく元に戻っている。日本の学者たちは「任那日本府説」を主張するために、神功皇后の年代を120年遅らせるべきだと張したが、120年遅らせてみても、広開土大王の日本列島侵攻時期と宋書に出てくる倭5王の朝貢記録は、任那日本府説と時期的に合わないのだ。
ペ・ジョンドク歴史コラムニスト
蔚山第一日報
http://www.ujeil.com/news/articleView.html?idxno=303426
前スレ
【韓国歴史】 「任那日本府説」 倭が4世紀中頃に伽耶地域を軍事的に征伐…話にもならない学説だ[05/11] [LingLing★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1652265805/ >>6
これもあながち間違いじゃないんじゃないの?
中原、という最も豊かで温暖な地域は唐が占めていて
それ以外の貧しい地域、特に北部なんか
人がいるのかいないのか、みたいな食えない地域だしさ >>624
海の自然現象の危険より、陸伝いの山賊の方が
怖かったんじゃないの、そちらだとまず絶対に助からな
通州事件で体験したような事になって襲われるだけだからな
遊牧民族地域の、特に貧しい地域の危険は海路よりひどかったのでしょう
韓国映画見てると、半島の人でさえ海路で中国を
目指してるシーンとかあって驚いたり 百済をくだらと読むというのは、漢字の表記とは別に万葉仮名みたいなので当時の読み方が分かるからじゃないの? >>674
昔の漢字の読みは今と違うんだから、当時の国名を正確に教えてないよね ソレ
元々の国の名前があって、ソレに当時の漢字の読みで当て字してるだけ
日本は中国王朝が変わるたびに、その王朝が読んでた読みをそのまんま取り入れたから、音読みが沢山ある >>671
そもそも、道を整備してないと陸路は歩くだけでも大変
一度ハイキングコースを外れて荒地越えをすれば、どれほど海路が楽かよく分かる 百済をくだらと読むのは日本の慣用
久太良くたらが濁った
表音でないからひゃくさいで差し支えない
新羅は元の音もシロだかシラ
シンラもそれなりに合ってる 秀吉の朝鮮征伐は10日で終了しました、朝鮮が弱すぎて笑 秀吉の朝鮮征伐は10日で終了しました、朝鮮が弱すぎて笑 >>17
お説ごもっともだが、そういうのを聞き流せないミンジョクなのよあいつらw >>672
海岸沿いと言っても九十九里浜みたいな所は稀なんだよな。
断崖絶壁な船すら寄せ付けないところがほとんど。
とても歩いていける所じゃない >>664 高句麗を当時のようにコマと呼ばないのだから、百済や新羅をクダラやシラギと呼ぶ必然性もあまりないとも考えることもできるわけだが。 新の王莽が高句麗を「下句麗」と改名したことは、王莽の政策の中で唯一正しい事だったなw >>686
わざわざ変えてまで現代韓国の読みに合わせる意味は無いってことだろ >>686
日本語は漢字を借りただけで、その後は自由奔放に使ってる
現代の仮名に合わなくても慣用的な読み方を使う事には問題無い
百済を「ひゃくさい」と読めとか、馬鹿じゃ無いかと思うわ >>689 ヒャクサイとかシンラとか、ただの音読みだし。
ペクチェとかシッラみたいな韓国読みしてるのは、韓流ドラマくらいだろ。 8000年程前に九州で火山大噴火、被害を避けるために住民は半島に移住
無人でした。その後、和人が国を造り飛鳥時代に至るが、北方から異民族が
押し寄せ戦いに敗れた和人は、交流の深い本土に帰国。これが大筋。
上の三行を歴史の補助線と見るなら、神武天皇の東征も理屈に合う。
半島から軍事制圧作戦を仕掛ける初代天皇の戦う姿には矛盾がない。
この時以前にも多くの馬、牛、を大陸から倭国に移動させたと見る。
本来は日本列島に牛馬は棲息していないのだ。 >広開土太王碑文の記録から、広開土太王が日本列島を焦土化した時期がCE396年とCE400年だ
広開土王の石板記録にそんなこと描いてないだろ?
倭が高句麗のまで攻めてきたことが書いてあったはず
なんで逆のことになってるんだよ?
朝鮮人の頭の中はおかしすぎるね
歴史コラムニスの主張だからファンタジーなんだろうけど韓国は学者でもファンタジー振り撒くからなあ 親韓パヨク歴史家ががっかりするほどアホな事をガンガン言って >>685
半島西部は遠浅の湿地帯と干潟だな。
干潮時は船が動けない。
いい港は存在しない。
道もろくにないから陸路ではいけない。 【韓国歴史】 「任那日本府説」 倭が4世紀中頃に伽耶地域を軍事的に征伐
…広開土王碑に書いてある歴史的事実だ。 いつごろか忘れたけど
昔NHKで朝鮮南部の倭人の活動について韓国人の自称歴史学者が
古墳や遺跡についていろいろ説明してたけどなぁ
事実の部分はきちんと認めていかないと朝鮮の歴史も歪むよ
まあいつも歪んでばっかりだけどw 韓国中国に中世近世無いからなー
古代からイキナリ近代になる。 倭国に人質を一方的に送ってた弱い国なのは半島の史書にも書いてるからね
中国の春秋時代と戦国時代、相互信頼を得るために陽子と呼ばれる人質を交換しました。
弱い国が強い国を求めたときに一方的に陽子が送られる場合もあります。
「ゆかり」発言で名前が出た武寧王は属国の百済が日本に寄こしてきた人質の子だからゆかりがありますね。
日本が半島に人質を送った事は一度もありません。
・391年 倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった。(広開土王碑
・397年 百済の王が皇太子の直支を人質として倭国に送った(三国史記 百済本紀
・402年 新羅は倭国に奈勿王の子未斯欣王子を人質に送る。(三国史記 新羅本紀
・662年 百済の扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。(三国史記 百済本紀
■「新羅は倭の属国」と記述された資料が発見される
https://i.imgur.com/Xg6STJ8.jpg
(ソウル=聯合ニュース キム・テシク記者 2011-08-23 13:00)
特に今回発見された新羅に対する題記には新羅が倭の属国という一節があっていわゆる任那日本府説とかみ合わさって論議がおきる展望だ.
ユン博士はこの内容中でも新羅が倭国に属したりもしたという言及が新しく現れた大きな課題であり、これをどのように受け入れるかよって歴史学界で論議が広がることがありうると付け加えた. >>9
いやいや、韓国人が日本に対してひどいことしたって自白したんだから半億年謝罪と賠償させないと。 >>3
同碑文では、「朝鮮半島の南半分を占領し領土としていた倭を撃退した」としか書かれていない。 >>702
高句麗が倭国を撃退してのは、あくまでも帯方群のエリアに倭国が侵入して来たから撃退したと書いてあるのであって、半島南部全てから撃退したなんてことは一言も書いてない。
新羅の王都を占領した安羅は極めて倭国と関係が深いとされる任那・伽耶構成国の一つ。いわゆる任那日本府とは安羅のこととされる説もある。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた[7]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%BE%85 こいつら1700年も前の話を必死に否定して何がしたいのか
つい120年前には日本にウ○コ文明から脱却させて貰ったという、無慈悲な事実と返し難い恩があるというのにw まあ朝鮮半島の歴史って属国ばかりで面白いの3国時代か隋と戦ってた時ぐらいしかないからなw >>220
そもそも新羅のヒョッコセが倭人と中華のハーフやし >>704
気位だけ高くてどれだけ惨めで不潔なやつらかってのは
正祖の時代に活躍した朴斉家がきっちり書き留めてるのに
不都合だからって朴斉家まで叩いてるからな
自分たちに不都合な歴史は全部変えてきてるやつら >>705 隋と戦ってたのも、三国時代だが。
後三国時代ってのもあって、ここには三国時代以上に大国の影はない(中国は唐滅亡前に前後で混乱しており、日本は平安時代の真っ最中で外国政治に介入する意思がない)。 >>647
キミは勘違いしてる。
ごく一部にそういうことをした遺跡があるだけだ。 >>697
かや任那はもとから倭人のエリアだろ。
「攻めた」のは新羅や高句麗 >>1
朝鮮半島はずっと日本か中国の属国だった
以上 >>583
大阪夏の陣で真田幸村が野戦陣地してた事はある >>583
あの規模の破壊は秀吉得意の水責めの堤防を作るのに比べたら難易度が高すぎるし優先度が低すぎる。 >>665
晋率善濊伯長
>>668
晋高句麗率善仟長
晋高句麗率善邑長
晋高句麗率善佰長
というのもあるみたいね 任那=神魚・・・神魚族の地 神は今の日本語でも「ミ」と読むし魚はまな板の「マナ」
伽耶の古墳から古代インドのアヨーディアから発見された「双魚紋」が発見されたこと
から伽耶の始祖の王妃がインド系であることもわかっている。 >>719
任那=美まな このことから伽耶の始祖の王妃がAV出身の紗倉まなであることもわかっている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています