ー前略ー
太平洋戦争が終盤になると、東京の市民は米国の空襲を避けて避難を急いだ。その宣教師は避難先を探して、ある田舎に行ったという。知る人もいないが、みんな戦争に苦しんでいて自分のことで精一杯だった。
ところがその村に暮らすある家庭の夫婦が訪ねてきてあいさつをし、「困ったことがあれば言ってほしい」と親切に声をかけてきた。

◆「お互い助け合うべき」

その後、両家は互いに親しくなり、その宣教師は心から感謝していた。避難先の異郷で温かい慰労だった。歳月が過ぎて戦争は終わり、宣教師の家族は戻る準備をした。

その時、自分の家族を支えてくれた家庭は韓国人であり、日本国籍に帰化していたという事実を知った。
直接話すことはなかったが、クリスチャンの家族だった。別れる時にも「無事に帰って幸せに過ごすことを祈り続ける」とあいさつした。
自分は助けてもらったものの別れればそれで終わりと考えていたが、「祈祷する」という愛の声が感動として残った。

数年の歳月が過ぎてからだった。それまで宗教に関心がなかったが、ある教会の前を通り過ぎた際、避難先で出会った家族を思い出し、教会に通ってみたいという考えになった。
初めての経験だったが、教会の集会に2、3回ほど参加しながら担任牧師とも言葉を交わし、親交も深まった。

このようなことがきっかけで信仰を得た彼は、遅くから神学を勉強して牧師になった。
日本よりも仏教社会と見ることができる東南アジアで宣教師になると決心した。名もない韓国の教徒の祈祷で自分が宣教師になるとは思ってもいなかったと告白した。

日本の宣教師の体験談を紹介しながら、朴氏はその韓国人は日本人の模範となり、宣教師を送り出す隠れた功労者になったとし、日本人の尊敬を受ける韓国人が増えればいいと話した。

もう一つ、遠い昔の記憶を思い出す。私が通った崇実中学校では毎日チャペルの時間があった。そのたびにピアノ伴奏をするイ・ヒョンウンという同じクラスの友人がいた。
父親が牧師だったために早くから教会でピアノを習ったようだ。3年の時、私が神社参拝拒否で学校を離れた後からは会う機会がなかった。

聞いた話によると、私と似た年齢で日本に行った友人は音楽の勉強をしている途中、学徒兵として南太平洋戦線まで行き、終戦を迎えて日本に戻ったようだ。
当時そのような状況の韓国人は帰国するのが難しい状況だった。彼は日本に留まりながら音楽の勉強を続け、愛する日本の女性と結婚した。堂々と韓国人として国際結婚をしたのだ。

歳月が流れると、彼の音楽の実力と作曲が認められ、日本の生徒を教えることになった。名前を変えて国籍を移した。後に著名な作曲家、演奏家、教授になった。
我々は彼の日本名を知らなかったため誰であるかは知らずに過ごした。中学校の先輩の彼の実兄を通してそのような事実を知った。

その兄は特異な生涯を送った。崇実中学を卒業し、宣教師の支援を受けて早くから米国に留学した。神学を終えて牧師になったが、米国の教会や韓国系の教会を離れ、米国原住民のための宣教師になった。
原住民はもちろん米国のキリスト教界でも関心と尊敬を受ける牧師になったのだ。そして2、3回、韓国を訪問した。

その兄の牧師の言葉だ。「私の弟は今でも日帝強占期の痛みを記憶する韓国人から誤解を受ける。
しかし私は弟の選択が正しかったと信じる。日本の人々の尊敬と愛を受ける韓国人が増えることを望むからだ」と語った。

◆「両国の若者が協力すべき」
ー中略ー

歴史の過去は新しい世の中を開く未来創出の教訓にならなければいけない。その義務を妨害したり放棄したりする国に希望は訪れない。

金亨錫(キム・ヒョンソク)/延世大名誉教授

全文はソースから
2023.04.14 11:36
https://japanese.joins.com/JArticle/303250
https://japanese.joins.com/JArticle/303251