「父の名誉を守るため、私は人生をかけて戦っているのです。絶対にあきらめるつもりはありません」
ー中略ー

 父の無念の死に関心を向けることになったのは、結婚して子どもたちをある程度まで育てた1989年7月頃からだった。
その3年後の1992年、イ代表は父の死亡記録を確認することになる。
1971年、韓国政府が日本から得た「戦死者名簿」に「1945年6月11日、中国江西省の第181兵站病院で死亡した」という記録を捜しだした。

 父の死亡事実さえ通知を受け取ることができず怒ったイ代表は、5年後にさらに衝撃的な話を知ることになる。
日本政府が作成した「留守名簿」(日本の厚生省が日本軍に徴用された朝鮮軍人・軍属らの身上を記載した文書)のなかの父の名前のそばに
「合祀済」と書かれた文字を確認したためだ。「初めはこれが何の意味なのかも知りませんでした。
日本の戦後補償運動団体で活動した方がそれをみて、『ヒジャさん、お父さんも靖国神社に合祀されていますね』と言ったのです」。
家族に死亡通知さえしなかった日本政府が、父の魂を靖国神社に合祀していたのだ」。
イさんは初めてこの話を聞いて非常に腹が立ち、「心臓が止まるようだった」と述べた

 靖国神社は、1867年の明治維新の前後に日本で繰り広げられた内戦で、天皇のために亡くなった人たちのために作られた。
以降、日清戦争から太平洋戦争まで、日本が起こした数々の侵略戦争で天皇のために命を捧げた人たちが増えていき、合計246万6000人あまりが合祀されている。
そのうち約90%は、太平洋戦争(1941年12月~1945年8月)の時に亡くなった人たちだ。
靖国神社に世界的な関心が向けられることになったのは、日本の侵略戦争を起こした責任があるA級戦犯14人が1978年に合祀されてからだ。
それ以降、日本の現職の首相がこの神社を参拝すると、韓国や中国などの周辺国の反発が続いてきた。

 
1944年、父親が日本軍の軍属として徴用 
合祀の知らせを1997年になってから聞き 
2001年、日本政府を相手取り初めての訴訟 
「侵略戦争の象徴のような靖国に 
父が閉じ込められたことが我慢できなかったのです」 
 
2011年の敗訴確定後、再提訴 
26日、2次訴訟の控訴審の結果が出る 
「子どもの世代に実現しないのであれば、孫世代が」

 イ代表は「日本が侵略戦争を反省しない象徴のような靖国に父が閉じ込められているということには、とうてい我慢できなかった」と述べた。
同じ状況にある軍人・軍属遺族を集め、2001年6月、日本政府を相手取り、東京地裁に「靖国神社合祀取り下げ」などを含む訴訟を提起した。
2003年に訴訟人が追加され、原告は合わせて416人に達した。だが、日本の裁判所の壁は高かった。
2006年、東京地裁は「合祀は靖国神社の所管事項」であり「人格権を侵害したものではない」などの理由で棄却の決定を下した。
結局、2011年、最高裁で敗訴が確定した。

 「家族が嫌だと言うのだから、合祀を取り消すのは当然でしょう。しかも、死なずに生きて帰ってきた人まで合祀しました。
当初は、日本政府と靖国が遺族たちの同意なしに合祀したことついて申し訳ないと言うと思っていました」。
手が震えるほどあきれた判決だったが、イ代表は「父の人生と名誉が関わっているので、最後まで戦う」と決心した。
ー後略ー

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登録:2023-05-24 06:46 修正:2023-05-24 06:47
https://japan.hani.co.kr/arti/international/46829.html