ー前略ー
 1591年12月に秀吉は甥の秀次に関白を譲って「唐入り」に専念し、九州や四国の兵糧を肥前の名護屋周辺に集めるよう命じた。さらに、先の使節派遣で朝鮮の「服属」を信じていた秀吉は、渡海して協力を取り付けてくるよう小西行長と宗義智に指示している。

 しかし、朝鮮には端から日本に味方するなどという考えはなかった。それゆえ、秀吉は約16万の兵を9軍に編制し、1592年4月に朝鮮への侵攻を開始する。いわゆる「文禄・慶長の役」である。
ー中略ー

 この間に漢城には申リプの敗報がもたらされていた。動揺する朝鮮の朝廷は、平壌退避と明に援軍を要請する方針を固め、万一の事態に備えて光海君を世子に冊立している。加えて、勤王兵(王を護衛する兵)を募集するために長男の臨海君を咸鏡道に、六男の順和君を江原道に向かわせることを決めた(『宣祖実録』)。

 宣祖・王妃・王子らは29日(明暦では30日)の明け方に漢城を脱出した。宮廷を警備する兵は逃亡したり身を隠すという状態だったため、従う者は100名に満たなかったという。逃避行中には下人たちが食糧を奪い合ったので、国王の食事にさえ事欠くありさまとなった。

 宣祖や政府高官が逃げ出した漢城では「乱民」が発生し、日本軍が到着する前に街は壊滅状態となった。まず狙われたのは掌隷院や刑曹である。これら官庁は奴婢の簿籍管理と訴訟を管轄していたので、賤民として虐げられた人々が身分などを抹消するために焼き討ちしたのだとみられている。ついで民衆は景福宮・昌慶宮・昌徳宮などの王宮に入って金銀財宝を奪っていった。

 漢城以外の都市でも官僚や軍人は日本軍の接近を知るとわれ先に逃亡したため、支配機構がすぐに崩壊した。それにともなって朝鮮の民衆や兵が食糧を求めて暴徒化し、盗難が頻発した。混乱に乗じて奴婢が自身の所有者を殺害するという事件も起きている。
 
 朝鮮は厳格な身分制のもとで一部の特権階級が多数の常民や賤民を虐げる社会であった。それゆえ、積もりに積もった民衆の怨嗟が、支配機構の崩壊とともに一気に噴出したのである。朝鮮各地を蹂躙した日本軍の侵攻がそのきっかけとなったのは皮肉といえよう。民衆のなかには日本軍が自分たちを「解放」する軍隊だと錯覚し、協力して戦利にあずかったり、日本側諸将の威光を盾に朝鮮の悪徳官吏を糾弾することもあった。

 漢城が日本軍の手に落ちたのは5月3日である。小西行長らの軍勢は東大門から、加藤清正らの軍勢は南大門から入城した。都はすでに建物が焼失し、荒れ果てた状態であったという。漢城の陥落と敵前逃亡した宣祖に対する失望から、朝鮮軍には一気に動揺が広がることとなる。首都防衛のために漢城に向かっていた地方の軍隊のなかには兵の逃亡を抑えられずに自壊したものもあった。

 日本軍が朝鮮半島に上陸した直後に朝鮮の官軍は壊滅状態となり、漢城は20日ほどで陥落した。しかし、朝鮮の人々が無気力にこの国難を傍観していたわけではない。官軍とは別に在野で義兵の組織化が進み、決起したのである。その多くは官職を得られなかったり、党争に敗れて下野した不遇な者たちであった。彼らはまるで再起を期すかのように命を賭して日本軍に戦いを挑んでいった。
ーこ