近年、驚くことが増えた。SNSで見かける、戦争や戦争をテーマにした作品への視線のことだ。
野坂昭如原作・スタジオジブリ制作の映画『火垂るの墓』の捉え方には一瞬、呆然となった。

【貴重画像】キャタピラで踏み殺される人、機関銃で撃たれる人…約1200人の日本人が虐殺された「葛根廟事件」を写真で見る
https://bunshun.jp/articles/photo/64953?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=partnerLink&pn=7
ー中略ー

 今や爺ちゃん婆ちゃん世代も戦後生まれ。身近にいた戦争体験者はもういないのだから仕方ないのかもしれない。
こんなときこそメディアの出番のはずだが、本格的な戦争特番は地上波テレビでは昔ほど放送しない。
一方、ウェブ上で見かけるのは、戦時下の政治家の動きを追う政局風記事や、大海戦の模様など戦闘を追った戦記物風記事。
閣僚や提督の気持ちで戦争を眺め、あのときこうすれば、と振り返るのも大切に違いない。
ただ筆者は、14歳と4歳の、「子どもの目」になって、今こそ再び、あの戦争を見ていただきたいと願う。

・終戦間近、満州国の平原で起きた凄まじい殺戮「葛根廟(かっこんびょう)事件」
 まだ、「子どもの目」を語り継いでくれる人がいる。

 大島満吉氏。昭和10年生まれの87歳。78年前、終戦前後の時期、9歳の大島は言葉にできない体験をした。
それをおして、言葉にし続けている。子どもだった彼の目に次々に映った光景は、私たちがいつでも考えねばならない問いを、
提示し続けていると私には思えてならない。

 語る証言の壮絶さとミスマッチな微笑み。それは聞く者が身構えないよう、
そしてただ「悲劇」と捉えて終わらないよう、配慮しているように見えた――。

 昭和20年8月14日、日本政府がポツダム宣言受諾を連合国に通達し、戦争終結に向かっていた日の正午近く、
満州国(現・中国東北部)の平原では、凄まじい殺戮(さつりく)が始まっていた。
満州国とソビエト連邦との国境近くの草原で、約1200人の人々が戦車の銃砲撃と兵士の機関銃に撃たれ、
キャタピラで踏み殺されたのだった。

 老人、女性、子ども主体の集団。執拗な攻撃によって、生き残れたのは400人ほどしかいなかったとみられ、
さらに翌年になって帰国できたのは、たったの百数十人に過ぎなかった。正確な犠牲者数は今もって分からない。

 集団は、日本人居留民たち。ソ連の対日参戦を知り、葛根廟(かっこんびょう)と呼ばれるラマ教寺院に向け、
8月11日から逃避行を続けていた。
彼ら彼女らは興安街(こうあんがい。現・内モンゴル自治区ウランホト市)という市街地に住んでいた人々。

 馬車や自動車はなく、8月の平原の陽ざしに炙られ、渇きに耐えながら歩き続ける人々は疲れ切り、
遅れる人も目立ち始め、隊列は蛇行して長くのびていった。
そこへ突如としてソ連戦車部隊(14台とも言われる)が現れ、1時間以上に渡って徹底的な攻撃を加えたのだった。
これを「葛根廟事件」という。

 避難民に混じっていた在郷軍人たちが、身辺警護用の小銃などわずかな武器を持っていたために、
ソ連軍に敵と見なされ攻撃を受けたとも考えられたが、一見して非戦闘員と分かる民間人の集団を一方的に攻撃した理由は不明。
ソ連側の戦史には戦闘の記述は一行もない。
ー後略ー

全文はソースから
文春オンライン 8/15(火) 6:12配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/9a3dcb258c51a0c7d53b9ffc30368f1b16b06942?page=1