8/21(月) 9:49配信 ハンギョレ新聞

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 1910年の日本による韓国「強制併合」は、今に至るまで韓日関係を規定する最も重要な定数だ。日本側は、当時は帝国主義の時代であり、したがって日本が大韓帝国を併合したことは時代的な状況によるものだったと主張する。だが、19世紀末から20世紀初めの欧州の帝国主義列強はアジアやアフリカに植民地を作ったが(かと言って、それが良いことだったというわけではない)、欧州内において近隣諸国を植民地にすることはなかった。英国がアイルランドを支配したことが似た事例だと言われるが、英国は16~17世紀にアイルランドを征服して支配し、1801年にはアイルランドを完全に併合して一つの国として支配したのであり、植民地にしたのではなかった。

 だが、日本はすぐ隣の国、それも、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の後に通信使などで比較的平和に交流してきた国である朝鮮を併合して植民地にした。朝鮮人としてはとうてい受け入れられないことだった。1893年、東学教徒たちは全羅監営に提出した訴状で「壬辰年(1592年)の怨讐と丙子年(清が朝鮮を侵略した1636年)の恥辱をどうして忘れることができようか」と書いた。これらの人々は、300年前の壬辰倭乱の恥辱を忘れずにいた。壬辰倭乱はわずか7年間の戦争だったが、日本の朝鮮に対する植民地支配は35年も続いたものだった。日本に対する韓国人の良くない感情が、今後どれだけ長く続くのかは予想は難しい。したがって、韓日関係において1910年の日本による韓国併合は、日本の最大の過ちだといえる。

 それだけではない。日本は朝鮮を統治して数多くの過ちを犯した。日本は併合当時、「一視同仁」(すべての人を一つとして平等にみなし、同じように愛する)をうたい、朝鮮人を差別せず日本人と同等に扱うと約束した。あたかも、朝鮮を日本の一地方として編入して発展させるかのように言った。だが、それは甘言にすぎなかった。朝鮮を日本の一地方として編入させたり、朝鮮人を日本人と同等に扱うことは、決してなかった。そのためには、朝鮮人にも参政権を与え、義務教育も実施し、軍隊に行けるよう徴兵制度を実施しなければならなかった。しかしそれは日本の中央政治と安全保障を脅かし、多額の費用も必要であり、決して容易にできることではなかった。

 そこで日本人たちは、まず朝鮮を植民地として支配し、朝鮮人を日本人に文化的に同化させ、日本国民として日本に対する忠誠心を持たせようと考えた。そこから出てきたのが「同化政策」だった。1910年代から学校では日本語を「国語」として、日本の歴史を「国史」として教えた。1930年代からは、全国に面(村に相当)単位まで神社を作り、神社参拝を強制した。また、「愛国日」なるものを作り、日本に対する忠誠を確かめる行事を行った、さらに、日本式に姓氏と名前を変える「創氏改名」までさせた。神社参拝や創氏改名は、朝鮮人に恥辱と怒りを感じさせた暴力的な行いだった。

 同時期、英国、フランス、米国、オランダは、アジアの植民地だったインド、ベトナム、フィリピン、ジャワで、そこまで無理な同化政策は推進しなかった。また、現地住民を官吏として多数採用し、植民地議会や地方議会のようなものを作るようにするなど、ある程度は行政と政治に参加できる機会を与えた。だが日本は、朝鮮と台湾において上・中級(勅任官・奏任官)はもちろん、下級(判任官)の官吏、さらには地方自治体の職員まで大半は日本人を採用し、植民地議会のようなものは一切許さなかった。朝鮮と台湾で許されたものは、1930年代のきわめて制限された権利を持つ地方自治議会だけだった。

 欧米列強は、アジアの遠く離れた植民地に本国の人材を送ることが難しく、現地住民を教育して植民地統治に活用した。だが、日本は近距離にある植民地である朝鮮と台湾に本国の余剰人材を大量に送り、官吏・教師・警官などにして直接統治した。そのため、朝鮮人と台湾人の不満は強く、これを抑えるために総督府は、言論・出版・集会・結社の自由を極度の統制下に置いた。こうした点で、日本の支配下にあった朝鮮と台湾は、アジアの他の植民地に比べはるかに劣悪な条件にあった。

 日本の朝鮮に対する併合と植民地支配は、韓国人にとっては忘れることのできない受難と苦痛の歴史であった。それでも、日本人の相当数は(さらに一部の韓国人まで)、今でも日本の朝鮮植民地支配を肯定的にみる傾向がある。それは、歴史の真実を回避する態度から出てきたものだ。未来の韓日関係が真の友好関係に進むためには、日本人も韓国人も過去の歴史を直視し、反省すべきことがあれば反省する姿勢を取ることが必要だ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/b0899fae33d1d0b031d0de60c6dec419f0f041ec