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全羅南道咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳だ。
古墳の各所に石を積んだ跡(葺石)が見え、周囲を溝で囲む日本式の前方後円墳の典型的な姿をそのまま示している
=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 最近の韓国人が最も多く訪れる海外の観光地の1つが、大阪がある日本の関西地方だ。
日本で最大規模のコリアタウンがあることでも有名なこの地域について、多くの韓国人は、20世紀初め、
植民地となった祖国を離れた多くの朝鮮人が生計のために定着したところだと認識している。

 しかし、歴史的な真実は、関西に刻まれた古代の先祖の驚くべき足跡を伝える。『続日本紀』の8世紀初めの人口調査記録によると、
1300年前の関西地方の中心だった南部の奈良盆地に住んでいた人の80〜90%が百済系移民だった。
それを立証するのが、関西地方に5世紀後半から登場する百済特有の墳墓の様式である横穴式石室墳で、
6世紀まで爆発的に増加し、高安などの地域に「1000個の墓」という意味の千塚古墳群が雨後の筍のように登場する。
一部のエリートの墓は王陵級であり、非常に大きいうえ、銅鏡、鉄製短剣、刀、金のイヤリング、玉・ガラス製品などが出土し、
百済と馬韓系統の住民と支配者の存在を示している。未発掘の古墳は数百基に達し、
関西地方だけでも少なくとも1000基を超える百済系の古墳群が造成されたと推定される。
歴史考古学者の石渡信一郎氏は
「千塚と呼ばれる巨大な墳墓の主人公が、朝鮮半島西南部出身の渡来人とその子孫であることを考慮すれば、
紀元後475年から600年までの125年間に、少なくとも100万人が朝鮮半島から日本列島に渡ってきただろう」と推定した。

 こうした事実は、米国で研究中の3人の考古人類学者が、韓国と日本で刊行された膨大な考古学と歴史学の刊行物の
書誌情報をもとに分析・整理した学術書『渡来人の考古学と歴史』(周留城出版社)に出てくる内容だ。
米国オレゴン大学のイ・ソンレ考古学名誉教授、オレゴン大学のメルビン・エイケンス人類学(考古学)名誉教授、
英国ダラム大学のジナ・バーンズ日本学名誉教授が共同で執筆し、韓国伝統大学融合考古学科のキム・ギョンテク教授が
翻訳して出版したこの本は、紀元前1000年以前の無文土器時代から紀元後7世紀の三国時代までの朝鮮半島出身の
日本列島への移民の経路と、これらの人たちが日本の文化と社会の発展に寄与したことを、
朝鮮半島からの「渡来人」の活動状況を通じて集中的に探求する。
ー中略ー

 今年上半期に出版された中堅考古学者の慶北大学のパク・チョンス教授の力作である
『古代韓日交流史』(慶北大学出版部)も同様に、
伽耶・百済・新羅からの文化伝播が4〜6世紀の日本の古代国家成立の軸になったことを、
考古学的な発掘の成果で論証した大作だ。
3〜5世紀の日本列島と隣接した朝鮮半島南部の伽耶圏の文化が日本との交流の主軸であり、
金官伽耶と大伽耶の順に交渉の主体が移り、その後、新羅の伽耶吸収によって百済に交流の中心が移ることになる過程を、
パク教授が渉猟した日本各地の詳細な考古学的な発掘成果を通じて論証して展開していく。
日本とは敵対的な関係に変わったとされている新羅の日本との交易や文物交流は、通念とは違い5世紀以降も活発に継続し、
百済滅亡後は、唐に対応する両国の外交的な必要によってよりいっそう深まったという事実を、
日本各地の新羅系古墳遺跡の事例を通し示しており、注目される。
ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

登録:2023-10-10 06:10
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html