・17日最終回・大河ドラマ「どうする家康」
列強諸国が一様に日本進出、あわよくば侵略をもくろんでいた江戸時代初期において、わが国が経済的にも従属せず生き残れたのは、
幕末同様、奇跡に近い。フィリピンやマカオ、台湾などが植民地化されるなか、
間隙を縫うように、徳川家康や後継将軍のもと、わが国は独立を保った。

16世紀の宗教改革により生じた「旧教国と新教国の対立」など、ヨーロッパ情勢の激変も、家康は外交上巧みに利用する。
秀吉時代からの連続性としては、文禄・慶長の役(いわゆる朝鮮出兵)で見せた精強な軍事力が、
日本侵略への抑止力となっていたことも最大限活用した。

江戸幕府の実際の国策は「鎖国」というより、現代でいう「選択的関与」であり、それもこの軍事力があって可能となった。

支倉常長の慶長遣欧使節についても、東北大学の田中英道名誉教授は、
キリスト教圏への従属化につながりかねなかった天正遣欧少年使節との対比を通して、
家康と伊達政宗が共同で「侵略不可の国」と印象づける目的があったことを指摘している。

家康は、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした翌年(1616年=元和2年)に薨去(こうきょ=死去)した。
遺言により、久能山(静岡市駿河区)次いで、日光(栃木県日光市)で神として祀られた。
45(正保2)年、朝廷から宮号宣下があり、「東照宮」と呼ばれるようになる。

「東照大権現」こと家康は国家の守護神とされ、各大名の城内や社寺境内などに勧請(分霊)された東照宮は
全国で700近くを数えた。

明治天皇の御沙汰により、織田信長・豊臣秀吉の功績が再評価され、それぞれを祀る京都の建勲神社・豊國神社が別格官幣社
(=国家への特別な功労があった人物を祀る神社に与えられていたランク、終戦時点で全28社)に列せられた。

明治政府軍に討伐されたはずの江戸幕府の創始者たる家康の東照宮についても、日光は1873(明治6)年、
久能山も88(明治21)年に列格した。
明治政府、そして近代日本が、家康を否定するどころか、その歴史的功績を仰ぎ続けた証左である。

自らの死後も、皇室や祭祀(さいし)が永く存続することを願って統治機構を築いた家康が、
もし400年前から令和の世へタイムスリップしてきたら、どうであろう。

わが国の変わりように驚きつつも、第126代の皇位が継承され、神社が参拝者で賑わっているのを見て、
「日本」が間違いなく存続し繁栄していると知ることになろう。
江戸幕府崩壊後も、自らが神として崇敬されていることに驚きながら…。 =おわり

■久野潤
2023.12/17 10:00
https://www.zakzak.co.jp/article/20231217-GL3F2BEGZVOHTKWH7QGLKY4ZXU/